●名も無きものに
最初に赤が見えた。それがあんまりに綺麗だったから、それが何なのか知りたくなった。
ただ、それだけ。ただそれだけの事から今に至る迄の全てが連なっている。
起源が血だまりの美しさであるなら、その道程もまた血だまりの醜さであるべきだとでも言うのか。その存在の行く先は常に数多の残酷と悲劇に塗れ、けれどそれらを撒き散らす当人に取って、その全ては何の事は無い些事で。
悪意すら無く、ただ興味のある事と興味の無い事のズレから生じる、その不協和音の奏でる音の全てが罪に満ち、邪悪に溢れ、致命的に過ぎる。
けれど。
いや、だからこそ冷たく乾いた事実として。そこだけは決して揺らがず動かない。
最初はただ綺麗だなあと、そう思っただけだった。
●それでもそれに手を伸ばす
「どうなってんだクソが!」
大至急と言って集めた猟兵達の前、ハイドランジア・ムーンライズ(翼なんていらない・f05950)は普段の淑女ぶった演技も忘れて悪態を吐いた。
「あ、ああ集まってくれたのにすまん。だがマジで時間がねえんだ駆け足で説明する」
だが直ぐに猟兵達の存在を思い出したのだろう。慌てて謝り、そのまま早口で言って資料を押し付ける。
どうせグリモアゲートは正確に『その場』に行ける物ではないのだから、道すがらに読めたら読んでくれと。
「どの道、詳細情報が必須って敵でもねえ。但しそれは弱いからじゃ無くて、何でも出来やがるからだ」
万能過ぎて対策もへったくれも無いのだ。
打ち倒すべきは封神武侠界の仙人の一人。いや、一人と数えて良いのかすら怪しい群体生物の邪仙『珪珪』。
「粘菌の一種見たいな生物からバカ見てえに上位にまで上り詰めた化物だ。つーかオブリビオンだったのか。それとも違うのか。隠されてて俺が感知出来なかったのか。或いはいっそ今さっき成りやがったのか。もしかしたら色んな自分を内包してやがるのか……ああもう分っかんねえしどれにしても出鱈目が過ぎやがる!」
群体故に数多の自我を持ち、そんな大量の己でもって万種の宝貝と仙術を操る。
雑な説明が進む毎、猟兵達の表情が見る見る強張って行く。何だその分かり易くも無体極まる強さは。
「そんなクソゲーその物なスペックの敵に、今猟兵が一人で戦おうとしてる。だから殺される前に直ぐ行ってくれ」
何と飾り気なく端的な説明か。そしてその焦りも納得する他ない事態か。
猟兵達の顔に理解が浮かび、即座に準備へと移る。
「身内だたあ言ってたが、それで安心できる相手じゃねえのは分かってたんだ。クソ……何で止めなかった。つか、にいやんも俺の事なんざ気にせず笑って従って誤魔化しゃ良かったってのにクソクソ……!」
後悔と、苛立ちと、八つ当たり、それらの入り混じった悪態をボロボロ零しながら、グリモア猟兵はゲートを開く。
だからだろうか。猟兵達は、脳裏に過ったその疑問を口にしなかった。
『間に合うのか?』
聞いた所で意味が無いから。だって聞いたって結果が変わる訳じゃない。
仮に聞いて、それで例えば無理だと分かったからと言って。じゃあ止めようだなんて諦められないのだから。
●すべてのものに
想い自体に罪など無い。願いそれその物に害とて無い。
けれど何故だろう。結局はそこに必ず幾多の罪が伴い、数多の害が付随する。
なのにそれを分かって進む。或いは分かろうとしないまま進む。もしかしたら、分かり様もないままに進む。どれでも同じ、結局は進むのだ。血だまりに染まったその道を。屍で出来たその階段を。
そこは、そこに関してだけは彼女だけではない。彼だけでもない。きっと全てのものがそうで。
どうしてだろうか。
理解してやる必要など無いけれど。心得て置く理由などありはしないけれど。でも、どうしてなのだろう。
どうしてそうも|頓《ひたぶる》に進むの。まるで己に、かくあれと|銘《ラベル》が付けられているかの様に。
●それでもそれを離さない
早速勝算の一つが消えた。
余りに大きな死の危険、強大なオブリビオンを前にして。ただ一人きりの孤軍である猟兵は冷静にそう判断した。
「あは」
気楽に笑う仙女が、けれど全く油断してくれていない事に気付いたからだ。
周囲に散らばる気配。増殖して行く縁の繋がり。それらの感覚全てが伝えて来る。
美しい美女の形を取りながら、その正体は数多の己を持つ粘菌系生物であるその仙人は。戦いの宣言の前後より周囲に己の欠片を散らばして行っている。万能なる宝貝の一つも使わず、万変たる仙術も一切行使せず、ただ己の肉体のみを使って此方を包囲しつつあるのだ。
「随分と評価してくれるじゃないか」
皮肉を言いながら、本当はそうじゃない事を分かっている。
道具だろうと術だろうと、使い手との縁を切ってしまえば良いだけだ。それらに頼っている凡百は、その想定外にペースを崩し冷静さを失う。そうなってさえくれれば、例えどんな高位の仙人であろうと結・縁貴(翠縁・f33070)に取っては最早然程の難敵では無い。
「嬉しいなあ|小猫《シャオマオ》」
彼女にそんな甘さは無い。道理ではある、何せ縁貴と言う存在とその能力を『完成させた』当人と言っても良いのだから。その|異能《スペック》を把握して居るのは当たり前と言っても良いだろう。
けれどそれでも、僅かな期待もあったのだ。それだけ珪珪は強大で、縁貴との力の差は歴然なのだから。だから、その精神を形成する何十何百の彼女の群のせめて過半数がそれ位の油断をしてくれる可能性とて……ゼロでは、無いのではと。まあ、無理か。
「君は本当に大きくなったね」
親しげな声。優し気な目。それは嘘ではない。
かつて、生まれたて作られたての翠色の獣を。その身体が完成し力が安定する迄の間ずっと、ずっと見続けていた時から変わらず。そこにはある種の好意の様なものが存在している。
目的がある。期待がある。何よりも興味がある。そんな彼が、此度初めて己への敵意を隠すのを止め、殺意を以て明確な訣別を宣言した。そうして自分を殺すと言う。
どうやって?
猟兵になって得た力があるのかな?
それとも罠かな。道具かも。知らない術? 異世界の? わあ楽しみ!
ねえねえねえねえねえねえ可愛い可愛いあたしの|小猫《ねこちゃん》!
一体私にどんな物を見せてくれるの?
「……|我都腻了《うんざりだ》」
それはその邪仙が獣にずっと向け続けて来た目。獣が邪仙に向けられ続けて来た目。変わらず弛まず尽きせぬ目的と期待と興味の目。
油断何かする筈が無いだって知りたくて知りたくて仕方が無いのだから。寧ろ一欠けらだって見逃さない様に凝視する俯瞰する注意深く観察する。だって彼は生命の極致を知りたい思った化物が辿り着いた究極の仙の、その力を唯一継承している存在。だから全てを知りたい確認したい試したいその行動その言葉その力その肉体その臓腑その細胞一片に至るまで統べて総べて全て!
「愉しみだなあ」
幼子が貰ったプレゼント箱を開ける時の様な、ワクワクと輝く様なその笑顔。
何て不愉快で。何て無慈悲で。そして何て純粋な。
それを一体、何と名付けるべきなのだろうか。
ゆるがせ
このシナリオは、『宿縁邂逅シナリオ』です。
そのため『大都市美術館/廃墟』の団員のプレイングだけが採用されます。
予めご了承下さい。
リクエスト有難うございます。ゆるがせです。
現状、少数精鋭何てレベルではありませんが、高確率でそのまま突き進む事になるかと思われます。
頑張って下さい。
●邪仙『珪珪』
一見すると美女ですが、その内実は粘菌の一種と思しき生命が仙へと至った純度100%人外由来の化物です。人の情緒等元々持っておらず、後天的に学んだ様子もなく、ただ己の望みと目的に向かって歩み続けているだけの傍若無人の権化ですので。話し合いで何とかなる存在ではありません。
数多の宝貝と仙術を使えます。が、相対した猟兵の異能を誰よりも詳しく知っている彼女は今回、無力化され易く逆手に取られ易いそれらを使う気が余りありません。
ただし介入され難い自己強化の類は普通に使っている可能性があります。
恐ろしく強力で万能な最上級の仙人ですが、状況と相手への興味が強すぎる為、強者に有り勝ちな油断は一切ありません。と言うかそもそも群体生物故に数多の思考を並行して持つ彼女は、元々普通の存在に比べて圧倒的に判断ミスを犯す可能性が低い仕様となっています。また同時に、工夫や罠に気付く可能性も大変高いものとなるでしょう。
そうやって勝つんだよこんな鬼強ボスと思いましたか?
大丈夫、私も思いました。
だけどだからこそ命は輝き、奇跡は煌き、絶望が打ち砕かれる瞬間は何よりも貴く美しいのです。
猟兵の魂の強さが、あらゆる困難と理不尽を打ち砕きその先に辿り着くと信じております。
第1章 ボス戦
『邪仙『珪珪』』
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POW : 知りたい!!|調べ《解剖し》たい!!
【戦場内に撒いた自身の本性・粘菌】が命中した敵から剥ぎ取った部位を喰らう事で、敵の弱点に対応した形状の【今まで解剖した生物の部位を生やした姿】に変身する。
SPD : 死んじゃうなんて勿体ない!お薬あげるね!
