某県、某所。
曰く、その山には天狗様が住んでいて、山に入ってきた者は神隠しにあうのだという。山の上には社があり、天狗様の住処になっているのだと、まことしやかに噂が広がっていた。
「だからね、あの山には近付いちゃいけないんだって!」
髪をおさげにし、着物を着た女の子が、ほんとのほんとの、ほんとだよ! と、柳・依月に向かって力説している。
「そうか、今はそういう風に言われているんだな」
「今は? 昔は違ったの?」
今度はまた違う女の子が、依月に向かって質問する。それに向かって曖昧に笑った依月の姿は傍から見れば不審者に見えなくもないのだが、何せ子ども達が彼を囲む様な形で話をしている為、大人達も様子見といったところである。
「なんだねあんた、お山のこと調べとるんか」
そんな折である、子ども達に囲まれた依月に向かって、年齢を重ねた女性――老婆が遠慮なしに訊ねたのは。
「ああ、まあ。お山のことと言うか、この地にまつわる伝承だが」
そういうことを調べているのだと言えば、確かに依月の恰好は書生のようでもあり、老婆も納得したようにお山に向かって視線を向けた。
「あのお山の天狗様は神隠しなんかするような天狗じゃあない、あたしらにとっちゃ守り神みたいなもんだよ」
「えー! でも神隠しされるって聞いたもん!」
老婆の言葉に、子ども達が更に自分の知っている話をしだす。神隠しにあわなくても、帰ってきた人が病気になったとか、寝たきりになったとか、とにかくよくない噂ばかり聞くのだと口々に言われ、老婆が面倒くさくなったのか『そんな噂あたしゃ知らないよ!』とその場を離れるまで続いた。
「ありがとう、よくわかった」
「おにーさんも、あのお山には近付いちゃだめだからね!」
「そうだよ、呪われちゃうんだから!」
いつの間にか、神隠しが呪われるという言葉に変わっていたが、子ども達の噂話とはそういうもの。伝えられていくうちに、結末は変わらないが改変されていく――それはさながら伝言ゲームのように。
じゃあね、と手を振って家に帰っていく子ども達に軽く手を振って返し、依月はさてどうしたものかな、とお山の上を見上げた。視線の先には赤い鳥居が見えて、神社があるのだと知れる。
「百聞は一見に如かず、だな」
忠告してくれた子ども達には悪いが、依月はお山に登る気満々だ。もとより、あの山の上に用事があるのだから行かないという選択肢はない。お山までの道は一本道、ひゅるりと風がコートの裾をさらったが、迷うことなく依月は紅く色付いたお山へと向かい始めた。
お山の入り口には比較的新しく見える『立ち入り禁止』と書かれた看板が立てられていて、依月は唇の端を歪めるように笑う。
「なんとも、天狗が居るっていうわりにはお粗末なものだな」
靴の先で看板を軽く蹴って横へと転がすと、何も見なかったというように山へと足を踏み入れた。そのまま暫くのあいだ山道を進んでいけば、石段が見えてその先を見上げる。山頂まで続いているのだろう石段はそれなりの段数があり、所々に灯篭がたっているのが見えた。
「この辺りは変わらないな」
ぽつりと呟いて、石段を登る。これだけの石段だ、参拝者もそうはいないのだろう。あの立て看板のせいもあるだろうが、少々寂びれた印象は拭えない。
「昔はな、山の上でも村人が訊ねてきてお参りしていったもんだ、それにこの時期になれば紅葉狩りだとかでいつもより人が多かったくらいでな」
誰に聞かせるでもなく、朗々と語るように言いながら依月は息を乱す事無く石段を上がっていく。
「それがなんだ、ちょっと出掛けている間に好き勝手されるとはな」
まったく、と溜息交じりに言葉を吐き出して、石段を登り鳥居をくぐれば小さいながらも立派な拝殿とその奥には本殿が見えた。
「さて……いるんだろう? 天狗様ってのがさ。神隠しをしてくれるそうじゃねえか、ひとつ俺にもやってみてくれねえか」
神社の隅々にまで聞こえるような声で依月が言うと、こちらを窺っていたであろう気配が幾つか動く。ガチャガチャとした音を立てながら、現れたのは天狗様――ではなく、天狗のお面を被った者たちであった。
「度胸のある兄ちゃんだな、天狗様が怖くないと見える」
「神隠しされにきたって言うくらいだ、どうなっても構わないんだよなぁ」
天狗の面の奥から聞こえる下卑た声に、依月が乾いた笑いを浮かべて目を細める。
「天狗のフリをして何をしているんだ、お前達」
「ハッハァ! 今から神隠しされるってのに、そんなこと聞いてどうするんだお前!」
天狗の頭と思われる男がそう言って笑うと、他の男達も弾かれたように笑いだす。
「今後の教訓にでもしようってかぁ?」
「ヒヒ、今後なんかありゃしねぇってのにな!」
男たちが手にした獲物をチラつかせながら依月に迫るが、依月は意に介さぬようにして笑う。
「いいさ、当ててやろうか。天狗の主がいなくなった神社を根城にして、人身売買だの違法薬物だのの取引をやっているんだろう?」
「……なんだ、テメェ。|サツ《警察》か?」
男達の空気が冷えたように、声音が変わる。
「警察? ふふ、そんな可愛いものじゃないぞ」
「だったら、なんだってんだ!」
「烏天狗だよ」
天狗、そう言って依月が唇の端を持ち上げた。
一瞬の沈黙の後、男達が堰を切ったように笑いだす。ひとしきり笑った後、頭の男が手にした錫杖の石突を石畳に強く打ち付け、杖頭を依月に向けた。
「舐めんのも大概にしときな、兄ちゃん」
ドスの利いた声でそう言うと、手下の男達が依月を取り囲む。
「舐めてないとは言い切れんが、嘘じゃないさ。ちょっと出掛けただけのつもりだったんだが、三十年も経っててな。帰ってきてみりゃ、俺の根城におかしな噂が出回ってるじゃないか」
依月がそう言うと、おかしな事ばっかり言いやがってと手下が切り込む。それをふわりと躱し、依月が懐から羽団扇を取り出して撫でるように動かせば手下が石畳に転がった。
「な、なんだテメェ!!」
「頭が悪いな、言ってるだろう? 天狗だってな」
羽団扇を一振り、二振り、風が逆巻き依月の姿が紅葉の葉に隠されたかと思った次の瞬間、山伏のような法衣に頭襟を被った姿の依月が立っていた。
「天狗の名前を使っての悪さ、見逃せるもんじゃねえからな」
「ひ、ひぃぃ! バケモンだ!!!」
「天狗様って言いな、天狗様ってな!」
脱兎のごとく逃げ出そうとする男達にそう訂正しつつ、依月が羽団扇を大きく振り仰ぐ。
「逃げられると思ってんのか?」
それは甘い考えだ、この烏天狗を前にして――。
あっという間に男達を打ちのめし、彼らが持っていた縄で括ると神通力を使って警察の前へと放り出した。
「お前らにとっては神隠しより恐ろしいだろうな」
ふふ、と笑った依月――烏天狗の依月が戻ったお山は再び人の賑わう場所になり、天狗様が護るお山だと人気になったのである。
「あれだな、今度遠出をする時には見張りとかそういうの、置いといた方がいいよな」
賑わいを見せる境内を見下ろしながら、何処かへ出掛けたそうな目をした依月がそう言うと、懲りない天狗様ですねと言うように、烏がカァと鳴いたのであった。
成功
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