時はUDCアースで数え、西暦二〇六〇年。
かつて、|矢来・夕立《やらい・ゆうだち》(影・f14904)という忍がいた。
サムライエンパイアの片隅で、矢来忍軍という|乱波者《ニンジャ》達の集団において、最後の『夕立』という称号を担った男だ。
千代紙を折り、物品或いは生物を形作ることで、本物に近い――或いはそれを遙かに超える性能を持つ『|式紙《シキガミ》』を創り出すという忍法――『|紙技《カミワザ》』を扱い、三千世界を股に掛けてオブリビオンを殺し続けた彼は今なお語り継がれる伝説の猟兵であるが――しかし、もう、いない。
正確に生死が確認されたわけではないが、一説に依れば病に倒れたとか。或いは、仕事中に仲間に裏切られて死んだとか。とにかく、ここ数十年、彼の噂は猟兵達の間でもぱたりと聞こえなくなった。
最も奇天烈な説では今も裏社会のどこかで、その素性を隠して厄介事を片付けている……などという噂もあったが、そんなわけはないと彼女は思う。
今も彼が戦っているのだとしたら、どうして自分はここに一人でいるのだろう、と思うからだ。
夜。サムライエンパイア。とある山中。
孤独な月が見下ろすなか、女は深く息を吸った。
そうする必要も、鼓動もその胸にはないのに。
ただいつか主がそうであったように、肺に刺さるほどに深く、息をした。
ド、ガアァァァァァンッ!!
凄まじい音を立てて巨大な要石が割れ、まるで卵の孵化するように、中から龍が姿を現した。その全長は五〇メートルを下るまい。断面直径は四メートル程、円筒形。背中に一本だけ翼を生やしていて、身体をのたくらせ、醜く虚空を這いずるように飛んでいる。目はなく、まるでミミズに翠の鱗を生やし、とってつけたように翼を生やしたような――そういうばけものだった。
「不細工ね。足で綯った縄みたい」
美しくも鋭い声で女は言う。
年の頃は十六か七か、黒い改造セーラー服に、三日月と満月が染め抜かれた羽織。吊り目に長い睫毛、小さな口、細い顎。華奢な体つきは、まるで完璧である事を求めて削り出された人形めいていた。
女は羽織を翻し、ヒュッと空を裂いて左手を突き出す。彼女の手の内にある夜が、赤く滲んだ。滲みはそのまま棒状に伸び、渦巻くように収束して固まった。
――刀だ。
朱漆塗、赤革巻柄。長くはない。脇指か。女は柄を右手にとり、鞘を払う。
露わなる刀身の優美なこと、まるで月光を打ち固め紅を差したようだ。月光をねらりと照り返した刃の錵は赤く煌めき、揺らめき、まるで巨大な獲物を前に舌なめずりしているかに見える。
これぞ刀齢一〇四を数える妖刀。魔を斬るために生まれた無上の鋼、妖刀地金『斬魔鉄』製、第七代斬魔鉄筆頭鍛冶『永海・鉄観』が作――銘を|迅雷華絶《じんらいかぜつ》『|雷花・旋《かみなりばな・つむじ》』。
「あんたみたいな|凶ツ神《マガツカミ》が気紛れに起きるから、わたしたちの仕事が、いつまで経ってもなくならないのよ」
――サムライエンパイアは大凡平和になった。数々の猟兵の尽力により、少なくともオブリビオンによる被害や圧政はそのなりを潜めた。しかしながら近年となり、このおおくにに今なお眠る神秘の数々が目を覚まし、民に害なすことが増えた。まるで、|不幸の帳尻を合わせてやる《・・・・・・・・・・・・》とでも言わんばかりに。
猟兵達の仕事は尽きなかった。かつて女がまだ|物言えなかった《・・・・・・・》ころに戦っていた猟兵達、あるいはその子世代が、今もこのサムライエンパイアを守っている。戦いは続いている。未だ終わっていない。
――わたしはいつまで、こうして戦うのだろう。もしかしたらその意味ももうないのかもしれないのに。
ひととき心に浮いた疑問は、しかしその次の瞬間には吹き飛んだ。空を這いうねる一翼龍が、ぐばあ、と円筒状に口を開いたのだ。口内に並ぶ牙は|八目鰻《ヤツメウナギ》めいており気色の悪いことこの上なかったが、その奥に点った|黒い光《・・・》を女は見逃さない。
ごばぁぁぁぁううっ!!
