――Que tu sois heureux.
●
――ザー……ザー……。
冷たい雨が降り注ぐ音が、鼓膜を叩く。
今は、冬。
そんな中で時には雹と言う形になって降り注ぐ雨は、痛く、自らの心に深く刻み込まれている瑕疵に響き、目の前を真っ暗に、全身を冷たく凍えさせてしまう。
「……今夜は激しい雨だ。ちゃんと屋根のある所で寝ろよ、ギュスターヴ」
そう俺の|家《隠れ家》に泊っていかないか? と誘ってくれた先輩の好意を、頭を横に振って断り、この廃ビルを選んだ。
空調は勿論、電気も通っていない冷たい場所ではあったけれども、辛うじて残っていたソファーに横になれたのは、不幸中の幸いだった。
そんな冷たい場所で眠り、凍える夜を過ごしていた筈なのに――。
●
「……?」
まるで羽毛の様な温もりを感じながら、ギュスターヴ・ベントラン(我が信仰、依然揺るぎなく・f44004)は目を覚ました。
先日、路地裏で好意を示してくれた先輩には、何処で寝るかは特に伝えていない。
こんな人気のない、廃ビルの中に辛うじてあったソファーの上で寝ているストリートキッズなんぞに、毛布を掛けてくれる様な聖人が偶然、やってくるとも思えない。
(「じゃあ……こいつは……」)
確認する様に金の双眸を開いたギュスターヴの瞳に入って来たのは……。
「……|chat《ねこ》……?」
そう思わず呟いたギュスターヴの周りには沢山の猫達が。
ここは、先輩が教えてくれた様な、猫の集会所か何かだったのだろうか。
寄り添う様にギュスターヴに群がり、その体を温めてくれている猫達が、自分を包み込む様にして一緒に眠るその姿に、自らの心の中で教会の|蝋燭《キャンドル》に火が灯される様な、そんな仄かな温もりを感じたので。
「……Merci」
そう目前の猫達に感謝を伝えると、猫達が応える様に大きな欠伸をしたり、気にしていない、と言う様に伸びをする。
目を覚ましてのんびりとギュスターヴの傍で毛繕いを始めたり、呑気に此方に鼻を近づけてくる猫達もいて、それが何とも言えない程に微笑ましい。
と同時に、猫達に釣られる様に、ウトウトとまどろみがやって来て、またそのまま瞼を閉ざし意識が闇の中に沈んでいきそうな、そんな気がした。
(「そこから、オレは二度と戻ってくることができなくなってしまうかもしれない」)
そんな、細やかな不安が胸の中にひたひたと忍び寄ってきたのに無意識に気が付き。
ギュスターヴは、微睡から現実へと自らの意識を手繰り寄せる様に己が胸にあったロザリオをそっと握りしめ。
小さく、|Prière《祈り》を捧げる様にした所に、廃ビルの屋根の隙間から、雨が上がったのであろう、微かな陽光が差し込んできた。
●
「ニャー」
まるで、何かに縋る様に祈りを捧げるギュスターヴに、集まっていた猫達の1匹が呑気な鳴き声を上げる。
その鳴き声はまるで、子供がお母さんに何かをお願いする様な、甘える様な響きが籠っていて、それは未だ13歳位と言う、一定の自我を確立しつつ、様々な思春期特有の悩みを抱える少年の口元に、微笑を思わず浮かべさせてくれた。
そんな自分に甘える様な猫の喉をそっと撫でているギュスターヴの脳裏を、あるESPの事が過っている。
(「こいつらみたいに、もしオレが、猫になることが出来れば……」)
きっと、|路地裏《ストリート》で生きていくのも難しくないのかな、と微かに思う。
猫は本来、警戒心の強い生き物だ。
独りを好み、自分の居場所を探し、そうしてひっそりと隠れる様にして生きていく。
けれども、この猫達は、多分、そう言う猫達ではない。
いや、「猫は猫」である事は確かなのだろうけれども、恐らくは……。
(「チイキネコとか言われている猫なんだろうな」)
人に愛でられ、餌等を貰い、人々に癒しを与える事で『生きている』……そんな猫達。
そんな風に、愛でられ、食事を貰い、自由気儘に『生きる』猫になれればどんなに「しあわせ」であろうか。
(「……いや、まあ……」)
猫変身と言うESPが、|自分達《・・・》――武蔵坂学園と呼ばれる来月に正式入学する予定の学園では、確か|灼滅者《スレイヤー》と呼ばれているが――であるならば、誰でも使える事は知っている。
そうして一生この目の前の猫達の一員として変身し続け、今までの何もかもを捨てて生きていけるのであれば、それは『しあわせ』なことなのかも知れない。
|あの日《・・・》、自分に良くしてくれていた神父様を殺した、ダークネスと化した父をこの手で灼滅した事実からも。
その事を何も伝えずに秘密にしていた所、その秘密に気が付いてしまったママンに心無い言葉を叩きつけ。
