忘らるる神話のエヴギル・ウースラード
●暗い眠りのエヴギル・ウースラード
久遠なる眠りだった。
闇より暗い深淵の澱みに、ずっと沈み続けていた。
自分の境界が曖昧となるほどに沈んだ頃には、記憶も虚無の泡沫へと溶け落ちてゆく。
ただ、魂の刻印だけは色褪せることはなかった。
「我は……バーン・マーディ。悪しき神である」
バーンは沈んでゆく。
停滞した時が淀む、骸の海の底へと。
●人のためのエヴギル・ウースラード
その巨大な黒竜に、バーンは夜空を想起した。
己の傲慢さを誇示するかのような翼。
溶岩の如き鱗が形成する甲殻は、翼のみならず全身を覆っている。
しかし胸の部分だけが大きく剥がれていた。
削り取られたかと思われる傷跡からは、禍々しい赤い光を放つ肉が露出している。
その傷跡に、機械仕掛けの巨人が拳を打ち込んだ。
巨人といっても、黒竜と比較した背丈は十分の一にすら満たない。
体格差は圧倒的だった。だが意外にも、黒竜は咆哮をあげ、痛みに身を捩った。
空を覆い隠すほどの翼が萎えた。黒竜が新緑の大地へ吸い込まれてゆく。
地鳴りと共に、巨体が草原に沈んだ。
動かなくなった黒竜の傍らに、機械仕掛けの巨人が降り立った。
それは、彫像のような威容さを放つ機体だった。
胸部から走るエネルギーラインは、脈動する血管のごとく明滅している。
背負う一対の翼は悪魔か竜のようだ。
太く尖った爪は、今も鼓動を打ち続ける竜の心臓を掲げていた。
重い鋼の威圧感に、バーンは自然と身構えた。
『ヴリトラよ、汝はキャバリアの身を得て我に服従せよ』
血潮を浴びながら機械仕掛けの巨人は言う。女の声だった。
『さて……次は汝か?』
機械仕掛けの巨人が振り返る。胸部の装甲がスライドし、開いた空洞から女が一人滑り落ちた。
女の姿は、機械仕掛けの巨人が人に化けたかのような風貌だった。
長い髪の瀑布は紫紺の艶を放ち、風に乗って波を打つ。
瞳は深淵を思わせる紫色を宿していた。
漆黒の法衣を纏い、垂らした布で隠された胸は豊満で、全てを抱擁する母なる者の気配が漂う。
荘厳かつ冷厳。神聖と暴虐が並列する異様な威容。
悪神バーンにして、神に通ずる者であると予感させるほどに重い存在感だった。
女が草を踏む音を鳴らして近付いてくる。
たおやかな歩調。何も恐れていない者の歩き方だ。身のこなしには、黒竜以上の傲慢さがあった。
やがて女は手を伸ばせば届くほどの目前で立ち止まり、バーンを見上げた。
背丈は見下ろすほどに低くとも、匂い立つ闘気は全く引けを取らない。
「我はアナスタシア・アーレス・リグ・ヴェーダ」
彼女の口から発せられた声は、息遣いまでもが重く耳に残る。
「迷い子よ、名乗れ」
バーンはアナスタシアの瞳から寸分も視線を動かさず、慎重に口を開いた。
「我はバーン・マーディ。悪の神である」
忘却の彼方に霞んだ過去。その中に残された僅かな記憶。魂に刻まれた己の名と存在に、バーンは迷いを抱かなかった。
「またしても神か。しかも悪神だと? この地は神魔と魑魅魍魎を棄てる地にでも選ばれたのか?」
アナスタシアは深い溜息を吐いて視線を外した。
「アナスタシアといったな? お前は何者だ?」
バーンは問う。
自分に悪の神という定義があるのだから、アナスタシアにもなんらかの定義があると思えたからだ。
「人類文明構築システム。その主幹ユニットである」
馴染のない言葉を咀嚼していると、アナスタシアの首が横に振られる。
「汝流に噛み砕いてやろうか? 我は母である。この地に産まれる全ての人の子の母。原初の母。人の祖。これで飲み込めるであろうな?」
生命を始める者。産み育てる者。
そうと理解したバーンは無言で頷く。
「あの機械仕掛けの巨人は何者か?」
心臓を抱えて聳立するそれを見て、バーンは訪ねた。
「アーレスだ。主幹ユニットの最終防衛を担う戦術戦略機動兵器。最強にして究極の兵器、キャバリアである」
またもや馴染みのない言葉の咀嚼を強いられた。
だが、名前に憶えと親近感がある。
「アーレス……戦場の狂気を示した悪神……」
