依頼そのものは恙なく終わった。
幸いにしてさしたる損耗もなく帰途に就いていたカイム・クローバー(UDCの便利屋・f08018)は、次々と送還されていく猟兵たちと、絶え間ない転移を行うグリモア猟兵の姿を見るともなしに見遣っていた。
特別急ぐ用向きもない。ならば他者を押し退けてまでも前に出る意味もないだろう。常夜の世界に特段思うところもないのだから焦ることもない。手持ち無沙汰に荒涼と広がる大地に目を遣っていた彼は、ふと背筋を遡る悪寒に似た悍ましい気配を覚えて顔を上げた。
方角と距離はすぐに把握すれど、具体的にどこから漂って来るのかは判然としない。しかし胸元に確かに蟠る嫌な予感は、知らず知らずカイムの指先を導いた。取り出した懐の白明珠を一目見るや、彼は眉間に皺を寄せた。
――まるで何かに浸食されるように、そのしらじらとした輝きは半ばまで黒く塗り潰されている。
尋常ならざる事態が起きていることはすぐに悟った。白い煌めきが失われているわけではない。寧ろ抗うようにますます強く光を放つが、それを食い潰す漆黒の呪禍に敵わないのだ。
それを懐に再びしまいこんで、カイムはグリモア猟兵に歩み寄った。顔を上げた姿に一つ言付けて、返事も聞かぬまま踵を返した。
「少し散歩に行ってくる。悪ぃが、此処で待っていてくれ」
幸いとでも言うべきか――或いは下らぬ言葉遊びに乗って|運命《・・》とでも呼んでやるべきか。迷いなく歩を進める先にあるはずの姿を探していたカイムは、ふと見覚えのある二つの影を見とめて足を止めた。
最初のうちは誰だか分からなかった。深すぎる傷と、何よりも穢れがその身を覆っていたからだ。満身創痍のまま歩み寄る二人の少年――檪・朱希(旋律の歌い手・f23468)の守護者、雪と燿は、心持ち足早に歩み寄るカイムを見とめ、小さく息を吐いた。
『カイム……不幸中の、幸い、か』
戦いに身を置く歴戦の猟兵でさえも眉を顰めたくなるような状態だ。体の殆どを動かせず、歩くのもやっとの雪は勿論、支える燿の方も深刻な状況にあることは見て取れる。しかしカイムが訝しげな表情をしたのは、何も二人がそれほどの重傷を負っているが故ではない。
彼らがこれほどの状態に陥っているというのに、朱希の姿がどこにも見当たらないのだ。
「……お前らだけか? 朱希はどうした?」
『朱希は――』
苦しげに咳を零す雪と、顔を歪めて歯を食い縛る燿に曰く。
彼らはカイム同様、此度のダークセイヴァーの戦争にて決死の戦いを繰り広げていたという。戦闘自体は辛勝に終わったが、代償として二頭の蝶は呪詛による抗いがたい浸食を受けた。元凶が滅ぼされてなお消えぬそれに蝕まれ、人の姿から戻ることさえ出来なくなった彼らを庇い、満身創痍の朱希は辛うじて退避を終えたそうだ。しかし。
三人の快復を待たずして、新たな敵が姿を現した。
悍ましい気配を持つ女だった。歌うように彼らの主に手を伸ばす、貼り付けたような笑みの修道女を前にして、本来の力を呪炎に焼かれる二人が出来ることは殆どなかった。
そして――。
傷口をこじ開けるような力によって動きを阻まれる二人に、朱希は全てを託した。
絶体絶命といって良いだろう状況を打破するため、彼女は狙われる己が一人敵前に立つことを決めた。単独では勿論、今の三人では到底抗えぬ運命を変えるための決死の一手を、二人が連れて来てくれることに賭けたのだ。
雪の爛れた腕が握り締めていたタロットカードが差し出される。僅かに眉間に皺を刻み、状況を聞き遂げていたカイムの目から見ても、それは彼女が大切に抱いていたものと相違ない。
疑うつもりはない。彼らが猟兵に準ずる力を持っていることも、三人の間にある確かな絆も知っている。だが聞けば聞くほどに、彼女が今置かれている場所が窮地と呼ぶも生温いようなものであることが伝わって来るばかりだ。一つ鼻を鳴らして目を眇める。
「ハッ、笑えねぇ冗談だ」
『ッ、冗談なわけあるかよ!』
燿が思わず一歩を前に出た。吠えかかるようにカイムへと歩み寄る足取りは重い。その震動が伝わってか、雪が苦痛に一度目を眇める。
『こんな状態じゃなかったら、今すぐにだって朱希の元に行くに決まってんだろ!! っく、ちくしょう!!』
『燿、落ち着け』
