Après la pluie ──
11月某日、一人の男が日本のとある空港のロビーで一人用のソファに身を沈めていた。
全身黒づくめの服装に目元を隠すサングラス、首に下げたロザリオは彼が聖職者である証なのだが信仰の薄いこの国では不良が身に着けるシルバーアクセサリーの類に見えてしまう。
そんな威圧感のある外見をしているためか周囲の人間は彼から少し距離を取り、息を潜めるように過ごしていた。死を克服したサイキックハーツの世界の人々だが恐怖心というものを完全に捨て去る事は出来ない、とは言えそれが彼らが正常な命である事を示す一つの指針でもあるのだろう。
どこか重苦しい空気が流れる中、男以外の誰もが早く時間が過ぎ去って欲しいと思っていた時だった。
「うぅ……わああぁ~っ!!」
どこからか聴こえてきた小さな子供の声に、男がサングラスをずらして声がした方を見る。そこではまだ10歳にもならない男の子がその場で蹲るようにして泣いており、母親らしき女性が必死にそれを宥めようとしていた。
「……」
その光景を見た男がゆっくりと立ち上がると周囲の人間がびくりと肩を竦める、何人かは男を止めようと声を掛けるが彼が視線を向けるだけで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。
厚底のブーツをコツコツと鳴らしながら、男は親子に向かって歩みを進める。自分達に近付く存在に気が付いた母親は庇う様に子供を抱きしめるが男の威圧感に射貫かれ動くことができない。やがて手を伸ばせば届く距離まで接近した男はそこでしゃがみ込むと、サングラスを外して鋭い目付きを白日の下に曝した。
「……僕、どうしたんだい?」
そうして男の口から出た言葉はとても穏やかで、優しい声音だった。
「……へ?」
「こうちゃんが、ひこうきはこわいのりものだって……たくさんひとがしんでるんだって……」
見た目と声のギャップに母親の口から気の抜けた声が漏れると同時に、彼女の腕の中で男の子が涙の訳を語り始める。どうやら彼は友達から飛行機に関する怖い話でも聞かされて、乗る直前になってその恐怖が溢れてきてしまったらしい、男の子の話を聞いた男は静かに頷くと安心させるようにゆっくりと彼に話しかける。
「大丈夫、飛行機は怖い乗り物にならないように沢山の人が頑張ってるんだ。それに神様だって君が怖い目に会わないように見守ってくれてる」
「かみさま?」
「そうだよ、空に居る神様はいつも僕達を見守ってくれてるんだ。君は普段お母さんを困らせたり、悪い事をしたりしていないかい?」
男の言葉に男の子は小さく首を振り、母親も肯定するように頷いた。それを見て男は優し気に微笑むと何か提案するようにピンと指を立てた。
「それなら後は勇気を出すだけ、だから一緒に勇気の出る歌を歌おう」
「ゆうきのでるうた?」
男の子の言葉にそう、と男は答えると大きく息を吸い込み……。
「そauだa~!嬉aiしIんだAー!生kill喜auこeau!びー!」
聞くに堪えない素っ頓狂な音程、突如国民的ヒーローをオープニングテーマを歌い出した。
それを聞いた男の子はしばらく呆けたように口を開けていたが、やがて何かに耐え切れなくなったかのように大きな声で笑いだす。
「おにいちゃん、へたっぴー!ぜんぜんちがうじゃん!」
「本当?参ったなー……それじゃあ正しい歌を教えてくれるかな?」
「うん!」
そう言って男の子と二人で歌い出す男の姿に視線が注目するが、そこに先程までの恐怖の感情は無かった。やがて飛行機の時間が来たのか母親が頭を下げて男にお礼を言うと、子供と二人で手を振りながらゲートの方へと歩いて行った。
「……あの親子に、どうか幸福があらんことを」
二人の姿が見えなくなると、男……ギュスターヴ・ベルトラン(我が信仰、依然揺るぎなく・f44004)はロザリオを握りしめ祈りを捧げる。その瞼の裏には幼き日の光景が浮かび上がっていた。
「ただいまー」