「ふむ、機械仕掛けの神……機械神……そうだな、機械神と呼ぶがよい。畏敬の念も湧くであろう?」
アナスタシアがバーンに背を向け、アーレスを見上げる。
「兵器とは闘争のための力だ。キャバリアは力の体現。その最強にして究極なる力は神に等しい。神とは力であるが故に。闘争の機械神……闘神アーレス。今より我がキャバリアは、闘神アーレスである」
「闘神アーレスか。相応しいな」
鼓動を止めない心臓を手にし、血にまみれて立つ恐ろしい姿。アナスタシアが言う通り、闘争を司る機械神に相応しいとバーンは思えた。
「なれば、我は機械神の巫女といったところか。機械神と一体化し、真なる力を引き出す半身……悪くない響きだ」
アナスタシアはアーレスと眼を通わせて双眸を細める。
「ヴリトラよ、汝もサラマンダーや武御雷と同じく機械神にしてくれよう。そして我が娘を巫女に迎え、このアーレスの地に君臨し、守護せよ」
憤慨か拒絶か、赤い心臓は打つ脈動を強くした。
「神とは力……」
バーンはアーレスを見つめ、アナスタシアの言葉を反芻していた。
それが真であるなら、悪神たる自身も力が顕現した姿なのか?
冥い眠りの奥に沈んだ記憶は掠れて読み解けない。
ただ一つ残された、悪神バーン・マーディの名だけが、自分という曖昧で不明瞭な存在を繋ぎ止める、唯一の楔。
開いた手のひらに目を落とす。曇り硝子のように薄らいだその手に、そよぐ緑の草が透けた。
「虚ろだな」
アナスタシアの声に視線を上げる。彼女の目にもきっと、バーンの姿はおぼろげに映っていた。
「我は消えるのか?」
「さてな? 世界が排斥しようとしているのかも知れぬ。ヴリトラと同じく、空の裂け目より落ちてきた汝は、この世界にとっての異物であろうからな」
空を見上げたアナスタシアにつられてバーンも首を上に向ける。
抜けるような一面の青の中央に、巨大な傷が口を開けていた。
傷の中には暗い闇が広がっている。
「あの深淵はなんだ?」
「躯の海……自らを猟兵と名乗る者がそう呼んでいた。我らの世界は、躯の海に輝く綺羅星の一つに過ぎぬらしい。空に開いた裂け目は、躯の海と我らの世界を隔てる結界に生じた綻びである。エナジー・ゲートと言ったか……汝はあそこから落ちてきたのだよ」
意識が呑み込まれそうになるほど暗い闇の中で、数十の光の輝きが瞬く。
光のひとつに目が止まったバーンは、そこはかとない懐かしさと、漠然とした喪失感に、身体が空洞になる感覚を味わった。
「或いは、汝も我に心臓を捧げて機械神となるか? キャバリアの身が、汝をこの世界に繋ぎ止めるやも知れぬぞ?」
アナスタシアの唇が不敵に歪んだ。
バーンは分からなかった。アナスタシアが本気で言っているのかも、冗談で言っているのかも、自分がそうするべきなのかも、そうするべきでないのかも。
「……我は何者だ? どこから来てどこへ行く?」
訪ねてもアナスタシアは微笑を吹き消すだけだった。
「神とは人の被造物。我とアーレスと同じく、汝もいずこかの世界で創造されたのであろう。何かしらの使命を与えられてな」
「お前には使命があるのか?」
「ある」
一切の躊躇なく即答したアナスタシアが、アーレスを背にして両手を仰ぐ。
その姿は、大勢の子供たちを迎え、抱きかかえようとする母のようであった。
「この地を人で満たし、文明を築く。そして闘争と再生が織りなすエヴギル・ウースラードを巡らせる。それが、我が使命だ」
バーンにはその時の彼女の姿が誰よりも強く、何者よりもはっきりと見えた。己が何者であるかを知り、何をなすべきかを知り、進む道を知っている、迷いなき者の姿。今の自分とは正反対の、分厚い存在感を持った母の姿だった。
「エヴギル・ウースラード……?」
記憶の残り香にもない言葉に、バーンは眉を潜めた。
「終わりなき季節、巡り続ける円環だ」
アナスタシアは自身の胸に拳を当て、面持ちを俯けて双眸を下ろす。
「弱者必滅。強者絶対。その理の中で、我より生まれし人の子は、繁栄し、戦い、衰え、再び繁栄し、永劫の歴史を刻む。いずれ、母の手から離れ、一人で歩み始めてもな」
