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――le beau temps.

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ギュスターヴ・ベルトラン




 空港から市内の駅までトラムでおよそ30分、そこから3時間ほど電車に揺られて、さらにバスへと乗り継ぐ。長い時間をかけて――いや、これまでの道行きを思えば大したことはなかったのかもしれないが、ギュスターヴ・ベルトラン(我が信仰、依然揺るぎなく・f44004)はようやく故郷の土を踏んだ。
 11月の空は一面に薄い灰色の雲が広がり、陽射しは淡く大地を照らしている。色鮮やかな夏はとうに過ぎ、葉を落としたブドウ畑の木々が細い影が、収穫期の名残を思わせる。懐かしい、とは思わなかった。生まれ故郷であるこの地を離れたのはまだ幼い頃で、そこからは母と一緒に各地を転々としていたのだから、それも無理からぬことだろう。ただ一つ、思い出のそれと合致したのは、広がる畑の中に立ち尽くす一群のヒマワリだった。その姿は、もちろん夏の太陽に向かって咲き誇るものとはまるで違う。黒く萎びた花の頭が重たげに垂れ下がり、風に揺れて擦れた茎が、乾いた音を響かせている。
 ――あの頃は、頭のずっと上で咲いているように見えたものだけれど。
 見上げるばかりだったそれに触れる。過ぎ去った季節の証明、とまで言うのは感傷的に過ぎるだろうか。そうして足を止めていた彼だったが、遠くから響く鐘の音を耳にして、そちらにサングラス越しの視線を向けた。
 道順は事前に調べてきた。今更道に迷うようなことはない。それでもなお回り道をしている彼を、思い出の中から呼ぶような音色。あの日通った教会は、変わらずそこに在るようだ。
 その呼びかけに応えるように、ギュスターヴは冷たい土を踏んで歩き出した。

 父から逃げる旅、そして喧嘩別れに近い形で袂を分けてから十年余、現在母が腰を落ち着けているのは、ギュスターヴの生まれ育ったこの農村だった。事前に住まいだと教わった家の前に着き、アンティーク風のドアベルを鳴らす。何と言うべきかしばらく迷った後で、ギュスターヴは結局「ただいま」と口にした。
「おかえりなさい、遅かったわね」
 道中のことや今日の天気、何気ない話をしながら荷物を置いて、勧められるままにテーブルに着く。そこで初めてサングラスを外して、ギュスターヴは母と正面から向き合った。
 自分の為にお茶を淹れてくれている彼女の姿は、思い出の中のそれよりも小さく、新たに刻まれた皺に時の流れを感じてしまう。けれどその顔は、先程の枯れいくばかりのヒマワリとは違い、やわらかく穏やかに見えた。
 やがて、良い香りのするお茶と、手作りらしいタルトタタンの乗ったお皿がギュスターヴの前に置かれる。
「こういうの、作れたんだ?」
「え? ……ええ」
 そのまま向かいに座った母の声は、どこか気まずそうに聞こえた。
「落ち着けるようになってから、また作り始めたの」
 テーブルに頬杖をついた彼女もまた、思い出を手繰っていたのだろう。ギュスターヴが母と二人で過ごした時間、記憶の中にあるその半分は、フランス各地を旅していた頃のものだ。思い出されるのはシャンソン歌手として歌っている姿や、少ない食材から何とか料理を形にしている姿、そして――涙の跡が頭を過って、首を振る。要するに、母一人子一人、父から身を隠しながらの逃避行では、お菓子作りをする余裕などなかったということだろう。
「……そうだね」
 ギュスターヴも年を重ねた今であれば、当時の苦労は察することもできる。母はきっと生きていくことに、そして息子を守ることに必死だったのだと思う。
 肯定の言葉を口にすると、自然と当時の心持ちもその胸に蘇る。怯えるばかりの子供ではあったが、それでもなお感じ取れるあの不安と恐怖、閉塞感。何もかもが追い詰められているような日々だった、と。
「ねえ、マイサン」
 互いに思い出に耽るような沈黙。最初にそれを破ったのは、母の方だった。
「タルトタタンってお菓子はね、ひっくり返さなければ食べられないの」
「うん」
 一度頷く。
 ……? 頷いてはみたものの意図が掴めず、ギュスターヴは早速言葉に詰まった。何故ここでお菓子トークが始まる?
 そんな疑問符を浮かべたような顔を楽しむように、彼女は微笑みながら続ける。
「あの人にもね、そう言って振舞ったことがあったわ」
「……うん」
「ええ、タルトを食べて話をしましょう? 悲しかったこと、つらかったこと、私もあなたも隠してた裏をひっくり返して」
 冗談めかして言われたそれには、彼女の意志が滲んで聞こえた。
 ギュスターヴは目を閉じて、眉間を押さえ、思い返す。悲しかったこと、辛かったこと、あの日言えなかったこと、言わなかったこと。そうして悟る。彼女はもう、それを半ば察しているのだと。
 『闇』と『力』に振り回されてきた者達を、ギュスターヴはもう幾人も目にしてきている。その中には子供も居て、彼等、彼女等の振る舞いを思えば――当時の自分が、親を相手に隠しおおせるはずがなかったのだ。
「焼きたてのタルトタタンは美味しいわ。でも、冷蔵庫でしっかり冷却期間を置いたものだって、味が馴染んでとっても素敵よ」
 母も、あの時の状況では受け止め切れなかったのかもしれない。それは聞いてみなければわからない。――ああ、でも、そうだ。
 悲壮な方向に行きかけた思考を救ってくれたのも、かつての思い出達だった。学園で会った人のこと、救うと言えば烏滸がましいがそれでも助けたかった人のこと、闇に墜ちかけてもそれでも間に合った人のこと、友達が出来たこと。逃げるように袂を分かち、歩いてきたこの道は困難なものではあったけれど、悲しいことやつらいことばかりではなかったのだと、伝えなくては。
「――私たちは確かに離れてしまっていたけど、きっとそれは必要な時間だったと思っているのよ」
 ねえ、ギュスターヴ。そう声を掛けられて目を開ける。母は、目を細めて笑っていた。
 分かたれた道はまた交わる。別々に過ごしたこれまでの時間は、失われたのではなく、積み重なった末の今なのだと、そう信じて。
 ギュスターヴは母の言葉に首肯し、フォークに刺したそれを口に運ぶ。時を経たそれは、控えめで甘く、あたたかに感じられた。

 ――さあ、何から話そうか。

成功 🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​



最終結果:成功

完成日:2024年12月28日


挿絵イラスト