どこまでも穏やかな夜だった。
水面の隅々にまで満ちた月のひかりが、淡く世界の輪郭を溶かしていた。子守歌のような細波は耳許に|円《まろ》く響き、透いた潮の香が鼻先から肺腑へとゆっくりと染みてゆく。
そんな三日月型の海岸を漂う、一艘の小舟があった。船央に佇む少年は、先刻、何の気なしにぶらりと夜の散歩へ出たときと同じように、紺青に金銀を鏤めた夜空を眺めていた。森の草葉を思わせる緑の眸が、月の彩を映して柔らかな燦めきを夜に零す。
――月映ノ潟。
ここはどこかと問うよりも先に、ふとそれが過った。逢いたかった誰かに逢える、そんな場所があるのだと。
そうして滑るように潟を渡っていた小舟が、満月の真下で止まった。瞬間、水の底から眩い泡が、ひとつ、ふたつと浮かびあがり、濃淡移り変わりながら、次第になにかの形を描き始める。
ひとの貌だ。
ぼんやりと記憶に残る、けれど一等大切な白い髪の魔法使い。幼いころに還っていった、大好きな優しい祖母の姿。
「……おばあさん、ですか?」
あのころの――家族と森へ遊びにいくたびに祖母が見せてくれた、万彩の|夢《魔法》に見入っていたころの自分なら、夢現の区別もつかなかっただろう。今でさえ、夢だろうかと思わずにはいられない。
けれど、それでも良かった。
祖母の大切にしていた、花蜜たっぷりの魔法の白花の香りがいつまでも絶えなかったように。穏やかな日々がずっと続くと信じていた幼き自分にとって、あの別れはあまりにも突然だった。
だから尚のこと、見目は大人に近しくなってきたココの裡にはまだ、ちいさなココも残っていた。じんと熱を帯び始めた胸の奥を抱えながら、忘れかけていた呼吸とともに競り上がる感情を息にして吐き出す。
「わあ、わあ……ココのこと、わかりますか?」
影はなにも言わない。ただ微笑んで、舟上の少年を見つめている。
「ココ……ココね。話したいこと、たくさんあるのですよ」
止め処なく浮かぶ想いが今にも溢れてしまいそうで、ココは唯々微笑んだ。嬉しいような、泣きたいような気持ちが綯い交ぜになるから、上手く笑えているかは分からない。
「おばあさんのお花、今はココがお世話をしているのですよ。えへへ、見ていてくれてますか? おばあさんの……おばあさんとみんなが眠る場所に、さみしくないようにって。大切に……育てていますから」
静かに耳を傾け、相づちをうつように頷きを返してくれる祖母へと近づきたくて、ココはそうっと船縁へと手を掛ける。
「たまに森のみんなが食べて……ふふ、それはココもですけれど。ミツがたっぷりで、森のみんなにも大人気なのですよ」
ちいさな笑み声が、舟のうえに咲く。
空気がふわりとほどけ、潟の風がひとすじ、ふたりの間を撫でてゆく。
「……眠っていても、たくさんの声が聞こえているでしょうか?」
静かに問うてみれば、答えの代わりに一層の微笑みが返ってきた。その輪郭をなぞるように、ひかりの粒子がさらさらと水面のうえを流れていく。
「……さみしくないですか?」
ぽつりと毀れた声が、水底へと消え――祖母を形作る仄かな燦めきが、慈愛に満ちた貌を象った。
「……おじいさんも、ね。おばあさんがいなくなってから……さみしそうにしていましたが、今はココがそばにいますから」
ずっとずっとそばにいますから、大丈夫ですよ、と。無意識に胸に手を当て、ぎゅっと拳を握る。
「ココはおじいさんとやくそくしましたから……心配しなくてだいじょうぶ、です」
どこか子供めいた、幼い誓いを思わせる仕草。
淋しさや不安の滲む己が心へと、まるで無自覚に言い聞かせるように。
「――そうだ。ココ、……ココね。猟兵さんというのになれたから、おじいさんのことも、森のみんなのことも……おばあさんの森のことも、全部、ぜんぶ……ココが守るから、大丈夫です。……今はまだ、よわよわですが」
えへへ、と毀れた声を、潟の風が静かに攫った。夜のひかりが慈しむように髪を撫で、尾の先までやさしく照らす。それがどこか擽ったくて、ココはちいさな笑みを幾つも重ねた。
「でも、でもね。森に迷い込んだヒトがいたら、ココが外まで案内しているのですよ? ふふ、すごいでしょう? ……なんて、ヒトが来ることもあまりないのですが。あ、でも最近は……ココのお友達が来ることもありますから。少しにぎやかな時もあるでしょうか」
そう云うと、祖母の口許が綻び、幾つもの波紋が水面へと花開いた。
あのころのように、いやそれ以上に、祖母に話したいことがたくさんあった。
あなたが永久の眠りへとついてしまってから今までのことは、到底ここでは語り尽くせやしない。
「えへへ、そうなのです。ココにもヒトの友達ができたのですよ! 食べて、遊んで、色んな景色を見て……森にいるだけでは知らなかったこと、たくさん学んでいるのです。とってもと~っても楽しくて、しあわせなことですね」
云いながら、舟が不意に柔く傾いた。
また、潟のひかりが揺れる。祖母の月影が、やさしく、やさしく薄れてゆく。
――夢の終わりが、来たのだ。
ならば、最後に告げる言葉は決まっている。
それは祖母を、周囲のひとを、誰よりも自分を安堵させるための|言《げん》に聞こえるやもしれぬ。ともすればこの先も、幼い自分が裡の奥底から消えぬまま、時折、淋しさを想い出させるやもしれぬ。
けれど屹度、それで良いのだろう。
悲しみも、憂いも、涙も、後悔も――この月のひかりのように、いつかちいさく解けながら、燦めきながら、夜の|静寂《しじま》に溶けてゆくだろうから。
「だから……ココはだいじょうぶ、ですよ」
舟へと毀れた、ひとひらの月灯り。
そっと掬った両の掌に触れたのは、ひんやりと夜の|気配《けわい》を纏う水でも、幻の残滓でもない――確かな、あのころのぬくもりだった。
岸へと戻り始めた舟に揺られるココの鼻先に、夜気に混じって森の匂いが仄かに届く。
「おやすみなさい、おばあさん」
吐息とともに零した声は、音なく夜へと消えていくけれど。
あの花蜜のように甘やかで優しい笑顔は、いつまでもその裡に灯り続けていた。
成功
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