【自らの手】で切り裂いた自身の【体内で精製・保存している仙丹】を食べさせることで、対象の負傷を治療し、【副反応での極度の興奮・多幸感から限界突破】による攻擊能力を与える。
WIZ : あたしが壊れても、『あたし』がいるから
自身が戦闘で瀕死になると【身体が崩壊し、戦場内の泥から新たな身体】が召喚される。それは高い戦闘力を持ち、自身と同じ攻撃手段で戦う。
イラスト:片吟ペン太
👑11
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵
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種別『ボス戦』のルール
記載された敵が「1体」出現します。多くの場合、敵は、あなたが行動に使用したのと「同じ能力値」の戦闘方法で反撃してきます。
それらを踏まえつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。
| 大成功 | 🔵🔵🔵 |
| 成功 | 🔵🔵🔴 |
| 苦戦 | 🔵🔴🔴 |
| 失敗 | 🔴🔴🔴 |
| 大失敗 | [評価なし] |
👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。
※このボスの宿敵主は
「結・縁貴」です。ボスは殺してもシナリオ終了後に蘇る可能性がありますが、宿敵主がボス戦に参加したかつシナリオが成功すると、とどめを刺す事ができます。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。
●眺め見下ろすものに
言葉上に過ぎないが、一説に神仙と言う言葉は神と仙を一括する分類名に過ぎず、仙人の上位を示す言葉では無いらしい。では上位の仙人を何と呼ぶかと言うに、『真人』と言う言葉がある。不滅の真理を悟り、自然の表れである神々を超える霊力を備え、己が内の陰陽を完全に調和し、道の神髄の具現化として座す。
邪仙『珪珪』が見出した究極の生命。彼女が老師と呼び、数多の道士や仙人に至上と崇められ平伏される『彼』は、恐らくはその称号に最も近く相応しい存在だと言って良いだろう。そんな彼が、直ぐ傍に居る。
当たり前だ、その存在に熱烈な興味と探求心を向ける珪珪は、理由も無くその近くを離れない。そんな彼女の元に縁貴の側から訪ねて行った以上、|此度の戦い《二人の殺し合い》はその存在の目と鼻の先で勃発したと考えるのが道理だ。
なのに、何の動きも無い。
己に固執し解明せんとする邪仙と、己の異能の一部を接ぎ木した獣の殺し合い。それに、何の興味も無いとでも言うかの様に。或いは、ただ見ている事だけが現状の最上であるかの様に。その位階の高さ、極端な視差故に、その思考を理解する事は難しく、その意図を把握する事も不可能に近い。彼が何を考えて居るかなど、誰にも分からず、誰にも分からないままに、彼は何もしない。
そして主たる彼が動かぬ以上、彼を崇拝する周囲総ての者達もまた動かない。究極の光に心を焼かれ、自ら考え求める事を無意識に放棄してしまっている彼らは、自ら何かを為す事は無いのだから。
故にこの場。この時。奔る猟兵達が辿り着く迄の間、この戦いに介入するものは無い。
何が起ころうとも。どんな惨劇が為され様ともだ。
●それでも為すと決めている
「……」
束の間の睨み合い。数瞬後には決定的な何かが始まるだろう状況の、1秒とも半秒とも付かぬその間に、獣は状況を整理する。
戦場となった場は、珪珪が『帰郷して来た』縁貴を迎え入れた……要は応接室の類だ。然程の広さは無い。周囲に破壊が及ぶ事を今更気に掛ける双方では無いだろうが、それでも大立ち回りには向かない。それは獣に取ってそれ程大きなマイナスでは無いが……反面、己が本性である粘菌を周囲にばら撒いている珪珪には明らかにプラスの要素だ。
されど、良い点を絞り出せと言われれば、実は二つある。
一つ目。異能『縁を視る眼』を通した視界の中、周辺にばら撒かれた粘菌の位置が彼には総て分かっている事。それはそうだろう、良くも悪くも縁貴と珪珪の間には確固たる縁が繋がっており、そしてばら撒かれた粘菌の全ては群体生物である彼女自身なのだから。彼我の間は縁の糸で繋がっている。……それがどんなに悍ましくとも、今は万金の価値のある索敵情報となるのだ。
だが、位置が分かれば避けれると言う物では無い。こうも入念に囲まれていれば尚の事だ。けれど今は即座に殺される事だけは無い。
それが二つ目。邪仙は初手で此方を殺しに来ないと言う確信。
彼女に油断は無いが、その主旨は『興味があるから』だ。神隠しにより失踪し猟兵と成って帰って来た彼が、一体どんな進化をしたのか、どんな力や隠し玉を持つのかが知りたい。珪珪が知る限り、彼女と彼の実力差には絶望的な開きがある。そんな絶対者たる彼女に対し敵対を宣言した以上、獣には勝算がある筈なのだ。それが道理だ。その巨大な力の差を埋める得るだけの何か、理屈で考えれば必ずある筈の『それ』が彼女を期待させている。
故に、それを目にする迄は手控える。手札を切る前に速攻で殺してしまったりしたら台無しだから。だからその油断の無さとは裏腹に、今は未だ彼女は致命的な手を打って来ない。これまでに|解剖し《調べ》尽くした生命の姿と力を再現できる彼女が、その身を未だただの美女の形に抑えているのがその証拠だ。
……とは言え。それは逆に言えば、手札を晒した時点でもう後が無いと言う事でもある。
余裕があるのは初手だけなのだ。仕込みを入れたり、準備をしたり、ブラフを掛けたり、何かしらの『最善手以外の何か』を出来るのは一度きりだと考えた方が良い。その後はもう、途切れる事なく王手を仕掛け続けなければいけない。そうで無ければ、恐らくアッサリと死ぬ。或いは、死ぬのと同等かそれ以上に酷い有様に陥る。
此処に居るのは、それだけの理不尽なのだから。
結・縁貴
「俺の異能がどう成長したか、ご覧あれ」
笑って異能の鋏を出現させる
単独で正面から格上に立ち会っているんだ、煽りも陽動も全て無駄
けれど、|この仙《珪珪》の興味を惹き続けること
此れが俺の生命線
おそらく、興味深いと思われれば行動自体は阻害されない
この仙は俺の眼で見る限り、個同士が並列に繋がる群体である
蟻などの真社会性生物のように、上位個体や統率個体はない
過去の反応を鑑みるに、情報は即座に共有される
時間差なく情報を収集・共有し、自身の判断で能力を行使し、けれど嗜好と目的は同じの、極めて大群行動に優れた個達
受肉した目の前の個体を殺しても、即座に次が現れる
つまるところ、全てを殺せたら終わり
はは、笑える!
俺が先に潰れるだろうね
こんな相手に長期戦などやるか
パチンと鋏が鳴る
身を隠すなら全ての存在からでないと意味がない
世界からの所在、俺の存在認識の御縁を斬る
既に俺の所在は認知されている
且つ、数多が俺を探す
長く保てはしないだろう
然しながら、|この仙《珪珪》に触れるには一拍では足りない
それでも此れを渡り切る…!
●愛らしきものに
有害で暴虐な、紛れもない邪仙の珪珪ではあるが、そんな彼女によりにもよって恋慕の念を向ける存在は意外な程に多い。
それは一体どの様な者が? 老師に傅く仙人達は彼女を厭い蔑んでいる。それ以外の存在に彼女が接する機会等、然程は無い。では誰が。
答えは彼女が捕らえ解剖する実験体達。何故だろうか、掛け値なしの被害者である彼らの中に、瞭然に加害者である筈の珪珪に懸想する者が出る例があるのだ。
ストックホルム症候群。もっとシンプルにその美貌。或いは逃れ得ぬ苦境と絶望からの逃避として。理由は様々に考えれる。
だがそれより何より対象を魅了するのは、彼女が相手へと向けるそのストレートな好意の様な物。
対象への興味と、好奇心と、期待と、そしてそれを得れる事に対する喜び。それらを無作為に混ぜ合わせた物を、化物は犠牲者に笑顔と共に真っ直ぐ向ける。それを本当に好意と言って良いのかは微妙な所だ。寧ろ認めない者の方が多いだろう。けれど、向けられた側からすれば。その『紛れもなく己に向けられている』好奇心と興味と期待と喜びは、時に余りにも愛らしく映る。
珪珪自身にそんな意識はあるまい。逃亡防止程度の益はあれど、超越者と言って良い力を持つ女仙に取ってそんなものは誤差に過ぎない。寧ろ、そこに微塵の作為が無いからこそ絡め捕られる者が出る。
それは花だ。美しく愛らしく、けれど摘み取られる事の無い。毒を持つ花。
●それでもそこに辿り着く
「俺の異能がどう成長したか、ご覧あれ」
そう言うや、獣は笑って鋏を出現させる。芝居がかったその言葉に伴い音もなくその手に現れたそれは縁貴の持つ異能の顕現そのものであり、同時に意図してか偶然か挑発としても機能していた。
何となれば殺し合いの土俵の上となったこの場で相対している邪仙『珪珪』が、今最も興味を持って居る事柄の一つが、正にその異能なのだから。彼女が生涯を掛けて追い求める生命の解答。それを解き明かす為の一つと定めながら、己の力では触れる事すら叶わず、未だ解体の目途の欠片も立たぬ仙人の異能。それと同じもの。
「うんうん、見せて貰うよ! 楽しみだなあ」
果たして麗人はいっそ無邪気にすら見える笑顔を浮かべ……そしてこの場の四方八方に散らばっている彼女の『欠片』達の全てと合わせ、興味津々と言う風情で此方を見ている。
これで良い。この流れが最良。いや、寧ろこれ以外の展開全てが悪い。それ位悪いかと言うと、死を伴う程に悪い。
それ程までに、この相手と相対する事は常に致命と隣り合わせだ。
『単独で正面から格上に立ち会っているんだ、煽りも陽動も全て無駄』
瑞獣は彼我の力量差を正確に認識している。
普通に戦えば勝ち目は無く、さりとて下手な小細工が通る様な甘い相手でもない。
けれど、この仙珪珪の興味を惹き続ける事。そこにこそ唯一の活路がある。
『此れが俺の生命線』
恐らく、興味深いと思われれば、その限りに置いて行動自体は阻害されない。
今正に何もされていない事こそがその証拠だ。異能を発動し顕在化させた縁貴を前に、なのに彼女は只食い入る様に見つめ耳を聳てるだけ……いや、他の感覚も多種使って居るのかも知れないが……先程ハッキリと己を殺すと宣言した獣に対し、攻撃は愚か牽制の一つも振るって来ない。それは、縁貴の齎すだろう危険より、その興味が優先順位として遥かに上だからだ。
それだけの強い興味を向けて来ているのか、それだけ獣の力を低いと認知しているのか。恐らくは両方。
鋏……『縁』そのものを断ち切る刃を持つ、ある意味凄まじい危険物と言えるそれを手の中で慎重に、そして精妙に調整しながら。騶虞は己が知識を、記憶を洗い直す。忘れた事等無い、何度も思い返し参照し続けて来た情報ではあるが。それでもこの段で再度確認するのだ。万全に万全を幾重にも重ねねば、欠片の勝機すら現れないのだから。
『この仙は俺の眼で見る限り、個同士が並列に繋がる群体である』
物心付いてよりの年月を掛けた観察は、人外魔境たるその女仙の生物としてのスペックを推察できる段階にまで至っている。
そして其処から更に思考するのだ。この状況でより重要となる事柄、其処に絞って更なる解釈と理解を推し進めるのであれば。
『蟻などの真社会性生物のように、上位個体や統率個体はない』
そこに上下関係や役割分担と言った社会形成は存在しない。数多ある全てに特別は無く、彼女の全てはただ無印の彼女でしかない。
けれど。
『過去の反応を鑑みるに、情報は即座に共有される』
ネットワークは存在している。
どの様な仕組みや手段によってなのかは分からない。其処を看破できればその『縁』を断ち切る事も容易いかも知れないが、仮にそれが『すべて自分だから』と言う理不尽極まる概念のごり押しであった場合、それを縁と定義して断ち切る事の難易度はほぼ不可能に近い所まで跳ね上がる。その可能性がある以上はただの運任せでしかないと判断し、一旦横に置く。
何にせよ確実な事は。以上の要素を推論含めて総合するに。
『時間差なく情報を収集・共有し、自身の判断で能力を行使し、けれど嗜好と目的は同じの、極めて大群行動に優れた個達』
紛れもなく群であり、原理不明ながら高度極まる共有と意思の統合を常時成している。にも拘らず全てが個でもあり、それぞれで感知し思考し判断する。
その二つの強みを兼ね揃えながら齟齬も錯綜も起こさない。その理不尽ぶりは、前述の推論を補強している。
即ち、群の全てが等しく彼女であると言う事。転じて、群の全てが主体になり得ると言う事……つまり。
『受肉した目の前の個体を殺しても、即座に次が現れる』
これを破壊すれば全てが滅ぶと言う類の、俗に言う『核』の様な物が存在しない。
見据えた先で期待に目を輝かせ、楽しげに笑っている『彼女』も、群全体に取っては特別でも何でも無く数多ある端末の内の一つでしか無く、故に替え等幾らでも効く。
つまるところ、全てを殺せたら終わりだ。それでようやく終わりだ。
逆に言うと、全てを残らず殺せなければ終わらないと言う事だ。
殺せど殺せど、この部屋の中の欠片一つ一つから再生する。いや、この部屋の全ての彼女を殺しても周囲一帯の何処かに転がっている欠片から再構築される。……寧ろ、辺り一帯を全て焦土にしてすら、この広い封神武侠界の何処かに一欠けらでも残って居れば……恐らくは、ゴールに辿り着かない。終わらない。
そして、仮に無抵抗であっても殺し切るには骨が折れそうな彼女は、そもそも何を隠そう高度極まる思考と強力無比な術と膨大な知識を兼ね備えた遥かに格上の|超越者《オーヴァーロード》様である。
「はは、笑える!」
一言だけ声に出したのは、そろそろ何か変化を見せなければ痺れを切らすかもしれない邪仙へのアピールだ。
だからその続きである『俺が先に潰れるだろうね』と言う言葉は口には出さず。縁貴は準備を済ます、より精妙に完璧に『断ち切る』為の精神集中と縁のよりハッキリとした目視。
充分に存分に備えて、そして動く。ただ一つの、必殺に向けて。
冗談では無い。こんな相手に長期戦などやるか。
──パチン
鋏が鳴った。
「おっ?」
邪仙が気色を含んだ声を上げた。
絶えず穴が開くほど見つめていた筈の縁貴の姿を、なのに唐突に見失ったからだ。
