低く降りた雲に覆われた夜空は、星の瞬きすら映らない。
轟々と吹く強風が、真っ黒な海面を大きくうねらせた。
丘のようにせり上がった波が崩壊し、自らを巻き込みながら海面を叩きつける。
露木・鬼燈(竜喰・f01316)は、波の崩れる音をアポイタカラのコクピットで聞いていた。
爆発したかの如く飛び散った飛沫が、機体の装甲を激しく打つ。
飛沫ばかりではない。
雨も同じかそれ以上に激しかった。
暴風に乗って降る豪雨が、闇夜の海上に白いカーテンのうねりを描いた。
アポイタカラの両肩にマウントしたサーチライトが、夜の闇を切り裂いて海上を照らし出す。
大時化だった。
レイテナ領の東アーレス半島から南。
日乃和領の相馬島から北。
丁度中間地点に当たる海域には、台風が襲来していた。
台風としての規模は小さく、風速も特筆するほどではない。
しかし台風は台風だ。
嵐以上の威力を持った自然の猛威に、海は尋常ではなく荒ぶっていた。
『フェザー01より白羽井小隊全機、それとアポイタカラへ。定時報告なさい』
モニターに開いたサブウィンドウに東雲那琴少尉の姿が映し出される。
映像が乱れているのは、大きくうねり沈みを繰り返す波によってレーダー波が遮られているからであった。
『フェザー02、異常ありませーん……』
サブウィンドウ上の雪月栞奈准尉は欠伸を噛み殺していた。
目尻に溜まった涙が零れ落ちそうだ。
栞奈に続いてスワロウ小隊の隊員達が異常無しの報告を上げる。
「アポイタカラ、異常ないっぽい。ついでに“目標”も確認できず」
最後は鬼燈の番だった。
機体のセンサー越しに周囲を見渡す。
時折横切る光は、スワロウ小隊のキャバリアが装備しているサーチライトの光だった。
それ以外には何も見えない。
台風直下の海上の光源といえば、それだけだ。
サーチライトが照らし出すのは真っ黒な海のうねりばかり。
視界状況は最悪だ。
波の合間に目を凝らしていても、探しものを見落としてしまうかも知れない。
ついでに機体制御も至難である。
海上を飛ぶアポイタカラを襲うのは、風速72kmに達する暴風。
小型船舶はまともな航行ができなくなるほどの風速である。
キャバリアにとっても危険なレベルだ。
不規則な風に煽られ、オートバランサーだけでは姿勢を維持できない。
しかも横波が不意打ちをしかけてくる。
もう何度波を被ったかなど数えてもいない。
このような天候下での作戦行動は困難を極める。
だがスワロウ小隊の隊員達が持つ技量は、台風直下の海上での作戦行動を可能としていた。
そして、アポイタカラと鬼燈もまた可能であった。
鬼燈は過去に白羽井小隊と同条件下での戦闘訓練を行っていた。
その経験が、いまこうして活かされている。
だが容易いことではない。
暴風に振り回されるアポイタカラを操る感覚は、まるで暴れ馬の手綱を引いているかのようだった。
これをどうという事ではないなどと言うキャバリアパイロットがいるのだとすれば、それは台風の恐ろしさを知らないパイロットであろう。
そして、そのパイロットを待ち受けているのは、荒れ狂う海に飲み込まれる末路。
故に、鬼燈は常に機体の制御に神経を集中させていた。
撹拌するようにして吹く風に逆らわず、流されながらも四肢の動きで舵を取る。
風と融和したその動きは、ひらひらと舞う木の葉の如し。
『ねぇーナコぉ、もう沈んでんじゃないのー?』
面倒だから帰りたい。
そう書いてある栞奈の顔には余裕があった。
栞奈は自分の機体を自分の手足のように動かす。
悪条件下にあって、その技量はより遺憾なく発揮されていると鬼燈は思えた。
『フェザー01よりフェザー02へ、真面目にお探しなさい』
