アトチャーイニエにしては甘く
●朝
日課とは義務と言い換えることができたかもしれない。
少なくとも、これまでは。
そう思えたのはミラン・ローズブレイド(羽風・f10316)にとって幸いであったことだろう。
それこそが純愛にして敬愛であり、偏愛とも取れる狂愛。
蕩けるような色をした瞳が見つめる先にあるのは、湯気たつポットだった。
完璧に熟さなければならない。
日課だから、ではない。
日課であればこそ、だ。
日々の営みというものは、こうした些細な一つ一つによって積み重ねられて形作られていくものだ。
輪郭と言っても良い。
だからこそ、しっかりと世界と己『たち』との間に輪郭を生み出さなければならない。
滲んではならない。
色移りしてはならない。
湯沸かしの音が響く前にコンロを止める。
心が弾むようだった。
かつての義務感はとうに溶けて消えた。
あるのは幸福である。楽しくて仕方ない。
紅茶を淹れる。
それは迫害されていた弟のためのものだった。だが、今は愛するお方のために淹れる紅茶なのだ。
だからこそ、楽しい。
心が踊るし、跳ねる。
心臓はただ、それだけのことなのに高鳴りを覚えてならない。
「……――♪」
鼻歌一つは許して欲しい。
これくらいは、小鳥が朝さえずるのと同じようなものだ。
世界が祝福してくれているようにさえ思える陽射しに蜂蜜色をした瞳が細められた。
今日も一日良い日になりそうだ。
昨夜から続く幸せの延長線上。
その道を歩んでいられること以上の幸せなんてない。
茶葉を量ってポットに入れる。
注いだ湯が湯気を立てて、軽やかな音を立てる。
するとポットの中で茶葉が開いていくのだ。
香りが立つ瞬間、生きを吸い込む。
良い茶葉を選んだ。目覚めの一杯には相応しい。
「今日の紅茶はキャラメルにしようかな」
「甘く、かい?」
広がる香気よりも甘やかな香りがミランの背中から重さと共にやってくる。
鼻腔をくすぐる香りは、もうすでに知っているはずなのに、何度でも新鮮な心持ちにさせてくれる。
その重さの主であるファリド・ローズブレイド(科戸風・f10313)はミランの肩に細い顎を乗せて軽く顔を揺らす。
髪が一房、ミランの鎖骨をくすぐるように揺れて、ミランは思わず手にしたポットを取り落としそうになった。
「ファーラ様」
「なんだい、蜂蜜ちゃん」
「悪戯したらダメですよ」
髪の毛先、その感触に僅かに喉が反る。けれど、それだけは言わねばならないことだった。
悪戯、というよりも取り落としそうになったポットの湯が問題だった。
火傷でもファリドに負わせようものなら、それは拭い難い罪のように思えてならなかったからだ。
「抱きしめたい、と思ってしまうのは悪戯、なのかな?」
「そうではない、ですが」
回した腕。
胸元に触れた指先は、悪戯を咎められて拗ねる子どものように肌の下の感触とを確かめるようだった。
それもまた悪戯の範疇だろう。
だからこそ、ミランは咎めるような顔をしたが、ファリドは特に構わない様子だった。
言ってしまえば、その表情さえファリドにとっては愛おしいと思えるものであったからだ。
「ですが?」
「火を使っていました、湯も……火傷の心配をしなくてはなりません」
「それはとてもかわいらしいことだね、だから余計に、つい、ね」
その言葉にミランは余計に身を固くする。
これは蜜だ。
このやりとりだけで、甘やかな空気になってしまう。
指先のこわばった感触だけで、身が震える。
「美味しく、淹れますから……」
「そういうところも、可愛いから」
かつては、絶望ノ名前(イツワリノカミ)。けれど、今は同じ名前で意味が違う。
究極の紅茶。
その琥珀色は魔性めいていた。
ミランにとって、それは嘗ての苦痛であったし絶望そのものであった。
今、同じ名前で意味が違うというのならば、それはきっと幸せというものなのだろう。
「貴方の為だけの紅茶ですよ」
「あぁわかったよ、私のミルーシェニカ」
言葉は要らないのかもしれない。
けれど、伝えなければ想いは想いのままだし、伝えたとしても感じることができなければ、それはただの言葉でしかない。
だから、とミランは口を開く。
その前にファリドは笑みで紡がれる言葉を塞いだ。
「共に飲もうか、君の紅茶は美味しいからね」
己の愛する者。
それが目の前にいる。
見つめる瞳の色をこんなにも間近で感じることができるものだろうか?
それはきっと自分だけだとミランは思ったかも知れない。そうであってほしいし、そう願うのは横柄だろうか。それでも、と思ってしまう。
「愛おしい私の子」
その言葉だけでミランは救われてしまう。
だから、告げるのだ。
そうしなければならないだけの理由を、この人は与えてくれている。
「私の……俺の愛するファーラ様――」
成功
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