憂うつな雨の日の素敵な過ごし方
●的中率80%の裏切り
駆け込んだバス|停留所《シェルター》。雨を遮ってくれる長方形の屋根の下、いつの間にか凝らしていた息を一気に吐き出す。
安堵した途端に荷物の重さを実感すると、木目調の背もたれのないベンチが目に留まった。一瞬の迷いの後に、サテンリボンのハンドルが肩にくいこんでいたショッパーをそっと下ろす。
施された撥水加工にツルリと輝いていたシトロングリーンが、じっとりと含んだ水に色を濁らせている。これでは帰宅を待たずして、底が抜けるか、ハンドルホールが破れてしまう。
脇に忍ばせた本をチラリと眺め、有料のレジ袋に入れてもらって本当に良かったとベスティア・クローヴェル(f05323)は眉を開く。
それにしても、と恨めく空を見上げながら荷物の隣に腰かける。
重くなったのは荷物だけではない。銀の毛並の尻尾も濡れそぼり、少し絞っただけでぼたぼたと大きな水滴を落とす。
街は篠突く雨にけぶっている。鈍色の雲に覆われた世界は薄暗く、昼日中だというのに信号機が明るい。
「全く……。酷い目にあった……」
道路の向かいのビルの壁に設えられた大型LEDディスプレイに視線を移し、ベスティアはため息を漏らした。
表示された天気予報は、大きな晴れマークに小さな雲が寄り添っているだけ。
「今日の空に、嫌われちゃったのかな?」
雨音に掻き消されそうな囁きはベスティアの背後から。首を巡らせたベスティアは、濡れた髪を指先で梳く月守・ユエ(ff05601)と目が合う。
「ユエ」
朝は気持ちのよい晴天だった。天邪鬼でもない限り、出かけに傘へ手を伸ばしはするまい。天気予報が当たる確率は80%だそうだが、それにしたって外れ過ぎだ。
「思い切り降られちゃったね。ベティちゃん大丈夫?」
苦く笑ったユエの膝頭が、ベスティアの背中に触れる。まるで姿勢を支える背もたれのように。
事実、ユエはベスティアのことを案じているのだろう。わずかな声の掠れにユエの胸中を察したベスティアは、ゆっくりと首を左右に振ると、絞っても絞っても水気の切れない尻尾を両手で抱える。するとまた、満たされたコップを傾けたのと同じ勢いで水が零れ落ちた。
ベスティアの尻尾のボリュームダウンぶりは著しい。そのくせ重さが増し増しなのだから二重苦だ。
「雨が降らないと忘れそうになるけど、今って梅雨の時期だったね」
雨を吸いより艶やかさを増した濡鴉色の髪から指を解き、ユエも荷物をベンチへ置く。そして空にした両手で、ベスティアの髪を丁寧に梳き始める。
「すっかり傘を持ってくるのを忘れてたなぁ……」
さっきまではよく晴れていたのに、とぼんやり呟きながらユエはバスの運行状況を報せる電光掲示板を見た。次のバスは、前々バス停へ向け走行中らしい。雨も簡単には止みそうにない。
「……暫くはここで足止めだね」
●メランコリー
停留所の前を車が速度を落として横切る。水飛沫をかけないようにしてくれたのだろう。
気のつく運転手は化粧気のない女性だった。突然の雨に見舞われた誰かを迎えに行くところなのかもしれない。
思いがけず触れた人の優しさに、ベスティアは肩の力を抜く。湿度の高さに汗ばんだ首筋へ、水気を浚うユエの手が風を呼び込み心地よい。
「雨の日の外出は苦手だ」
ついた人心地に、飾らぬ言葉がとつりと零れる。
「濡れないようにしっかり対策しないと、尻尾が酷いことになるから」
室内から眺めたりする分には好きなんだけど、ね――と付け足したベスティアに、ユエが特徴的な声で小さく笑う。
「わかる。僕も同じ気持ちだよ。雨って苦手で、最近克服しつつあったんだけど……」
少しだけ好きになったつもりでいた雨を、ユエは金の眼でねめつけた。
以前ほど嫌いでないのは本当。けれどこうして降られてしまうと、どうしてだか感じてしまうメランコリー。
「ちょっぴり憂うつかな」
ユエの嘆息を区切りに、二人は口を閉ざす。
沈黙の支配下に、勢いの衰えない雨音だけが響く。街路樹として植えられたイチョウの大樹も、心細そうに葉を震わせている。
「雨が降ると分かっていたら、行先を映画館やカフェにしていたのに」