宥めるように苦しげな声を零す雪の双眸も、言葉とは裏腹にひどくやるせない色を帯びていた。守るべき主を置き去りに、自らが戦場へ背を向ける――まして主従というよりも大切な友人に近しい関係を築いて来た彼らにとっては耐え難いものだったろう。
それでもなお、そうすることを選んだ。カイムの前に立つ二頭の蝶もまた、彼が思うより深く追い詰められているらしい。
『……事態は、急を要する。……どうか、助力を願いたい』
項垂れるように頭を下げた雪の声は力なかった。まるで打開策など一つも残されていないようなそぶりである。悔しさと焦燥に打ちひしがれる二人を前にして、カイムは顎に手を遣った。
「……ま、のんびりしてる余裕がないってのは分かるが」
目の前で現況を見たわけでないカイムからしても、悠長なことを言っていられる場合でないことは理解出来る。二人がこれほどまでに弱々しい姿を見せるのだから、相当の状態を見て来たはずだ。
しかし。
――斯様に絶望的な顔をして俯くにはまだ早い。眉唾の天命を信奉する者であれば|運命《・・》と呼ぶのであろう細い糸は、確かに一縷の光明に繋がっていた。彼らはそれを見事手繰り、カイムの許に辿り着いたのだ。
男は笑った。常と同じ、憂いの一つも知らぬような色で、紫紺の双眸が細められる。
「絶望的な状況だが、まだまだツキは落ちちゃいないみたいだぜ? 今のお前らは悪くないカードを引いてる」
彼らの前にいるのは他でもないBrack Jack――あらゆる窮地と絶望を引っ繰り返すワイルドカードが、その|依頼《・・》に頷いたのだ。
さりとて時間がないのは事実だ。カイムの懐の白明珠は今も侵食する呪いじみた黒に抗っているのだろう。それに、一刻を争うのは朱希の状態だけではない。眼前の二頭の蝶が弱り果てていることも明白だった。
敵前で他ならぬ朱希を置いて踵を返さざるを得ぬほどの呪詛に冒されていては、今後どれほどの影響があるかも分かるまい。加えて彼女の置かれた状況を克明に知る雪と燿がいなくては次手を打つことも不可能だ。彼らが肉体の傷を癒すことも出来ない状況は早く脱するに越したことはないだろう。
常と変わらぬ態度のカイムに、僅かに緊張の糸を緩めたらしい二人の、薄くなった眉間の皺を見遣る。皮肉めいた笑みと語調はそのままに、何でも屋は単刀直入に問うた。
「で? まさか当てもなく歩いてるってことはないんだろ」
問い掛けられた二人が顔を見合わせる。
燿の方は幾分当惑したような顔をしていたが、対となる雪は神妙にカイムに視線を遣った。無言の裡に視線を絡めて促してやれば、浅い溜息と共に黒髪の蝶が口を開く。
『……一人、治療出来る心当たりが、ある。だが、僕らだけでは行くことが出来ない』
『俺らは、猟兵じゃないからな。世界を渡れねぇ……』
成程――僅かに紫紺の眸が眇められる。
確かに世界が違うというのであればどうにもなるまい。彼らはあくまで猟兵としての力を持つ朱希の|装備《・・》に近しいものだ。グリモア猟兵を見付けたところで主がいなければ界渡りの力を借りることすら出来ない。戦地の常夜の世界に斯様な深い呪詛を祓える力を持つ者があるとは思えぬし、いたとして今もまさに戦場に赴いているところだろう。
となれば二人の表情が浮かないことも頷ける。しかし何たる幸いか、今しがた仕事を終えたばかりの何でも屋はグリモア猟兵を待たせている。彼らにとってカイムは|悪くない札《・・・・・》どころか救世主であるというわけだ。
笑みは崩さぬままに、男は問うた。
「――なら諦めるか?」
『ンなわけ、ねけだろ!』
語気荒く食ってかかる燿を一瞥して、雪は再びカイムに視線を遣った。苦痛に疲弊した力のない双眸には、ようやく見出した希望に対する信頼が揺らぐ。
『カイム、月水・輝命、という人物は知らないか?』
「輝命を?」
『知っているなら、話は早い』
朱希と蝶――雪と輝命の間に面識があることは知っている。たまさか彼女の店へ訪れたときに、会話の成り行きで聞いた接点だ。しかしここで彼女の名が出るとは思わなかった。
雪は一度、彼女に助けを求めたことがあるという。具体的な状況までを聞き起こすような時間はなかったが、とかくそのときも朱希の宿した異能に纏わることで――奇しくも同じように彼女を救い出すための協力要請であったらしい。快く応じた輝命の助力もあって、その時分の朱希は無事に戦線から戻って来ることが出来たという顛末であるようだ。
