No047984-2:春駆ける木漏れ日を仰ぐならば
なんてことのない今日へ、一つの波紋が起きてゆく。
「ん? あれ、……百鬼さん?!」
三嘴 弦がとある事件に巻き込まれて以降、実は近しい境遇とあまり変わらない年齢から智夢と弦は不思議な交友関係を結んでいた。最初は“猟兵”という超常の力を持っているうえ恩人の一人である智夢に対し、“|唯の人《一般人》”の弦は他所他所しかったものの、言葉を交わすうち徐々に対等な友人となった縁は、未だ続いていた。
あれから——2年。
メールでも電話でもなく智夢の|可愛らしい文字《手書きの文字》で綴られた言葉を、弦の目が追う。
「……どうしたんだろう。何か、あったのかな」
丁寧な文面を要約すると“2年前の『あの日』”から智夢自身ずっと考えていた事があること。そしてもう一度、お話する機会が欲しい”という旨の最後に智夢の名と添えられたスマートフォンの電話番号が綴られていた。
「待ち合わせの日……こういうのって、きっと早い方が良いよね。何か凄く悩んでるんだろうなぁ……俺に相談するくらいだし」
連絡から一週間——カフェ最寄りの駅前で待ち合わせた二人は、以前訪れた森をイメージしたブックカフェのドアベルを鳴らしていた。
「実はこの店、まだやってて。俺、結局此処の常連なんです」
「そう、なんですね……! ふふ……懐かしい」
“そういえばまた苺と、今はチョコレートの時期ですね”“たしかに……!”なんて思い出話と可愛らしいメニュー板の広告に笑いあって。
柔らかなレースとフリル、リボンのあしらわれた春らしい桜色のワンピースにレースのショールを纏う智夢は当時よりまた背を伸ばした弦と最寄りの駅で合流して以降、話の切り出し方を窺い続けていた。ちらりと弦を盗み見ながらリアムをレースショールでおめかしして着いた席は、レースのカーテン越しに春陽の差すロールカーテンが扉代わりの個室席。
小窓へ差す春の兆しめいた陽光を浴び、一層煌めくミルクティーベージュの髪へ無意識に指先を絡めながら、智夢は弦を盗み見てしまう。
「(どう……しま、しょう。いつ……お話、を)」
「百鬼さん、チョコレートは普通の派ですか? それともホワイト派?」
「あ、えっと……どっ、どちら、でも……!」
弦は全て分かっているような、ただ穏やかな微笑みで智夢の躊躇へあまりにも優しく日常的な言葉だけを向けるから、思わず智夢は反射的に応えてしまう。
先輩なのに、例え一つだけでも年上なのに“どちらでもいい”なんて! また困らせるような答えを……! と思わず智夢がリアムを抱きしめ顔を隠せば、目の前からは小さな笑い声。
「すみません、想像よりすごく可愛らしかったので……うん、百鬼さんがあの時から変わってなくて、俺、安心しました」
「……へ?」
弦の言葉に目を見開いた智夢が瞬きを繰り返せば、眦を拭いながら笑みを溢した弦が“だって”ともごもごしながらこう続けた。
「2年も経っていますし……百鬼さんはすごく可愛いし、美人だし——そりゃ当然って言うか、あ~……あ~……まぁ、その、俺の知ってる貴女と変わっていなくて安心してしまって! すみません!」
「……——ふふっ」
さっきまで嫌にスマートに見えた弦だって、智夢と同じく結局は緊張していたのだ。
相手を慮るあまり気を使い、どこか余所余所しいけどそろりと伺いあっていた——再開してから、そんな数十分だったと分かればもう十分。赤なった顔を覆いながら“笑わないでくださいよぉ”と机に突っ伏す弦に、今度は智夢が“すみません”と言葉を返し、眦から薄っすら零れかけた涙を拭う。
