●其の出会いは鐘のなる夜に
男と過ぎ行く人々は浮足立った様子で帰路を急ぐ。
例外があるとはいえど寿命以外の死から概ね解放された人類は、以前よりも穏やかにゆるやかに時を過ごせるようになった――筈だった。
しかし、人々の暮らしは、世の流れは、相も変わらずぐるぐると目まぐるしい。
特に、新たな年を迎えんとする年の瀬は。
南瓜の祭典が終わればすぐ、クリスマス。それが終わればすぐ、正月だ。
時季にあわせて街の彩りもコロコロと様変わり。
冬の澄んだ空に瞬く月明りを、星の瞬きをかき消して、クリスマス・イルミネーションは街を|眩く《目障りに》 彩る。
雪が呑み込む以上の音で、クリスマス・ソングがシャンシャンと|華やかに《耳障りに》鳴り響く。
「嗚呼、この世界はうるさく――」
男がそっと呟く中で、
「――醜く過ぎた」
雑踏に紛れ、|其れは聞こえた《運命は訪れた》。
●あおはあおよりあおく、あおよりあおし
男は鑑賞家だった。美しきものが好きだった。
絵画であれ、陶器であれ、彫像であれ、宝石であれ、なんであれ。男はとにかく美しきものを愛した。
決して富んだ産まれでもなく、生活でもなかったが、我武者羅に働き、あらゆるものを切り詰めながら買い集めた宝物たち。
其れらを収めた宝物庫ともいえる部屋の中で、男はただただ其れを眺めた。
サンタクロースの伝承を信じる年齢ではないが、あの出会いはまさに彼からのプレゼントと言えよう。
「これは、静謐だ。これが、静謐だ。これこそが奇跡だ。そして、嗚呼、私は真実の愛と救済に出会った」
男は|なにもない空間《花より青く、空より蒼く、海より碧い絵画》を眺めていた。
ゆらりゆらりロッキングチェアに揺られながら、夢見心地で其れを眺める。
食い入るように眺める。ただ、眺める。ただ、眺める。ただ、眺める。ただ、眺める。
瞬きすら忘れた瞳は、すっかり乾いて血走っていた。感涙に流す涙は、赤かった。
それでも、男は、ただ、眺める。
其れ以外の全てを拒絶するかのように。男は、ただただ、恍惚と其れを眺めていた。
男の家族から見て、男の瞳には何もうつってはいなかった。
男の家族から見て、男はただ壁を眺めているだけだった。
しかし、男の目には、男の目だけには、確かに、静謐がうつっていた。
吸い込まれるような青、蒼、碧、あお――あおだ。あおい絵画。
ただ、静謐としか言いようがない絵画。相応しい美辞麗句など、此の世、彼の世にひとつもない。
そうしてただ、眺めているうちに、男は確信したのだ。
今こそ神を信仰した。狂信した。盲信した。きっと神が戯れに筆をとったに違いない、と。
自然に在るあらゆるあおを集めて、煮詰めて、神が創りたもうた神の絵具で、神が此れを描いたのだ、と。
――あなた、いい加減にして!
煩わしい女の声が聞こえた気がしたが、静謐を眺めていればその内、ぶつりと消えた。
男は思う。神の御力に違いない
――父さん、どうしちゃったんだよ!
かつては愛おしかった者の声が聞こえた気が、男は静謐をより深く愛した。
男は憤る。神の恩寵を無視するなど愚行だ。
――彼はもうだめです。諦めてください。
|医者《知らぬ誰か》たちの声が聞こえた気がしたが、男は言葉を紡ぐことすら拒否した。
男は無視した。神からの静謐を享受していたかった。
――ッ!!
かき消えた筈の声が、金切り声が、静謐を破る。|医者《知らぬ誰か》たちの声が、女を阻止した。
しかし、間に合わない。男の頬が、強く強く、叩かれる。
そこまでされてやっと、男は、あおに魅入られた男は。
会話はおろか、眠ることすら、ひとときの飲食すら拒み続けて、もはや骨に皮膚が張り付いただけの形相の男は。
「静謐を、拒むな」
筋肉が衰え、今にも飛び出んばかりの眼球で。否、半ば零れかけた眼球で、ぎょろり女を睨みつけながら。
|感染を、呪詛を、浸食を、《祝福を、》ただ一言、呟いた。
――瞬間、壁にかけていた白鞘がかたり崩れ、零れた銀色の煌きが女を貫く。
ぐさり、腹と床を刀に縫い留められた女は、刀を抜こうと刃に触れる。触れる度に、手の肉が削げる。
ごぼり、ごぼり、命を、腹から、口からとめどなく流しながら、女は生存のために足掻く。
刀を、刀を抜かなければ。鮮血で刃が滑る。ぽろり、指が落ちた。
夫が、よく手入れされていると褒めてくれた爪先が、血の海に沈む。涙がこぼれた。
――どうして。
吐息と共に囁かれた嘆きが女の最期だった。女の身体は、自らを縫い留める刃をなぞり、頽れる。
突然の出来事に、場は沈黙に支配された。
男は、女だったものに一瞥くれてやるだけで、再び静謐を鑑賞する。
目前に訪れたのは、死だ。解放された筈の、死。寿命以外で迎える筈のない、運命。
――母さん?母さん!