さながら大観衆の中でミスディレクションを使い消失マジックを成功させる手品師の如く。しかし生憎とこれに技術に拠る種や仕掛けは無い、あるのは異能【|御縁断絶《タチキレタゴエン》】による超常。縁貴と言う名の瑞獣に、望みの有無を問わず与えられた理不尽の御業。
『身を隠すなら全ての存在からでないと意味がない』
そう考えた彼は世界からの所在を、彼自身の存在認識の御縁そのものを斬ったのだ。
観測される事で存在は収束し、認識される事でその実在は証明される。それを、その繋がりの糸を切った。言葉で言う程容易い所業では無く、そして安全な業でも無い。だが、それ故にその効果のほどは絶大である。遥かに格上の仙であろうと、数多のちかく知覚を持つ群体生物であろうと、世界その物から外れたその存在を見失わずには居られなかった。
「|捉迷藏《かくれんぼ》かなあ?」
けれど邪悪は笑う。冗談めかしたような言葉で、けれど本心から愉し気な目で、とても嬉しそうな声で。只管に期待に満ちた目で。
ああ、何て怖気が走る事だろう。
これだ。これこそがこの邪悪で有害で害悪なこの女が、なのに時として他者を魅了し得る所以の一端。
その声に顔に目に欠片の母性も見当たらない。
生誕よりずっと関わり弄り世話をし苛み続けた……良し悪しを省けば養い子と言い得る様な関係性の縁貴に対し、『かくれんぼ』等と言う如何にも幼心を想起させる言葉を口にしながら。なのにそこに欠片の親心も、それに近い物も、それに見える何かですらも、一切見当たらない。
何とも皮肉な話ではある。この怪物は生命の極致たる『師父』の存在に魅せられながらも、けれど『完成してしまっているが故に、次代に繋げると言う概念が無く。生命としては行き止まりである』事を正しく看破していて。……そしてそれは、恐らくこいつ自身もそうなのだ。
果たして自覚しているのだろうか、其処だけは現状自分も『師父』と全く同じに『生命としては行き止まりである』疑いが強い事を。或いはそんな事に興味は無く自覚も無いのか。数多の自分を持つ群れの生命。どれだけ増殖し増え続けようともその全てが大きく変わらぬ『自分』である彼女。他の生物を解剖し理解しその性質を己で再現する様になろうとも、基盤には真の意味での進化が見当たらない。何故と言うに『次代』が無いからでは無いのか。
そして恐らく、だからこそ其処には不変の輝きがある。|次代を必要とせぬが故の《決して子に取られない》永久の少女性。それが、時に人の心の柔く醜いエゴの部分を絡め捕る。何て悍ましい魅力か。何て度し難い傾国の美か。
けれどそれをこそ相手どらなければ行けないのだ。それ程に厄介な存在を殺さねばいけないのだ。そう決めたのだ。
困難に躊躇する時間はもう過ぎた。艱難を恐れる心はもう捨てた。不可能を踏み越える覚悟なら既に此処に。
その為に必要な事は何か。
『既に俺の所在は認知されている』
心の中で改めて確認する。
当たり前だ、存在認知の縁を斬ろうとも過去その物迄斬った訳では無く、少なくとも今の縁貴にそこまでの絶技を振るう余地は無い。珪珪は当たり前にこの場に未だ彼が居る事を知っている。だから。
『且つ、数多が俺を探す』
当たり前の事だ。
そして正解を宣言する様に、周囲に音もなく大量の何かが蠢いている気配を感じる。邪仙の欠片が、米粒程のサイズから指先程度迄のサイズの小さな珪珪達の全てが部屋中を這い回っている。感覚で認識出来ないのであれば、触れてしまえば良いとばかりに。そして恐らくは、同時に並行して感覚による再認識もまた試行し続けている。
群体敵の圧倒的な物量の手数を以てのローラー作戦、或いは獣を追い詰める山狩りか。
『長く保てはしないだろう』
諦める事はあり得ない。彼女に諦める理由は無い。遠からずその魔手は彼を捉える。
「どこかなあ?」
嬉しそうで楽しそうで甘やかな声。紛れもない好意と親しみを浮かべたその貌。それを縦に裂いたとして、その身体を余さず消し炭にしたとして、それでも全然足りない。余りに広く偏在する彼女に対しては然程の痛痒ですら無い。そんな事は百も承知で、けれど先ずはそこが目的地となる。
「困った、見つからないなあ。じゃあ宝貝に頼ろうかなあ?」
仙はわざとらしく声に出しながら、棚から雷界玉を取り出し。钥匙鞭を指でつつき、火焰公面を手に取って見せる。その全てが縁貴の知っている品ばかりを選び取って居るあたりが実に厭らしくて、けれどだからこそ全てブラフだと分かる。何せ全てが使えば即死しかねない効果の品、何より好奇心を優先している彼女がそれを振るう事はあり得ない。只の催促だと分かる。
何せ心底呪わしい事にそれなりに長い付き合いなのだから。
然しながら、この仙『珪珪』に触れるには一拍では足りない。邪仙は気軽な調子で挑発的な行動をしながら、けれど軽挙な移動は行わず。同時に周囲を間断無く確認し続けている。それが好奇心と期待から来るものであれ、変わらず弛まず女は獣の姿を探し求めその行動を待っている。
故に数歩程度のこの距離が、今はあまりに遠い。
だが。
『それでも此れを渡り切る……!』
決意。
いや、覚悟。
いいや、決定事項だ。
必ずそれを為す。確定でそうする。全ては其処からなのだから。
大成功
🔵🔵🔵
結・縁貴
握り込んだのは吸奪神簪
狙うは核
受肉した化生である必要はない
足元にある一つでいい
時間稼ぎにその核の存在認識も断ちながら、吸奪神簪を刺す
核にある生命力に御縁を繋ぎ、吸い取り、御縁の繋がりから刺したまま辿れるなら次の核へ
難しいなら、次の核を刺す
地道にこの場の核を全部刺し切る…つもりではない
生命力を集めきるまでだけだ
認識阻害は何処まで続くだろうか
このまま乗り切れたら奇跡的だな!
気付かれた場合、吸奪神簪は化生の興味を惹く素晴らしい餌だ
同時に凄まじい悪手でもある
何せ、核になっているのは封印されたUDCアースの神性
赤の王
新しい形状の人類を作り出す異界の神である
生命
誕生
成長
それらの神秘を解き明かそうとする化生なら、俺を投げ捨ててでも手に入れようとする代物だろう
封印を解かれて取り込まれたら、…想像したくもないけれど
賭けずに、|あの仙《珪珪》を殺すことなど出来ない
吸奪神簪に強く御縁を繋いで、奪われても継続できるようにする
どれだけ悪手でも最善手はこれだ
●一途なるものに
珪珪が師事する『老師』の周りに居るのは基本的に、彼に心酔し平伏す多くの仙や道士ばかりではある。だがそれでも稀に、近い階梯に在るのか方向性の違いか、膝を折る事無く言葉を交わす来訪者が現れる事もあった。
『なんと、直向きな事じゃ』
それはその一人、前に曲がった禿頭を持つ白髭の老爺の一言。
ふらり現れ、並み居る道士や仙人達を風に柳といなして『老師』に対面し。余人には全く理解の及ばない哲学めいた問答を極短く交わしただけで、用事は済んだとばかりに踵を返した。けれどそこで初めて、それ迄ずっと傍で興味津々と聞いていた珪珪を視界に入れ、少し感心した様に零したのだ。
邪仙はその言葉にきょとんとしただけで、それはどう言う意味かと問うたのは伴わされていた瑞獣だった。泰然とした態度の老爺が、日々己を苛む彼女へ賞賛とも取れる言葉を発したのが気に入らなかったのか、それとも何らかの情報を欲したのか。
片目だけを少し見開き、四角形の瞳で獣を見やった老爺が答えるに。
『生じてより絶えず一つだけを追い。他の全てを蔑ろにして進んでおる。それも何百、何千とな』
何故一目でそれが分かるのかとか、そんな事はどうでも良い。ただその指摘は、その場に置いて十分な説得力があった。
群体として生じては消える何百の『己』全てが其処だけは決して違えず、皆一様に己が生涯の全てをそれに捧げている。それを直向きと言わずして、何と言うのか。
或いは、強いて他の言葉を使うとすれば……
●それでも退く事はない
『狙うは核』
心の声を口には出さず。獣は暗躍する。
「……ん?」
一方で仙女がその眉根を僅かに顰め、小首を傾げた。そんな仕草と表情も美しく、いっそ悩ましく艶めいているのだから美貌と言うのは恐ろしいものだが……ともあれそれは彼女が『おかしなこと』に気付いたからだ。
『受肉した化生である必要はない。足元にある一つでいい』
群体生物が気付いたのは、たった今突然『自分が減った』事と、なのに『どの自分が減ったのか』を認識出来ないと言う事実。
それは管理が曖昧でいい加減だからだろうか? 違う。数多の自分同士で遅滞もロスも無く情報を共有できる彼女に取ってその程度の把握は、只人が己の小指のささくれの痛みに気付ける事と大差がない。
「上手になったねえ」
故に即座にそれが『何らかの手段で珪珪の分体を殺し、かつその存在認識の縁を異能で断っている』のだと看破して、邪仙はニッコリと笑った。
臓器もろくに無い肉片に等しい生命の『核』を正確に捉えて殺す事と、縁を断ち切る異能の行使を並行して行う。その技巧の向上に感心し、その成長具合に期待しているのだ。
「それで、どうするつもりなのかなあ」
ウキウキと弾んだ声は未だ余裕。
寧ろまさかこれで終わりな筈が無いよね。其処から次の手が来る筈だよね。と、そう言う期待に満ちた声。
『……だろうな』
世界そのものからの存在認識の縁を切ると言う、ある意味凄まじい絶技で仙の知覚から逃れている縁貴は苦い顔で頷く。
その手に握り込まれているのは『吸奪神簪』。その機能はシンプルに『その先で刺した存在から生命力や魔力、或いは熱量や存在そのものの力を吸収し溜め込む』と言う物。それはユーベルコード【|吸奪生魔《イノチモマリョクモカミサエモ》】によって概念補強・機能強化され、刺すと言う条件さえ満たせばどんな存在からでも、文字通り神からですら力を『奪え』るに迄至っている。
そうして分体の核にある生命力に御縁を繋ぎ、吸い取り絶命せしめ、刺したまま御縁の繋がりの糸を辿って次の分体の核へ。糸が細り難しいならば、次の核を刺して最初に戻る。その繰り返し。
本来であればそもそも格上の相手に対し本来武器では無くサイズも小さい簪を『刺す』と言う条件を満たす事が困難なのだが、そこを自らの異能による完全な隠形でクリアしているその作戦は見事と言って良い。
「お、また一つ減った。早い早い」
だが、それでは全く不足だ。
身を隠し相手の手勢を減らすと言う意味ではセオリー通りとも言えるこの戦略は、けれど相手の数が有限で常識的な範囲に収まって居る時のみ機能する。翻って、数多の自分を持ち大量にそこら中にばら撒いている珪珪相手に通すのは無謀でしかない。
あまつさえ、どれ程の技巧であれ攻撃と異能を並行するその工程は消耗を伴う。仮に、吸い取った生命力によって補充して行けば体力は続くかも知れないが、それでも精神的な疲労とそれによるミスの危険迄は補填されない。
『このまま乗り切れたら奇跡的だな!』
縁貴が内心毒づくのも無理はない話だ。
いいや、実の所は彼とて地道にこの場の核を全部刺し切る等と言う無謀に挑戦する気は無い。そんな博打に走る心算は無いのだ。邪仙が早々に看破していた通り、この手はあくまで第一段階目。
そしてその完遂は、核から奪った生命力を集めきる迄。簪に十分な力を充填する事で次の段階に進むのだ。けれど。
『認識阻害は何処まで続くだろうか』
どれだけ体力と集中力が持つか。力を貯めるのが目的な以上、前述の仮定の様に己の体力回復に使う事は出来ない。すればその分工程が増えてイタチごっこだ。そして一度でもミスを犯せば其処で終わりとなる。
まして、このまま珪珪が黙って見ている道理も無いのだ。先に宝貝と言葉で脅して来たことが表す通り、縁貴の『手段』に興味津々な彼女も、流石にただただ全て受け入れて甘受する気は無いらしい。それは、『その程度で破れる手札ならまあ別に見なくて良いか』と言う冷淡な判断であり、『だからちょっと急かした方が早く見れるね』と言う稚気染みた思い付きだ。人ならざる邪仙に人の情緒等無く、本来毛も爪も持たぬその命には獣性すら無く、ただただ何処までも未熟で原始的なその思考回路はある意味で恐ろしく合理的でかつ短絡的である。
『っ!!』
だがそれは縁貴も十分わかっている事だ。寧ろ知性を得る前よりずっと飼われていた苦渋の過去の間に、誰よりも見聞きし体験して思い知っている。
だから予想していた。何らかの妨害が来ると予見していた。故に刺そうとした分体が突如、その身に蛇の顎を生じさせ噛み付こうとするその動きに対処出来た。
元より認識出来ない以上それは出鱈目な動きで、動揺しなければ寧ろさした危険でもない。冷静さを保って、形の変化によってズレた核の位置を測り直し一突き。
これで、一先ずは未だ継続を……
「其処だね」
出来なかった。
小さな金属音。途端、ゾワリと肌を撫でる違和感。見やれば、此方を認識できない筈の珪珪と目が合う。
「やっぱり。減ったのは五歩蛇の顎のあたしだったからその辺りだって思ったんだ」
やられた。
精妙な作業故にどうした所で『狙った核』に意識は絞られ、他の把握は甘くなる。それで気付くのが遅れた。あの瞬間、周囲の『珪珪の分体の全て』が変異し其々違う生物の部位を生やした事に。
元来形を持たぬ粘菌状の生物である彼女が持つ【今まで解剖した生物の部位を生やした姿】に変異する能力。それを、己の減少に少し間が開いた≒縁の糸を辿れなくなり、新しい核を刺そうとしたタイミングで一斉に行使する。それで新たな『自分』の存在認識の縁を切られれば、『認識出来なくなった自分が存在していた筈の位置』の近似範囲が縁貴の居る位置と分かる。全てが一様に肉片であれば流石に難しくとも、全てがそれぞれに違う変異を行い生やした生物による識別名を持って居れば、それ位の事はこの仙はしてのける。
後はそこに極狭く一瞬だけながら大きく龍脈を乱す宝貝の針を投げ打つだけ。それで一瞬でも認識阻害が乱れれば充分。
「もしその全部を遠距離に行使出来る程に上手くなってたら、もう少し困ったけどね」
凡そ無茶な過程を嘯きながら、クスクスと邪仙は笑う。
冗談では無い。それ程の超絶の技と術を成せる様になって居たならば、彼女を殺す道の苦労ももう少し減っただろう。
「酷い力技だ」
獣は呆れと厭気を込めた言葉を声にする。
最早隠れても無駄だからだ。既にしっかり認識されて居る。もう一度改めて世界からの認識の御縁を切る? いいや、格上相手に同じ手が二度通用すると考えるのは危険が過ぎる。そもそも、仮に通用したとしても結局は今と同じ手で暴かれる。
よってこの手札は此処までだ。されど簪に貯蔵した『力』は未だ目標の半分ほど。……未だ全然足りていない。
「……|小猫《シャオマオ》」
では、詰みか?