壮大な物語の結末を語るアナスタシアの表情に、バーンは一抹の寂寥を感じ取った。
「人の時代の終わりなき繁栄。その果てに、人は己の神話を紡ぎ始める……か」
「先にも言ったが、我はそのために創られた人類文明構築システムの主幹ユニットである。創造神の方が解し易いか?」
アナスタシアは拳を下ろし、再びバーンと目を交わらせた。
「虚ろなる迷い子よ、悪神たる汝の使命はどこにある? 他の神魔魑魅魍魎と同じく、我がの玉座の簒奪か? 外なる者共と同様、この地を羨んでの侵略か?」
挑発的に顎を浮かせたアナスタシアに、バーンは深い瞑目で応じる。
「分からぬ。使命も、己が何者であるのかも、どこから来て、どこへ行くのかも……」
暗闇の中で溜息を聞いた。バーンが目を開くと、アナスタシアの背中があった。
「何も知らぬ悪神か……哀れな。機械神の身を与えてやったとしても、闘争に焦がす心がなければな」
遠ざかってゆくアナスタシアを、バーンは追うべきかどうかも分からなかった。
「お前はどこへ行く?」
「新たな生命の誕生に立ち会い行くのだ。じきにテレサが最初の子を産む」
アーレスもアナスタシアに続いて歩き始めた。茂る草を踏み締める足が、大地を怯えさせる。
「悪神バーンよ、我が慈悲の元、汝にこの地の滞留を許す。そして多くを知るがいい。やがて真なる理を悟った時、我と拳を交える事もあろう」
「真なる理とはなんだ?」
遠ざかる背中にバーンは問う。
「弱者必滅。強者絶対」
不意にアナスタシアが立ち止まり、半身を向けて横目を送った。
「汝が汝たるを望むならば、強くあり続けよ。弱きは何も得られず、何も守れず、滅びるが必定。こうして語る資格もない」
呆気なく解き明かされた理に、バーンは言葉を見失った。
アナスタシアがアーレスと共に去ってゆく。
残されたバーンは、血溜まりの中で動かなくなった黒翼の竜……ヴリトラの躯に視線を移す。
冷え固まった溶岩を赤黒く濡らしたかのようなそれに、いつしか小鳥が集って囀りを歌っていた。
無惨な死体の周囲に広がるのは、輝かしい緑に覆われた大地と、雄大に連なる山々。
どうしようもなく残酷で、恐ろしく美しい世界をバーンは知った。
虚ろに透けていた腕は、確かな実体に戻っていた。
●母と娘のエヴギル・ウースラード
母が子を産み、絶えず運ぶ時の中で母は老い、やがて土へと還る。
そして子は母となり、いつか子を産む。
これも終わりなき季節――アナスタシア流に言えば、エヴギル・ウースラードなのだろう。
産まれて間もない赤子を抱く母を見て、バーンは生命の輪廻を知った。
白亜の石造りの庭園を、午後の木漏れ日が暖かく照らす。
流れる水路の音が、戯れる子どもたちの声と生命の歌を奏でていた。
穏やかに過ぎゆく時間の中で、古めかしい椅子に腰を落ち着けた少女が微笑む。
白髪の少女の面持ちは、疲労困憊の色と、それ以上の幸福の色で満たされていた。
「これが……私の子……」
母の腕の中に抱かれた小さな命は、白い布にくるまり寝息を立てている。バーンは佇んだまま見つめるのみだったが、赤子の息遣いのひとつにすら愛おしさを感じる母の思いは察した。そうと推し量らせるだけの幸福感が、母の微笑みにはあった。
「テレサよ、それが産みの苦しみと喜びである。今後、幾度となく噛みしめる苦しみと喜びだ」
四角に切り出された石に座るアナスタシアは、子を抱くテレサに穏やかな眼差しを注いでいる。
バーンと初めて出会った日に見せた、闘神アーレスの巫女の姿はない。周りではしゃぎ、じゃれつく幼子たちをあしらう姿は、テレサと同じか以上に慈愛が溢れる母の姿だった。
「分かっています、アナスタシア。私はこの子と、これから産む子たちを育て、守る。そして私の子がいつか親となり、子を産んで、アーレス大陸を人で満たす。それが、私の役割……」
赤子の頭をそっと撫でるテレサの言葉は、バーンには己に課された使命への誓いに聞こえた。母なるアナスタシアより産まれし娘の一人、テレサもまた使命を帯びている。自分には……まだ何もない。思い出せていないだけなのか、初めから無かったのか、それすらも――。
