温く蒸した風が頬を撫でた。
夕暮れに傾く通りには長閑な営みが満ちている。この折は幾分平穏になりつつあるサムライエンパイアの見慣れた光景を横目に、よく目立つ長躯は閑散とした川辺の道を踏みしめた。
この世界の出身者にしては、鷲生・嵯泉(烈志・f05845)は背が高い。故国が未だ健在であった頃には六尺を優に超える上背を鬼だと揶揄われたこともあった。ちらほらと向けられる驚愕の視線ばかりはいかに世界の加護を以てしても遮り難く、此度も凛と伸びた背筋と緩慢な歩調を幾人かが振り返るように見た。
未舗装の道路は夏が近しくなっても現代社会の如き灼熱とは程遠い。打ち水が乾けば涼風が通り抜け、幼い頃から慣れ親しんだ夕立の気配が男の五感に纏わりつく。
帰途を急ぐべきだろう。雨具の類は備えていない。早くに終わるはずだった所用が長引きに長引いた果ての逢魔が時だ。じき止むといえど土砂降りに打たれて軒先を借りるのでは憂鬱になるばかりである。
決めれば嵯泉に迷いはない。峻険な隻眼は前のみを見据える。心持ち大股に踏み出した一歩を奇妙な違和が絡め取ったことに片眉を持ち上げたときには遅かった。
張り詰めた糸が切れるように、或いは新たに編み上げられるように、空気が変わる。聞こえていた蜩の声が刹那に遠のいた。
風が止む。入道雲だけが、赫赫と燃える黄昏に照らされている。
――厄介な化生に捕まったか。
と、嵯泉がすぐにも悟ったのは、幼い頃に感じた忘れもせぬ空気と現状を重ね見たからである。無論、非才の陰陽術に修練を積み上げ、今や有象無象の雑鬼など近寄るも難い実力を得たが故の確信でもあった。硬質な隻眼は眉間に皺を寄せ、無機物の気配さえ読み切る感覚を研ぎ澄ませる。
あのときも――。
夕暮れであったように思う。幼い頃より見得ぬものに寄り憑かれ、しかしこちらから見通す見鬼の才覚には恵まれなかった嵯泉は、その体質を補うために師より陰陽術を教わる手筈となった。如何に奔放な師といえど幼く弱い少年を夜半に無防備に放り出すような真似は良しとしなかったか、当時の嵯泉が夜更けに独り用向きを任されることはなかったと記憶している。
だから逢魔が時であったのだ。
何があって外に出たのだかは判然としない。少なくとも師はまたぞろ留守にしていて、困り果てた来客に小包を渡すよう頼まれた折であったように思う。父によく似た生真面目さ故に急いでいる様子だったから師を探してやろうと思ったのだか、或いは中も覗けぬ荷物を抱えていつ帰るかも分からぬ師を待つのが癪だったのか――少なくとも、嵯泉少年は見慣れた上背を探すために外出を決めた。
陰陽術を幾らか修めた折であった。武家の名門に生まれつこうと未だ年若く意地の強い幼子は、その意地のせいで昼光が傾くまで城下を歩き回っていた。今の嵯泉とさして変わらぬ程の長躯をどこに隠しているのだか、雲隠れをすると驚くほどに見付からぬ師に会うことは儘ならず、日が暮れる前に塒に戻るつもりで歩いていたように思う。
不意に違和に足を絡め取られ、嵯泉少年は今と同じように俗世から切り離された。
あの頃は動揺のあまりに止めた足を、今は厄介げな溜息と共に前に出す。似たような代物はどこにでも在るようである。
面倒な事に為った――と思った。同時に、丁度良い――とも思う。
幼い少年には振り払う力はなかった。危うく餌食になるところを割り込んだ師に救われ、散々説教を喰らった果てに重い修練を課されたことを思い出す。そも師が塒に大人しく戻っていれば斯様なことに巻き込まれる必要もなかったと、彼の剣幕には幼心に理不尽を覚えたが、己の未熟が余計な事態を招いたことは否定しようがなかった。結局は唯々諾々とそれらを熟したものである。
行き方知れずになって久しい師の助けは見込めぬが、此度は嵯泉一人で打ち払えよう。幸か不幸か、遣り口は十全に知っているのだ。