いいや、勿論そうでは無い。縁貴は一つの策に全てを掛ける程殊勝では無い。
当然、次の手はある。準備している。だが。
『同時に凄まじい悪手でもある』
出来れば使いたくなかったと言う奴だ。
とは言え本願の手が潰えた以上はそちらに移るしかなく、そして既にそれは始まっている。
「それ、何?」
気付かれている。邪仙の目が、周囲に散らばった全てを含む彼女の注目が、『吸奪神簪』に集まっていた。
それは実の所、厳密には宝具では無い。
封神武侠界に属さぬ神と縁貴との合作である事もあるが、何よりがそもそも異世界にしか決して存在し得ない素材を中核として使って居るからだ。
封印されたUDCアースの神性、赤の王。
それは新生させ、創生し、可能性の土壌へとその数多の手を伸ばし、新しい形状の人類を作り出す異界の神である。
「それ、欲しいなあ」
見ただけで何処迄認識したのか。解析したのか。理解したのか。
その声一つで場の空気がネットリと淀んだ様に感じた。今迄とは比べ物にならぬほど妖しくギラついた邪仙の視線は、いっそ物理力を持って居るかの様にベットリ纏わりつく様だ。
けれど縁貴は動揺しない。それは寧ろ想定通り予定通りだから。
『気付かれた場合、吸奪神簪は化生の興味を惹く素晴らしい餌だ』
そう、理解していたから。
可能性と創造を司る神性の幼体。
それは、『生命』『誕生』『成長』それらの神秘を解き明かそうとするかの化生からすれば。
『俺を投げ捨ててでも手に入れようとする代物だろう』
だが、それはつまり『殺してでも奪い取る』と言う選択肢が立ち上がって来ると言う事でもある。
今は未だ両取りを狙っている可能性が高い。縁貴を無力化し、彼とその簪の形をした邪神の両方を入手すると言う強欲。彼女はそれが出来るだけの実力も格も持って居る。
けれど余裕がなくなれば何処かで損切りに走るだろう。それ位にそれは珪珪に取って垂涎の品だ。そしてそのタイミングが文字通り彼女の胸の内次第である以上、今この時点から『珪珪は縁貴を殺してしまわない様に動く』と言う前提は覆ったと考えて置いた方が良い。
けれど。
『それはとっくに覚悟の上』
獣は怯まない。簪と引き換えに|投げ捨てられる《一度撤退する》選択肢等、考えもしない。
現状は理想には程遠い、けれど積み重ねた準備と覚悟はどちらも機能している。
邪仙は今、己の望む真理の近くに肉薄し得る権能を備えた神性の残滓に注意を引かれ、その意識の殆どが引き寄せられている状態だ。望むままになるならばそれを観察し体験しそして何よりも解剖して全てを解き明かそうとするだろう。当然、封印された上に加工され簪となった今の状態では無く、元々の可能性を体現する邪神としての完品の状態で。
『封印を解かれて取り込まれたら、……想像したくもないけれど』
そうなれば、赤の王の身体と力を再現できる様になった彼女がどれほど埒外の存在となる事か。少なくとも、ただでさえ糸の如く細い勝機が那由多の彼方に去る事は間違いあるまい。だから、彼自身これは悪手だと考えて居た。
けれど。ああけれど。その途方も無い危険と引き換えに、縁貴は今大半の珪珪の注意から外れている。無数に居る彼女の全てでは無く、『縁を視る眼』は未だ簪より獣に対する縁の糸を太く保っている個体が存在して居る事を感知してはいる。だが、少ない。これ迄の注目に比べれば圧倒的に少ない。不意を打つにせよ、何かを仕込むにせよ、今迄の中で最も良い状況と言って良い程に。
『どの道、賭けずに|あの仙《珪珪》を殺すことなど出来ない』
だから、これで良い。
吸奪神簪に強く御縁を繋ぐ。もし奪われたとしても、その機能の操作を継続できるように。最悪の場合にも備え、あくまで初志である『力の充填』を貫徹するべく万全を期す。
「ねえ、結縁貴。|把它给我吧《それ、頂戴》?」
邪仙が三度その名を呼ぶ。その身が、そして周囲の分体の全てが不気味な音を立てて変異して行く。牙、腕、爪、触手、様々な生物の部位は、その全てが縁貴のあらゆる意味での弱点を突く為の物。言葉とは裏腹に無理矢理奪い取る事が明白に見えるが、彼女の場合はただ気が急いているだけの可能性もある。……とは言え、どちらの場合もやる事は結局何も変わらないのだが。
かくて邪悪な花は棘を顕わにした。毒を持つ棘は容易く命を奪う。結果を見れば、状況は悪化しているかも知れない。けれど、それでも尚、これで良いのだ。
獣の笑みは途切れない。
「|我拒绝《お断りだね》」
どれだけ悪手でも、最善手はこれだと。
大成功
🔵🔵🔵
結・縁貴
真の姿使用:容姿は変わりないが、異能の眼が煌々と輝く
生命を取り込んだ吸奪神簪
多ければ多いほど好かったが…下準備は出来た
取り込んだ生命を増幅し、溢れるよう命じた吸奪神簪を投擲する
差し上げないけど、刺してはあげるよ
刺さったまま観察すれば?
刺さらなければ溢れない
吸奪神簪の力を見たければ、刺さらなければいけない
調べたいよね、避けないだろう?
溢れる力は場にいる群体を癒す。短期的には
限界を超えて視ろ!
並列に繋がり数多に存在する群体:珪珪全てに繋がる御縁の糸を知覚しろ
限界を超えて御縁の繋がりを示せ!
この場だけではなくこの世界に存在する全ての化生、繋がる御縁
それを繋げて通す…!
一つであれば、数瞬で壊せる核
その核が壊れぬよう、増幅した生命を流し続ける
群体:珪珪全てを、唯一の器とするように
一とつたりとも欠けないよう、眼を凝らして絡めとり、流す
全ての器に生命が満ち溢れ、飽和し、全ての器を一度で壊すまで
些少の時間が今はとても長く感じる
吸奪神簪の封印が解れないまま、時間を耐えきるという賭け
…俺は賭けに勝てたかな?
