●12
香神乃・饗のあるじは、イベント事はとにかく楽しむひとだ。
節分には個包の豆を投げ、正月の初詣もし、年越し天ぷら蕎麦は美味かったし、くりすますのケーキも肉も堪能した。
遡ってみても、良い日だった。
ばれんたいんもきっと良い日になる。そのスパイスを用意する――いつかのクリスマスのように。
(夕飯は誉人の好物をたんまり用意するっす。あとチョコ菓子もっす。誉人のための依頼っす……よし、やるっす!)
饗の理想を実現するためには予行練習が必要だ。
菓子作りでは細かい計量や、焼く温度や時間まで決められている。指南書通りに下準備を終わらせ、次の工程へ――確認していると、ぺたぺたと足音が近づいてきた。
勿論、あるじだ。
「なにしてン?」
「ちょこのお菓子を作ってるっす」
「……ふーん?」
じわりと背に柔らかな温もりが広がる――背後にいるあるじにぎゅっと抱き締められたのだ。
たまごの白身と黄身に分けている最中だが、そんなことで手元は狂わない。
「難しいっす、薬を作ってるみたいっす」
「へえ?」
「いちいち計るんっす。丁寧に計るのが成功の秘訣らしいっす」
コツコツと殻に罅を入れ、カパリと割って、白身だけがどろりと流れ落ちる――成功だ。
腹に回っていた腕に僅かに力が入った。
「材料をいろいろ混ぜるんっすけど、それの順番も加える量も決まってるっす」
料理にも手順はあるけれど、この指南書より大雑把に作っても失敗はしない。
「混ぜすぎてもいけないらしいっす」
「しっかり混ぜりゃいいってもんじゃねえンか」
「繊細っす……だから練習してるっす。本番で失敗しちゃいけないっすから」
「誰に作ってン?」
「よろずやのお仕事っす」
「……――そっか」
声のトーンが落ちる。そして甘えるように――はたまた咎めるように、抱き締める腕の力が強くなった。背に額をこすり付けているだろう刺激を受けたが、ボウルをひっくり返すようなへまはしない。
(しめしめっす!)
目論見通り。
今、饗の作っているものがあるじのためではなく、他人のものと思ったことだろう。フキゲンがだだもれになっているから間違いない。
種明かしできっとあるじは喜ぶだろう。ほわほわに惚けて饗を抱き締めてくれるはずだ。
楽しみだ。
感情を露わにしたあるじは殊更可愛いから、今は我慢のとき。味見くらい――の気持ちも堪えて、あるじを背にくっつけたまま作業を進めた。
◇
噴き上がりかけた怒りを咄嗟に飲み込んだ。同時にひどく落胆した。
気に食わない。釈然としない。それでも彼の生業だ。あるじであろうとも口を挟んでいい領分ではない。今までから鳴北・誉人は線を引いてきた。
だからこそ気にいらない。どんなことを引き受けるのかは饗次第だというのに――
依頼する方も変だし、受ける方もどうかと思う。
饗の背中に耳を押し付けて、彼の音を聞く。呼吸、筋肉の軋み、骨の擦れ、鼓動、籠る声――全部が愛おしい。このすべてを独り占めできればどれほど幸せか。
(わァったよ……俺にだって考えがあるからな)
誉人は、そっと逆襲を誓った。
●13
あるじはいつものように家事に取り掛かる。
朝から雪がちらついていたから、乾燥まで洗濯機にお任せ。その後は掃除機があるじを手伝っていた。あるじは手際よく掃除を終わらせていく。
トイレ、玄関、風呂、朝食後のキッチンもすっかり綺麗になって、あるじはふうと一息――軽快に寝室のある二階へ上がっていった。
饗もさっそく台所のぬしになる。
本日は成型したチョコに可愛い顔と小さな羽を書く練習だ。試作したスポンジは申し分なかったが、ホイップクリームは固すぎて改良が必要だ。理想はもっと軽い舌触り――わあ、終わるっすかね……。
そこへあるじが下りてくる――すっかり出かける準備が整った装いだ。
「おでかけっすか?」
「志崎ンとこの晩飯に呼ばれたンよ」
コートを羽織り、マフラーを巻いたあるじの後を追って居間を出る。
「志崎さんっすか? ケンカにならないっすか?」
「ならねえよ。百合サンに呼ばれてンだから」
「百合さん? っすか?」
アキラチャンのママだよ、ままさんとは仲良しなんっすか、俺を世話してくれた人だからなァ、誉人の育ての親っすか! ちょっと違うけどそんな感じ、もう出るんっすか? 道場にも居てえンよ――玄関へ向かう間も話が途切れない。
「俺も用事終わらせて行くから、饗も後からおいで」
その一言で饗の心は舞い上がる。
「俺も行って良いんっすか!」