那琴の声は、栞奈の緩んだ気を引き締めるようにして鋭かった。
鬼燈としては栞奈と同じ予感を抱いていた。
こんな荒れた海模様では、捜索中の“目標”など、とっくに沈んでいてもおかしくない。
目で探し続けてはいるものの、徒労に終わりそうなのが正直なところである。
捜索終了の時間まで残りどれほどだったか……時計に視線を向けたその時だった。
「およ?」
隆起し、崩れ落ちる波。
弾ける波濤の奥に、何かが見えた気がした。
『ん? ずっきー? 見付けたの?』
「人をズッキーニみたいに呼ばないでほしいな」
栞奈のイカルガがするりとアポイタカラに近寄ってきた。
機体同士の距離が近すぎると、風に煽られた際に衝突する危険があるので離れてほしいのだが……鬼燈はサーチライトが照らす波の奥に目を凝らす。
栞奈機のサーチライトも同様の位置を照らした。
二機分のサーチライトが重なり合った時、鬼燈は遂に探している“目標”を発見した。
「あ、いたっぽい!」
『いた! みっけた!』
通信帯域に鬼燈と栞奈の声が同時に走る。
黒く荒ぶる海。
波に振り回されるそれは、小型の漁船だった。
漁船は一切の照明を灯していない。
サーチライトで浮かび上がった影の輪郭が不気味に蠢いている。
鬼燈はすぐに照明弾を射出した。
頭上で開いた小さな太陽の如き光源が、闇に隠れた漁船の全容を白日の下にさらし出した。
『いやいやいや! 定員オーバーすぎるでしょあれ!』
栞奈が目を見開いた。
そうなるのも無理はない。
鬼燈にしても同意見であった。
不気味に蠢く影の輪郭……その正体は、人だ。
小さな漁船に人が群がっている。
まるで落ちた飴玉に群がる蟻のように。
定員の限界を越えて詰め込まれた人々の殆どが、みすぼらしい格好をしている。
一目で難民と分かる姿だった。
「というか、はみ出てるっぽい」
比喩ではない。
船の周囲にはロープに繋がれた浮き輪が複数浮かんでいる。
その浮き輪のいずれにも、何人かが必死にしがみついていた。
状況から察するに、船から振り落とされたらしい。
『ヤバいよナコ! どーすんの!?』
海面が大きくうねる度に、難民を満載した漁船が激しく揺れる。
いつ転覆してもおかしくはない。
難民達は何かを叫んでいるが、風と波の音に遮られてセンサーでも集音できない。
『フェザー01より小隊全機! 目標の周囲に集合なさい! ただし近付き過ぎないように!』
那琴が指示を下すと、各方に散っていた白羽井小隊が漁船を取り囲んで集合する。
だがアポイタカラを含めて迂闊には近付けない。
衝突の危険があるからだ。
もしも漁船に接触すれば、その衝撃で難民が海に放り出されてしまうかも知れないし、転覆してしまうかも知れない。
どうしたものか……鬼燈が考えている内に、自然の猛威が漁船に襲いかかった。
「あーらら、大変なのですよ」
大波が漁船に覆いかぶさる。
転覆こそ免れたものの、少なくない難民が海に流されてしまった。
白羽井小隊のイカルガが救助しようとするも、難民の姿は一瞬で波の中に飲まれていった。
危険なのは難民ばかりではない。
白羽井小隊とて危険なのだ。
大きな波に打たれれば、キャバリアであっても海底にまで引き摺り込まれてしまう。
那琴は難民と隊員の命を天秤にかけさせられた。
部隊に下されている命令は、日乃和へ不法入国しようとする難民の取り締まりである。
そこに難民の救助は含まれていない。
だが難民とはいえ民間人。
目の前で命の危機に瀕している民間人を、那琴が見過ごすはずもない。
そこからの那琴の行動は、鬼燈が予想した通りだった。
『スワロウ01より小隊全機! これより難民の救助を行いますわ!』