「私も、……——弦さんが変わって、なくて……安心、しました」
笑いあって、せっかくだからと二人がオーダーしたのはアイスティーと弦はフルーツサンド。智夢は温かな紅茶と苺とチョコレートのフルーツグラタンをチョイスした。
しばらく待てば双方テーブルへと届き、半分程度まで食べ勧めたところで自然と互いの近況も話し終え妙な沈黙が続いて逡巡ののち徐に智夢は口を開く。——ここに来るまでも、寧ろ手紙を出す前からずっと悩んでいたこと。自身が克服することだって、長く掛かってしまった本題を。
「あの……」
「はい!」
ハッとした弦が居住まいを正せば、どうしても智夢は表情を和らげそうになってしまう。目の前の優しい人は、きっと智夢の言葉を全て聞いてくれると分かるから。
「今からする話は——、あ、えっと、怖い話とかでは、なくて……! その、弦さんにとっても……辛いかもしれない、ので……」
ボソっと“こわいはなしですか”と一瞬弦の顔が引き攣るも、智夢が首を触れば“じゃあ平気です!”と寄っていた弦の眉間が緩んでゆく。
「いえ、えっと……もし弦さんが、聞いていてお辛い時は……私を、止めてください」
「わかりました。けど、大丈夫…百鬼さんが大人になったのと同じです——俺だって、少し大人になったんですよ」
無意識だろうが人を安心させる笑みを浮かべた弦へ、徐に智夢は口を開く。ゆっくりと言葉を選びながら、一つ一つ丁寧に。
父という肉親の死、智夢の苦しい体験の話——……その全てに驚くことは無く、父の死に“お辛かったですね”と静かな吐息交じりの声を漏らした弦に、智夢は何故か心が慰撫されたような気持ちになる。
似たような言葉は、今までだって掛けられたことがあるのに。そうして、幼い頃から智夢にあった異能の話へ至ったのちに顕現された善霊や骨犬を見た弦が、小さく笑みを溢す。
「……なんか俺、お前と会ったことある気がするよ」
“クゥ”と囁き鳴いたクロをそっと撫でる弦の姿に、智夢は内心もっと早く“|ひみつのともだち《クロや善の霊》”を紹介しても良かったのかと思ってしまえば、緩く目を細めた弦が微笑んだ。
「あのUDC……ですっけ。あんなのがいるんです、俺、どういうことなのか分かんないけど……|他の人《記憶処理された一般人》とは、違う?みたいで。だから、なんかそういうものがいるって言われても、そーなんだなぁって感じで」
“人間と変わらないなって”と言葉にされただけで、智夢はぐっと涙を呑む。
異能者ではない弦へのこの告白は、一世一代の覚悟をしてきた。だが、想像より軽く受け入れられたことへの肩透かしより、喜びが勝ってしまう。
「……(どうして、)」
弦はいじめっ子も、虐められた自分も、救った猟兵も、守り切れなかった教員も、傍観した 同級生も——どこか達観した目線で言葉を紡ぐ。皆まで知らずとも、“『それはそれ』なんです”と。
「弦さんは……すごい、です。けど、幼い、私は……ううん、私“も”。それが当たり前だと、思ってて。けど、周りは……」
“同じ”でないというだけで爪弾かれる絶望感。
“集団”から取り残される終わりの無い孤独感。
“集団”から零れてゆくという疎外感と虚無感。
十人十色なんて嘘っぱち。
嘘つき上手な“皆”は、|覚えたての棘《無視や悪口などの悪意》で好奇心いっぱいに智夢を刺しては貫き、せせら笑っては“|大人《鏡》”の真似をして指を指す。|悪しき村社会の縮図《学校》は|智夢の身に起きた不幸《父親の死》さえ甘美なる蜜と啜っては吐き捨てて。
「……中学生まで、我慢をしてみました」