●美しきものに
珪珪の美しさは作り物故にだが、同時にその美しさは珪珪で無ければ成し得ぬ美しさでもある。
知を求めた瑞獣が籠の中から話しかけたとある仙は、忌々し気にそう言った。芸術品を好むが故に『美』に一家言あるらしいその女仙は、珪珪の容姿の造形を認めた上で悪し様に語る。
「あれは、我が無い故だ」
仮に100人の女性の見目を当人の理想の美貌に変じさせたとして、そこに現れるのは100通りの美女で一種のみとはならない。それは各個人がそれぞれの好みと拘りを持っているからだ。事前に『これが最高の美』と言う見本を渡されていたとしてすら、誰も彼もそのままその通りの容姿を選んだりはしない。それが、我と言う物だ。
一方で珪珪には『容姿に対しての』それが無い。己のみ目はこうありたいとか、自分の顔ならこっちが好きとか、そう言う欲が無い。もっと言うなら、興味が無い。全く無い。心の底からどうでも良いと思っている。美しい容姿など『その方が周りの反応が良くなって過ごし易くなるし、交渉もし易くて油断され易くなるから得だよね』程度の物でしかない。
故にこそ、純粋に『美』のみを貫ける。余計な要素も振れ幅もノイズも何も介在せず、一直線に最高を目指せる。決意も気負いも配慮も無く至って気軽にだ。その結果の理想図。
それはある意味でこの上ない芸術と美術の否定だ。だから嫌われる。
されどそれはこれ以上無い程の純度を持った美の顕現だ。だから認めざる得ない。
己の美しさに等興味を持たぬ化物は、故にこそ美しい。
高級を超え値すら付けられぬ美術品が如く。
●それでもそれをやり遂げる
淡翠緑色の輝きが煌いた。
「……っ」
邪仙の動きが、周囲に展開された分体と共に一瞬だけ止まる。
目前に立つ縁貴の存在が『変わった』事に気付いたのだ。彼女が猟兵に関する知識をどれだけ得ているかは分からないが、少なくとも肌身で感じたのだろう。一見した所の容姿に何ら変化はなく、されど異能を宿すその眼が煌々と輝く瑞獣の有り様。生命の埒外、存在の超克、『真の姿』と言い表される猟兵の奥の手の境地に至ったのだと。
その変化は各個人で様々だ、だが概して言える事として全てが段違いに強化されると言う。そのシンプルかつ小さからぬ事実。
「差し上げないけど、刺してはあげるよ」
そして想定外のその言葉。
つい先程の拒否を覆すようで覆さぬその言葉遊び。
「──
強化された観察力と反射神経とそして何より縁を視る目の異能が、そのタイミングを見落とさず完璧に捉えた。
一瞬前まで『吸奪神簪』のみに|その目《意識の過半》を奪われていた珪珪が、再度目前の瑞獣に少なからず興味を惹かれる瞬間を。それはそうだろう、生命の究極を解き明かす事を望む彼女に取って『生命の埒外の顕在化』もまた、見逃せる筈の無い最高の餌なのだ。それでも勿論彼女は超越者、数秒……いや、半秒でも時間があればそれでも優先順位を定めその群体思考に再び秩序を取り戻しただろう。だがこの一瞬、ただ一瞬だけ。並べられた魅力的極まる物品と事象の二兎に、僅かながらに混乱した。
何となれば、目移りすると言う現象に並行した思考の数は関係ないのだから。
──ッ!?」
その一瞬に放たれた其れ。投擲されたのは他ならぬ『吸奪神簪』そのもの。
「刺さったまま観察すれば?」
揶揄う様な縁貴の言葉。
だがそれは本音の挑発であり提言だ。『吸奪神簪の力を見たければ、刺さらなければいけない』と言う純然たる事実の元、刺さる様にと仕向け勧めている。
簪に溜め込まれた『中身』は刺さらなければ溢れない。故に、『調べたいよね、避けないだろう?』と。
本来、彼女に取って動揺は然程の問題では無いのだ。しない訳ではないけれど、群体の全てがする訳では無いのだから。その間に動揺しなかった方の『己』で考えば良いだけだから。だけど先の通り、今この時だけはほぼ全ての彼女が戸惑っていた。彼女に取って余りに眩い二つの光に目が眩んだその瞬間を縫った一手。
刺さるのが危険なのは自明だ。けれど刺さらないとその力が体験できない。だけど縁貴は明らかにそれを狙っている。でもあの可愛い|小猫《シャオマオ》だよ? されど失踪してから今に至る迄の彼を把握できてはいない。そもそもが自分は其処にこそ期待していたのだろう。だからこそ危険では。でも興味深い。調べるには、繋がるのが一番効率的で、繋がるには。だから。
平時であれば違ったかも知れないし、或いは一緒だったかも知れない。何れにせよ同じ事だ、今この時錯綜した思考は|化物《珪珪》が翻意の判断を出来るだけの余地を作れなかった。
「あっ」
間の抜けた様な声。普段の『人型の生命を象った』作り物の美しいそれでは無い、本当にただ半ば無意識に漏れた声。もしかしたら初めて聞いたかも知れない彼女の素の声。
果たして、女仙の胸元に真っ直ぐと簪の先が突き刺さっていた。
勿論それだけであれば彼女には何の痛痒も齎さない。だが。
「|生命溢壊《ミチタリテアフレヨ》」
それは、発動のワードだったのか。或いはただの宣告だったのか。
ユーベルコードによって発動した絶対治癒領域。過剰な高速治癒による生命力の過剰活性で寧ろ魂を内側より傷付け、ついには破壊し死に至らしめると言う術式。それを、刺した物の生命力や魔力を吸収し溜め込む『吸奪神簪』の機能逆転による生命力注入と重ねる。
途端、周囲の気配が少し増えた。先程生命を吸い取られ絶命した筈の『珪珪』の内、辛うじて命数が尽きていなかった幾つかが息を吹き返したのだ。
『溢れる力は場にいる群体を癒す。短期的には』
それは寧ろ、奪った生命力を返しているだけだ。元の入れ物に戻すだけなら、それだけなら長期的にとて何も起きまい。それだけであれば。
だがそれだけである筈もない。今日とは定めていなかったとは言え、縁貴ずっと珪珪を打倒する算段を練っていたのだから。生命を吸い取り溜め込むこの櫛に、その核である異界の神の器に、何度も何種も様々な力を溜吸い取らせ、溜め込んで、己の命なく溢れぬ様に暴走せぬ様に|共同制作者《異界の超越者》に編み込み組み込み願った軛の内に濃縮して。
そこに、|対象《珪珪》に最も相性の良い|珪珪《対象》自身の生命を取り込み混ぜ込んだ。
『多ければ多いほど好かったが……下準備は出来た』
対称の生命と言う『最大効率のつなぎ』と融和した生命を、駄目押しとばかりに増幅した事で今にも暴走し溢れ出しそうな状態に陥った吸奪神簪に重ねて溢れる様に命じた上で投擲したのだ。
つまり縁貴は爆発直前の爆弾を投げ渡したも同然で、それを珪珪は受け取ってしまった。
であればどうなる?
「……ッッッ!!」
悲鳴は上がらなかった。
如何な人の形を完璧以上に模し永き時を経た群体生命とは言え、内側から生命力が溢れて破裂しそう等と言う経験は此度が初めてなのだろう。相応しい悲鳴も声も鳴き声もその在庫棚には無い。
だが、翠の男は一層の気合いを入れてその眼を見開く。これでも未だ不十分だから。寧ろこれからが本番だから。
これで死ぬのは、あくまで目前の邪仙と……それから今治癒が届いた事が示す通りに近辺の分体達のみだろう。それでは『珪珪』は殺し切れない。
『限界を超えて視ろ!』
故に、己が異能を全開にする。
真の姿による強化を頼りに、その肉体を限界以上に酷使し、その魂をそれこそ破裂直前まで拡張し、『縁を視る眼』の力を行使する。
『並列に繋がり数多に存在する群体:珪珪全てに繋がる御縁の糸を知覚しろ』
この場では足りない。
宝物庫全体でも全然狭い。
対象はこの封神武侠界の世界全て。
先程迄のやり取りと執着具合から、この邪仙が未だ異世界へはその身を辿り着かせては居ないと確証を得れた事が最後の必須条件だった。それが無ければ、最悪この期に及んで取り逃がした恐れが残っただろうから。
『限界を超えて御縁の繋がりを示せ!』
邪仙としての彼女では無く、群体生命であり『複数である者』としての珪珪の全てをその縁を辿る事で観測する。負荷は膨大。今にも崩壊しかねぬ肉体を遺志で奮い立たせ、直ぐにも瓦解しかねぬ精神を気合いで繕い続け、獣は夥しい数の縁を手繰り寄せ、この世界に存在する全ての|化生《珪珪》を。繋がる御縁を掴み。
『それを繋げて通す……!』
観測すると言う事はその存在を証明すると言う事。存在は定義され、そうすれば元より同じ『珪珪』である以上その全てはその名に収束する。彼我の距離がどれほど離れていようとも無関係に全てが一つの存在として纏められる事となる。
だがそれは、途方御なく膨大で、同時に針の穴を通す精妙さを求められる所業。何せ、世界に散らばる『珪珪』は、一部を除いて小さな小さな個体ばかり。そうする事で『主機』の安定を図り、他の全てを端末兼緊急避難先の保険として機能させているのだろう。結果として一つであれば、数瞬で壊せる核が大量に存在し……だが、それら全てを今は未だ壊してしまってはいけない。
『まだだ、全部一つに纏める迄は』
だからその核一つ一つが壊れぬよう、増幅した生命を流し続ける。注ぎ込まれ過ぎた生命により入った魂の器のヒビを、注いだ生命によって埋めると言う何とも非効率な応急処置。だが仕方がない、今は一時の時間が必要なのだ。その間に、僅かに永らえた核から他の核へ、その核から更に別の核へと縁を繋ぎ、生命の流入するラインを繋ぎ、全て全てを、群体:珪珪全てを、唯一の器とする迄は。
一とつたりとも欠けないように。眼を『凝らし』て絡めとり、流す。
何故なら一欠けらでも残せば、邪仙はそこから復活してしまうのだから。彼女を殺すのなら、これは必ず必要な事。
『全ての器に生命が満ち溢れ、飽和し、全ての器を一度で壊すまで』
その一撃によって、邪悪にして強大極まるこの化物を屠り切れるその瞬間迄。
だから奥の手により強化した異能の力を、反動覚悟で燃やしているのだ。相応にそれは神業の如く迅速で。けれどその些少の時間が今はとても長く感じる。
「そ、そうか。そうかなるほど良いなこれ良いななるほどじゃあこれは……」
化物の声が聞こえた。
それは恐らく意識もしていない、無意識に口から零れた独り言。獣はその口の端を大きく歪める。
濁流の如く注がれる生命力により、己の身体に掛かっている負荷も、魂の器に広がる罅も、化物自身が気付いていない筈はない。己の身が危うくなっているのだと、これは目前の『敵』である自分からの攻撃だと。全部理解した上で、この女は『そんな場合じゃないと』ばかりにその全てを無視して吸奪神簪の中身を解析し続けているのだ。
そう分かっていたからこその作戦ではある。簪とその『中身』にだけ意識を割いている女仙は、どの様な仙術も変異も行使せず縁貴への攻撃も妨害も行わない。そう踏んだからこそこんな絶対の集中力を要する異能の行使専念の策等引かない。これは目論見通りなのだ。心を乱す理由など、無い。
ただ、一抹の不愉快が心の底に沈殿はする。
「……」
好都合でかつ心底癪な事に、周囲の『珪珪』の分体の全てもまた動いていない。簪を奪おうとつい先ほど縁貴を殺傷し得る形へと変じた全てが、鋭く力強く邪悪に尖らせたその武威のカタチのままで……恐らくはカタチを戻す間すら惜しんで解析に集中している。それだけの魅力が吸奪神簪にはあり、調べれば調べる程に更に興味を惹き付ける要素が見つかり、際限のない喜びと愉しみを彼女に与えているのだろう。
都合の良い展開だが、危うくもある。その情熱と夢中の専心は想像を絶する解析速度を生むのだろうから。
『吸奪神簪の封印が解れないまま、時間を耐えきるという賭け』
それでも、きっとそれは叶う。
とある凶神の助力によるその封印は容易には解けまい。その上、そもそも珪珪の目的は解析であって封印の解除では無く、恐らく封印を解こうとするのは封印の中以外の読み解ける全てを調べ尽くしてからなのだ。例えるなら|迷宮遊戯《ダンジョンアタック》を遊ぶ者が、全ての道と部屋を巡ってから次の階層に行こうとするかの様な徹底した拘り。それは時間との戦いである今に置いてはこの上の無い助力となる。