一向に乾く気配のない尻尾を絞る手を休め、後の祭りを二度目の溜め息に混ぜたベスティアが、再び空を見上げた。
どんよりと立ち込めた雲は随分と手強そうだ。朝焼けに燃える太陽を思わす瞳でベスティアが睨んだところで、びくともしない。
「はは、そうだね~」
思わぬにわか雨に、二人揃って濡れネズミ。完全なるお手上げ状態に、ついにユエもベンチに座り込む。
「尻尾、大丈夫……?」
互い違いの背中越し、ベスティアの尻尾を背中越しに眺めて、ユエは眉間を寄せる。ほんの数分前までのふわふわ立派さを知るだけに、今のしょんぼり具合が気になって仕方ない。
拭ける何かを持って来てはいないだろうか。
そういえば、と思い出して荷物を漁るも、目星をつけたタオルハンカチはバッグのサイドポケットで使い物にならなくなっていた。取り出しやすいようにしていたのが仇になった。
「ごめん、役立たずだよ」
「気にしないで。今すぐ風邪をひいたりするわけじゃないから」
本気で項垂れているユエへ、ベスティアは出来るだけ朗らかに言う。とは言え、このままではバスはおろか電車に乗るのも憚られる。
そもそも近場のショップに駆け込まなかったのも、尻尾が原因だ。
「どうしようか……」
ベスティアの尻尾は銀狼の尾。つまり毛量が多い。しかも日頃の手入れが行き届いているおかげで、吸水速度と含水量も抜群。結果、乾かすには相応の手間と時間がかかってしまう。
「……」
「――」
黙りこくってしまったベスティアの横顔に、ユエも真剣に考えこむ。
親近感を覚える年下の友人は心底、困り果てているらしい。時節柄の生温い雨は、思考を蝕む。このままここでじっとしていても、きっと何も好転はしない。
「うーん」
膝で頬杖をついて、短く唸り。ふいっと見上げた空の端っこに、大型LEDディスプレイの眩しさがちらり。
そこには外れた天気予報ではなく、近隣の商業施設のCMが流れていた。
「……あ」
閃いた妙案に、ユエは勢いよく立ち上がる。
「じゃあ、じゃあ。この後もう一つ寄り道しない?」
「――え?」
ユエの提案にベスティアは虚を突かれた。そのいつもより幼げに見える仕草に、ユエは雨模様とは裏腹な快晴の笑顔で続ける。
「たしかこの近くに銭湯ができた気がするんだよね。お風呂上がりのアイスが種類豊富で楽しいって、さっき立ち寄ったお店でチラシをみたの」
「銭湯? アイス?」
「そう♪ これは、もう一つ遊びに行く予定が作れたと思って――いいきっかけにしちゃわない?」
●雨降って地固まる
雨は憂うつを連れて来る。だとしても、いつまでも沈んでいては過ぎゆく時間がもったいない。
だからユエはポジティブに笑う。
――逃れられない|雨《憂うつ》ならば、君と過ごす口実にしちゃえばいい!
「ね、行こうよ。多分ここから……走ってちょっとの場所だし」
「……、」
善は急げとばかりに携帯端末へ指を走らせるユエへの応えを、ベスティアは探しあぐねて声を喉に閊えさせる。
予定に無かった遊び先も、お風呂上がりのアイスも、とてもとても魅力的。
でも『入浴』イコール『尻尾は今よりもっと大変なことになる』ということ。
雨を啜った尻尾は、十分に洗わねばならない。ドライヤーで乾かすことを考えると、いったいどれだけユエを|待たせて《・・・・》しまうか。
ベスティアは、ユエに迷惑をかけたくない。ゆえに、ユエの誘いに困ってしまう。
そして遠慮の気配を正しく察したユエは、もう一押し、と上手に|せがむ《・・・》。
「雨の日って、降っても止んでも、少しだけそわそわして不安になっちゃうからさ?」
嘘じゃない。
気持ちの揺らぎは本当。
だけどベスティアの|きっかけ《・・・・》になって欲しいという想いの方が、うんと強い。
「もう少しだけ、一緒にいさせてほしかったりするんだけど」
靴音を軽やかに鳴らし、くるりとベスティアの正面へ駆けたユエは、はにかみながら両手を合わせる。
「――いいかな?」
可愛らしい『お願い』に、ベスティアの口元がようやく緩む。
退屈させてしまうのを忍びなく思うのは変わらないけど、不安になってしまうのなら仕方ない。