ロールカーテン一枚隔てた|店内のざわつき《人々の話声》が、智夢には酷く遠くに聞こえた。言葉にすればするほど、無意識に脳裏を過る記憶へ“昔のこと”と心で幾度も復唱して、遠退かせようとも追ってきて——……。
「——百鬼さん、こっちを見て」
「えっ……?」
「こっち。そう、こっちです」
「 ぁ、」
ふと気付けば、智夢は“|どこでもない場所《虚空》”を見ていた。
低くも耳障りの良い弦の聲によって現実へ引き戻されてハッとした智夢は、瞬間奔った痛みに驚き視線を下げる。すれば左手の甲に、痛々しい赤。どうやら無意識に、右手の爪を喰い込ませたらしい。
だがその爪先はいつの間にか弦の大きな手に握られていて、動揺する智夢を導くように“こっち”と呼ぶ弦の聲に視線を上げれば小さな黒猫の編みぐるみが揺れていた。
「百鬼さん、深呼吸。それと……百鬼さんの“お母さん”にするみたいに、俺にまで誤魔化さないでいいですよ」
先程智夢の話中に登場した母は、智夢が身も心も砕いて守ったひと。
智夢がその身に受けた全てを|誤魔化《偽って》して、|笑って《耐えて》、|見せられなかった《隠し続けてしまった》ひと。身構えないでと告げる弦の言葉に、一呼吸おいてから——話す時間は進んで中学生となり、“忍ちゃん”という名が挙がる。
「……少し、この黒猫に、似てるんです」
「そうなんですか?」
智夢と弦はふふと目線を交わして笑いあい、黒猫ちゃんこと“剣道部の忍ちゃん”——それは智夢の、たった一人の友達。
「えぇ、他のクラス、でした……けれど、」
——真面目だけれどちょっとお茶目で、曲がったことの嫌いなしっかり者の世話焼きさん。
強くて明るくて人気者な彼女は、放課後には隠せぬ涙を一人溢していた智夢と偶然出会い、その背をそっと撫で言葉無き慰めにハンカチを貸してくれるくらい優しい人だった。
「それで……お洗濯して、返そうと思ったんです。けど……その日は、リアムが隠されて」
「えっ、」
その日、智夢は大切に抱えていたクマのぬいぐるみ リアムを奪われた。
家族を亡くし、|心の安寧の為に《精神安定剤》という理由で智夢は学校にリアムの持参と所持の許可を得ていたものの、智夢の所持品だからという理由でリアムが虐めっ子によって奪われリアムもまた酷い目に合わせられることが間々あった。その日も運悪くリアムが狙われ——茜差す中見つけたリアムは、不使用教室のゴミ箱の中へ入れられたのだ。
「……ボロボロのリアムが、ゴミ箱の底に……押し込められてて、」
更に姑息な虐めっ子はリアムの喪失に動揺し泣きじゃくる智夢の隙を突き、智夢が返そうとしていた忍のハンカチを奪い、隠したのだ。
「きっと……壊さなかったのは、気付かれないためだったんだろうと……思い、ます。……けど、それでも——」
大切な物も、友人へ返すはずの物も奪われ、隠され、逃げ果せた犯人共は嬉々としていただろう。そう思い描いた瞬間、智夢は自身の裡に初めて微かな|埋火《怒り》の存在を知ったという。
「私は、今度は忍ちゃんにまで、迷惑をかけるの……?って。どうして、誰も……助けてくれないの? どうして皆、私をいじめるの……?って」
一度疼いてしまった埋火のような怒りは、至極当然の|疑問《油》を注がれ大きく燃え盛る。浮かぶ顔を一人一人絡めて燃やして灰にして——。
そうしてまだ足りない、と次々次々燃やしてゆく。
「——|此処《胸》に、……私は、殺意、を……そう、したら……みんな、み、みんな、」
“じゅんばんに、しんでしまいました”
まるで御伽噺のカーテンコール。
勧善懲悪と言えば聞こえの良い、しかして内情は悍ましき呪殺譚も、智夢の人生の一部なのだ。
