メランコリック・メディシン
目覚めた瞬間に吸った息が、喉で嫌な痛みに変わる。
(……あれ)
どうも妙な感じだと瞬いた視界が、上手く焦点を結ばない。寝起きだからで片づけるには、随分思考もぼんやりとしている。枕に乗せた頭がやけに重くて、布団のなかにある身体が明らかに熱っぽく、動く気が――動ける気がしなかった。
やっと明瞭になってきた視界に、灰色の耳がぴょこんと覗く。様子がおかしいことに気づいた小さな相棒が、傍に来てくれたようだ。
けれど、うさた、と相棒の名前を呼ぼうとした月居・蒼汰(泡沫メランコリー・f16730)の唇は、掠れた息を零しただけだった。それでますます心配そうにこちらを見つめる金色の瞳にどうにか笑ってみせる。
(風邪、ひいたかな)
普段ならこのまま二度寝を決め込むところだが、今日ばかりはそういうわけにもいかない。
――だって今日は、ラナさんが来る日だ。
なんとか体をベッドから引き上げる。よりにもよってこんな日に、と思いながら熱を測ると、体温計はしっかりと高熱を示していた。
やっぱり、と自身にため息が出た。けれども出てしまった熱は気合でどうにかなるものでもない。とりあえずは市販の風邪薬だけでも飲んでおこうと、蒼汰はのろのろと冷蔵庫を開ける。なにか食べたほうがいいのはわかっているが、その用意ができそうな気もせず、結局ゼリー飲料で三粒ほど錠剤を流し込んだ。
これで熱は下がるだろうか。だとしても、こんな状態で彼女に会うわけにはいかない。
蒼汰は重い体を引きずるようにしてベッドへ戻り、枕元に置いていたスマホで彼女にメッセージを打ち始めた。心配はかけたくはないが、変に濁して不安にもさせたくない。少し考えて、結局素直に理由を伝え、再びベッドに潜り込んだ。
すると、また心配そうにうさたが枕元に来てくれる。
「……大丈夫、少し眠ればすぐに治る……から」
小さなぬくもりをそっと撫でているうちに、蒼汰の意識は気怠さのなかにゆっくりと沈んでいく。
『すみませんラナさん、熱が出てしまいました。今日のデートは後日また改めて誘わせてください』
蒼汰から届いていたメッセージを見て、ラナ・スピラエア(苺色の魔法・f06644)は驚いてしまった。
「熱……?」
スマホを手にしたまま思わずつぶやいて、ラナは慌てて返事を打ち込む。
『大丈夫ですか? 無理はしないでくださいね』
そう一度送ってから、じっと画面を見て少し考える。指先がしばらく迷って、やっと動いた。
『お見舞いに行ってもいいですか?』
ラナとしては勇気を出して訊いたことだ。けれど、しばらく待っても返事は来ない。いつもなら、すぐに返してくれるのに。
(……これは、だいぶ具合が悪い?)