そのママンの悲しみに気が付かぬふりをして喧嘩別れする様に日本にやってきたせいか、まるで何もかもが押し潰されてしまいそうになる様な、この胸苦しさすらも。
捨てて生きていけるかも知れないと……そう思えてしまうから。
――でも、それは。
(「……オレが、このまま誰にも気づかれず、何も果たせずに死ぬ事になるのかな……」)
――神は等しく全ての者達を見守っておられる。
ママンと共に父からフランス中を駆け回って逃げながらもきちんと毎週日曜日に開かれるミサには行っていた。
そのミサの開かれた教会で出会った神父様達の1人が説いていらっしゃったその言葉が、ふと、ギュスターヴの脳裏を過っていく。
あの神父様が仰った言葉の意味は、正直、未だよく分かっていない。
だって……もし、神が等しく全ての者達を見守り、全ての者達への深き愛情を注いでいるのであれば。
父がママンを愛しすぎて|自分《ギュスターヴ》への暴力を振るう事を止めない筈が無かっただろうし。
そんな父を見たママンが、子供である|自分《ギュスターヴ》を連れて、フランス中を逃げ回る必要すら無かった筈だ。
何よりも、父から自分と一緒に逃げ出そうとしたママンが――。
――主よ、どうして愛する人と同じ世界を見る事ができないのでしょうか……!
なんて言葉を口にする事も無かっただろう。
こんな不信心な事を思ってしまえば、ママンや神父様達を悲しませることになるのは分かっているけれども。
そう思わずにはいられない、と何時の間にか思考の無限ループにギュスターヴが陥りそうになっていた、その時だった。
――ペロリ。
ざらり、とした舌の感触がギュスターヴの頬を撫でていき、ひゃっ!? と思わず変な声をギュスターヴが上げたのは。
自分の頬を舐めた猫が、そんなギュスターヴの事を心配するかの様な表情を浮かべてじっと見ている。
そんな風に自分を気にかけてくれている猫達の内の1匹が、まるで何かを自分に語り掛けてきている様な気がして、思わずはっとした。
この何もせずに穏やかな日々を、時間を過ごしていく事が出来れば、それで良い。
――本当に?
何も為せず、誰にも気づかれず、『生きる』事の「しあわせ」を、この猫達の様に過ごし続けるだけの日々を、オレは本当に望んでいるのか?
少なくとも、この猫達が、守られ、愛でられるべき、か弱い存在である事は間違いない。
そう……父に無視され、邪魔な物の様に扱われるのが当たり前だった自分とは異なり。
――けれども。
この守られ、愛でられるべきか弱い猫達が、こんな自分を慕って集まって来てくれて、況してや、心配さえしてくれる。
その事実が、ギュスターヴの胸中に暖かな光を差し込ませるだけでなく、自分の中でゆっくりと何かが急速に膨らんでいく様な感じを覚えさせた。
(「オレは、こういう風にオレを好きでいてくれて、オレに『しあわせ』を与えてくれる子達に……」)
――嫌な目にあって欲しくない。あの時の神父様みたいなことになって欲しくない。
それを何という言葉で表せば良いのかはよく分からないけれども。
でも、『誰にも迷惑を掛けたくないから』と、先輩からの好意を断って独りで、こんな寒い場所にいるオレにさえ、こんな風に寄り添ってくれる子達が沢山いる。
そんな温もりを与えてくれるこの子達の様な者達を、放っておきたくない。
その為に、自分が出来ることがあるのではないか。
誰にでも出来るかもしれないけれど、それならば自分がしても良い事があるのではないか。
(「きっと……そうなんだ」)
上空から差し込む日光に照らし出される様にして、のんびりと「しあわせ」な欠伸をする猫達を見ながら、ギュスターヴはひっそりと頷いたのだった。
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――これは、後に。
『|Que les vies qui ont été prises reposent en paix et que les prières qui ont été piétinées soient sauvées.《奪われた命に冥福を、踏み躙られた祈りに救いを》』
成長したギュスターヴが、自らの揺るぎなき信念として。
確立させて大人になった今でも尚、抱き続ける信念の礎となる、2013年1月に武蔵坂学園に正式入学し、|寮《寝処》を得る1ヶ月程前にあった、自らの想いの萌芽の時の、物語。
成功
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