だから――雪の声が揺らぐ。
『彼女のところに……連れて行って、くれないか』
『俺も、会ったことはねぇが、雪から聞いた。今の俺らを、何とか出来るのは……多分、そいつだけだ』
「――彼女が治療を、ね」
確かに可能であろう。カイムも一度、その浄化を受けたことがある。店を訪れた折に彼女の形をした鏡に養分にされかけて、脱出したのち呪詛を祓われたときのことだ。その折に交わした言葉と輝命の口ぶりからして、朱希を気に掛けていることは疑いようもあるまい。一刻を争う現況で、頼る相手としては申し分ないだろう。
店の場所は分かっている。初対面から異界に引き摺り込まれた店のことを忘れはしない。重傷を負って朦朧としている雪に道案内を頼むよりも迅速に、カイムの足が辿り着けるはずだ。
了解の意を込めた手が一度ひらりと振られた。日頃と一つも変わらぬ声で、男は彼らの言葉へ同意を示した。
「OK。なら早速行くとしよう」
『ちょ、おま、行くって……グリモア猟兵はどこだよ?』
「お前らは悪くないカードを引いてるって言っただろ」
そう時間は空いていない。散歩の帰りに蝶を二頭拾ってくるくらいは許容範囲だろう。
踵を返したカイムの後を追い、雪と燿は慌てて体を引き摺り歩き出した。彼の散歩の終わりを待っていたグリモア猟兵は、後方を追い掛けている重傷を負った二人を見るなり驚いたような顔をして――。
カイムの頼みを神妙な表情で聞き遂げたのち、彼らの望む世界へ向け、グリモアを起動した。
◆
サクラミラージュの一角に構えた店は今日も開店休業である。店主も店員もない店の中、実質の店主といえよう月水・輝命(うつしうつすもの・f26153)は、茶を片手に外を舞い散る幻朧桜の色を眺めていた。
骨董品の手入れはあらかた終わった。カウンターを占領する仔虎も起きる気配はないから、来客があるわけでもない。平穏な帝都を映す鏡のヤドリガミの双眸はふと店内の片隅に薄く積もった埃を捉えた。
今の今まで気付かなかったのだ。誰の目に見ても気になるというほどではなかろうが、一度気付いてしまうとそちらにばかり目が行くものだ。そろそろ掃除をしておくべきだろうと判じて半ば腰を浮かせた彼女の前で、耳をぴくりと動かした仔虎が体を起こした。
「あら? 彗、どなたかいらしましたか?」
「がぁう」
一言声を上げた白い毛並みがカウンターを飛び出した。動物らしい軽やかな動きで出入り口まで駆けていった獣の後を追い、輝命が慌てて走り出す。大人しく気性も穏やかだが、仔虎は未だ幼いのだ。万一にも彼女なしで外に出て行ってしまっては何があるか分からない。
その体を抱きかかえようとしていた彼女の目に、歩み寄る足が映った。顔を上げれば浅黒い肌が目に入る。紫紺の双眸の男は、瞠目する女と視線を絡めていつものように笑った。
「よう、輝命」
「まあ――お久しぶりですわ、カイムさん。どうぞ、お入りくださいな。今お茶を用意しますわね」
何かあったのだろうか、と思う。しかし内容がどうあれ知己の来訪は嬉しいものだ。にこやかに笑んで上機嫌に歓迎の意を示した彼女を、他ならぬカイムが掌で制止する。
再び首を傾いで動きを止めた輝命を前に、カイムが半身を躱すように動いた。後方へと親指を向ける彼の横合いから現れたのは――。
「今は話してる時間がない。こいつらを頼めるんだって?」
「──!」
現れた雪と燿に息を呑んだ。
どれほどの呪詛を受ければ斯様に侵食されるのか。肉体にさえ見るも悍ましいほどの傷を受けた彼らは、魂に纏わりつく炎の如き呪いを見通す輝命には、見目よりもずっと重傷を負っているように見える。ここまでの道のりで消耗しきった彼らを前に、先までの穏やかな昼下がりの気配は急速に遠のいた。
唇を引き結んで身を翻す。背筋を伸ばした彼女が足早に店の奥を示した。その足許で、仔虎は心配そうな表情で来客と主を見比べている。
「直ぐに浄化をしますわ! こちらへ!」
店の奥にはバックヤードとでも言うべき場所がある。嘗ては店主が使っていたのだろう一室にはそれなりのスペースがあった。横になるように示せば、蝶たちはようやく身を落ち着かせることが出来た安堵故か、浅く息を吐いて素直に指示に従った。