「あら~! とってもちっちぇですわね~! ちっちゃなおテレサさまですわ~!」
とびきり元気で、とびきり黄色い声がバーンの耳朶を叩いた。
薄紅色の長髪を揺らす幼子が、テレサの腕の中を覗き込んでいる。
「ほっぺたぷにぷにですわ~! とってもおかわいいですわ~!」
赤子の頬を指でつつく。その様子にテレサはさらに笑顔をほころばせた。
「おやめなさい! 起こしてしまうでしょう!」
その幼子の首根っこを引っ掴んだのは、同じ薄紅色の長い髪の幼子だった。しかし背丈はこちらの方が頭ひとつ分以上高い。バーンにしても一目で姉と分かる風貌だった。
「ちょっとだけ! ちょっとだけですわ~!」
「なりません!」
「ぷにぷにしたいのですわ~! おねえさまもやってみたらよろしくてよ~!」
「ゼロハートさまにご迷惑です!」
じたばたと暴れる妹を、姉が力尽くで引き摺ってゆく。
「エルネイジェの子は元気が余りすぎだな」
アナスタシアが呆れ混じりの声音を漏らした。
「そちらの二人は静かですけどね」
困り眉を作ったテレサの視線を辿ると、黒髪の少女と薄紅色の髪の少年がいた。
後者の方は先の姉妹と血縁にあると思える。
黒髪の少女はアナスタシアの影からテレサの赤子をじっと観察している
「お姉様と妹が元気すぎるだけなのだわ……」
言動から黒髪の少女も姉妹に連なる者であるらしい。
「内なる気力では、妹達に負けるつもりなどないがな」
薄紅色の髪の少年は、両腕を組んで石柱に背中を預けている。背丈に釣り合わない気取った訳知り顔だった。
「私の子も、あなたたちのように元気に育ってくれたらいいな」
騒ぐ子どもたちを他所に、赤子は今も寝息を立てている。テレサが注ぐ微笑みは、木漏れ日よりも優しげで、暖かく、愛おしさに満ちていた。
「羨ましくなったか? 悪神バーンよ」
薄く笑うアナスタシアの横目がバーンに向かう。バーンは首を横に振った。
「我には分からぬ」
「当然であろう? 生命を産む苦しみと喜びを知れるのは、母だけに許された特権だ。汝は母になれん」
アナスタシアの口許が意地悪く歪む。自分はその苦しみと喜びを知ることはできない。それは母になれないから、女ではないからといった直接的な意味合いばかりではないと、バーンは沈黙の中で推察した。
生命を愛し、慈しむ心が無ければ、子の母になる資格はない。子の母たり得ない。そして、強くなければ。
無条件の愛を貫き、押し通せる強さ。それを持つのが母なのだろう。
「お前は優しいのだな」
「我は元より母となるべくして創られたからな。いや……聖母としよう。アーレスの地で産まれた子は皆、我が神聖なる処女の胎から産まれた。よって、我は聖母アナスタシアである。人類繁殖統制機構などという冷たい名より、よほど血が通って聞こえるだろう?」
バーンのアナスタシアを見る目は変わったとも言えるし、変わっていないとも言えた。
彼女は闘神の巫女としての強さと、母の強さを兼ね備えている。
テレサもきっとそうだ。
弱者必滅。強者絶対。
美しくも残酷なこの世界に敷かれた理の上で、子を産み、育み、守る母は、絶対の強者であり続けなければならなかった。
さもなくば、何も産めない。何も育めない。何も守れない。
テレサの慈愛に溢れた微笑みに、バーンは理を知った。
そしていずれ目の当たりにすることになる。
子を奪われ、子を喪い、悲しみの果てに、絶望と狂気に蝕まれた母の姿を。
●炎の破滅のエヴギル・ウースラード
絶えず流動を続ける時の中、アナスタシアとその娘たちは、大陸を人の子で満たし、機械神と共に文明を築いていった。
弱者必滅。強者絶対。その理は人に強く在るべきことを教え、闘争を促した。
闘争が繁栄と衰退を緩やかに循環させ、代謝を経るほどに文明の光は輝きを増してゆく。
循環すればするほどに、人の命は失われ、失われた以上の命が産まれてゆく。
生まれながらにして久遠の時間を与えられていたアナスタシアの娘たちは、その度に命が消える悲しみを知り、産む喜びを知った。