収束した瘴気が可触な域に達し、黒き閃光として放たれた。螺旋状に渦を巻きながら吐き出された瘴気は、まるで無限遠に届くドリルの刃のようだ。森が抉れ、木がなぎ倒され、まるで童が出鱈目に引いた線のように、山肌が抉り散らかされる。
しかも、着弾したところからは毒々しい紫の煙が上がる。それぞまさに瘴気、まともに吸えば肺腑から腐れてすぐに死に至る猛毒。飛び立とうとした鳥たちは離れていてさえ毒に耐えられずパタパタと落ち、森の狭間で数匹の鹿達が足をピンと伸ばして引っ繰り返り、痙攣する。最早助かるまい。
腐毒を撒き散らし空を這いうねる、このような天災めいた暴力を前に、細腕の女が一人で、何を出来るというのだろう――
「下手糞」
――しかして暴威の合間に、凜と声がした。
土煙と紫煙の中に、地に突き立つ真っ白な壁が浮かび上がる。
嘯いたのは、その影に微動だにせず直立している女だ。彼女は呼吸を必要としない。肺腑の腐れる毒であろうが、吸わなければ何ら奏功せぬ。恐るるはかの|吐息《ブレス》の物理的な威力のみである。
壁はよく見れば、瓦めいた無数のパーツから出来ており、その一枚一枚は|紙のように薄い《・・・・・・・》。否。ように、ではない。それは、紙だ。千代紙だ。
女は腰につけたホルダーから数十枚の千代紙を引き抜き、ひとなでしてばらりと宙に散らした。ひとりでに身を捩り、それらは瞬く間に形を成していく。けたたましい羽音を立て、浮かんだのは、――蝙蝠。
これを見た猟兵がいれば――そしてかれらが、今より三十余年前のことを覚えていたのならば、目を疑ったに違いない。それは矢来・夕立の失踪に伴い、最早失伝したはずの忍法。紙技『|冬幸守《フユコウモリ》』だ!
「|鏖《みなごろし》よ」
羽音が荒れた。まるで弾丸のように、無数の蝙蝠式紙が空を駆ける! 凶ツ神からすれば蚤にも劣るようなサイズの式紙だが、しかしそれは無力である事を意味しない。空にうねる巨体の其処彼処で紫色の血が|飛沫《しぶ》き、瘴気のブレスが止まった。一翼龍は怒りからとも痛みからともつかぬ咆吼を上げる。
おおおぉおおおぉぉおおぉぉぉぉぅ……!!
「近所迷惑も大概になさい。あんたみたいなのは、最初から起きてこなきゃ良かったのよ。でなけりゃ|死神《わたし》がここに来ることもなかったでしょうに――ね!」
女は高々と右脚を振り上げ、目の前の壁を蹴り上げた。壁と言ってもその厚さはまさにサーフボードほど。紙製、当然ながら軽量! 宙に木の葉のように舞った壁に、女は閃光めいて跳び、二足で乗った。
「|炎迅《エンジン》!」
後ろ脚で蹴りつけるなり、壁――改め、|火を撒いて飛ぶ板《ロケットボード》が猛然と唸りを上げた。『炎迅』は乗り物を|模倣《コピー》する紙技。女は紙を積層した盾に、遙か別の世界――サイバーザナドゥで運用されていた原動機付き反重力ボードとしての性能を付与、その推力を以て今まさに空に駆け上がったのだ。
最早継承者などいないはずの忍法『紙技』を扱い、月の羽織を纏い、雷花を得物とする千代紙の忍。その姿はかつて存在した伝説の猟兵、矢来・夕立の生き写しだ。しかし彼女は夕立ではない。夕立は確かに中性的な美しい顔立ちをしていたが、男性だ。そもそも性別が違う。では一体――
ちきッ、鍔鳴り。
女は、再び吐き出される瘴気のブレスを体重移動と炎迅の推力変動で、在りもせぬ波に乗るように回避回避回避、加速!
逆手に握った刀が光る、月光弾いて夜気に|紅《べに》引く!
「あいつに代わってあんたをここで絶やすわ。――|永海・雷花《ながみ・らいか》、推して参る」
女――永海の刃が転じたヤドリガミ、永海・雷花は、燃え立つように名乗った。かつて主たる夕立の手の中で天衣無縫と踊ったあの時のように、今は己が刃を己で握り、天へと逆しまへ落ちていく!
おおおおおおおおあああああぅ!
凶ツ神が叫ぶと同時に、森の中からぶわりと黒い何かが舞い上がる。雷花は瞬間的にその正体を察知する。――あれは怨み、そして無念が可視化されたもの。
死んだ者達の怨嗟を吸い上げ、己が力とするというのか。凶ツ神らはそれぞれが特有の能力を持つが、今度の神は一際趣味が悪い。この一帯で、自分が殺したものの『|負の活力《ネガティブエネルギー》』を吸収しているのだ!