頷いてくれたあるじも、やわく微笑んだ。
「仕事終わらせて行くっす!」
「ああ、先に行って待ってっからァ」
見上げてくるあるじは、少し伸びて饗の頬に軽いキスをした。
「ンじゃ、いってきます」
「いってらっしゃいっす」
視線がふわりと重なり、笑みを交わして、あるじの背を見送った。
俄然やる気になる。
しかし、あるじを目の敵にしている娘の家に御呼ばれとは――なかなかどうして、あるじは彼女の家族には好かれているようだ。不安もあるが、あの家の食卓ならご馳走が並ぶことだろう。しかもあるじと一緒。誘われて悪い気はしない。むしろ優越ささえ感じる。
「よし、とっとと済ますっす!」
饗の為に温められている炬燵でぬくぬくしている暇はなくなった。
台所へ足早に戻って、ホワイトチョコを溶かしながら――明日の夕飯の献立も一緒に考えて、買い出しのスケジュールを立てた。
●14
バレンタイン当日。だというのに、饗は最後の仕上げと言ってキッチンに籠っている。彼は昼食後からずっと忙しそうだ。饗の真剣な眼差しも優しい手も、あのチョコにかかりきり――面白くない。
こんな日に、わざわざ|あるじ《コイビト》のものではなく、どこの馬の骨ともわからない輩の口に入るチョコ菓子を作っているなんて。
大切だ、特別だ、恋人だ……饗にはいろいろと言ってもらったけれど――よもやまさかだ。
誉人の不満は募るばかり。それが爆発する前に、本日の腹いせ計画を実行に移す。
「饗、ちょっと出かけてくるわ」
「え、どこっすか。俺も行きたいっす」
「なに言ってン。それ終わるまで動けねえだろ――散歩がてら買い物だよ」
「うう……何時ごろ戻るっすか?」
「陽が落ちるまでには」
「――わかったっす」
誉人は、いつものようにいってきますと言い残し、リビングを出る。
廊下はきんと冷えていた。この分だと外も相当寒いだろう。
マフラーに埋もれて、ブーツの靴紐をしっかり結び、誉人はドアノブに手をかける――が、廊下をパタパタと走ってくる足音に呼び止められた。
「どした?」
いつもよりずっと高い位置にある目はそわりと揺れて、ゆっくり瞬きをした。少しだけ言い淀んだ後――
「今日の夕飯は、一緒に食べたいっす」
「ん、すぐ帰る」
「…――! いってらっしゃいっす!」
今日もまた彼の笑顔に見送られる。
つられて頬が緩むも、閉まったドアに向かって――重い吐息。肺の奥の奥まで空気を入れ替えるような溜息だ。溜まった息を吐いたところで、気持ちはなかなか軽くならない。
女々しい。仕事だと割り切ってやれない自分に嫌気がさす。屈折した想いが寸分違わず彼に伝わってくれたなら――なんて絵空事を願ってやまない。
だから今日こそ分からせてやる。覚悟しておけばいい。
昨日、志崎の家に行く前に寄り道をした。
まさかバレンタインデーをスカされるとは思いもしなかった。かといって饗のように手作りは出来ない。だから腹いせにデパートの催事場で、たくさんのチョコの取り置きを依頼したのだ。
まばらに売れ残った中から、やけ食いもできて、ふたりでゆっくりと楽しめる大入りのものを数種類ピックアップした。カウンターで手続きし、誉人の手には大きな紙袋。
次は御手洗団子。こちらも昨日なじみの店で予約済み。
そして最後にもう一件。急な話にも関わらず快諾してくれた店へ約束の品を引き取りに行く。
大荷物になることが判っていたからバイクを出さなかったから――饗と約束した時間までに帰れるように、誉人は急ぎ足になった。
◇
まさか今日も出かけるとは思わなかった。フキゲンそうではあったが。今日に限って帰ってこなくなるなんてことは避けたくて、あるじと「夕飯を一緒に食べる約束」をした。
だから、きっと帰ってくる。
変わり映えはしなくとも、今夜はあるじの好きな唐揚げと、ポテトサラダ、ほうれん草のお浸しに、豆腐の味噌汁を準備した。本日のメインのバレンタインのチョコも仕上げた。
チョコロールケーキを枝に見立て、シマエナガを止まらせた。欲張りすぎて、シマエナガがぎゅうぎゅうになったが――力作だ。
コチ、コチ。針が時間を刻み続ける。
あるじが帰ってこない。
窓の外はもう暗い。
(まだっすか……)
心配と不安で冷えた指先でスマホを操作――通話ボタンをタップ、あるじを呼ぶ音が鳴り出す。一回、二回。焦れる。出て。出て、出てほしいっす。コール音の僅かな切れ目がとてつもなく長く感じた。否、コール音がしない。
繋がった!