「お帰りなさい……どうしたの!?」
幼い頃、顔を腫らして帰って来たギュスターヴを見て母は慌てて濡れたタオルで彼の傷を冷やす。活発ではあるが日々の祈りや感謝を忘れず生きる穏やかなギュスターヴが明らかに人に殴られて帰って来たのだ、母からすれば天地がひっくり返るような出来事である。
「ビルがママンを馬鹿にしたんだ、お前はそんなに歌が下手なのに母さんが上手いはずがないって、本当は違う人が歌ってるんだろうって……」
「まあ、それで喧嘩に……」
「違うよ、主に誓ってぼくは暴力を振るってない!嘘は神の掲げる戒めの一つだって言っただけだ!」
そう言ってギュスターヴは傷一つない綺麗な手を母親に向かって見せてみせる、きっと学校でも今の様に学友に反論したのだろう。馬鹿にされたことを怒るでもなく、恥ずかしがるでもなく、ただ真っ直ぐな目でそれはいけない事だと窘めたのだ。彼の事を良く知る母はその光景がありありと目に浮かんできた。
「偉いわギュスターヴ、貴方は私の宝物よ……!」
そう言って母はギュスターヴを強く、それでいて優しく抱きしめる。
ギュスターヴからすれば安易に暴力を振るわない事は当然の事であり、むしろ母を侮辱された事に怒りを覚え強い口調で学友を咎めたのは恥ずべき事ではないかと不安ですらあった。しかし母はギュスターヴの行動を良いものだと言ってくれた、親の贔屓目というのもあるだろうがそれがとても嬉しくて、未だ痛む頬の傷がなんだか誇らしいもののように思えてきた。
「父さんも褒めてくれるかな?」
「……ええ、きっと褒めてくれるわ」
ギュスターヴの口から出た言葉に彼を抱きしめる母の腕に力が込もる。それが意味する事を、彼はすぐに知る事となった。
「ただいま」
「帰ってきた!」
噂をすれば影ということか、玄関から聞こえてきた父の声にギュスターヴは母親が止める間もなく父に向かって走り出す。その耳にはきっと褒めてくれるという母の言葉がずっと反芻して聞こえていた。
褒められたい、愛されたい、自分を見て欲しい、そんな期待を胸に子供らしいあどけない笑みを浮かべて駆け寄って来た子供の身体を、父は邪魔なものをどかすかのように片手で押しのけた。
ギュスターヴの視界が揺れる、父に押しのけられた結果駆け出した勢いのまま壁に衝突したのだと気が付いたのは、自分の額から流れた血が床に斑点模様を作っているのを見てからだった。不思議な事に痛みは殆どない、それよりも背後から聞こえてきた母の悲鳴の方がギュスターヴにとって重要だった。
「アナタ!ギュスターヴに何をしたの!?」
「なにも。それよりほら、駅前の店で素敵なケーキが売ってたんだ!二人で食べよう!」
流血するギュスターヴを見て狼狽する母に対して、父は彼が存在していないかのように母に話しかける。父の差し出した袋を無視してギュスターヴに駆け寄った母は彼を強く抱きしめると鋭い目付きで父を睨みつけた。
「ねえアナタ、この子が今日……いや、普段何をしているか知ってる……?」
「仕事が忙しくてね」
「私は知ってる!ギュスターヴはね、誰に言われるでもなく礼拝に行くのよ?聖歌だって毎日練習してるし、それが下手だと馬鹿にされても暴力を振るわない!自慢の子よ……!なのになんでアナタはこの子を見てあげようとしないの!?」
「……不公平じゃないか」
激高する母に対し父の声から感情が消え失せ、その視線がギュスターヴの方へと向けられる。太陽の届かない穴の底かのような、黒々と冷たい瞳だった。
「二人で誓ったじゃないか永遠の愛を、僕は今でもキミを愛しているよ。なのに君はどうだい?口を開けばギュスターヴ、ギュスターヴ、ギュスターヴギュスターヴギュスターヴ!いつだってソレの事ばかりじゃないか!」
それが、ギュスターヴが父の口から初めて聞く自分の話だった。
一歩、ギュスターヴを見ながら父が足を踏み出す。母の口から短い悲鳴が漏れ、それを聞いて何か異様な事が起きているのだとギュスターヴは遅れながらに理解した。
