雨が降っている。不可思議に連なる少女たちが咽び泣くように。
そう、あの日もこんな雨だった。淫靡な香りに満たされた館の中で、闇の種族たる娘は回顧する。彼女の傍らでは、まだ何者でもない無数のアリスたちが互いに寄り添い、絡みあっている。
可愛そうに。どの分身体も、いずれは皆悲恋の色に染まるのに。ただ、その色が何色かが違っているだけ。ああ、けれど『あの日』に見た赤より尊いものには未だ辿り着けずにいる。
どれほど掻き回しても戻らぬ過去を想い、少女の唇がうっそりと弧を描く。次の“収穫”はいつにしようかしら――。
●“| 《アリス・セカンドカラー》”の話
……わたしは誰だっただろうか。なまえがおもいだせない。
脳が掻き回されるような感覚。胎内に異質なものを埋めこまれ、すべてのあるべき感情が快楽一色に塗りかえられる。
そうだった、わたしは――。
“ ”は倖せだった、と言ってよいだろう。
この常闇の世界において、理不尽な支配や蹂躙に苦しむことも飢え乾くこともなく、満たされた一握りの上位存在として異母兄弟姉妹――アリスシスターズたちと淫蕩の日々を送っていたのだから。
『あの子』……アリス・ロックハーツは元々その中のひとりだった。“ ”は皆を愛していたが、彼女だけは特別な存在だった。
はじめはただ話が合う、好きなものが似ている、だからよく一緒に『遊んで』いた。それだけのことだった。快楽を求め、記号的に繰り返される淫行のるつぼの中で、あの子と交わすキスの味だけが特別に甘く思えた。あの子の指で脈打つ胸に触れられると、自分が自分でなくなるようだった。
予め植えつけられたものではない、自発的に芽生えた友情が行為の意味を変質させる。
“ ”が柔らかな頬を羞恥に染め「やめて」と懇願した時、あの子はひどく狼狽えていた。
その顔を見て、あの子も同じ気持ちだったのだと悟った。
これが人間たちの抱く不毛な感情、恋というものだとふたりは知ってしまった。
“ ”はあの子以外と交わるのをやめた。肉体よりも精神の快楽を求めるのがひとの愛だというのならば、きっとこれがそうだと思った。
唯一の契りを守ることで得られる安らぎは狂おしく幸福で、ふたりは恋という甘やかな快楽に溺れた。他のアリスシスターズたちはふたりを異質な目で見ることもなく、ただ行為以上のもので結ばれていたいという願望を叶えるため、ロックハーツ家の使用人として世話をやいた。
ただ一人、姉に狂信的な盲愛を傾けるセレナ・ロックハーツだけは心中穏やかでなかったかもしれない。
だが、出されたケーキを互いに食べさせあって微笑むだけのふたりを眺めていたら、セレナもまた「ねぇさま尊いです……」という別種の快楽で満たされた。
晴れることなき曇天から大粒の雨が降る。
それは悲しみの色をした洪水。逃れられぬ運命の濁流。
窓の外を見たアリスは不意にすべてが押し流されるような不安にかられ、愛しい恋人の姿を探した。
「セレナ、“ ”を見なかった?」
「“ ”ねぇさまはさっき走って外に出ていったです。ならセレナと遊……」
「おかしいわね。こんな大雨の日に急に出かけるなんて」
胸騒ぎを覚えたアリスはロックハーツ家の屋敷を飛び出し、“ ”の姿を探す。なぜだろう。『彼女を追ってはいけない』、本能がそう囁いている。まさか。まさか。そんなのは嘘であってほしい。けれどアリスは駆けた。このまま離れ離れになって二度と逢えないのならば、いっそ――。
ぬかるんだ地面に刻まれた足跡を追う。土を踏みしめるたび泥が跳ね、ピンクのエプロンドレスを汚す。
そしてアリスは深い森の奥、断崖絶壁の底を覗きこむ“ ”のもとに辿り着いた。彼女の真っ赤な瞳は絶望に染まっていた。例えここから飛び降りても、きっともう自由には死ねない。
「どうして追ってきたのよ」
雨に打たれる“ ”が泣いていると思ったのは、心で愛しあってしまったから。
「……私達は恋人でしょ? 永遠に“なかよし”よ。どんな運命も邪魔できないわ」
確認するように口に出した。だが、その声が震えているのはアリス自身も理解していた。彼女は恋人の手を取ろうとしたが、払いのけられた。
「やめて」
そこに在ったのは、もはやいつかの蕩けるような情欲ではなかった。
明確な拒絶。敵意。恐怖。嫌悪――まではできなかったから、そう、“ ”はきっと怯えきっていた。絶望してひそやかに姿を消し、いっそこのまま命を断とうかとすら考えた。
『私は恋人を手にかけねばならない』。
雨と共にわけもわからず降ってきた非情な宿命は、“ ”の個人的な感情と完全に矛盾していた。
アリスは呆然とした。
ああ。
彼女は猟兵の力に目覚めてしまった。闇の種族たる私達を滅ぼし、滅ぼされる宿敵に。
館に残してきたアリスシスターズ達を想う。幸いにも“ ”はまだ無自覚なようだ。飛び出す絵本を開き、“なかよし”に戻るための触手で“ ”を絡めとる。彼女は精一杯抵抗しているようだったが、目覚めたばかりの力はあまりに未熟だ。
あとはいつも通り。彼女の脳味噌を『えっち』一色で染め上げ、精力も何もかも吸い尽くして、この身に取りこんでしまえばいい。
けれど――その先に恋はない。愛はない。
彼女たちは恋を知ってしまった。ゆえに、あの甘やかな日々がもう二度と戻らないと理解する。
責められ、朦朧とする意識の中で“ ”は恋人の逡巡を感じ取る。これは正しいことなのだと言い聞かせながら、触手を振りほどいて……愛しいひとの、アリスの心に触れようとする。
まだ何者も殺めていないその手は物理法則の壁を超えられず、ただの無情な手刀となってアリスの――『あの子』の胸を貫いてしまった。
「あ、」
あの子の心臓から夥しい量の血液が吹き出し、その躰が足元のぬかるみに倒れ伏す。必死に抱き起こし胸に手を当てたが、彼女の鼓動はもう止まっていた。助けられるすべが見つからず、泣き叫ぶ“ ”の頬に手をあて、あの子はただ優しく微笑んだ。
「愛しているわ、“ ”」
血に濡れた唇を重ねあわせる。これが『ロックハーツ』としての極上の最期……なんて思ったら大間違い。私は、私たちを引き裂く黒い『運命』を許さない。“ ”を死なせてしまうぐらいなら、彼女の手を操り、果ててひとつになりたいのだ。そう思わせるほどの熱情を、あの色狂いはきっと知らない。
やがてゆらりと立ち上がったひとりの少女を、木陰から熱視線で見つめる娘がまたひとり。
親愛する姉を密かに追ってきていたセレナだった。恍惚と興奮に身をくねらせながら、罪深き性癖に目覚めた少女は歓喜の叫びをあげる。分身体である彼女の受けた衝撃は、セレナ本体にも伝わったろう。
「死闘の末の合体。自己犠牲。侵食、共生……美しいです。二人のねぇさまが|ひとつになった《融合した》だけでも素敵なのに、そこにセレナが加われば……!」
新しいねぇさま。新しいアリス。新しい色。
私は『あの子』と共に在るけれど、あの子じゃない。
名づけるならば――“|セカンドカラー《模倣品》”がいいかしら。
さあ。
『あの子』が寂しくないように、たくさんたくさん|“おともだち”《オブリビオン》を私の精神中に招きましょう。
成功
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