クルースニクが剣と魔法と竜の世界の生まれでないと云うならば、この神隠しめいた異世界転移をガスパールが体験するのは二度目となるのだろうか。生憎幼少のころの記憶はとんとないが、今宵の事象がサウィンの夜がもたらしたものだとの確証はあった。このときの男は、寝ても迷いてもいなかったのだから。
振り返れども、すぐ先刻出くわしたはずの扉はもうすっかり消えていた。とはいえ、ガスパールは安穏とした心地ですべてを受け入れていた。それが男の常でもあるが、なぁに夜が明ければ大概のことは元に戻るものだ。――今は、穏やかな陽の照る昼間であるが。
心漫ろにならずに居られる理由は、もう一つある。この、軽やかでしなやかな四肢を持つ猫の身体は、寧ろ此れが夢であると告げているようなものではないか。ならば、なにを案じる必要があろう。夢ならば、それこそ迷えばいい。
あたりを見渡せば其処は、ガスパールが育った世界とはまるで違っていた。木々が多いのは似ているが、その随に在る建物はどれも角張っていて彩もない、無機質なものばかりだ。そして背が竜の身の丈ほどに高い。
それでも人々の営みはさして変わりがなかった。彼方此方の扉から出入りする若い人影を見るに、どうやら此処は学校のようで、同じ意匠の服を纏い、誰もが愉しそうに語らっている。一瞬隠れようかと思えど、否その必要はあるまいと、ガスパールは臆することなく彼らの傍へと歩みを進めた。最初は何故人狼たる己が猫の姿にとも思ったが、この自由気儘さが良い。街中に狼といった組み合わせでは、こうはいかない。
どうやら猫の魅力は世界共通のようで、誰もがこの一匹の淡い灰猫を可愛がってくれた。胸躍る足取りのまま彼らがゆく後をついていき、様々な教室を巡りながら人々の日常を眺めていれば、この無機質な建物もどこかあたたかく思えてくるのだから不思議なものだ。
暫くして、生徒らの会話から此処が銀誓館学園なる学校だと知り、嗚呼と合点する。クルースニク発祥の世界。つまりは、己の生まれ故郷かもしれぬ場所だ。
そんな感慨に耽る暇もなく、猫の優れた聴力が新たな会話を拾った。今はにゃあとしか喋れぬ身だが、容易に言語が分かるのは夢だからか、それとも己が猟兵だからか。
自転車置き場のトタン屋根のうえに座り、じっと耳を澄ます。己が元の姿と同じく、耳と尾を携えた面々が、会話を交えながら校舎を背に歩いてゆく。
それがまさに同胞らの語らいだと知ったガスパールは、いてもたってもいられず飛び出した。ともすれば、己もその輪の内にいたかもしれぬ。同じ目線で、同じ物事を共有していたかもしれぬ。そう考えずにはいられない。
中庭のベンチに座った彼らは、四、五人の仲間内で過去を語っていた。其処に素知らぬふりをして近づき、なんならにゃあと一声鳴いてからひとりの膝の上でまあるくなれば、みな破顔して受け入れてくれる。
螺子、洗脳、ビャウォヴィエジャの森――皆目分からぬ言葉ばかりが並ぶなか、ひとりの男子生徒が言った。
――“延々と続く荒野の星が、俺ら人狼の故郷だった”。
そうか。此処ではなく、また別の故郷があるのか。浮かんだ気持ちが郷愁なのかなんなのかも分からずに、ガスパールはただ得心した。何処で生まれ、何処で育とうとも。例え属する場所が違えども、連綿と続く我らが命の起原は等しく其処なのだと。
此れが夢の中ならばこそ、こうして近くに在っても、彼らとの距離は果てしなく遠い。
それでも、ガスパールは頭上を行き交う同胞の声を子守歌にゆっくりと瞼を閉じる。
もし次に出逢えたとき、なんと云おうか――そんなふうに、夢路へと微睡みながら。
成功
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