浄化の力は輝命の本体に宿っているものだ。背面に罅の浮いた五鈴鏡を掲げ、鈴の音をひときわ高く鳴らす。
暖かく柔らかな祝福と浄化の音は、しかし半成りといえど神の力を宿した呪詛に抗するには時間を要した。どれほど続いたか分からぬ静かなる抗争が終わったとき、蝶たちは自らの腕で体を起こすことが出来るほどに快復していた。
「で、動けるようにはなったのか? 帰りのタクシーは用意してやってないぜ」
『要らねぇっつーの』
その様子を黙して見詰めていたカイムが開口一番に問うた揶揄い混じりの言葉に、燿が反応する。先に彼らを見付けたときとは比べ物にならないほど張りのある声だ。どうやら完全に浄化が済んだのは事実であるらしい。
一度溜息を零した輝命は、疲労感を打ち払うように目を伏せてから顔を上げた。これでようやく違和感を問い掛けることが出来る。
彼らの状況は一刻を争った。質問も、細かい状況も、気にしている余裕がなかったのだ。しかしこうして一度落ち着いてから対面してみれば、次々と疑問が浮かんで来る。
カイムと彼ら――殊に雪――との間に接点があることは分かっているが、何故彼が二人をここに連れて来たのか。このように悍ましく根深い呪詛を受けるに至った経緯は如何なるものであったのか。
――ここにいて然るべき朱希の姿が、気配共々全く感ぜられないのは、何故なのか。
努めて冷静を装って一つ一つを問うた輝命に、二頭の蝶は静かに現状を語った。あらまししか知らなかったカイムもまた、初めてつまびらかに状況を知るに至る。
対峙した相手が半成りの神であったこと。その後に彼らを襲撃した修道女と朱希には面識があるようだったこと。女はまるで邪悪なる神の一柱でもあるかのような悍ましい気配を纏っていたこと。彼らが辛うじて動けるようになっていたのは、朱希による浄化の手助けがあったからであったこと――。
神妙な顔つきて話を聞き遂げた輝命は、眉尻を下げて二人に問うた。
「朱希ちゃんは、無事ですの……?」
『ああ。命は、今はまだ――と言うべきだろうが』
状況を鑑みても無事であるとは言い難い。雪の重苦しい声を横目に、燿の双眸もまた苦渋に揺らいだ。
少なくともあれほどの力を持つ相手に満身創痍の朱希単独では長くは持たない。蝶たちよりは善戦したとして、その命に手を掛けることはおろか一時的に退けることさえ絶望的だろう。傷を負わずにいられるとは到底思えない。
朱希と二頭の蝶の繋がりは断たれてはいない。彼女の状況が如何なるものかを知ることこそ叶わぬが、今ならばまだ間に合うだろう――というのが、雪と燿の見立てだ。
というのも。
『相手は……恐らく、朱希の力を狙っている。だが、肝心の力は今、朱希の中には無いんだ』
ニガヨモギの魔女との茶会のさなか、ことは起きた。
具現を試みたことで暴走を引き起こした朱希――或いはその中に宿る世に絶望しきった黒き蝶は、魔女との一戦を経て|白き蝶《アゲハ》共々朱希の中から去った。彼女と蝶を繋いでいた媒介が図らずも破壊され、融合する形で一つとなったそれらは骸の海へと沈んだのだ。蝶との繋がりによって失っていた視力を取り戻す代償の如くして、雪と燿以外の蝶に纏わる異能を殆どそっくり取り落とした彼女は、今やかの修道女の願いを叶えるに能う存在ではなくなっている。
|だからこそ《・・・・・》間に合うかもしれないと、蝶は複雑そうな表情をした。
『相手は、朱希の中にもう力がないことを知らないようだった。感知も出来ないのかもしれない』
『だから中にそいつがねぇのが分かってなくて、朱希が隠してるって考えてるのかもしれねぇ、ってのを、さっき話してた』
しかし二人の想像が事実だったとすれば、彼女が置かれた苦境をそのまま想像させもする。存在しない力を引き摺り出すために行われるのだろう仕打ちが如何なるものかを考えたか、眉根を寄せた二頭の蝶は覚悟を決めたように二人を見返した。
『カイム、輝命、ありがとう。僕らはすぐにここを発つ。朱希の救出に間に合わせる。……ここからは、僕らだけでも構わない』
「いいえ!」
鋭く空気が揺れた。前のめりに手をついた輝命が、大きく首を横に振ったのだ。