『どォしたン、饗?』
「どうしたって……心配してるんっす。誉人、迎えに行くっすか?」
『今、家の前だよォ。すげえタイミング』
「えっ、あ! 開けるっす!」
ピンポォーン。
「わっ、誉人、早いっす!」
『あーけーてー』
おどけたあるじの声の後、急かすようにもう一度、ピンポーン。
饗は慌ててポーチの灯りをつけて、雪駄をつっかけ玄関を開けた。
瞬間、顔にひやりとやわく香り立つ何かが押し付けられた。
「へぷっ」
「ただいま、饗」
濃密に鼻腔を満たしたのは、瑞々しく甘い花の香り。そして、大きな紙袋を下げたあるじがいた。
「おかえりなさいっす!」
「遅くなって悪い」
「無事だったからいいっす……けど、花?」
三和土に上がって、頷くあるじの後ろでドアがガチャンと閉まった。
「饗へ、プレゼント」
ぐいっと押し付けられたのは、両手で抱えねばならない大きな花束。
真っ赤な薔薇だけで作られたブーケの豪華な派手さに言葉が吹き飛ぶ。
漂う濃い香りは優雅で、饗に不釣り合いな気がして――いやにくすぐったかった。
「ハッピーバレンタイン」
「ありがとっす、誉人……ばれんたいんだから、薔薇っすか?」
饗に花束を持たせ、紙袋も置いたあるじは、どっかりと座り込んだ。靴紐を解いている彼の手元を一緒に見る。
「そう、薔薇」
「なんで薔薇っすか? ちょこじゃないっすか?」
脱いだブーツを下駄箱の前へと乱暴に放り投げると、さっさと立ち上がる――雪駄のままの饗の前に立ちはだかるといった方がしっくりくる。
式台に仁王立ちになったあるじに見下ろされた。饗よりも一回り体格の小さなあるじは、じっと饗を見つめたまま動かない。
「誉人?」
「その薔薇、何本あるか分かる?」
「……すぐにはわかんないっす」
「あとで数えてみて」
「本気で言ってるっすか!」
両手で抱えるほどに大きな花束だ。花の数に意味があるのだろうか。
そういえばあるじから花をもらったのは初めてだと思い出した。
「本気だよ、饗」
あるじの冷たい指先が頬に触れた。反対の頬にも掌が添えられ、優しく挟まれた。
(ああ……――)
思い切り甘く破顔して、泣きそうなくらい愛していると叫ぶ眸の熱に当てられて、饗は瞬きを忘れる。紺の光の中に饗が映った。しっかり見ておかないと勿体なくて、あるじの双眸を見返す。
「誉人、俺もチョコのプレゼントあるっす」
「仕事ついでに俺のも作ったン?」
「最初から誉人のしか作ってないっす」
「へ?」
あるじの喜ぶ顔が見たかったから。うんと喜ぶように、あるじの好きを作り上げた――数日前の饗からの|依頼《シゴト》だと種明かし。説明を聞くうちに、目が丸くなっていくあるじが、どうしようもなく可愛くて。
「さぷらーいずっす。びっくりしたっすか?」
「心臓にわりいわ」
いつかのクリスマスに、泣き笑いしたあるじを忘れられない。今年も、ほら――困惑しつつも心から安心して、赤くなった頬を隠すように背を向けたあるじが、愛おしい。
「エナガちゃんのチョコを作ったんっす、見てほしいっす」
「ぜってえかァいいだろ」
「自信作っす!」
「食えっかなァ」
「食べてくれなきゃ勿体ないっす!」
「あはっ、それもそうだ」
声を弾ませたあるじを追いかける。抱いた花束はひんやりしているが、情熱的な赤は、あるじの想いと共に燃えるようだった。
たくさんの薔薇をバケツの中に安置させていると、台所から「唐揚げだ!」と嬉しそうな声が聞こえてきた。
「さ、誉人、一緒に食べるっす!」
これはっ、団子っす! みらたしだんごっす!
チョコばっかじゃ飽きちゃうだろ? それもプレゼント。
俺にっすか!
そォだよ。あとは、俺のやけ食い用チョコ。
……怒ってるっすか?
怒ってた。
聞かれたらちゃんと答えるつもりだったっす。
仕事って言われたら、それ以上なに訊くン。俺のじゃなくて、仕事なんだからァ。
見てほしっす、じゃーん! エナガちゃんっす!
おおお! すげえ! かァいい!
止まり木はちょこのまきまきで、エナガちゃんは白いちょこっす! お顔、かわいく描けたっす!
かァいい、かァいい! 饗、すげえ!
こんなに頑張れるの、贈る相手が他の誰でもない、誉人だからっすよ?
明日、花瓶を買いに行くっす。で、玄関に飾るっす。
ちゃんと数えてからな?
本当に数えるっすか。わかったっす、しっかり数えるっす。
うちの玄関に花かァ。
めちゃんこおしゃれになりそうっす。
ま、たまにはいいだろ。
なあ、饗……ありがと。
俺だって……ありがとうっす、誉人。
成功
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