それに、ユエにこんなに頑張ってお願いされてしまったのだ。一緒に行かないという選択が出来るほど、ベスティアは無情でも薄情でもない。
「――お風呂から上がった後は、本当に時間がかかるよ」
「どれくらい?」
「尻尾をドライヤーだけで乾かそうとすると……多分、二時間くらい」
「手伝っていい?」
「え?」
一抹の不安を打ち消すつもりの念押しに、やけに前のめりな求めを寄越され、ベスティアは面食らう。しかしベスティアの困惑などどこ吹く風で、ユエは物理的にも前のめりになった。
「ベティちゃんの尻尾、元通りのふわふわにするの手伝っていい?」
「ユエが大丈夫というなら……」
「それは、もう!」
間近にあるユエの満月の瞳の中に一等星が輝いている――そんな錯覚に戸惑いかけたベスティアは、続けて声を高くするユエに観念する。
「むしろご褒美タイムだし!」
「なら、お願いしようか」
乾かすのを手伝って、とまでは言っていないのだが、当人はやる気満々の様子。それはそれで申し訳なくもあるけど、ユエが嬉しそうなら悩まずに済む。
「荷物、一度まとめちゃっていい? 僕、マイバッグ持って来てるから」
「うん、お願い。私が持つよ」
ベスティアの気が変わらないうちに、と急かすユエへ、ベスティアは破れる間際のショッパーを手渡す。中身が変に折れて曲がってしまわないよう、ユエは引っ張り出した合成繊維のエコバックに二人分の|今日の戦利品《購入品》を手早く詰め直した。
「うんと温まって、ふわふわな毛並を整えたら、アイスを食べて……その頃にはこの雨も止んでるだろうから、お出かけの続きも満喫しちゃおう!」
こっちだよ、と先に立つユエの手から、ベスティアは宣言通りに荷物を奪う。後で手を借りるのだ、これくらいで|50/50《イーブン》。
「ベティちゃんは優しいね」
「ユエこそ」
二人揃って土砂降りの中へ飛び出す。幾らか絞ったベスティアの尻尾は、またしてもボリュームダウンまっしぐら。けれど今度は、これっぽっちも気にならない。
雨に逆らって笑うユエの顔が隣にあるだけで、ずぶ濡れになることも、ベスティアの中では黒雲から浮雲へと昇華される。
空っぽになった停留所に、乗客がすし詰めになったバスが滑り込んで来たのは、定刻を僅かに過ぎてのこと――。
●憂うつな雨の日の素敵な過ごし方
一足ごとに飛沫が跳ねる。頭の上でも、肩の上でも、鼻の頭でも跳ねる。
水の礫がぶつかる痛みは、地味に響く。しかし目に留まったデジタルサイネージに、ユエはご機嫌に声を張った。
「あの角を曲がってすぐみたい!」
この後も目白押しな“お楽しみ”の予定に、じくじくと疼く|憂うつ《メランコリー》も気配を潜めている。
(大丈夫、二人でいるなら――)
普段は億劫な事も、心を和らげてくれる魔法のスパイス。悪くない、こういうのなら全然|悪くない《楽しい》。
「雨の日は嫌いだったけど、君と一緒ならこんな時々の災難も悪くないか」
「え?」
右耳に聞こえた呟きに、ユエは目を見張る。かち合うヘリオライトの瞳は、うっすらと笑っていた。
「雨の中の外出は一人だと憂鬱だけど、誰かと一緒というだけでここまで変わるだなんて不思議」
まるで鏡写し。ユエが覚えたばかりの歓心を、ベスティアが雨にうたう。
「こういう気分になれるなら、雨の日の外出も悪いものじゃないかも、ね」
「――、でしょう!」
返す同意にタイムラグが生じたのは、込み上げた高揚が喉に閊えたせい。だけれども、子供みたいな無邪気な笑顔がユエの全てを物語るから、ベスティアはつい素っ気なく付け足してしまう。
「……ずぶ濡れになるのは後始末が面倒だから、やっぱり嫌だけど」
「手伝うのは、いつだって僕は歓迎だよ♪」
溽暑のさきがけ、遣らずの雨めくざあざあ降り。体感温度は摂氏28℃。
生温くはあれども、二人で過ごせば心地は程好く。
のんびりバスタイムで上がった体温をアイスで冷やし終える頃には、きっと爽やかに風が薫る。
成功
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