彼女たちの傍らで、バーンは終わりなき季節を……エヴギル・ウースラードを見届け続けた。
アーレス大陸という閉じた輪の中を巡る季節。
永遠が約束されたかに思えた季節は、小さな綻びから崩れ始めていった。
ある時、零也と名乗る男が大陸に辿り着き、アナスタシアの玉座の簒奪を図った。
原初の魔眼を用いるも、果たしてアナスタシアの拳に敗れ、助命を乞い、跪いて軍門に降りた。
その男一人ばかりではない。
多くの者が玉座を……或いは大陸そのものを、羨み、妬み、我が物にしようと、破壊し蹂躙しようと、海の外より現れた。
アナスタシアたちはそれらの全てを征伐した。
時に零也にしたように慈悲をかけた。時に無慈悲な裁きを与えた。
次第に侵略は苛烈さを増し、神機ユピテルの一派が襲来した時には、既に大陸の全土が戦場と化していた。
アナスタシアたちは機械神と共に戦い続けた。
だがユピテルを退け、裏切り者を処断し尽くし、それでもなお大陸への侵攻は止まらない。
外なる機械神の大侵攻。
アーレス大陸以外の全てが敵と化したかの如き侵攻は凄惨を極めた。
そして終わりなき戦いの果てに現れたのは、アナスタシアにしても、バーンにしても、そうと呼ぶ他にない者たちだった。
歪なる力の化身……|生命の埒外《猟兵》と呼ぶ他にない者たち。
彼らが振るった|罪深き刃《ユーベルコード》は、これまでの戦いで刻まれたあらゆる傷より最も深く、最も多くを破壊し、最も残酷に命を奪い取った。
しかしアナスタシアたちは戦い続けた。
やがて大陸が躯で埋め尽くされた頃、彼らは何処かへと消えた。
罪深き刃の痕跡――|炎の破滅《カタストロフ》を残して。
分厚い毒の雲に覆われた空が、赤黒く染まっている。
まるで戦いで流れた血が頭上一面に広がっているかのような光景だった。
波濤が荒む海は黒く、海鳴りが無数の断末魔に聞こえた。
大地は真っ黒に焼け爛れ、焦げた文明の残滓が死の風に吹かれて悲鳴をあげている。
彼らと戦った後には何も残らない。
ただひたすらに、焼き尽くされた破滅が広がっているだけだった。
夥しい数の命が奪われた。
老いも若いも関わらず、罪の有無も分け隔てなく。
バーンは破滅を迎えた大地に立ち尽くす。
風の音は、死を受け入れられない亡霊達の怨嗟と思えた。
「あ……ああぁぁ……!」
怨嗟に紛れて少女の嗚咽が響く。
幾百幾千と聞いた声を辿った先で、テレサが地面にうずくまっていた。
「みんな熱かったよね……! 苦しかったよね……!」
テレサの細い腕の中には、幼い子どもが抱かれていた。
もう笑うことも、泣くこともなく、黒く炭化した幼い子どもの躯。
母なる娘の瞳から溢れ出る涙が滴り落ち、乾いた躯に灰色の染みを広げる。
喉を詰まらせて咽び泣くテレサは、心拍を打つことを止めた躯を強く抱き締めた。
けれど幾ら強く抱きしめても、焼き尽くされた命は還らない。
力を入れるほどに、崩れ、腕の中から零れ落ちてゆく。
「だめ! 消えないで! お願いだから! あなたは、私が産んだ大切な……!」
灰になった幼子を掻き集めるテレサの背中を、バーンは見下ろすことしかできなかった。
荒涼とした赤黒い大地に、嗚咽が響く。
「ごめんね……! 怖かったでしょうに……! 痛かったでしょうに……!」
縮こまった背中が震えている。
バーンは、その背中に言葉をかける資格はないと思えた。
子を産んだ母の苦しみを知らない者に、子を喪った母の悲しみを理解できるはずがない。
故に、悲しみに絶望する嗚咽が、憎悪の唸り声に変わりゆくのを見ている他になかった。
子を喪った母が、鋼鉄の狂気に呑まれてゆくのを見ている他になかった。
「やつらさえ……やつらさえ来なければぁぁぁっ!」
真っ黒に焼き尽くされた大地に、血で染まった空に、テレサの慟哭か響き渡った。
「やつらがっ! やつらがっ! やつらがぁぁぁっ!」
何度も地面に拳を叩きつける。パイロットスーツの保護膜が敗れ、血が滲んでも、テレサは地面を叩き続けた。
狂おしい怒りと憎しみの呪怨を己の血に籠め、大地に刻み込むかのように。