胸元を強く握り締めた彼女の、まさしく鏡の如き大きな眸は、悲しみと心配の色を強く湛えていた。しかしそれ以上に燃え盛る決然たる覚悟は、対面にいる雪と燿のみならず、後方より彼女を見ていたカイムの目にさえ|明瞭《はっきり》として映る。
ダークセイヴァーの灰の中で朱希を助け出してからずっと、輝命は彼女のことを心に留めて生きて来た。元より誰に対しても分け隔てなく伸ばす手は、殊彼女のためには躊躇わない。何も知らず、何も持つ権利を得られないまま生きていた彼女に与えられた穏やかな時間を、みすみす失うわけにはいかないのだ。
「相手が神様でしょうが、関係ありませんわ。わたくしは朱希ちゃんを助けに行きますの。誰がなんと言おうと、放って置けませんのよ!」
痛みを堪えるように、或いは自らの決意を赫赫と燃やすように――懸命に声を上げる彼女の中では、彼女が|お狐様《・・・》と呼ぶ九尾も大きく頷いている。その成り行きを見守っていたカイムもまた、懐の白明珠に目を遣って、口を開いた。
「俺も乗った。ここまで巻き込まれて、はいそうですかで解散ってわけにはいかねえな」
――以前から朱希の状況を多少なりと気に掛けていたのは確かだ。
彼女の中にある力は危うい。二頭の蝶に言われるまでもなく理解していたことだ。如何なる糸が絡まっているのかは知らぬが、少なからずその異能が彼女の人生を破滅に導いていることは理解している。
その最たる破局が目の前に示された。カイムは眼前で今にも喰い潰されようとしている知己を前に踵を返すような無情な男ではない。唇の端に常と似た笑みを刷いて、男は二つ目の依頼を承諾した。
ようやく燿の表情に笑みが灯った。軽い瞠目と共に瞬いていた雪も、一つ目を伏せてから、静かに微笑を刻む。
『……二人とも、ありがとう』
緊迫した空気は和らげど、逼迫した状況に変わりはない。まず勢いよく立ち上がったのは輝命だ。しかと笑みの形に唇を持ち上げた彼女は、心強い味方の存在を疑わず、|緩慢《ゆっくり》と立ち上がる二頭の蝶の方を見る。
「そうと決まれば、すぐにも参りましょう! お二人は大丈夫ですの?」
『ああ、お陰でかなり楽になった。これだけ快復すれば、戦いに支障は出ない』
魂に刻みついた苦痛が雪と燿に齎したものは、傷と呪禍を祓うのみで即座に抜けるものではない。長らく苦しみ、満足に動かぬ体を無理に動かし続けた疲労や消耗は未だ倦怠感となって二人を包んでいる。
しかしそれもじきに抜けていくだろう。元凶となった呪いは祓われたのだ。大きく伸びをして準備を整える燿を一瞥し、カイムが端的に問い掛ける。
「場所は?」
『俺たちが案内する。まずはダークセイヴァーに行かねぇと』
「とんぼ返りだな」
手早く閉店の準備を整えた輝命は、残る三人がバックヤードを出る頃には出立するばかりとなっていた。先とはうって変わって前に出た燿の溜息も、望外の味方を得た今となってはどこか軽やかな苦笑の響きさえ帯びる。
『はー。これもしかしなくても貸し一つだよなぁ……ま、お陰で助かったけど』
「計算間違ってるぜ。貸し二つだ」
『揚げ足取りやがって……』
輝命の店まで二人を案内したことと、これから朱希を共に救うこと――皮肉めいた笑みで見返すいけ好かない男の言動に目を眇めながらも、燿はふと唇を緩めた。
あれほど絶望的に思えたのが嘘のようだ。それは雪もまた同じだろう。二人と共に浄化を受けたタロットカードを握り締める指先は、先までそうしていたような祈りじみた色を孕んではいない。
一縷の望みを託された二人は満身創痍だった。界を渡ることさえ儘ならない身でどこへ行けば良いのかも分からず、あてどなく燎原を彷徨っていた足取りは、今や確信の籠ったものへと変わっている。
それも全てカイムと出会ったことで希望へと|好転《・・》――或いは|急転《・・》したのだ。彼があの場にいたことも、また輝命のことを知っていたのも、全ては必然のような糸で手繰られた。
だからこそ、今は必ず朱希を救い出せると心に確たる信がある。
『……サンキューな』
真摯な礼の言葉にカイムが笑う。自信に満ちたそれに偽りはない。
道を急ぐ四人の影が長く伸びている。暮れて行く斜陽が、全てを覆う藍色の夜を呼ぼうとしていた。
成功
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