巨龍は大口を開け、黒き怨念を吸い込んだ。瞬く間に冬幸守につけられた傷が癒え、その身体の鱗がそこかしこで逆立ッた。ねじれて鏃のように尖り――鱗が|射出《・・》される!
「!」
雷花は構えを取り、己が真体を振り回した。彼女の周りに無数の紅き弧が残像めいて残る。そして火花、火花火花火花火花火花火花!! 一閃一閃が、己に飛び来た鱗の連射を斬り落としている。鳴り響くは機関銃を盾で弾くような剣乱業禍の死の楽章!
刃を執るのが|雷花《らいか》でなければとうの昔に串刺しに、執った刃が|雷花《かみなりばな》でなければとうの昔にへし折れていたであろう、苛烈にして峻烈なる空対空砲火!
――長い時間は掛けられない。そう直感する。いかに雷花とてこの規模の攻撃を、いつまでも凌ぎ続けることは出来ない。そして、かの凶ツ神が狙っているのは自分だけではないのだ。地上にいる全ての生物が奴の標的。殺せば殺すだけ、凶ツ神は権能を増やす。今まさに、あの鱗が猟兵すら殺傷せしめる威力を備えたように!
ざざッ、と、まるで警告めいて、脳裏に映像が浮かんだ。
夜蜘蛛を殺しに送り込まれた死神。天を衝くような殺意の火炎。二刀一対の|忍者刀《メラキバ》。鋭い歯に、震え上がるほど美しい貌。
|凶憑連《まがつきれん》、矢来・|狐火《きつねび》。夕立を恐らくは、彼の人生で数えるほどに追い込んだ女。
――|今敵わねば、未来に雷花が敵うことは、恐らくないだろう《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
「分かってるわよ」
だから往く。雷花は宙に千代紙をバラ撒いた。のた打つ龍が巻き起こした荒れ狂う風に乗り、瞬く間に散り散りに吹き散らされる千代紙。桜吹雪ならぬ紙吹雪が舞い踊る中、雷花は諸手で真体を構える。
「行くわよ、夕立」
ただ今から五秒のみ、欲界、色界、無色界、三界全てが彼女を見失う。刀の刃文が揺らめいて、その輝きが夜闇のあわいに溶け入った瞬間、雷花は炎迅を蹴り飛ばした。跳躍したその姿は既に影そのもの。夜闇の中に溶けた影を、誰が見いだせよう?
迅雷華絶『雷花・旋』の鍔は、遣い手の動きを加速する『飄嵐鉄』にて鍛造されている。刃が飄嵐鉄により出来た刀と比べればその効果時間はほんの僅か、五秒。しかしそれで充分。矢来・夕立と永海・雷花の殺しの時間が、五秒を超えることはない。
――過ぎて初めて吹いていたことを知る。しずけく荒れるその|峻風《ユーベルコード》の名は、|静嵐《セイラン》という。
「否」
空中で鞭のように撓った尻尾が、主を喪った炎迅を叩き落とした。爆発四散。しかし雷花はとうにそこにはいない。殺気が未だ消えぬことでそれに気付いたか、巨龍が新たな鱗を逆立てる。――遅い。遅すぎる。
「応」
跳躍した雷花を見失った巨龍が、盲撃ちの鱗を放った。しかしその悉くが空を切る。機関砲なみの速度、密度で放たれる鉄の矢の嵐と思えばその苛烈さが窺えようが、しかしそれですら雷花を捉えられない。――否。そんなもので捉えようと思っていたのか? この夜蜘蛛の系譜を?
「無」
鱗だけでは足りぬと悟ったか、自分の身体を抉ろうとも構わずに、龍は瘴気の息吹を放った。空中を極太のレーザーと弾幕が行き交うようなものだ。
ただ跳躍しただけならばいずれ堕ちるだろう、加速中ならいざ知らず、重力に掴まって減速したその瞬間に弾幕に捉えられて――とでも考えたか? その愚鈍さを地獄で悔いろ。
雷花は止まらない。加速し続ける。|宙に振り撒いた千代紙《・・・・・・・・・・》が、まるで柏手を打つような音を立てて爆ぜた。信じがたい。紙を踏み、跳んでいるのだ。しかして音が鳴ったときには、雷花は既にそこにはいない。彼女はとうの昔に音速を超えていた。今やこのエンパイアでただ一人の紙忍が見せる絶技、|音盗《ソニドリ》。
「く、」
ごおおおおおああああああぅっ!!
