悪魔祓いと霊能者の差異なぞ、窮地に立たされた一般人にとっては大したことではないのやも分からぬ。
本質的に死を失った世界は随分と様変わりした。老若男女が寿命を除く疑似的な不死を達成し、おおよその外的要因に対して恐怖することを忘れた人間たちは、それゆえに自身を脅かし得る限定的な要因に鋭敏になったようにも思える。
たとえば――。
今ギュスターヴ・ベルトラン(我が信仰、依然揺るぎなく・f44004)の前に聳え立つ、年季の入った建物に起きている怪奇事件であるとか。
曰く歴史ある湯治場だそうだ。確かに話に聞いていたよりも大分古びて見える。事前資料として渡されていたパンフレットの写真を撮影した者の腕前は相当良いらしい。
鮮やかな光の元に晒されてなお、罅割れたアスファルトの上に建つ木造建築は雨曝しの深い茶色を帯びている。周辺に無秩序に生えた木々は敷地内のみ綺麗に整えられている。夏の名残を孕みながら、徐々に秋に傾きつつある外気は、都心の喧騒を離れれば随分と涼しく感ぜられた。虫の声も夏の盛りのそれとは違い、秋に近しい色を湛えている。ギュスターヴ好みの閑静な立地である。
閑静――。
といえば聞こえは良いが、要は田舎なのだ。
明治期だか大正期だかに建築されたという宿構えは、確かに当時の建築物からすれば立派だ。サイキックハーツと呼称される世界から別の世界に渡るすべを得て折、ギュスターヴも幾らかの別世界を知ったが、永劫続く大正の世であってもこれほどの建物は滅多に見ない。
しかし――開業百年を優に越えることを一門が誇りに思っていたとて、潮流には逆らえぬものだ。
現代に近付くにつれて発展していく医療と共に民間療法の立ち位置に追いやられ、難治性の病や後遺症の回復の他には|年寄りの趣味《・・・・・・》となりつつあった湯治は、生きとし生ける人々がエスパーとなることで病や暴力を根絶された世界では更に需要を失った。単なる行楽施設にすぎなくなった湯治場を情緒の言葉で保持しておくことも難しくなった現在、長きに渡って掲げられた看板を下ろしたそこに新たな施設が建築されようとしている。
近代的なスパ施設だそうである。名前ばかりは引き継ぐが、その内情は鞍替えだ。年季が入ってぬめる檜風呂ではなく、より近現代的で清潔な温泉施設が建築されるらしい。
それだけであればギュスターヴが招聘されるようなこともなかった。
金色の双眸で見上げる外観は、正面から見れば開業当時の面影を保っているようにみえる。しかし後方の一部には既に工事業者が入っていると聞いていた。近年の客入りの悪さから手入れも儘ならず廃墟同然となった部分が幾らかあるそうで、まずはその周辺を崩しているようだ。主たる依頼人はそちらにいるだろうと当たりを付けて、男は漫然と立ち込める薄昏い霧の中へと一歩を踏み出した。
――この湯治場が閉業するに至った理由は、近年の時流ばかりではない。
裏手に大きな湖があるのだ。そこから立ち昇る霧のせいで年中底冷えしている。此度は建物を視界に収めることが叶ったが、聞くところによれば快晴の昼であっても条件次第で簡単に周囲を覆い隠されてしまうという。
まさか年中曇っているような場所に観光客は訪れまい。斯様に生気を吸い取るような寒さの中で病が治るなどとは信じられもせぬだろう。いかに敷地内を美しく整えたとて、周辺に鬱蒼と茂る木々の中に正体不明の魚か何かが跳ねる水音が不規則に響くさまも相俟って、比較的条件が良いのだろう日であっても不安を掻き立てる。
工事現場に近付くにつれ物々しい道具が増えていく。黄色と黒の警告色をしたフェンスの内側を覗き込みながら、ギュスターヴは足を踏み外さぬように湖面へと一瞥をくれた。遊歩道というには狭すぎる散策路の横に立つ、申し訳程度の木の柵の向こうで、巨大な湖は来客を静かに映し出している。
やがて辿り着いた一角には、安全ヘルメットを被った壮年の男性が一人立っていた。