何故なら彼にとって父親に無視される事も、邪魔な物のように扱われる事も、いつもの日常でしかなかったからだ。
恐怖心に耐えかねたかのように、母はギュスターヴを抱えたまま弾かれたように家から飛び出す。
「主よ、どうして愛する人と同じ世界を見る事ができないのでしょうか……!」
震える声で呟かれたそんな母の言葉は今でもハッキリと覚えている。
母の胸から見上げる空は、分厚い雲に覆われていた。
それから親子は父から逃げるようにフランス中を駆け回った。
母は父の影に怯えながらも、夜になると何かに縋るようにその名前を呟いていた。
ギュスターヴは母のそんな姿を見たくないが為に、以前より頻繁に教会に通う様になった。
「ギュスターヴは良い子だね、でもあまり帰るのが遅いと両親が心配するんじゃないかい?」
「……大丈夫です」
教会の清掃を手伝っている時に神父様に言われた言葉に、ギュスターヴは曖昧な笑顔を浮かべながらそう返す。その表情に何か察したのだろう、神父様は少し考え込むように顎に手を当てた後、姿勢を低くしてギュスターヴと視線を合わせた。
「ご両親が苦手かい?」
「そんな事は……いや、そうかもしれません」
父は当然として父を未だに愛している母にもギュスターヴはどこか怒りを覚えていた、自分だけを見ろというわけではないが新しい恋に生きてあんな男の事は忘れてしまっても良いだろうと思うことはある。
思うことはあるが、そんな両親を心の底から嫌うことができない事がギュスターヴの胸に影を落としていた。
「ふむ……なあギュスターヴ、シスターアリスはわかるかな?」
「……はい」
「彼女、これは美味しいやつだから大丈夫とよくレモンのお菓子を作るんだ。私はレモンが苦手だといつも言っているのに」
「はい?」
「残すのも悪いから全部食べているのだが、正直辛くてね」
突然の私生活の告白にギュスターヴの口から間の抜けた声が漏れるが、それを気にしていないかのように神父様は言葉を続ける。
「つまり、人の全てを好きになる必要はないし嫌いになる必要もないんだよ」
「……」
「人は誰しも色々な一面を持っている、ペルソナやアニマ等という言葉が生まれる程度にはね。まずはご両親の好きと嫌いを天秤にかけて、どちらが重いのかを考えてみても良いんじゃないかな?」
正直に言えば、まだ幼いギュスターヴには神父様の話は半分以上理解できていなかった。しかしその人の全てを好きになる必要がないという言葉に、彼の抱える母への思いに少し光が差したように感じた。
「神父様──」
「うん、今日はもう帰りなさい。何事もまずは向き合う事が大切だ」
神父様の言葉にギュスターヴは頭を下げて箒を渡す。今日は帰ろう、帰って母としっかり話し合おう、そう思って踵を返した時だった。
「やあ、こんな所に居たのか」
久しぶりに聞いた、もう二度と聞くまいと思っていた声が聞こえた瞬間、ギュスターヴの全身を熱い何かが貫いた。
「ッ……!ガっ…!?」
「目の前で殺すと彼女が悲しむからね、一人になってくれるのを待っていたよ」
笑いながら話す父の姿は人間ではなかった。身体の半分からは骨が露出し、背中からは透明な水晶の翼が生えている。
命無き者、そんな言葉がギュスターヴの脳裏を過った。
「神、父、様……逃げっ……」
血を吐き出しながら先程まで話していた神父様の方を向いたギュスターヴが見たのは、全身に穴を空けた亡骸だった。
「ッ……!」
「ああ、仲が良さそうだったからね。一緒に死ねば寂しくないだろう?」
ギュスターヴの死を目の前にしているからか、父はとても饒舌で楽し気だった。
──何事もまずは向き合う事が大切だ──
──どうして愛する人と同じ世界を見る事ができないのでしょうか……!──
先程の神父の言葉と、遠くに聞いた母の言葉が蘇る。憎む自分だけでなく、無関係な神父様を殺し、なおも楽しそうに笑う父と向き合って、噛み締めた歯が軋む音が響いた。
(母さん、僕は、こいつを──!)