咆吼が天を貫いた。恐らくはそれは防衛本能の成せる技だったのだろう。雲から前触れ鳴く雷迸り、巨龍の身体を打った。雷呼び。龍の身体は帯電し、断ちに来る敵を感電させ焼き殺すべく、バチバチと表皮に紫電を爆ぜさせる。龍にとっても苦肉の策、想像を絶する痛苦だろう。その全身が痙攣し、世界を揺るがすような絶叫がその口から迸る。――知ったことか、
「――死ね!!!!!」
喚くのならば地獄で喚け!!!
瞬撃、三閃! 静嵐の発動からぴったり五秒、雷花は紙を踏んでの|稲妻《カミナリ》めいた軌道で、凶ツ神の身体を一往復半!
|雷鎧《らいがい》、何するものぞ。電撃のインパルスすら凌駕する速度で、電荷が身に伝うその間すら無く、雷花はかの巨体を斬ってのけた。静嵐が解け、まるで息を吹き返したように紅き刃の軌跡が宙に刻まれた瞬間、その閃のかたちそのままに龍の身体は四ッつ分かたれ、空中、ばらりと、それぞれの肉塊が、互い違いにうねりほどけた。
それも一瞬。重力に捕まったように、神だったものが地に落ちていく。
ひゅッ、と風を切る音と同時に、大木の枝をたわませすらせずに、雷花が降り立つ。対照的に、巨龍の骸は地震めいて地を揺らし、木々を薙ぎ倒しながら無様に転げた。
しばらく痙攣し、未だ現世にしがみつくように藻掻いていたその骸も、やがて力を失い、端から光の粒子となってほどけていく。光は地に染み――毒と息吹の衝撃で荒れ散らかした山肌に、にわかには信じがたいほどの速度で緑が芽生えていく。
雷花はそれに背を向けると、木からゆらりと落ちた。跳ぶでもなく、下を見るでもなく――ただふらりと倒れるように頭から下へと。
然し着地の音はなかった。――当たり前の事だ。
影が地に落ちる音など、ありはしないのだから。
そして夜が明け、近隣の村。村長の家で、雷花は村長と向き合っている。
平身低頭の村長の様相、雷花だけが平素と同じ無表情だ。
「此度のことはなんと、お礼を申し上げれば良いか――」
「いいわ。わたしは人伝に聞いただけ。自己満足みたいなものよ」
「いいえ、それでも、私共は貴方様に助けられたのですから、お礼の一つもさせていただかねば気が済みませぬ」
「……どうしてもというのなら、一つ聞きたいことがあるわ。あなた、矢来・夕立という名前を知らない?」
「!」
村長は目を丸くする。
「何故に、その名を? いや……そう言えば……貴方様の、その姿は……よもや、矢来どのと何某かの|所縁《ゆかり》が?」
「あたしのことはどうでもいいの。知っているのね、あいつのことを」
うるさそうに手を振りながら、雷花は目を細めた。
問い返しに、村長は「ええ」と頷く。
「左様、存じ上げております。私がまだ子供の頃……この村は、あの方によって救われました。その折に、東の山の要石には近づかないよう、硬く厳命してゆかれたのを覚えております。|真逆《まさか》あのようなものが眠っていたなどとは、私どもも露も知らず……」
「なるほどね」
ふん、と雷花は払うような息を吐き、目を閉じた。……結局、後始末はわたしに回ってくるのだわ。
事件の前。グリモアベースで、灰の長い髪をした少女――通名を|壥・藍色《ななしの・あいいろ》という――から聞いた話では、この村が今このときに危機に瀕することは、三十年近くも前から分かっていたということだ。
「なら、分かった時点で要石を壊しておけばよかったじゃないの」
「そう短絡的に考えられることじゃないの。父もよく言っていた。『後回しにする判断には理由がある。おれたちは、傷が最も少なくなるよう動くべきだ』と」
藍色は、その名を示すような深い藍の瞳を憂鬱げに細め、手の中にある七色のキューブを、ガラスの軋むような音を立てながら回した。
「かの要石は、ここ数年に訪れるはずだった地震、山火事などの災害を吸う役割を帯びていたわ。ひとや動物たちにとっての災厄を吸い続けて、やがてそれが限界に達したとき、凶ツ神としての形を取る、そういうものだということよ。だから、壊すのならば|羽化《・・》してからが最善なの」
理路整然とした説明をしてから、藍色は首を傾げて、やんわりと言い含めるように問うた。
「あなたにだって分かっているはずでしょう、永海。|あのひとたち《・・・・・・》は、理屈に合わないことなんて、しやしないはずだって」