早いうちに辿り着いたのだろう、スマートフォンに夢中になっている彼を驚かせぬようわざと大きく足音を立てながら、聖職者服を纏った男が歩み寄る。案の定顔を上げた彼が距離感を掴みあぐねた曖昧な笑みを返すのを、穏やかな微笑で受け止めた。
「お疲れ様です」
「あ――お疲れ様です、あの、例の?」
ギュスターヴが小さく頷くと、男はようやく安堵したように肩の力を抜いた。
◆
男は工事現場の責任者であるという。
同時に依頼者ではないとも断った。靄がかった湖の方へと視線を投じた責任者は、鋭くも見える双眸をギュスターヴへと移す。視線を受け取った聖職者も与えられた会話の糸口に応じる形で柔らかな声音を紡いだ。
「ぼくに依頼をくださった方は、どちらに?」
「それが近寄りたくもないって話で、自分が説明に駆り出されてるんです」
――成程。
わざわざ報酬を弾むからといってまでも、神父の管轄から些か外れた用件で泣きつかれた理由の一端を察した。
厄介なのだ。一介の民間霊能者が請け負うことを躊躇するほどに。
「参りましたよ。自分も板挟みで――ああ、すんません、神父様には関係ない愚痴を」
「いいえ。ぼくも情報は多い方が助かるから、話してもらえると助かるよ」
一期一会といえども大口顧客だ。常の些か乱暴な言葉遣いは封じて、あくまでも穏やかで親しげな聖職者の表情を浮かべる金色の双眸へと、浅く頷いた責任者が語り出す。
そもスパ施設を建築するという話じたいが難航したらしい。湯治場内でも意見が割れていた。再雇用を約束された従業員たちはこぞって建て替えに賛成したが、経営陣――といっても創業者の一族であるのだが――は大いに反対した。さりとて遠のき続ける客足が戻るわけでもなく、完全に破綻する前の最後の機会に渋々首を縦に振らざるを得なくなった。
何とか工事にこぎつけたは良いが、出鼻を挫くように解体作業中だった作業員が一人、湖に転落した。
といっても物理的要因でエスパーが死ぬことはない。怪我から解き放たれた彼らは今までよりも安全管理を軽視するようになっていたこともあって、全員が転落した作業員を笑い、彼も自分自身の怪我よりも水浸しになった服を心配しているようなものだった。
それも一ヶ月の裡のことだ。
転落があまりに続きすぎたのだ。幾ら安全を軽視するといえど、脆弱だった頃を知る肉体に根差した生存本能が消え果てるわけではない。ましてこれほど大きな建物を解体するとなれば集められたのは現場に慣れた作業員たちだ。ほんの一ヶ月で十人近くが落ちるのは明らかにおかしい。
更に不思議なことに、全員が湖に向けて落下する。やがて誰かが|引っ張られた《・・・・・・》と証言してからは、まるでその言葉が真実を呼び覚ましてしまったかの如く、次々と転落者が増えていった。
やがて重機が落ちた。
ギュスターヴは知らぬ業界のことであるが、現場にあっては誰もが疑似的な不死を手に入れた結果、人的資源よりも精密機器の価値の方が重くなりつつあるらしい。流石に妙だ――ということになってすぐ、最初に湖に落ちた作業員が消息を絶った。
こうなれば事故でも不注意でもなく事件である。以前ならば過酷な現場から一人二人逃げることはよくある話だったが、全人類が微弱な特殊能力を身に着けた今では滅多にないことだった。
ざわついているうちに二人目が消えた。そうなっても中止の命令が下らぬ現場に、唐突に経営者が現れたのは、三人目が消えた翌朝のことであった。
――即刻工事を中止しろ、立て続けに人が消えるなんてのは縁起が悪すぎる。新しい施設を立てても客が来ないだろう。
「自分らに中止の権限なんかありませんから、上に言ってくれって感じですよ」
溜息を零した責任者の言葉は尤もである。
紆余曲折の末に中断という形で合意が成されたものの、報酬金の欲しい会社と経営者の間には大いなる確執が残った。経営陣はこぞってこの湖に近付くことを嫌がり、この建物を半端な状態で放置することにすら抵抗がない。しかし一度解体を始め、既にスパ施設になると近隣では期待の声が上がっているにも拘わらず、いつまでも静かなままの湖畔を見詰める人々の目もある。