視界が赤く染まって、その後の事はよく覚えていない。
気が付けばギュスターヴはその手に父の背中にある翼と似た水晶できた十字架を握しめて、教会の壁は機関銃でも撃ち込まれたかのように穴だらけになっており、怪物となった父の姿はどこにもなかった。
実感はなかったが、確信はあった、自分は父を殺したのだと。
「ぐっ……!」
胃から込み上げてくるものをどうにか抑え込む。とにかく自分がやってしまった事を伝えなければ、そう考えて教会から出た時だった。
「ギュスターヴ、やっぱりここに居たのね」
今、一番聞きたくない人物の声がギュスターヴの耳に入った。
「母、さん……」
「ごめんなさい、寂しく思わせてしまって……帰りましょう?貴方の好きなケーキを用意したのよ?」
そう言って手を差し伸べる母の顔は、もう長いこと見ていなかった優しい笑顔だった。
思い出す、母の愛を独占しようとした父の姿を。
思い出す、その場に居ない父に愛の言葉を囁く母の姿を。
「帰れない──」
思い出す、自分のために父を殺した自分の姿を。
「僕は、帰れない……帰っちゃ駄目なんだ!!」
「ギュスターヴ!?」
母の手を払い、逃げるようにギュスターヴは石造りの道を駆け出す。
曇天の空からは、いつの間にか雨が降り始めていた。
(……覚えてるんだな、もうずっと昔の事なのに)
飛行機の座席に体重を預け、ギュスターヴはゆっくりと息を吐き出す。
父は悪魔に憑かれたのだと思っていた、この世のものでない者に唆されたのだと、尋常ならざる姿を見てそう考えた。
しかし事実は違った、ダークネスとは人の心の内に潜む者、それが表に出るのは人の心が負の感情で疲弊し精神が大きく揺らいだ時だと。学園でそれを知った時、底の無い穴に落ちたかのような気分だった。
ならば父を怪物にしたのは彼自身の感情であり、その原因となったのは自分……そう思い至った時、心の中に燃えていた炎を消えた事がわかった。
後はただ怯える日々だった、表向きは明るく振舞っていても心のどこかは母が愛する人を殺した自分を憎むのではないかという恐怖で震えていた。だから故郷と母から目を逸らして、逸らして、逸らし続けて、気が付けば二十を超えていた。
世界は平和になって、学園を卒業し、いつの間にか灼滅者ではなく猟兵と呼ばれるようになって、それだけの長い時間が経って、漸く覚悟が決まった。
──ギュスターヴ!ずっと連絡しないで何をしてたの!──
──ケーキが悪くなる前に帰ってきなさい!毎年二人分食べるの大変なんだから!──
夏頃、勇気を出して連絡をした母からはそんな事を言われた。ああ全く、どれだけ時間が経ってもぼくは彼女の子供なんだなと思って、思わず涙が出そうになった。
それから自分の力でフランスに行くための資金を稼いだ、友人達からは資金は出すからすぐにでも行けば良いと言われたがそれは丁重に断った。これは自分の問題で、自分がずっと逃げてきた事だ、だから始まりから終わりまで自分の足で進まなければ嘘になってしまう。
両親と向き合うと決めたのは自分だ、誰に言われたわけでもなく、それを嘘にしてしまえばきっとまた心の炎が消えてしまうだろう。そんな事はあの時の一回で十分だ。
「何事もまずは向き合う事が大切、今からでも遅くはないでしょうか?」
あの日かけられた言葉を思い出しながら、ギュスターヴは祈りを捧げるようにフランス行きの飛行機のチケットを自分の額に当てる。季節は11月、それは死者の月であり魂の月、死んだ者のために死んだ者のために敬虔なる信徒が祈る月だ。
祈れるだろうか、父のために。きっと祈れるだろう、それだけの時間を重ねてきたのだから。
飛行機が飛び立つ、慣れ親しんだ日本から離れ故郷フランスの空へと向かって。
「Ce n'est pas un retour, juste un passage pour mettre les choses en ordre.|《故郷に帰るんじゃなくて、一回戻るんだ。きちんとケジメを付けるために》」
窓の外に広がる空は、とても青く透き通っていた。
成功
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