もう光をうつさない女の目を覗き込み、息子は震える声をかける。
刀を抜き、むせかえる濃厚な鉄錆の香りに嘔吐きながら、息子は女を揺さぶった。
何度も何度も声をかけて、揺さぶった。こたえはない。瞬きもない。呼吸もない。
ただ、現実にかえらぬ夫を嘆いて、迎える筈のない終焉の気配に絶望して、ひとしずく零した涙が伝うだけ。
息子は悲劇に叫んだ。慟哭した。かつてない怒りに震えた。
全てを無視して、ただ静謐を眺める男に当然、怒りの矛先は向かう。
――父さんがやったのか。
其の一言を皮切りに、事態は更なる惨劇へころりころりと転落する。
男へと振りかぶられた拳。ロッキングチェアから殴り飛ばされた男は壁に頭を打ち付ける。
眼球は、衝撃でいよいよぽろり零れた。
――これでもう、ありもしないものを見なくて済むだろ?
そんな言葉を吐き出す前に、何ゆえか屋根が崩落して息子はぺしゃりと潰された。
崩落は一部だけに留まらず。男だけを残して、逃げ遅れた|医者《知らぬ誰か》たちも同じ末路を辿る。
此れは時間にして一瞬だ。瞬きの間に起こったことだ。
遺されたのは、ただ、二人。たまたま逃げおおせた|医者《知らぬ誰か》と男だけ。
そうして、男以外、誰もいなくなった。
崩落した屋根からは、月が煌き、星が瞬く、冬の夜空が望めた。しんしんと空から雪が降る。
今ならば|眩い《目障りな》イルミネーションも、|華やかな《耳障りな》歌もない。
男が鑑賞家であれば、在りのままの自然美に感嘆しただろう。
されど、今の男はあおに魅せられた狂信者だった。
男はゆらり立ち上がる。
ロッキングチェアを探す覚束ない足取りが、床に忘れた男の眼球をぐしゃり踏み潰した。
男に構う様子はない。|其れ《眼球》は最早、男には不要なものだった。
零れて何もうつさない空の眼孔にも、今だあおは在ったからだ。
其処に静謐は佇んでいた。闇の中だからこそ、静謐の其の色彩はより鮮明になってすら在った。
男は、其れに歓喜する。
男は、何事もなかったかのようにロッキングチェアに座った。
「これは、静謐だ。これが、静謐だ。これこそが奇跡だ。そして、嗚呼、私は真実の愛と救済に出会った」
男は静謐を眺めていた。
ゆらりゆらりロッキングチェアに揺られながら、闇の中の静謐を眺めていた。
瓦礫よりはみ出た上肢がぷらぷら揺れて、振り子のかわりに時を刻む。
誰も訪れなくなった雪の降る夜、男はやがてゆるやかに瞼を伏せて、|永眠《眠り》に落ちた。
「よかった。またひとり、救えた」
あおの言葉を聞きながら、男は、紺碧を泳ぐ魚の夢を見る。
●其の出会いは連なる
生き残った医者の男と過ぎ行く人々は浮足立った様子で帰路を急ぐ。
例外があるとはいえど寿命以外の死から概ね解放された人類は、以前よりも穏やかにゆるやかに時を過ごせるようになった――筈だった。
しかし、人々の暮らしは、世の流れは、相も変わらずぐるぐると目まぐるしい。
特に、新たな年を迎えんとする年の瀬は。
南瓜の祭典が終わればすぐ、クリスマス。それが終わればすぐ、正月だ。
時季にあわせて街の彩りもコロコロと様変わり。
クリスマス・イルミネーションなど跡形もなく、迎春やら干支の飾りやらがちらほら目立つ。
つま弾かれる弦の音がのどかに朗らかに新年を寿げど、男の気分はひたすらに陰鬱だった。
救援を呼んでかけ戻ったときには、既に遅かった。同僚たちは、鑑賞家の家族は、手遅れだった。
だけど鑑賞家だけは、唯一、生きていた。あのような状態で、昏睡しているだけで済んでいた。
――しかし、生き残った男は知っている。鑑賞家はもう二度と目覚めることがないと、知っている。
鑑賞家と同じような状態に陥った同僚たちは、今だ目覚めない。
男は陰鬱だった。何もかもが嫌だった。誰かに助けてほしかった。
そんな男の耳に、其れは聞こえたのだ。
「これは真実の愛にて、救済」
――こうして、|あお《救済》は、|あお《静謐》は、連鎖する。
成功
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