「それで、どなたかこの近辺を調べて頂けないかっていう話みたいです。今後の客足のことを考えてあんまり大事にしたくないらしくて、なるべくなら個人にって話で依頼を出してたらしいですね」
「成程、それは込み入った事情だね」
あれほどの大口の仕事が転がり込んで来た経緯については得心した。ギュスターヴの相槌と笑顔は、会社と顧客と現場作業員の間で板挟みになる中間管理職に安心を齎したらしい。
本当はもう少しまともな情報を差し上げたいんですが――と、日に焼けた肉体労働者の顔が苦笑した。
「自分たちもあんまり、ここのことは教えてもらってないんです。まあ、言っちゃ悪いですが解体するだけですから、自分たちも深く知るつもりはないんですけど。単なる現場にそこまで思い入れもないですし。でもこんなことがあるっていうのに、妙に、ううん、悪く言えば隠してるというか」
「秘密主義的なクライアントなのかな」
「そう、それです。まあ、こんな現場を神父様にお任せするのも危険かなと思うんですけどね、自分たちも最低限の用事以外は近寄るなって言われてるんで、ちょっとここから先ついてくのも難しいんです」
「それは構わないよ。ぼくは場慣れもしてるし」
「心強いです」
笑っておどけるさまがどこまで社交辞令なのかは分からぬ。
分からぬなりにも、少なくとも責任者である男はギュスターヴに対して相応の敬意を払っているらしいことは理解した。敢えて灼滅者であると明かさねばならぬ事情もないとみえる。彼自身は隣人愛のもとにいかなる相手にも手を差し伸べるが、さりとて不信と猜疑の眼差しに晒されるのは厄介だ。
一頻り会話が終わる。零れ落ちた不意の沈黙は思うよりも重たく湿っているように感ぜられた。その元凶たる冷たい湖面に頻りに目を遣ったのち、責任者は躊躇の色を|明瞭《はっきり》と孕んだ双眸でギュスターヴを見る。
昏い湖と月に似た金色の間を揺らぐ視線を促すことはしない。こちらから踏み込むことで言葉を呑ませてしまうこともある。懺悔室に似た気配を肌で感じながら、神父は続くのであろう告解を静かに待った。
「――これは噂なんですけどね」
湖面に人が立つという。
解体業者も入るまで知らなかったそうだが、地元では有名な噂であるらしい。
曰く、時代を考えれば豪奢な湯治場が立つよりも前、ここには湖を水源とする村があった。しかし村人たちはあるときを境に次々と疫病に斃れ、やがて村は死の気配に覆われた。病から逃れるために外に出たところで、死病が自らを蝕むことを恐れた人々はかの村の住民たちを拒み、やがては衰弱して斃れたという。
今よりもずっと余裕のない時代の話である。一度罹患すれば一族郎党纏めて死ぬような疾病も多かった。風邪一つで簡単に人が死ぬような時代に、死病の蔓延する村からの来訪者は、まさしく死神にすぎなかったのだ。
実のところ、村の最期を具体的に知る者は誰もいない。感染に怯えて誰も近寄らなかったからだ。だが村の外ですらその調子であったのだから、中心地となった村は惨憺たるありさまだったのだろうことは容易に想像がついた。
結局、死に絶えた廃村はそのまま数年、誰も足を踏み入れぬままであったという。
旅行者だか修験者だかがそうと知らず死病の蔓延った場所へと迷い込んだときには、もう誰もが腐り果てた後だった。村の墓地へ向かう道には累々と黄ばんだ骨が連なっていたそうだ。そのさまがあまりにも恐ろしく、またあまりにも哀れであったから、迷い込んだ行旅人は最も近い村に事実を告げた。
よそのことだから関係はない――といえるような治世ではなかった。その頃には流行り病の話もとんと聞かなくなっていたから、放棄されたそこは取り敢えず形ばかりの埋葬と弔いを成されたという。