楽しいのだろう。何時の日か知る事は楽しいよと笑った邪仙。今、とても楽しいのだろう。
知った事が増える程に知見が広がり、それによって知りたい事が更に増えてと、そうして求める網は無限に広がり続けるのだと。ともすればそのキリの無さに辟易してもおかしくない事を、寧ろ無上の魅力だと言わんばかりに語った化物。きっと今、この上なく楽しいのだろう。
そんな彼女だからこそ。そんな己の生き方を決して裏切らぬこの女だからこそ。普通であれば無謀な筈のこの策は成る。
「……俺は賭けに勝てたかな?」
それは問い掛けの様で、事実確認に過ぎず、宣言でもあった。そんな言葉と同時。
命が弾けた。
●それでもそれを乗り越えるのなら
疑うべくもなく邪悪で、悪意すら無く他者を踏み躙り続ける彼女とて、流石に一言一句と一挙一動の全てが害悪だった訳ではない。
結果的に穏やかに済むやり取りとてあったし、彼女自身の興味と期待が集まって居た縁貴の異能に関してなら、寧ろ有用なアドバイスや意見や助力を与えらた事も多い。学びたいと言う希望を示した時など、異能の成長のプラスになるかもと好意的に全肯定されたものだ。勿論、それらは全て結果的な物で、そこに好意も厚意もありはしない。ただ本能のままに生きる蚯蚓が地を耕し土に空気と水気を与え、人の益となる様と同じ様な物だ。
けれど、それでも与えられた事実に違いはない。どれだけ受けた害の方が多くとも、どれほどその存在が憎く嫌悪を感じても、だからこそ其処は認めなくてはいけない。それを認めた上で害を恨み憎み嫌うからこそ筋が通ると言う物なのだから。
そんな益体も無い事がチラリとでも頭を過ったのは、偏に勝利が確定し、余裕が生まれた状況だからに他ならない。
「……ぁ、ぅ……」
地に伏せた邪仙の姿は見るに堪えない物だった。
内側から破裂した風船が如くその皮は千切れ肉が散らばり内腑が零れている。四肢は先から枯れる様に黒く変色し崩れて行っており、なるほど人間の姿は造られたもので本性は粘菌状の生命なのだと言う事を、その崩壊を以て改めて示していた。見た目で伝わる窮状だけもそれだけ酷いのだが、実の所はそれよりも内側……即ち魂の有り様が一層悲惨だろう。縁を視れば分かる。その器は完全に破砕しており、それを修復するのは奇跡に近い御業が必要となろう。少なくともそんな手段が此処に都合よくありはしない。
そして何より、その身から数多伸びていた『己への縁』はそのほぼ全てが千切れていた。相手方が消滅したからだ。数少ない残った糸は全てこの場にある分体に繋がるのみ、本体と言える人間型の彼女の傍にあったが故、他より丈夫であり辛うじて残ったのだろう。補給の薄い遠方の分体は全て、生命の奔流に内側から消し飛ばされたと見て間違いない。
「後は……」
辛うじて人の形を留めたこの女の死を見届ければそれで終わりだ。それで周囲の分体も枯死する。
放って置けばもう程無くだ。下手にとどめを刺そうとして不測の事態を招くより、油断せずこのまま見守った方が良いと。瑞獣は化物の死に絶える様をじっと見つめ。
「っ!」
だからこそ即座に気付いた。周囲の分体の内3体の縁の糸が、細く今にも途切れそうだった筈のそれが突然太くなった事に。
咄嗟に目視し、その急速な再生に気付く。その現象には見覚えがあった。嫌になるほどに見覚えがあった。
『死んじゃうなんて勿体ない! お薬あげるね!』
かつてあの邪悪な女が弄くり倒し死に瀕した生命に与えた治癒、容易く肉体を元のままに復元する事で返ってその玩びぶりが一層強調されていたあの所業。心は癒さずただ体のみを治療する絶技の仙丹。
珪珪自身の体内で精製され保存されているそれがまだ残っていたのか。或いは今最後の力で練り上げたのか。何れにせよたった3体ながら回復してしまったその分体は俊敏に動き出す。
「不味いっ」
慌て異能の鋏を振る。
魂の器が砕けたままならその滅びは避けられまい。が、それでも肉体を修復した以上は今暫くの間だけその3体は生き延びる。その猶予の間にこの場から逃げ、万が一でも宝貝や仙術等の御業によって魂の修復を為されてしまえば全てが元の木阿弥だ。
──パチン
故に『内と外』の縁を切った。これにより此処は外から中へも、中から外へも繋がらぬ様にと。
大掛かりで無茶な縁切り故に長続きはしないし、負担も相応に大きい。だが3体もの獲物を逃がさぬ為にはこれが最善。そして為した以上、後は内外の縁が繋がり直すまでの間に逃げようとする3体を追い詰め殺し切ればそれで良い。元より小さくそれも魂が破損した分体ならば、異能の行使で疲弊した縁貴であっても難しくはない。
「……ふう」
少々焦りはしたが、即時の対応と果断により事無きを得たと。安堵の息を吐いて、集中する必要のあった異能の操作から意識を剥がし珪珪を確認して。
縁貴はその目を剥いた。
「ふふ、うふふ、そうかそうかこうなのか。凄いなあ……」
悦びに満ちた声。それを零せる程度に、邪仙の肉体が再生している。
いいや、依然その肉体は瀕死に違いない。縁を視ても魂の破損具合は何ら変わって居ない。結局滅びを待つだけの状態に変わりはないのだ。けれど、けれど、何故肉体は多少とは言え癒されている?
いや、分かっている。簡単だ。仙丹により回復した分体3体が融合したからだ。
それで彼女はその分だけ回復し、ボロボロながら行動が可能な状態に戻って、それを以て吸奪神簪の解析を再開している。
「……」
言葉も無かった。いや、万の罵詈雑言が喉の奥で荒れ狂い、絡んで滞り口まで上がって来ないと言うのが正確か。
この女は、逃げようと等考えもしなかったのだ。
この女は、生き延びようとも考えなかったのだ。
この女は、この期に及んで己の望みだけの為に。
──ゴポリッ
その胸に突き刺さったままの簪から赤い泥の様な液体が泡立ちつつ漏れだした。
封印の一部が解けたのだ。その裂け目から異界の神の力が漏れ出している。
「…………」
けれど縁貴は最早焦らない。
漏れ出たそれらが見る見ると歪な生命の形に変じて行こうとも。かつての異世界での戦いの折に見た其れとは違うその様相に、解析し理解する事で恐らくはその形質を取り込み融合しつつある珪珪の影響を見て取りつつも。それでも彼には焦る理由がない。必要が無い。
だってこの期に及んで|珪珪《赤の王》が生み出すそれらは多様性と可能性の発露、新人類であり、生命の極北であり……つまり、この場を逃れ或いは縁貴を倒し生き延びる為の手段ではない。
「これとこれと……そうだこれも」
楽しそうに嬉しそうに、幼子の様にはしゃいで次々と試し生み出しながらその身は先程以上には再生しない。きっと夢中になり過ぎて後回しにしているのだ。何らかの変異すらしない。自分の事等本当に心底、どうでも良いのだとばかりに。
程無く己が絶命してしまう。自分の存在が終わってしまう。その状況で、この女は。
それすらも忘れてしまう程に、彼女に取ってそれが魅力的であると言う事ではある。邪仙のそんな|性質《サガ》を見切った縁貴がそこを突いて見事勝利したと、そう言う話ではある。だから焦る必要がない。だってもうこれは離れてしまえば良いだけなのだから。そうすればもう後は勝手に彼女は死に、翠の獣の目的は果たされる。
何せ死に瀕した女仙は逃げる縁貴を止めれないし、いっそのんびりと歩いて帰って行こうとも反応すらしないかも知れない。……ああ、或いはもしかしたら何時もの笑顔でじゃあねと笑いかけて来るかもしれないのだ。何となれば、この状況ですら彼女には普段通りだから。思い起こせば今日、珪珪は今に至る迄ずっと、あくまで1mmとブレずに普段通りにしか行動していないのだから。
ああ、何と言う不愉快な話だろう。
分かっていた。知っていた。利用した。彼女はこうだ。こう言う女だ。こう言う存在だ。
『最初に赤が見えた。それがあんまりに綺麗だったから、それが何なのか知りたくなった』
死に瀕してすらそこは変わらなかった。
後ろ一歩だけでも妥協すれば、彼女は今日死ぬ事は無かっただろう。落ち着いて返り討ちにして、逃げた|小猫《研究対象》を捕らえ直し簪も入手できた筈だ。
それが、彼女以外の誰であっても至極容易く選び取れる最適解だっただろう。
『どうしてそうも|頓《ひたぶる》に進むの。まるで己に、かくあれと|銘《ラベル》が付けられているかの様に』
けれどこいつはそうしなかった。
しないだろうとは思っていた。それをこそ狙っていた。けれどこれほどとは……思っていただろうか。どうだろうか。
『己に固執し解明せんとする邪仙と、己の異能の一部を接ぎ木した獣の殺し合い』
今も静観している老師は、あの究極の仙は、それが分かっていたのだろう。
その愚かで箍の外れた行動理念が、或いは|上天からの縁《天命》を千切らぬ迄も多少揺らす位はしないかと、そんな風に思ったのか?
或いは逆に、何も為せぬだろうと興味も引かなかったのか。
『美しく愛らしく、けれど摘み取られる事の無い。毒を持つ花』
この化物に慕情を抱く愚者達に一辺たりとて共感など出来ない。だが、ただその心の動きの理屈は分かった気がした。
好意めいた甘い興味を向けながら、本質的には一切此方を視ていないその眼。追えど手を伸ばせど決して届かぬそれは、苦痛に濁った眼には時に丸で|至上の逃げ水《ファム・ファタール》の様に映ってしまうのだろう。
『なんと、直向きな事じゃ』
そうだな。確かにそうだ。この有様を見せつけられて尚それを否定する事は出来ない。
この女は……本当に最悪な事に、心底から不愉快な事に、認め難いのに認めざる得ない事に。
『あれは、我が無い故だ』
他を一顧だにしないだけではない、己すらそうだったのだ。今、一切忖度せず自分自身の命すら踏み躙って見せている以上。本当の意味で平等に全て一律に彼女は『己が知りたいと思った事』以外の全てを投げ捨てて……いや、きっと拾い上げた事自体が無くて。物心が付き赤に見惚れた最初から今に至る迄ずっと、ずっと、一切の寄り道も目移りも無くそれだけを目指して歩み続けた彼女は。
その意志は。
その御縁は。
きっと、縁貴の鋏でも決して切れぬ程に堅くて、彼の異能が及ばぬ程、強い。
ああ、ああ、こんな不愉快な話があるか。今も尚、ただ『試して見よう』『確認して見よう』『調べて見よう』と言う意図でのみ生命を玩び続けているこの無邪気な邪悪は。縁貴を長く踏み躙り続け歪め続け大切な物すら奪ったと言える憎悪と侮蔑の対象たる彼女は。なのに、言葉の上ではある意味でこれ以上ない位に、彼が尊び讃える精神性だけを持っている。本当にただそこ一点だけを備えている。
きっとただそれだけの命なのだ。
「うふ……あはは……」
放って置くだけでこいつは終わる。そうすれば程無く吸奪神簪も元に戻るだろう、朱の空の施した軛を完全に壊す事は容易くないのだから。
だから目的は最早果たしたと言って良い。見事なジャイアントキリングで、疵一つない文字通りの完全成功だ。達成だ。
殺すと決めた女は、|正《まさ》しく死ぬ。
……けれど、彼女に勝つにはどうしたら良いのだろうか。
大成功
🔵🔵🔵
結・縁貴
真の姿継続
その信念は俺の異能が及ばない程、強い?と問うて
斬れたとすれば
その程度だったと、この上なく折ってやったと、…俺は大笑できただろうに
ーー斬れないと確信してしまったのが、本当に嫌だ
臆、本当に何処までも、
|操《クソ》!
死の淵の間際まで乱すだけ乱しやがって!
新しい可能性を見るのは、楽しいか?
知を蒐集するのは楽しいか?
何時だって一つ足りとも遺す気がない!
お前が死んだら知覚したその道筋は途絶えるんだよ!
じゃあ、遺せよ、俺に!
強く強く御縁を結ぶ
…畜生、限界なんてとうに超えてるんだ…気が狂う…
お前が壊れても結んでやるからな!
