雪は海に融けて薄桃色の波となり、淡く儚い一時の慕情の如く、絶えず此の身へと押し寄せる。いいえ、強欲の名を冠するこの海が、損得では推し量れぬ情緒で満たされる事など無いと、竜王たる私の理解が及ばぬところでは無いのです。隣で何やら満足気にしているこの男も、私と同様に考えている事を、願っていた。
「仮にも王たる貴方です。此処に咲く花が何を意味するか、当然ご存知でしょう」
「偉大なる幻朧桜であろう。脆弱な者共を癒し、清め、新たなる輪廻へと導くという」
嗚呼、其処まで理解しておきながら、私を敢えてこの桜花島へと導いたのですか。薄々感じてはおりましたが、なんと愚かしいこと。女心を理解しろ等と人間臭い事は申しませぬが、異界の王を名乗るには貴方、少々間が抜けすぎていませんか。
「そうですか。……私が傷つき、虐げられた存在だとでも」
「解せぬな。只、美しい花であるゆえに、さぞ我が妻に似合うであろうと考えたのみだ。悪いか」
「……」
この島に桃色の雪が降る事はありません。幻朧桜の花弁が波間を漂っている、それだけ。
目的が一致するのならば協力すべきだとか、有用な戦力であるだとか、一々言い訳をしながら私を娶り、麗しの姫などと呼ぶ。ええ、とうに気づいております。カルロスの行いには一貫性が無く、時には利害や理屈を無視してまで私を喜ばせようとする。それで私が真に喜ぶ否かを、この男はまるで考慮しておらぬのです。不死たる私の身代として、総ての海を背負い立つ貴方が死に急ぐ理由はありますまい。
損得の計算が出来ぬではないでしょう、王笏よ。そうして獲得できる唯一の対価が有ったとして、一滴の雫程の価値も無いと申しますのに。
幻朧桜の下に佇む私をまるで至宝のように眺め、カルロスは無言で手を差しだす。嗚呼、なんて顔ですか。私がそれを握り返すであろうと信じて疑わぬ、まるで幼子のような眸。
「何用でしょう。私を終わらせてくれるのですか」
「我と共に在ればいずれ時は満ちよう。だが、それは汝の消滅では在り得ぬ。汝の欲す物ならば我が与えよう。汝は唯一人、我に相応しい妻であればよい」
「……ええ、その日が待ち遠しいこと」
此の無限の消滅と再生を止める事が叶うならば、私は幾らでも微笑んで、貴方の心を杭で打つように繋ぎ留めましょう。王の妻として其の手を取り、忌まわしき輪廻の彼方へ共に参りましょう。
重ね、合わせた掌は交わした契約の確認。ですから、何の問題も無いのです。零れてしまった笑みも、きっと私の浅ましい打算でしょうから、愛されている等と勘違いはなさらぬ事ですよ。
勝ち誇るように笑んだカルロスは私の手をひくと、見せたいものがあるのだと言って、小高い丘の上へと歩き始める。遂に例の肉を手に入れたのかと、少しばかりは期待しましたとも。無論、裏切られるであろう事も承知しておりましたが。
「見よ」
男の示した先は、今まさに水平線の裏側へと沈みゆく紅い夕日。この島を気怠く覆う桜色とは対照的な、激しい情熱を描いたような赤。正直見飽きています。私が幾度死のうと、あの天体は常に東から上り、西へ沈むのですから。
「可笑しな話ですね。幾千の財宝を手中に収めた貴方ともあろう男が、今更夕景を眺めて心動かされるとは」
「汝こそ解らぬではないであろう。我が欲するは大海を輝かせる夕陽に非ず。あれが照らし出す汝の麗しき姿、この景色を共に眺めた過去であると」
「過去、ですか。死んだらそこまでかもしれませんよ、貴方は」
「であれば、汝だけは忘れまい。そも、我は死なぬ」
呆れたものです、なんて根拠のない自信。いいえ、確かにこの景色は悪くはありません。ですが、私の心にだけ爪痕を遺して逝く卑怯、それだけは絶対に許してはなりません。
「では妻として返礼を致しましょう。私が共に眺めたい景色は、此れです」
そうしてカルロスの背をとんと押してやると、彼はなっ、と短く声を上げ、呆気なく丘から海の中へ転落した。甘い、甘い、私の残滓達で満たされた、チョコレートと桜の海の中へ。
顔を出した私の残滓達はたちまち男へまとわりつくと、その身体を一早く海中へ沈めようと、まるで奪いあうように群がっている。流石のこの男も少々慌てているようでした。
「つ、妻よ、戯れは程々にせよ。七大海嘯の王が溺死した等とあっては面目が立たぬ」
「先程『我は死なぬ』と自信満々に申し上げておりましたので、つい」
「だからと言って突き落とす奴があるか！ ……戯れ、であるよな？」
「さて、如何でしょう。私は竜王ですよ」
チョコレートの海に沈みかけた男の絶句する顔を眺め、私は今度こそ笑ってしまいました。貴方もそうして、私という名の迷宮に埋もれ、永遠に彷徨っていれば良いのに。
嗚呼、焼きが回ったものです。世界には、私だけが有れば良かった。
カルロス・グリードよ。最も罪深き強欲の名を愛と、貴方は理解しているのでしょうか。
成功
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