「でも足りなかったんですかね。霧が濃いときには、湖の上には人影が見えるんだそうです」
湯治場が隆盛だった頃は跳ね飛ばせていた噂も、時流によって求心力が弱まっていくにつれて徐々に真実味を帯びたものに変わっていった。気儘な噂語りの人々によって尾鰭背鰭が付け加えられ、勝手に泳ぎ出した怪談話は、より人々の足を遠のかせる。
「まして建物がこれですから、余計でしょうね」
「それは否定出来ないかもしれないな」
傾聴に徹していたギュスターヴの眼差しは、責任者がそうするのと同じように聳え立つ木造建築へと向けられた。年季の入った大切な宿場を無暗に改築したり改装したりしたくないということもあろうが、湖畔に立ち込める靄のせいで余計におどろおどろしい。これでは斯様な逸話がなくとも不穏な噂が立つだろう。
湯治場としては立ち行かなくなっても、温泉の湧く土地そのものには利用価値がある。そこで噂話を払拭するためにも最新鋭のスパ施設に建て替え、まずは外観を美しく整えることで心霊的な噂話を払拭する狙いがあったようだ。成程、戦略として理にかなわぬものではない。
「ここを放置するのも良くないとは思ってますよ、自分は。心霊スポット扱いで不法侵入する奴らがいたら困ると思いますし。この頃ああいうのも過激ですから」
寿命以外の死を克服せしめた人々にとって、スリルはより遠いものとなった。戦争の話題で心を痛めることも、悍ましい事故のニュースも消えてなくなり、代わりに台頭したのが精神的恐怖である。若く血気盛んな頃合いの――それこそギュスターヴより幾分か年下の人々の中では心霊スポットの徘徊動画などが流行っているようだ。中には良心的な者もありはするようだが、大抵は一様にこうした廃墟じみた場所へ不法侵入を行い、眉唾物の検証なんぞで撮れたの撮れないのと騒いでいるらしい。人命が失われることこそないにせよ、不審火の原因になっていることも多いと聞けば、現場に携わっている者としては頭の痛い話だろう。
縋るような視線をくれる男を見遣る。本来神父の領分であるとは思えぬ依頼内容だったが故、己が適任であるかどうかについては些かならず懐疑的だったが、あらかたの事情を知ったうえで考えれば遂行に支障はない。
悪魔祓いではないが。
「ぼくが解決するよ。それで――万一何かあったら、どうすれば良い?」
「もし何かあれば祓って欲しいってことで、そこは自分たちもクライアントも一致してます。自分たちだってこれ以上、作業員にいなくなられたくはないですから」
よろしくお願いします、と言って、責任者は初めて安全ヘルメットを取って深々と頭を下げた。
◆
足音が湖畔から遠ざかる。
見上げた先の霧は、ちょうど良いことに随分と勢いを増していた。責任者が話した噂話が概ね事実であるのだとすれば、ギュスターヴが湖面に向けて一歩進むのも間違ってはいるまい。
――霧が立ち込めた頃が勝負だな。
今日は快晴の予報だったはずだ。しかし見上げた空に青く照らされる空は見えず、代わりに重く垂れこめる曇天に似た灰色が視界を覆っている。未だ気温が下がり切らぬ時分であるというのに、聖職者服の裾から滑り込む冷気は底冷えして背筋を震わせた。
ひたん。
水の滴り落ちる音がする。
――|背後から《・・・・》。
どこかで聞き覚えのある音だ。思考を深く巡らせるまでもなく、ギュスターヴが連想したのは旧い蛇口だった。鉄製の構造物は捻りが甘ければ開いた水道管を閉鎖しきれない。最初のうちは気付かぬほどの僅かな水流が徐々に遡り、蛇口に大きな水滴を作り出す。一定の大きさを越えた頃に――。
落ちる。
ひたん。
「主よ、迷える魂を救い給え」
ロザリオを額に当てた聖職者は、低く祈りの言葉を囁いた。それが聞こえているにせよいないにせよ、背後から規則的に響く水音を無視して、彼は湖面の方へと視線を投じる。
「何が目的でそんなことしてる? そいつらが死なないのは百も承知だろ」