今まで蒐集した知から、
異界の神性から引き出した知から、
今まで切り刻んで得た俺から、
得た物全てで真人に干渉出来る、新しい形状の身体を造れ
手を伸ばせよ
超越の最果て、真人に届き得る知の真髄
お前が蒐集した知の、得た先へ
|異能で《御縁を斬って》は決して殺せないから、
吸奪神簪を引き抜いて、核を貫く
今日がお前の、天命が終わる日
俺には見えないけどね
一路走好
●ただそうあるものに
そもそも縁貴を『作った』のは珪珪だ。
始まりは老師の眷属を作ろうと言う思い付き。それであれば己が観察と接触と所有を強く求めれる存在となるかも知れず、それが叶わずとも知識や経験は積まれ残った肉は素材となる。と、そんな打算。
片端から試す実験に次ぐ実験と言う、数多の命の消費の末に残った一割。真人の形質、異能、系譜、そう言った要素を埋め込まれて尚崩壊しなかった仁獣、拮抗し釣り合いの取れた翠色の騶虞。それを更に繋ぎ、代を重ねさせ、何代も掛け合わせを繰り返した末に成立した、『適応し、異能として取り込んだ』個体。それが縁貴だ。
化物は使い潰した命の事は一顧だにしないだろう。けれどそれを省こうとも時間と労力は掛けている。そして彼女は目算通り生まれた彼に対する興味と好奇心を持ち、観察と接触と介入を続け、所有も求めて居た。つまり成功作なのだ。
ならば普通、そこには愛着や執着が生じそうなものである。けれど、無い。少なくとも観測できる範囲には皆無だ。生命の探求と言う|今とその先《きれいなあか》だけを求める化物は、縁貴との間に積み重ねた過去の全てを顧みず、ただただ今この時の興味と好奇と期待だけを注ぎ続ける。これ迄もずっとそうで、きっと最後までそのままだ。
それは愛ではない。乾いていて湿り気の無いそれは……けれどだからこそ何より純粋で。では、そんな|もの《御縁》を生まれてこの方ずっと向けられ続けた側は、それを果たしてどう感じているのだろうか。
自らのみの一方的なものではなく、相手からのそれを加味した相互のもの。それを繋がりと呼ぶ。
●それでも別離の時なのだと
彼女に勝つ方法。ただ殺すだけでは無く、本当の意味で打倒する方法。これ迄の間に縁貴がそれを考えて来なかった訳ではない。
あの存在があらゆる意味で埒外の精神性をしている事は、彼自身が誰よりもよく知っている。だからそんな求知心の化物に真の意味で勝利するならば、その『他と比べ逸脱している要素』たる知識への渇望こそを討ち果たす必要があるだろうと。
『その信念は俺の異能が及ばない程、強い? と問うて』
そして縁貴にはそれが可能なのだ。そう言う事を可能とする異能を備えているのだから……皮肉な事に他ならぬ珪珪の手に拠って与えられて。
縁を斬って落とす異能。その行使。
成ったならば。化生とその内に燃え盛る知への渇望、その間に繋がった糸を斬れたとすれば。
『その程度だったと』
それが出来てしまえる強さでしか無かったのだと。大した事は無かったな、お前の渇望は下らなくて他愛無い物だったなと、反駁や言い訳の余地も無く証明出来て。
そして。
『この上なく折ってやったと……俺は大笑できただろうに』
その行動理念の軸、己の根幹とも言える願いを断たれた化物は、|生まれ《発生し》てからずっと一途にそれだけを追い求めていた彼女は、それで文字通り全てを喪う事となる。
そうなればもう、後に残ったそれは抜け殻以外の何者でも無く、惨めで無意味な残骸。そこ迄に成り果てさせれば、それは誰の目にも明らかに縁貴の完全勝利だっただろう。
けれど。だからこそ。
『──斬れないと確信してしまったのが、本当に嫌だ』
出来ない。そう思った。
そう思ってしまった事が悔しくてならない。逆に言えば、それでも尚そう思ってしまう以上、どう喰い下がろうとそれはきっと本当にそうなのだ。
「わぁ……そうか、そうかあ。こうなるんだねえ」
この上なく楽し気で、けれど少しずつ力無く掠れ出しているその声。
邪仙は中空からまろび出た異形の生命を嬉しそうに眺めては、見終わったならあっさりと興味を喪い次の命を生み出す行為を延々と繰り返している。何一つ恥じ入る様子も無く、罪悪感の欠片も見当たら無く繰り返されるその無邪気な非道によって、この場は大小様々の奇妙な生物が犇めく地獄の様な空間と化していた。
例えばそれらが襲い掛かってくれば、それは危機だろう。けれどそうはならない。生み出された進化の可能性達は、本当にただ生み出されているだけで、その場に居る他者である縁貴に興味を示す事すら無い。
「臆、本当に何処までも」
苦々しく毒づく。平素の珪珪であれば、この生命達を自分に差し向けて来る程度の事位はしただろう事に気付いたから。
生命を生み出す際に縁貴を敵として設定する。ほんの一欠けらの手間を足すだけでそれが出来る筈なのだ。であれば、強欲なあの女なら普通はそれをする。そうする事で今夢中になっている簪の中の神の力を試す事と同時に、己が手づから生み出した異能の瑞獣の手管を見聞する事が出来るのだから。
では何故そうしない? その程度の事にも思い至らない位に手にした生命の神秘の鍵に夢中だから? 違う。どれほど夢中になろうとも、並行で複数の思考を持てる|彼女《群体生物》にその程度の打算が判断出来なくなるという事はない。
理由はもっと単純で、そんな余力がないからだ。どれほど僅かな手間であろうと、縁貴への攻撃に回してしまった分だけ簪を試行する回数が減ってしまうから。それが勿体ないから、余計な事に一切の力を回さず簪に専念してるのだ。
「|操《クソ》!」
つまりあの女は、自分に使える力が最早限られている事を知っている。
つまりあの女は、己が程無く死を迎える事を把握している。
つまりあの女は、その上で、なのに生き延びる事よりも|知《簪》を当たり前の様に優先して見せたのだ。いいや、今も尚、欠片の後悔も見せずにそうし続けているのだ。
一切の歪み無く何時も通りに、ずっと続けて来たままに己が渇望に正直に。真っ直ぐに。
「死の淵の間際まで乱すだけ乱しやがって!」
罵る言葉に反応もせず、はしゃぐ子供の様に笑うあの女の『渇望』を。きれいなあかへの『憧れ』を。全ての己を捧げた『望み』への縁を。
斬れない。断ち切れやしない。試す迄も無く分かってしまい、分かってしまえば最早それは絶対に叶わない。男の|異能《力》は、女の|望み《願望》に勝てない。
それは彼に取ってこの上なく不愉快で、腹立たしく、苦々しく、不満やるかたなく……けれどもしかしたらほんの少しだけ小気味の良い、敗北。
「新しい可能性を見るのは、楽しいか?」
返事はない、けれど必要も無い。死に瀕する相貌の中、そこだけがギラギラと輝くその目を見れば一目瞭然だ。
それでもあえて改めて問うたのは、自分で納得する為だろうか。
「知を蒐集するのは楽しいか?」
これも、聞くまでも無い。だからこそアレはああなのだ。ずっとああだったのだ。他の全てを些事と蔑ろにし踏み躙り摘まみ取って好き放題にして、そうして迄求めた知の蒐集が楽しくないのだとしたら、犠牲となった全ての生命達は、苛まれた縁貴の半生は一体何だったと言うのだ。
勿論、それが、その想いの強さがどれほど明白に証明されたとしても、積み重ねた非道の罪科が消える訳では無い事もまた動かざる事実。
或いはその問いはある種の告発なのかも知れない。
「何時だって一つ足りとも遺す気がない!」
思えばずっとそうだった。
この世界に生まれ落ちた時から異世界へと失踪する迄の間、否応なしにずっと傍に居た。その間に見せ付けられ続けて来たその在り方。結局、遮る事も奪う事も適わず、程無く最後の最期迄通される事を認めざ得なかったその生き方。全て自分の為で、他の何ものをも意に介さないその傲慢で純粋な……。
「お前が死んだら知覚したその道筋は途絶えるんだよ!」
ああ、そうだ。先の訣別の際、縁貴は初めて珪珪への害意と殺意を表明した。敵対を宣言した。けれどそれは一方的な宣誓で、己の行動を申告する物に過ぎなかった。
だから、相手の行いを非難する言葉。平たく言えば『文句を言う』のは、知慧を得て以降はきっとこれが初めてだ。
「じゃあ、遺せよ、俺に!」
そして求める……いいや、『強請る』のも。多分、これが初めて。
帰郷の最初、化物の態度は親兄弟か姉の様だった。真心を持たず形だけを整える彼女の行動は、逆に言えばだからこそ多分、形だけは概ね正しいのだ。
生誕より共にあって、己が都合を一方的に押し続けて来る年長者の女性。解剖と実験と言う度合いの酷ささえ省いてしまえば、そう言う間柄の暴君の事を俗に『お姉ちゃん』と呼ぶ。
……何てグロテスクな暴論で、無理筋な理屈だろうか。けれど、形がそうなのだから。心は形を象るものなのだから。
だったら最後に一つ位、弟の我儘を聞きやがれ。
「……?」
それ迄一切の反応を示さず、簪に集中していた邪仙がピクリと反応をした。
御縁が結ばれるのを感じたから。【|御縁新結《ムスバレタゴエン》】、彼女がその生涯で最も興味を持ち焦がれた|存在《老師》のそれと同じ異能の行使が、自分に向けられた事に気付いたから。
『──小猫、今あたしに干渉しようとした?』
昔々、瑞獣が未だ幼かった時分の何時か。怒りではなく好奇心と興味と不配慮だけを携えてそう言ったあの時と同じ様に。
元より太く強かった縁の糸。けれどそれ以上に今、強く強く御縁を結ばれて行くのを感知したから。
『……畜生、限界なんてとうに超えてるんだ……』
縁貴は内心で悪態を零す。己が根幹に程近い部分が軋み、ひび割れを起こす様な感覚が荒れ狂う様だった。
それはそうだろう、これまでの異能の行使の時点で既に無理を押していたのだ。如何に猟兵の奥の手たる真の姿を取り続けていても、このままでは。
『気が狂う……』
その危険がある。それも全く低くない可能性でだ。
異能の過剰使用による発狂リスク。或いはもっと根本的な創が残る可能性、精神は愚か魂に迄損傷が及ぶ事すら有り得る。
どうしてこんな無茶をするのか。勿論打算もあるだろう。この邪仙が斃れても、縁貴の目的は其処で終わりでは無い。それだけで彼の憎悪は断ち切られない。それだけでは未だ、縁貴は晴れやかに笑って生きて行く事が出来ない。
だからその為に、上天の頂に手を伸ばすならば。結果だけを見れば呆気なく、けれど内実を見ればその性質と相性を読み切った上で尚、薄氷の上を走る様にして辛うじて打倒出来た珪珪の更に上の存在……真人と迄詠われる究極の仙にその手を伸ばすのであれば。今、この場で何らかの『強力な手札』を新たに得る事は必須と言える。
けれど、それは理屈に過ぎない。
「お前が壊れても結んでやるからな!」
縁を。
理屈だけでは無いのだ。意地がある。感情がある。珪珪の側には無いのだろう、けれど縁貴の側にはあるのだ。物心ついた時から其処に居て、相容れないままながら長い年月を隣り合って過ごし。途方も数も無い恨みと怒りと憎悪……つまり情念を募らせ続けた相手なのだから。無関心で居れる筈がないのだ。
縁は、一方が強く思うのであれば十分に繋がる。まして、邪仙の側だって、真っ当な感情では無くとも好奇心や期待等の情念を彼に向け続けて来たのだから。
良い悪いでは無く、正しいか誤りかでも無く、美しいか醜いかですらなく、両者の間には紛れもなく繋がりの糸がある。
『其れは、貴い御縁だろうか?』
……知るものか。そんな事。
●それでも
『ついに生まれた。ついに適応した! ただ器として自壊しないだけじゃない、受け入れて自分のものとして扱え得る個体!』
心底から嬉しそうな声。
生まれたばかりの命を覗き込み、喜色満面の笑顔で笑う綺麗な顔。
『翠色の騶虞! |小猫《ねこちゃん》! 愛らしいね!』
見目の美醜になど本質的には興味が無いだろうに、それでもそんな言葉を吐いたのは人型を取る化生としての形式か。それとも、そんな化物に取ってすら、ふわふわとしたにこ毛に覆われたその生命を言い表す言葉は他に無かったのか。