それは子の命を奪われた母の呪い……永劫の時間を経ても決して消えない復讐の呪い。
「もう二度と……二度とこんなことはさせない……! あれは、産まれてはいけなかったもの……! 世界の歪み! 存在自体が原罪の! 悲しみと苦しみを撒き散らす、破滅の化身! もう絶対に何も奪わせない……! 私が……滅ぼすッ!」
バーンは目の当たりにした。
テレサという一人の母が、呪いそのものへと変貌する瞬間を。
悪神にして悪神すら生温いと思えるほどの、炎よりも赤く、氷よりも冷たく、暗黒よりも黒い、母の呪詛。
ひどく壊れ、狂ってしまったテレサに、バーンは庭園で赤子を抱いていたテレサの面影を重ね合わせる。
その面影は、他でもないテレサの憎悪にかき消されてしまった。
「テレサ・ゼロハートよ、それがお前の使命か?」
大地に慟哭し続けるテレサに、バーンの声は届かない。
ひとつの終わりなき季節――エヴギル・ウースラードが終わろうとしている。
そして、立ち会ったバーンのそれも、綻び、崩れ始めていた。
忘れていた胸の痛みが熱を伴って蘇る。
開いた右手で痛みに触れた。
その手は赤黒く濡れており、血染めの空に透かしてもなお赤く、虚ろであった。
傷の深さは関係ない。痛みの強弱も問題ではない。
打たれ、切られ、貫かれた事実を、バーンは淡々と受け入れていた。
それは、どこから来てどこへ行くのかも分からない、自分の出した選択の結果だった。
バーンは戦った。アナスタシアたちと共に。
なぜ? そうすべきと思ったからだ。
どうして? 分からない。
「我には決して理解できぬであろう……」
己へ呟く。手のひらが虚ろさを増す。バーンは腕を下ろした。
「行くのか?」
背中に掛けられた声に振り返れば、アナスタシアがいた。
その後ろでは満身創痍のアーレスが膝をついている。寄り添う狼型の機械神、ガルムも傷だらけだった。
「我はこの世界に魂さえ残す事が叶わぬらしい。エヴギル・ウースラードを脱し、消え去るだけだ」
運命を受け入れた心は虚無だった。
「今からでも我に心臓を捧げ、機械神へと生まれ変わるか?」
「悪くない提案ではある」
きっと別の運命を辿った自分ならそうしたであろう。
自ら心臓を差し出しさえもしたかも知れない。
けれどバーンは既に悟っていた。
運命に呑まれ、あの暗い澱みの中で再び眠りにつくと。
やがて眠りの中で記憶は溶け落ち、全てを忘れてしまうのだろう。
そしてどこかの世界で目を醒ます。アーレスの地に落ちた時のように。
これこそが、自分のエヴギル・ウースラード……終わりなき季節の終わりだと知った。
「悪神バーンよ、我が地はいずれ再生し、エヴギル・ウースラードの中へ回帰するであろう。汝の定めも此処で終わりではあるまい」
「何故そう言える?」
「季節は巡るのだ。終わりなく、果てしなく。ただし、円環に戻れるかは汝次第であろうがな」
「我次第か……」
霞み始めた世界に、バーンは微かな名残り惜しさを覚えた。
「弱者必滅。強者絶対。運命を掴み取れるのは、常に強者だけだ」
飽きるほどに聞いたその理に、遠い懐かしさが滲む。
「我は悪神バーン・マーディ」
まだアナスタシアたちの姿が目に見える内に、バーンは背中を向けた。
「いずれ我は帰還せん。エヴギル・ウースラードの中に」
世界が急速に闇の中へと閉じてゆく。
多くの記憶と共に。
幼子と戯れるアナスタシア。
産んだ赤子を抱いて微笑むテレサ。
他にも数え切れないほどの記憶が、本のページをめくるようにして蘇り、消えてゆく。
胸に受けた痛みさえも。
だが、この疼痛はなんだ?
胸のより奥深く、自身の核とも言える最奥に生まれた疼痛。
「これが……」
久遠なる眠りに沈む直前、バーンは痛みの名を知った。
エヴギル・ウースラード。
終わりなき運命。果てしない定め。
バーンのそれも、また巡る。
いまは止まっているだけだ。
いつか、再び動き出すその時まで。
成功
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