蒼汰は一人暮らしだ。大丈夫だろうか、と一度思ってしまえば、どんどん不安は大きくなるばかりで――気づけばラナは慌てて準備をして、家を飛び出していた。
●
ドキドキと心臓が鳴っている。
ラナの手には、初めて使う合鍵があり、目の前には蒼汰の自宅の玄関があった。いつでも使っていいと言われてはいるけれど、いざ使うとなると妙に緊張してしまう。
「……えいっ」
思い切って鍵を開け、扉を開ければ、家のなかはしんと静まり返っていた。いつもならすぐに彼の声がして、それより先に――、
「うさたさん!」
玄関先のいつもの場所に、ちょこんと蒼汰の相棒であるうさたがいた。いつもいち早くラナを出迎えてくれるが、今日も気づいていてくれたらしい。その愛らしさについ頬が緩んだ。
「こんにちは。蒼汰さんは大丈夫ですか? 今は寝てます?」
話しかけて、言葉が返るわけではない。けれどそのつぶらな瞳をじっと見ていると、なんとなくわかるような気がした。
「……お部屋に、お邪魔しても良いんでしょうか」
ぽつりと零したラナの言葉に応えるように、うさたが奥へぴょこぴょこと進んで行く。大丈夫と言ってくれているのだろうか。――きっとそうだ。
そう思うことにして、ラナはまた勇気を出してうさたを追って奥へ入って行く。いつも来ている場所だ、すぐ先に彼の寝室があるのだって知っている。寝室の扉は少し開いていて、その隙間からうさたが入って行くのが見えた。それでも一応、控えめなノックをする。返事はない。
なるべくそっと扉を開けると、静かな部屋のなかからは蒼汰の寝息が聞こえていた。寝顔を覗く。なにか重大なことにはなっていないようでほっとしたが、額に手を添えれば、確かに熱い。
「……ん」
ふれたせいか、蒼汰が僅かに身じろいだ。その瞳が、ゆっくり開く。
「おはようございます、蒼汰さん。お加減いかがですか?」
「えっ、ラナさ……うわ、来てくれたんですか。すみません」
蒼汰が驚いた様子で目を丸くする。それにラナはなんだか嬉しくなってしまった。
「その、勝手にお邪魔してすみません。どうしても心配で……。お薬は? お医者様には診ていただきました?」
「お医者さんにはまだ……。とりあえず寝れば治るかなって」
蒼汰はどことなくばつが悪そうにぽそりと答える。彼らしいといえばそうとも思えた。
「でも、その、来てくれてありがとうございます……」
ふと笑み崩れた蒼汰は、どこかほっとしたような顔に見えた。風邪や怪我をしたときは誰だって気が弱るものだ。それをラナが埋められたならいい。ラナは微笑んで、緩く首を横に振る。
「一応、色々お薬は持って来たんですけど……先になにか食べたほうがいいですね」
少し待っててください、と言い置いて、ラナはキッチンのほうへ向かう。
――そうして用意したのは、チキンと野菜のスープと林檎のゼリーだ。料理はまだ不慣れだが、簡単なものならなんとか一人でも作れるようになった。
「わ……美味しい」
「本当ですか? よかった……!」
蒼汰がふわりと笑ってくれるのに、ラナもほっとして嬉しくなる。ゆっくりと食べる彼をうさたと一緒に見守りながら、ラナは用意してきた薬も取り出した。
「食べたらお薬を飲んで寝ましょうね」
「はい。……なんだか俺、子供みたいですね」
「ふふ、いいんですよ、風邪のときくらい」
くすくすと笑いあって、蒼汰が薬を飲んで布団に入り直すまでを見届けて。ラナがそのまま、食器を片づけに行こうとしたときだ。
「……ラナさん」
背中から蒼汰が呼ぶ声で足を止める。振り向いた先で、布団から出された蒼汰の手が見えた。
「少しだけ、手を、握ってもらってもいいですか」
「手、ですか? はい、勿論です」
笑って頷いて、ラナは蒼汰の傍に戻ると、その手を握る。すっかり繋ぎ慣れた大きな手は、いつもより熱い。
「……ありがとうございます」
なんの心配もなくなったように、どこか幼く笑った蒼汰がそのまま目を閉じる。
彼の力になれただろうか。やがてその呼吸がまた寝息になっても、ラナはその手を離さないままでいた。
(私が作ったご飯と薬で、治ってくれたら嬉しいけど。……蒼汰さんは風邪のとき、なにが食べたいんだろう)
どうしたってラナが生まれ育った世界と蒼汰が暮らすこの世界では常識が違う。本当はもっと完璧に、看病がしたい。
「治ったら、教えてくださいね。……だってこれは『彼女』だからできること、だから」
ラナは寝息を零す彼の傍で、ひとりつぶやく。
心配と、これから彼にしてあげたいことと――特別ゆえの独占欲と。まだ熱であつい手のひらをもう一度確かめるように、そっと力を込めた。
成功
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