ほんの十メートルばかり先も見えない霧の中で声を投げかけてやる。湖上に立ち尽くす黒い影は散乱してよく見えないが、確かに人影に見えなくもない形をしていた。
元凶――。
というには悪意がない。およそ人々を引き摺り込んで消息不明としたとは思えぬ穏やかな気配が、冷たい湖面に揺らいでいた。嘗ての苦々しき経験は皮肉にもギュスターヴに特技を与えたのだ。即ち敵意や悪意の毒牙を半ば直感的に感じ取ることである。
この湖畔に彷徨える魂が現れて幾年になるのかは分からぬ。尺度の違う時間で生きる彼らにしてみればほんの数瞬前と変わりないのやもしれないが、世界に訪れた不可逆の変容はあまりにも甚大な影響を齎すものだった。魂が固着しているとしても、知らぬはずがないだろう。
霧の中にぼやけて散乱する黒い影との距離感は掴めない。ひたん。ひたん。背後からは水の滴る音が続く。膠着状態が破れる様子はないが、ギュスターヴは幾分肩の荷が降りたような気分で眉間から力を抜いた。
――こちらを嘲笑う目的の悪霊であれば容赦をする気はなかったが。
どうやら眼前の亡霊に敵対の意志はないようだった。言葉が話せぬのか話さぬのかは分からぬまでも、交渉の余地そのものはある。日本において、留まり続ける霊体は往々にして未練と呼ばれるものを残しているものだ。天の国へと昇るべき彼らの魂を長く地に縛り付ける鎖を解いてやれば、静かに消えていくものである。
気付けば虫の声さえ止んでいた。風一つ吹き抜けることのない静寂の中で、再び問い掛けを零そうとした聖職者の眼差しは、ふと眼前にぼやけていた影が徐々に形を取り戻していることに気付いた。
明瞭になっている。
否。
――近付いているのか。
光を遮る濃霧の中で、影が湖面を滑るようにギュスターヴへと寄って来ている。遠くなるほど散乱していた僅かな光が、距離を詰められたことで収束しつつあるのである。
霧を割った|それ《・・》は肉塊と呼ぶに相応しかった。
形ばかりはあくまで人間である。しかし寄せ集めの如き|それ《・・》のパーツは全てが肉によって補完されているだけだ。人が本来必要とする役割があるとは思えない。生の名残をかき集めるに似た塊は不規則に蠕動し、やがて湖の中から|上がって来る《・・・・・・》。
そこで初めて、ギュスターヴは肉塊に下半身があることに気付いた。
ローブの如く引き摺っているのは骨である。
あらゆる骨が無秩序に絡み合った下半身が初めて波立つ湖面から現れる。まるで死した村人全ての体を無理に押し込めたかのように――。
ならば。
男は再び眉根を寄せた。遥か昔にこの地で生きていた人々は、形ばかりさえ弔われたのではない。
「沈められたのか」
初めて首肯が戻った。
ギュスターヴが見上げるほどの巨大な骸の集合体は、それきり何も反応は示さなかった。半ば破壊されかけた建造物の方へ|緩慢《ゆっくり》とした動きで遠ざかっていく。しかしその姿が完全に霧に隠れる前には動きを止め、やはり緩やかな仕草で自身の理解者の方を振り返った。
「着いて来いってことか?」
再び首肯がある。恐らくは自らの未練の在処へ案内しようとしているのだろうと当たりをつけて、聖職者服の裾が翻る。
肉塊は警告色のフェンスを意に介さない。壊れかけた建築物へと続く最短距離を先導するそれの後ろをついて歩くギュスターヴの耳には、やはり絶え間ない水音が反響していた。
ひたん。
ひたん、ひたん。
水は通っていないはずではないか。
しかし確かに、眼前の亡霊ではなく解体作業中の湯治場から聞こえて来る。まるで誘うようだ。肉塊の形をした霊体もまた、重い音を立てる骨を導かれるように引き摺っている。不測の事態に備え声なく身構えるギュスターヴは、ふと自身の足音が色を変えていることを認識して視線を床へ落とす。
霧が這入り込んでよく見えない。だが、どうやら木が水分を含み始めたようである。湖から上がる水気のせいで常に僅かな湿度を纏っていた木造の廊下は、更に多量の水を孕んで踏みしめるたびに湿った音を立て始めた。