『んえ? どーやって?』
『ディナで基地まで牽引するのでしてよ!』
栞奈が問うより早く、那琴のアークレイズ・ディナが、肩部のアンカークローを伸ばす。
船に打ち込むつもりだ。
なるほど、キャバリアで接近するより安全ではある。
などと鬼燈が関心したのも束の間、暴風と荒波に煽られて、漁船が激しく動き回る。
船首を狙ったアンカークローの切っ先が空中を切った。
『波風が強くて、これでは……!』
那琴が苦しげに呻く。
一歩間違えればアンカークローが難民を直撃してしまう。
狙いを付けかねている間にも、漁船は波を被り、その度に何人かの難民が海に拐われてゆく。
焦りが那琴の双眸を歪ませた。
「ちょっと貸すっぽい!」
鬼燈はとても見ていられなくなった。
アークレイズ・ディナと漁船の間に割り込んだアポイタカラが、アンカークローを掴む。
『アポイタカラ!? 何を!?』
「ナコちゃん隊長はそのままね」
波に振り回される漁船と動きを合わせる。
そして呼吸を止め、ポゼッションシステムを介した精密な動きで慎重に接近。アンカークローの先端を艦首に突き立てた。
「繋がったっぽい!」
先端部が食い込んだのを確認し、すぐに漁船から離れる。
接触の危険があるからだ。
『おー、上手じゃん』
「いやあ、ヒヤヒヤしたのですよ」
栞奈の称賛に鬼燈は止めていた息を全て吐き出した。
掌に滲んだ汗は冷たかった。
『アポイタカラ! 感謝致しますわ! スワロウ01より小隊全機! イーストガード基地へ帰還致しますわよ!』
『流された人は?』
栞奈の問いに、那琴は一瞬言い淀んだ後で「……ポイントは報告しておきますわ」と絞り出すような声で答えた。
隊長として、部下の安全を確保し、現実的な決断を下した。
那琴の苦しい胸の内を慮り、鬼燈は「りょーかい」以外の言葉を発しなかった。
決断に沈黙する者はいれども、否定する者はいない。
白羽井小隊の誰もが思い知っているからだ。
救える命と救えない命がある。
自分達にとって、後者の方が圧倒的に多いのだと。
「こうして割り切って、みんな大人になっていくっぽい」
アークレイズ・ディナに牽引される漁船を囲む白羽井小隊のイカルガ達に、鬼燈は呟く。
愛宕連山補給基地前で彼女達と初めて出会ってから、もう数年以上の月日が経過していた。
台風の過ぎ去った翌日。
イーストガード海軍基地の上空は、青く澄み渡っていた。
台風が夏の湿気を連れ去ってしまったらしい。
基地の正面ゲート前では、いつもの光景が繰り返されていた。
押し寄せる難民。
多くが抗議や嘆願の声を上げ、ゲートを抜けて中に入り込もうと隙を伺っている。
基地の衛兵達は一人とて通すまいと常に目を光らせていた。
鬼燈が白羽井小隊と共に基地内を移動している最中、正面ゲートに差し掛かった。
その時に栞奈がふと足を止めた。
「やっぱ前より増えてるねー」
「難民が?」
鬼燈はその光景にゼラフィウムのスラム街を思い返した。
ゼラフィウムでも、ゲート前でこんな人集りが出来ていた。
イーストガード基地周辺に流入した難民の規模も、あちらとさして変わらない気がする。
こちらでは流血沙汰にこそ至っていないが……それも時間の問題か、とっくに起きているという事は容易に想像が付く。
「ずっきーは分かんないか。いつも居るわけじゃないし」
「だからズッキーニみたいに呼ばないでほしいのですよ」
「ゼラフィウムからイーストガードまでの道が安全になったからって、難民がどんどん流れてきてるらしーよ」
「皆様……日乃和に行きたいのですね……あのような無謀を冒しても……」
目を伏せて面持ちを俯ける那琴は、昨日の難民達の事を思い返しているのだろう。