我武者羅に出ようと足掻いたところで空間が裂けることはない。まずは首魁を眼前に引き摺り出してやらねば話にならぬ。方策は単純である。
やはり迷いなく歩き出した足が地を踏んだ。軍靴の音が前に進むたびに、遠く光る夕陽が暮れていく。代わりに俄かに立ち昇る月が戯画的に周囲を照らした。
景色は変わらぬ。
幾ら進めど同じ場所から抜け出せぬのである。幼い嵯泉はあらゆる横道を試し、時に後方に戻りながら出口を探し、その度に眼前に現れる見飽きた景色に歯噛みした。
次第に影が増えていく。街灯のない江戸の夜闇にも濃く立ったそれらは、意志があるのだかないのだか分からぬ動きで往来を行き来していた。少年の頃は女と間違えられる程に背が低かった彼にとって、今は容易に見下ろせるそれらも得体の知れぬものと映ったのを覚えている。
そうして。
どれ程進んだのだか、或いは戻ったのだかも判然とせぬ頃合いに、眼前に|明瞭《はっきり》とした人影が現れる。
大鉈を引き摺る男が背を向ける女に近付いていく。悍ましい金属音に振り返る女が悲鳴を上げる前に、振り下ろされた巨大な刃が胸を貫く。咄嗟に男を尽き飛ばそうとした女と縺れ合うように、二つ分の落水音が川に響く。
それを――。
幾度も繰り返すのだ。
しかし繰り返すたびに場面は徐々に引き延ばされる。男女が落ちて暫くすると女がふっつりと現れ、どこか不安げな様子で川を見る。男が近付いて、縺れ、落ちる。次は女が歩いて現れる。身を隠すように忍様子を見るに逢瀬のつもりであることは明白だった。
幼い嵯泉の前に現れたものが如何なる事情を持っていたのだかは覚えていない。少なくとも男と女が現れ、やはり眼前で殺し合っていたのだけは覚えている。幼心には男女の機微の何たるかも分からず、まして仲睦まじく暮らす父母しか知らぬ身には何故互いを手に掛けるのかさえ理解が及ばなかったからだ。
今は――分かる。理解することは出来ぬとしても。
次第に巻き戻る場面の最後に、男女は必ず互いを殺めて川底に沈んでいった。どうやら此度の逢瀬は二度目であるらしい。一度目と思しき記録の再生のうちでも、どこか浮かれた調子で現れる男が同じ川辺で周囲を見渡すさまは、実に浮かれていて目も当てられぬ。
どうやら男女は商家の次男と長女であるらしかった。男児に恵まれなかった呉服屋は懇意にしている家から婿を取ることに決め、他方の相手方も商才のある長男を立てるための厄介払いを兼ねて男を入婿にすることを決めたらしい。親たちの納得ずくの婚姻は当人たちの意志を無視する――時代を考えれば奇妙な話ではない。
しかしこの長女にあたる娘は随分と気の強い女であるらしかった。きりきりとした足取りで現れる彼女を浮かれた顔で振り返った男の表情が凍り付くのがよく見える。
――どうしておまえがここに。
――妹の名を使えば逃げられることもないと思っておりました。やはり、いらっしゃいましたね。
揉めている男女に曰く。
女は元より男にさしたる感情を抱いてはいなかった。単純に己の代わりに店の面子を保つためだけの相手だと思っていたようである。入婿の厄介払いの次男とあれば立場は必然弱くなる。娘ははなから自分が実権を握る気でいたのだろう。
それを察していたか、男の方も女遊びに走った。それであろうことか彼女の妹に手を出したらしかった。蝶や花やと育てられた姉に悪感情を抱いていた彼女が、姉様の許嫁を奪ってやったと吹聴して回ったのが耳に入って、慌てたのは娘の方だった。
仮にも己の夫になろう相手が婚前から妹に手を出したのだ。少なくとも店の顔にせねばならぬ相手が斯様な真似をしたのなら、必ずやその風評は店の看板に傷を付ける――と、考えたようである。