分かっていた。でなくば覚え書きのように、手帳に書き残しなどするものか。
この世に受肉し目を覚ましたその時から、知っていたとも。
雷花は目覚めたその時を思い出す。気付けば夕立は自分の側にはおらず、自分は永海の倉の中で、一人密やかに覚醒したのだ。
その時には永海の総代は十一代目『永海・|銑朱《せんじゅ》』が襲名しており、彼女の父親たる十代目は、その妻と共にはるか遠く、戻らぬ旅に出たという。永海・頑鉄は鬼籍に入っており、その他の筆頭鍛冶もまた代替わりを経て、僅かな覚醒の時間で雷花が見知った顔は、最早そこには残っていなかった。
世界に一人、取り残されてしまったような心地。そんな彼女の頼りとなったのは、恐らくは矢来・夕立が書き遺したと思しい手帳だった。自分の真体が入っていた桐箱に、共に入れられていた古ぼけた手帳。そこには淡々と、夕立らしい小綺麗な字で、まるで何のこともないTODOリストのように、遣り残したことだけが書き連ねられていたのだ。
今回の件もその一つだ。雷花は、夕立の足跡を辿っている。それが何のためになるのか、必要なのか不要なのかもあやふやなままに。
「猟兵様……?」
気遣わしげな呼び声に、雷花は目を開いた。
「……ごめんなさい。何でもないわ。他にあいつは、何か言っていた?」
たいした期待もせずに雷花が聞くと、はっとしたように村長は立ち上がった。
「あいや、しばらく!」
どたどたと奥の間へ駆けていったかと思えば、数分して駆け戻ってくる。手には小さな桐箱。
「そう――そうでした、もしもいつか、自分の名を知る誰かがこの村を救ったなら、これを渡してくれと仰せになったのです、矢来どのは」
こわれものを扱うように差し出された筺。胡乱げな目をして、雷花は受け取ったそれを開く。
――そこには、きらり、美麗に輝く、金基調、紅き石をいただく耳飾りが一対。
蓋の裏に、手帳と同じ小綺麗な文字が躍っている。
『よくできました』
「~~~あんの、莫迦ッ……」
「猟兵様?!」
ぱん、と箱が壊れてしまうほど強く蓋を閉めながら、出し抜けに立ち上がった雷花に、仰天したように村長が目を向く。くるりと雷花は村長に背を向ける。
「ッ……確かに受け取ったわ。あなたは何も悪くない。わたしの用もこれで済んだ。……息災でね」
「猟兵様ッ、せめて――」
お名前を、ということばを置き去りに、雷花は消えた。正確に言うのなら余人に消えたと思わせるほどの速度で立ち去ったのだが、同じことだ。後に残るのは、呆然とした様子の村長だけだった。
ああ――ああ、いつだってあんたはそうよ!
一緒にいたいつだって、手を伸ばせば届くような距離にいたくせに、一度だって触れさせてくれやしなかった!
ここに来るとしたらわたしだって――そう分かってたんでしょう?
手前勝手にこんなものだけ残して――見透かしたみたいにこんな言葉を遺して!
もうあたしはあんたの足跡を追うことしか出来ない! それなのに!
どうしてまるでまだそこにいるみたいに、追っていけば会えるかもしれないみたいに思わせるの!?
雷花はこぼれ落ちる涙が、地に落ちず宙できらきらと爆ぜて消えてしまうほどの速度で走った。
胸の内側で、荒れ狂うような怒りと、やりきれないほどの歓喜が荒れている。ああ、こんなにも|大嫌《いとし》い。
手帳の頁は、あと七〇余ある。それを果たす意味などないかもしれない。実際、何の意味もなく終わった頁が三〇程ある。けれど、確かに意味のある頁が、今までに四つあった。雷花は耳元で飾りの揺れる音を聞いた。これで五つ目。
あと幾つ意味があるのかは分からないのに、こういうことがある度、果たそうと思い直してしまう自分が憎い。
「――地獄で逢ったら覚えてなさいよ、大莫迦……!!」
走る。走る。涙が乾いて、目から赤みが引くまで、山も谷も飛び越え、風を追い越して。
だって藍色に報告をしなければいけないから。彼女に、間抜けな顔を見られたくはないから。
雷花は切り立った崖から跳んだ。
風にはためく羽織の音が、遠い鳶の声に覆い隠され――あとには、太平のエンパイアの風が吹くばかり。
成功
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