白羽井小隊が取り締まった漁船に乗っていたのは、日乃和に渡る事を望んだ難民達だった。
「遥々ここまで来てかわいそーに。日乃和じゃ難民は受け入れてないっていうのに」
栞奈の哀れみはどこか他人事めいていた。
「なんで受け入れてないっぽい?」
「さあ? 色々問題あるからじゃん? 治安とか病気とか。ほら、あれ見なよ」
鬼燈は栞奈の指差す方向を見る。
ゲートに押しかけていた難民の一人が、激しく咳き込んだ。
かと思えば力が抜けたかのように足もとから崩れ落ちる。
その倒れた難民に他の難民が駆け寄り、肩を担いで人集りの奥へと運んでいった。
「難民の間で流行ってるらしいよ? 変な病気」
「変な病気って?」
「症状は風邪みたいなんだけど、治らないんだって。重くなるとああして倒れちゃうらしいよ。んで原因は不明。でも不思議と他人には感染らない」
栞奈が並び連ねた病状は、奇しくもゼラフィウムのスラム街で蔓延していた病気とそっくりだった。
「ここでもその病気流行ってるっぽい?」
「ここでもってどこでも流行ってるの?」
「ゼラフィウムの難民の間でも流行ってるのですよ」
「へー? 難民だけじゃなくて、軍の人の中にも感染してる人、けっこーいるらしーよ?」
「まさか栞奈ちゃんも……?」
「あたしがかかってるワケないじゃん!」
鬼燈は栞奈に背中を叩かれた。よろめくほどの衝撃だった。
「んで、感染してるのは内陸部で戦ってた人が多いんだって。イーストガード基地の病院で入院してる人もまぁまぁいるんだってさ」
栞奈と話している内に、鬼燈は一抹の嫌な予感を抱いた。
人喰いキャバリアと病気……二つの組み合わせから思い出すのは、暁作戦の折りに知った、あのウィルスの存在――。
「……その妙な病気ってエヴォルグウィルスじゃ?」
「なんだっけそれ?」
「忘れちゃったっぽい? 暁作戦でエヴォルグが撒いてたナノマシン」
栞奈は両眉をハの字に傾けてから「あー! 思い出した!」と顔を明るくした。
「でもそしたらとっくにエヴォルグになってるでしょ?」
「それもそうだけど、遅効性に変異してるかも知れないしね」
「検査でも何も出なかったって聞いたけど? だから原因不明なんだって」
「余計に怪しいっぽい」
確証は無いが、仮に本当に遅効性のエヴォルグウィルスだった場合、如何にして検査の目を掻い潜っているのか?
病状の原因がエヴォルグウィルスだったとして、感染者はどうなる?
東アーレスで発生した難民は、何十万、何百万という数に膨れ上がっている。
その中の何人が感染者なのか定かではない。
だがもし……いま見ているだけの難民の全員が感染者で、ある時期を堺に人喰いキャバリアに変貌したら?
そうなる前にどう対処する?
感染者を全員施設に収容するのか?
それとも人喰いキャバリアとして処分するのか?
一度生まれた嫌な予感は、どんどん勝手に膨らんでゆく。
そして、嫌な予感は大概当たるものだ。
「でも怪しんだって仕方ないでしょ?」
「それはまぁ」
「ずっきーこそ! 変な病気もらってないでしょーね!? どーせあたしの見てないところで他の女とパコってるんでしょ!?」
「大丈夫なのですよ、たぶん」
「病気になったら絶対エッチさせてあげないから!」
「気を付けるっぽい」
幸いにも、栞奈を初めとした白羽井小隊に感染者はいないらしい。
鬼燈は予感ばかりを抱えていても仕方ないと頭を振り払った。
だが、悪夢は人々の中で密やかに息づいていた。
やがて母なる声で目覚めるその時まで。
成功
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