巨躯と濃霧に遮られて見えない先に何があるのか、彼は確信する。
やがて見えて来るのは襤褸の布だった。大口を開ける二つの入り口には、それぞれ草臥れた赤と青が掛かっている。書かれた白い文字が何なのか、もはや確認するまでもない。
ぴたん。
青い暖簾を潜った刹那、ひときわ大きな水音が耳朶に響いた。よく響くつくりの広い室内に反響する。足音と共に混ざりあうそれを横目に、ギュスターヴの金色は半ば予期した展開に眇められた。
長年堆積したぬめりが足許に纏わり付く。まるで自我のないような形であるというのに、どこか遠慮がちにさえ見える仕草で道を譲るように壁へ身を寄せた亡霊の向こうには、長きに渡って水分を含んだ木々と黴のにおいに塗れた大浴場が広がっている。
そこに。
無数の骨が散乱していた。
誰のものかを問うまでもない。噎せ返る黴臭さに鼻を塞ぎながら、一番近くに転がっていた骨の前にしゃがみ込んだ男は、それが確かに頭蓋骨の形をしているのを見とめて溜息を吐く。
――秘密主義。
オーナーがいればすぐにも悪意に気付いただろう。善良なる責任者が案内をしてくれたのが良かったのか悪かったのかは分からぬが、少なくとも肉塊と骨で構成された亡霊たちが何をして欲しかったのかは明瞭になった。
「通報しとけば良いか? 今の時代の警察は、こういうの処理してくれるぜ。それから」
宣教師からすれば成仏という概念には馴染みが薄いが、ともあれこれで一連の元凶は神の御許へ昇っていくだろう。しかし、永遠の安寧を手にする前に、一つやってもらわねばならないことが残っている。
「ここに案内しようとしたってのは分かった。もう良いだろ、オレが来たんだから、他の人も帰してやってくれ」
無辜なる哀れな民の集合体は、自らを永劫の闇の中に葬った全てを白日の下に晒す悲願を達した。再び確かに頷いた肉は消え果てていく。
代わりに、引き摺っていた骨の装束だけが、散らばっていた骨の群れに加わった。
やがて霧は晴れる。恐ろしいまでの寒さも絶えず滴り落ちていた水の音も止んでいた。途端に戻って来る虫の声の中で、ギュスターヴは一人ロザリオを額に当てて目を伏せる。
「――主の名の下に、安らかなる眠りのあらんことを」
それだけを告げて踵を返す。後は彼の管轄ではないことだ。
とはいえやることをやるのも報酬をもらってからだ。警察よりも先に依頼を終えたことを告げねばなるまい。
スマートフォンを耳に当てる。コール音を聞きながら歩き出す彼の前では、快晴に照らされた湖面が静かに光を反射していた。
◆
スパ施設予定地から白骨遺体……死体遺棄容疑で経営者夫妻逮捕。
××県××市で遺体を息したとして、△△・××容疑者(××)および△△・××容疑者(××)が逮捕されました。容疑者らは経営していた温泉施設「××の湯」で死亡した者を無差別に遺棄していた疑いが持たれています。
×月××日、「××の湯に大量に骨が散乱している、人間の頭蓋骨もある」という旨の匿名の通報を受けて出動した警察が、大浴場に散乱していた骨を発見したことで事件が発覚しました。
調べに対し容疑者らは「死人が出れば評判に関わると思った。先祖代々やっていたから、自分たちがやったわけではないものもある。こんなに捨てた覚えはない」などと供述しており、容疑を一部否認しています。警察は遺体の年代の推定を急ぐと共に、詳しい経緯と余罪を調べています。
「××の湯」は××年に閉業。スパ施設へのリニューアルオープンを告知していました。解体工事を行っていた有限会社××によれば、解体中に骨らしきものが落ちていたことはなかったとのことです。警察は第三者の介入があったものとみて調査を続けています。
成功
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