尤も、その上で即座に|調べ《解剖し》たいと言い出す辺りが実に人の心を持たぬ化物だったのだけど、生まれたてだった当時の縁貴からすればそんな事は理解できない。今解剖の負荷を与えれば死んでしまうと警告されて、ちょっとションボリする佳人の悲喜交々をただ見ていただけだった。
「……」
突然の白昼夢、それも憶えの無いワンシーンに、しかし縁貴は目を細めただけで動揺を示さなかった。
死に瀕した化物の走馬灯か、或いは強く繋いだ彼我の縁の漏出か、或いは他の何かか、それは分からない。けれど何れにせよ、強引な己が術の行使に拠り何らかの不具合の類が出る事位、前もって覚悟していたのだから。
『あ、|小猫《シャオマオ》、悪いけどこの娘捨てて来て来るかな。何だか、何もしてないのに壊れたんだよねえ……』
この記憶は覚えている。この化物に取って『意識のあるままバラバラに刻んで解剖して一通り観察してから仙丹で身体だけ直す』のは何もしていない事と同じなのだと、そう本気で思っている事に気付いた時の出来事だ。この後、比較的真っ当な人格の仙に押し付ける様に預けたあの娘は、今はどうなっているだろうか。
いいや、思い返して居る場合ではない。意識を引き剥がし術への集中を一層高める。
自分が今無理を押して居る事も、その上で通常の結果でない成果へと手を掛けている事も分かっているのだから。出力は高めれるだけ高め、精度は上げれるだけ上げなければいけない。
『小猫の異能は知ってるものの方が深く触れるみたいだから、学んでいったら力が増すかもしれないね! 試してみたら? 試してみようか!』
ああ、これも覚えがある。幼い時分、学びを求めた自分の言葉にこう応えた化生は、一見喜んで居るように見えたものだ。自分が傾倒している知と言う物に、自分が拘泥している幼い獣が興味を示した事を喜んだのだろうかと。……まあ、今となっては結局、それも好奇心と新たな知見への期待に過ぎなかったのだろうとは思うが。
宣伝チラシを一瞥して放り捨てる様な心持ちで思考を引き剥がし、再度|術式《コード》の構築に意識を向け直す。
|御縁新結《ムスバレタゴエン》は本来、ただ御縁の繋がりを創造するユーベルコード。御縁とは本来現実の形を持たぬ無形の概念。けれど『創造』と言う言霊を鎹に、此処に御縁の繋がりによる形を創り上げようと言う拡大術式。|限界の突破《オーバロード》、|埒外の力《真の姿》、そして|軽くない代償《発狂のリスク》を重ねて初めて成立し得る御縁の現出化。
『頭蓋骨の中は哺乳類なら大抵の同じ仕組みなんだなあ。でもやっぱり人間のが一番大きいねえ』
邪仙がこれまで数多の非道を以て蒐集した知から。
『遺伝子って言うんだね。じゃあこれを限界まで弄ったら……あ、逆に其処は一切弄らず肉体だけ全然違う物に押し込んだらどう成長するかな? 試そう試そう楽しいな!』
今、異界の神性から引き出し続けている知から。
『わあ。こんな仕組みなんだ。翼の骨が肩甲骨に……それで腱がこうで、筋肉がこうで……じゃあ、この骨を外すとどうなるかなあ? 抜いて見るね』
今まで散々に切り刻んで得た縁貴から。
『此処の神経をこう弄ると反射で此処が動く……って事は反射で異能が発動する神経もあるかも知れないね。隅から隅まで試して見よう!』
これ迄数え切れぬ蹂躙を積み重ねて来た縁貴から。
『いけないいけないやり過ぎた。さあ金丹を上げようね。このまま死んじゃったら大変だ。勿体ない! ……にしても顔色が真っ白だね?』
ずっとずっと、苛み続けて来た悪逆の犠牲者である縁貴から。
「得た物全てで真人に干渉出来る、新しい形状の身体を造れ」
形を創る。力を造る。
彼から奪い続けて来たこの女に、最後に一つだけ有益なものを遺させる。
真人、究極の仙、縁貴が最後に討ち果たすべき、あの理解し難い超越者。珪珪はその存在を求めていた、その上で力及ばず触れる事すら能わなかった。そして、けれど彼女は諦めてはいなかった。
老師に傅き崇拝する道士と仙達、彼らも元は自らの道の先を求める求道者だった筈だ。それが、余りにも強い輝きたるその存在に脳を焼かれ、自ら歩む事を止めてしまった。卑近に表現してしまえば、その余りの遠さに『心を折られて』しまった。その余りの魅力に『膝をついて』しまった。そう言う敗残者達。だから肝心の|崇拝対象《あの仙》から興味を向けられ無かった。
一方で珪珪はそうでは無い。その究極を先人として認め見上げはしても決して頭を垂れず、何時か手を届かせる目標として見つめ続けた。だから、ある筈なのだ。その一点に置いてだけは縁貴の同志と言える彼女の中には、必ず『老師の座する高みに肉薄し、或いは追い越す為の腹案』がある筈なのだ。未完成でも仮定でも欠片でも、諦めず立ち止まらず歩み続けた誰よりも一途で純粋な彼女の中にはそれが無ければおかしいのだ。
『手を伸ばせよ』
異能の糸を伸ばせ。長くの間最も近くにあり、それと反比例する様に心は遠ざかり続けた女の最奥に。
製造者と被製造者。解剖する者とされる者。非道の研究とその被害者。縁貴の事を『だから、あたしが一番知ってる話!』と豪語して笑う彼女との、何よりも酷薄で、何よりも濃密なその|関係性《繋がり》。その縁は、それだけの事を可能とする筈だ。
『超越の最果て、真人に届き得る知の真髄』
それがどの様な物であれ在るのだと、必ず存在しているのだと確信している。信じている。
何となれば、今正に思案し構築している所かも知れないとすら思う。
『お前が蒐集した知の、得た先へ』
それがお前の人生だったのだろう。それだけを求めた生涯だったのだろう。
どうせこのままなら消えるのだ。だから、それを。
『 ね』
「っ!」
届いた。
何かに届いた。手応え。何かを掴んだ。実感。奥の奥の奥、化物が最も大事に仕舞い込んでいた何か。彼女の生涯の悲願である生命の究極に触れ得る……つまり、どれだけ僅かであろうともあの真人に干渉出来る可能性を備えた手札!
御縁の繋がりからそれを写し取らねばならない。そして形にせねばならない。縁を通してなのだから、それは彼女と自分の間に在るもっとも堅固で強い縁を伝わせなければいけない。そうで無ければ千切れてしまうネジ切れてしまう潰えてしまうそうならない様にその縁を掴め。今微かに聞こえた声だ。それを掴んで決して離さず自分の中へと引き入れろ。
『 だね』
その声。何時聞いたのかは覚えがない。
きっと覚えて居ようがないほど昔の記憶なのだろう。生まれたての時では無い、あの後彼女の分体は直ぐ崩れてしまったし、その後暫くは縁貴の肉体が育ち安定する迄ただただ距離を置いて眺めていただけの筈。
けれど育ちきってからでも無い気がする。縁貴が触れる事が出来る程度まで育つや否や、邪仙はその身体を思うまま切り刻み解剖し調べる様になったから。恐怖や警戒心を伴わないこの記憶は、そうなる前の物のタイミングのものの筈。
つまり、幼い騶虞の心に刻まれた原体験。彼女との、最初の強い交わり。
「……好!」
情報を辿り切る前に、それは形を成した。
快哉を上げながら見下ろしたそれは右手、いや手甲か。角ばっていながら何処か優美に美しい翠色の……それは珪珪の手に酷似していた。その能力故に気軽に変異する彼女の身体が、けれど大抵の場合形作っていた手甲とも異形ともつかぬ手の形。何らかの力を発せればその色に染まって見えたが、元々の色は大抵……いや、もしかしたら何時も、翠色だった。
『 いだね』
完成した以上、もう遡って確認する必要は無いのだけど、それでもつい意識がその声に向く。気になったから。
そうだ、あの時、その手を翳して見せられたのだ。御覧よとばかりに。
綺麗で、嬉しそうで、好意を前面に出した笑顔だったと思う。つまり、何時も通りの笑顔だった筈だ。
今ではそれが薄っぺらな作り物だと知っている。其処に何の情緒も篭ってはいないのだとしている。邪悪極まる本性を隠す意図すら無い、ちょっとした有利を得ようと言う打算と、折角だから程度の軽い動機で造られただけの貌だと知っている。
けれど、当時の、恐らくまだ幼かった自分はどう思ったのだっただろうか。
覚えてはいないけれど。
「……ぁ」
そして今、その命を終うようとしている現在の珪珪が、縁貴のその手を見た。あの日とはあべこべに。
それまでずっと手の中の生命の神秘と英知にばかり意識を向けていた邪仙が、反応だけでは無くて明確に彼を見た。ずっと知ろうとしていた異能の行使だからだろう。それは生命の神秘の凝縮である簪に対抗できる程度に彼女の興味を引き得る要素だったと、ただそれだけの話だろう。
けれど理由はどうあれ、珪珪は縁貴を見た。
今だと、男はそう悟った。
目的は果たした。邪仙の遺物は得た。ずっと逆らえなかった|暴君《彼女》の物を一つだけ奪い取ってやった。
そしてその彼女が此方を見ている。だから今、とどめを刺すべきだ。
『|異能で《御縁を斬って》は決して殺せないから』
それは、もう認めたから。
それだけは、認めてやろうと思ったから。
だからただ吸奪神簪を引き抜いて、その核を貫く。
人型を取ろうとも、群体である彼女の身体には必ず存在する核。強く強く御縁を繋いだ今の縁貴の目には、この上なく明確に目視できる彼女の|命《要》。
「今日がお前の、天命が終わる日」
淡々とそう言ってやる。それは宣言。
終わりを告げる鐘。
「俺には見えないけどね」
少しの苦みを込めて笑う。
それが見えるのはきっと老師だけで。あいつはこの時を、この場を、見て、居るのだろうか。もしかしたら興味深く観察して居るのかも知れない。もしかしたら価値がないと一瞥すらしていないのかも知れない。
天命が違える時が見たいと、そう言ったあの|究極の存在《ひとでなし》は。自分を追い求め続けた一途なこの女の最期を、一体どう考えているのか。
「…………その、手」
邪仙は、何の抵抗もせず諾々と核を貫かれた珪珪は、既にもう意識が朦朧としているのだろう。認識も曖昧なのだろう。
見れば、美しかった肌が肉ごと乾きパリパリと剥がれ逆立ち、丸で枯れかけの花びらの様だった。そしてそれは見る見る内に全身に広がって行きつつある。
人の形はしていても実際に人ではない彼女の身体は、当然の事だが人の様には死なない。それでも、普段ならただ土塊に還るだった筈で。こうも様相が違うのは……これがただの端末の放棄では無く、完全な、真の死だからだろうか。
目は、それでも辛うじて視界を保っているのだろう。崎のつぶやきからずっと縁貴の手を見ている。彼女との御縁から創り出された翠色の手。
それがどの様な存在なのかを正しく認識しているのか、居ないのか。
ただ、最後まで己の生き方を通した仙人は。縁貴の半生を蹂躙し続けた邪悪は。何よりも身勝手で驕慢な|女《花》は。
たった一言、酷く当たり前の感想を口にした。
あの日と同じ。未だ幼かった獣の毛色と、その面前に翳して見せた己の手の色とを見比べた時と全く同じ言葉。
薄っぺらく中身の無い笑顔。けれど、生涯ずっとそうだったのだから、つまり、それこそが彼女の笑顔だったのだ。だから、どれほどまともな情緒を備え持って居らずとも、途方も無く傍若無人の残酷非道でも、ひとでない故の心無い所作と言動に満ちていても、何の相互理解も受容も叶わぬ異物であっても、それでも『そう言う形だ』と言う意味で考えるのなら。最後の最期迄それを通したのだから、もしかしたら、それこそが彼女の|命《心》だったのだと。そう、言えるのかも知れない。
『「お揃いだね』」
……ああ、本当に。何て女だろうか。こんな時だけ、よりにもよってそんな普通の事を言いやがって。
最初から最後まで、変わらずそんな顔を向けて来やがって。
不愉快で。憎くて。相容れなくて。許せなくて。…… 。
「|一路走好《さようなら》」
送る言葉はたった一言。自分でも少し驚く程素直にスルリと出た別れの言葉。
良い方へと向かえ。どうかその旅路が良いものでありますように。行ってらっしゃい。
たった四文字の、弔いの言葉。
返事は無かった。
ただ、花びらが散った。
大成功
🔵🔵🔵
最終結果:成功
完成日:2025年02月06日
宿敵
『邪仙『珪珪』』
を撃破!
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