そして女は、妹の名を騙って男をおびき出した。此度のことに始末を付けぬのであればあなたの両親にも己の両親にも告げ口をすると告げたようである。さすれば必ずや激怒される、責を被るのはあなただと捲し立て、茫然と立ち尽くす男を横目に踵を返した。
それで。
縺れるように川底に沈んだという顛末である。
女に大鉈を振り下ろす男の背に、嵯泉は無言の裡に歩み寄った。月光を金色に弾く琥珀色の髪が抜き放った白刃に反射する。破邪の焔を纏ったそれを揺らがぬ|眼《まなこ》で一瞥し――。
ありゃあお前を娘御だと思ったんだろうよと言って、師は女を斬った。
嵯泉は。
「其れ程憎いか」
男の首に|鋩《きっさき》を当てた。
許嫁に不貞を罵られた若い男は、それを義両親のみならず自らの親にまで洗いざらい打ち明けると言われて激昂した。しかし賢しい彼がすぐに彼女を手に掛けることはなかったのだろう。おおかた誠意を見せるだの始末を付けるだのと心にもないことを告げたに違いない。口八丁で呼び出した娘の胸に深く大鉈を突き立て、そして最期の抵抗に負けて己も川に落ちた。
憎んだのだろう。
互いに互いを憎んで憎んで憎むあまりに、男は女を絡め取り、女は男を逃さなかった。幾度も殺し、殺され、共に川に落ちる。幾度殺しても足りぬ顔を叩き割っているうちに、渾然となった魂が川の底にその身を縛り付けた。幾度殺し合っても終わらぬ互いの呪縛から逃れんと藻掻いた果てに、互いが人を喰らって喰らって妖異と成った。
しかし誰も彼らの代わりに死んではくれなかった。
彷徨う影の如き者共が彼らを助けることはない。必死に歩き回るうちに魄が擦り切れ、出口を探して永久に終わらぬ回廊を彷徨うだけの虚ろな魂は、彼らをこの地に呪縛する未練を解消しはせぬだろう。だから。
「私を身代わりにする心算だったか」
力のある者と己の首を挿げ替えるつもりで――呼んだのだ。
血塗れの斧を突き立てる男の肩越しに、美しい|容《かんばせ》が虚ろに隻眼を見ている。赤黒い己の体液がぬらぬらと光る唇で、最早息をしているとは思えぬ女が細く声を紡いだ。
「地獄に落としてやろうと思うたのに」
柘榴の隻眼が眇められた。
「生憎と、私は|愛する者《・・・・》を裏切りはしない」
白刃がひらめく。空間が晴れる。夜が裂けた途端に差し込む斜陽に目を眇め、蜩の声が耳を打つのを聞き遂げながら、嵯泉の手は静かに刀を収めた。
不貞に手を染めねば娘が店に泥を塗る恐怖に狂うことはなかったろう。男は安寧を手に入れることが出来たはずである。娘が洗いざらい話すなどと馬鹿正直に男を脅すような真似をしなければ命までは奪われなかったろう。元より店のための婚姻であると分かるような態度を取らねば男が妹に走ることもなかったはずだ。
裏切り合った果てに殺めるから――。
無間地獄になぞ落ちるのだ。
◆
下流にて女の骸が上がったと騒ぎがあった。胸に深々と突き立つ錆びた大鉈を抱えた美しい容貌は、十余年も前に行方を晦ませた呉服屋の娘と瓜二つで、噂を聞きつけて飛び出して来た老いた母は引き上げられた死体の前で泣き崩れたという。
それとほぼ同刻に、上流の方では男の水死体が上がった。こちらも不思議なほどに美しく保たれていて、初めに気付いた船頭は生きているものだと思ったらしい。声を掛けながら必死で引き上げてみれば死んでいたので、随分と仰天したそうだ。
どうも駆け落ちしたと思われていた男女なのではないかと噂が立った。仲睦まじい商家の婚約者たちが逐電も心中もする理由がないと近所では不審がられていた者たちである。しかし町方が今しがた死したばかりの如き骸と十余年前に|走った《・・・》行き方知れずの男女とを同一と認めることはなく――。
二人は無縁として、己を殺め己が殺めた相手とは別の墓所に葬られたと、風に聞く。
成功
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