自身の口から弦へ己の罪を告白したものの、潤む瞳を隠しきれず蚊の鳴くような声で明確に“殺意”と“罪状”を口にした智夢は震えていた。
“とうとう言ってしまった”と。“善良であること”に信頼を置かれていたはずの自身が犯した罪の告白に、自身で慄けば、瞳を伏せ聞いていた弦の瞼がゆっくりと上がる。
「……でも、きっと、いつまでも背負ってはいけないもの——ですよね、それ。だって、」
“もしかしたら、自殺したくなるくらい苦しかった百鬼さんが死んでいたかもしれないじゃないですか”と。
真っ直ぐ見つめる弦の言葉に小さく頷いた智夢は、同胞たる友人にも似たようなことを言われた言葉を思い出した。“お父さんのために、自分がまず幸せになった方が良い。『その罪』は背負い続けることが正解ではないんじゃない?”と。
「百鬼さんが、抵抗しちゃいけない理由なんてない。それに、もっと——、もっと幸せになっていいと思います。あの時間はもう終わった。忘れたって、誰も怒りません」
言葉は違う。けれど考えていた言葉と同じ内容に、思わず智夢は驚き伏せていた視線を上げていた。
「っ、でも」
「幸せから、逃げないでください。俺も、もっと頑張りますから」
揺らぐ。本当に良いのだろうかと。
揺らぐ。受け入れて前を向きたいと。
揺らぐ。焼き付いたあの日の記憶の痛みが疼くから。
けれど、同じ痛みを知る弦の言葉が智夢に前を向かせるから。
「……私、父のためにも、自分のためにも……時間はかかるかもしれないけど、変わるって……頑張るって、誓うから——私の決意の、証人に……なって、くれませんか……突然、ごめんなさ——」
「俺にできることなら、喜んで。でも“ごめんなさい”は——……門出には、いらないんじゃないでしょうか」
「あ、」
弦がくれたのは、賛同でもなく否定でもなく、分かりやすい慰めでもなく、ただ寄り添うこと。恐ろしい記憶という向かい風へ共に立ち向かうよう智夢と並び歩くような言葉ばかり。唯一の否定は、つい智夢が口にした謝罪にだけだった。
そういう優しさを受けたのは決して初めてではないはずなのに、どうしてか涙が出てしまう。
ほろほろと花弁のように智夢の頬を滑る涙をハンカチで受け止めた弦が笑うと同時、カロンと汗をかいた氷が紅茶の中で踊る。
「智夢さんの大事なことなのに、そんな大役……本当に俺でいいんですか?」
「、~~~はいっ、私、が……謝ってばかりの自分とサヨナラして、幸せに、なれたら——その時は、」
“もう一度だけ会って、父の代わりに『頑張ったね』と言ってくれませんか”と言葉をつづけた智夢は、微笑んで了承する弦にやっぱり泣いてしまう。溢れる涙が止められなくて、年上なのに猟兵なのにと言葉と涙を溢す智夢にやっぱり弦の眉は下がってしまうけど、“泣くのに年齢は関係ないし、此処なら誰も見てませんよ”と穏やかに言う弦が、智夢の願いを断らないから。
例え嘯かれても、忘れられても良いと智夢は思った。けれど弦はこの約束を決して忘れないし、智夢としたこの約束を必ず履行するだろう。
約束された、一つの未来の形は未だ涙のいろだけど。
窓辺を早咲きの桜花弁が、ひらりと舞っては風にあおられ空へ行く。気付けば湯気の立たなくなったカップから馨る紅茶は、澄んだ水色に泣き笑う智夢と柔らかく笑む弦を映していた。
——今度会った時には、とりとめもない話をしよう。
甘いお菓子と馨良い紅茶を用意して、笑顔ばかり咲かせて時間も忘れてしまうような一時を君と。
成功
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