サーマ・ヴェーダは満天の星空に
●ピーピング・トム?
ヘレナ・ミラージュテイル(フォクシースカウト・f42184)とエレイン・アイディール(黄金令嬢・f42458)は犬猿の仲である。
同じ聖竜騎士団の団員であるが、とても仲がよろしくない。
顔を突き合わせれば嫌味一つで勃発する睨み合い。
私闘禁ずる騎士団内でなければ、互いに潰し合うのは必定であっただろう。
それを束ねるのが聖竜騎士団の団長であり『エルネイジェ王国』の次期女皇王たる第一皇女殿下であるが、彼女の頭痛の種の一つであるところを彼女たちは自覚していなかっただろう。
いや、お互いが相手こそ己が主である第一皇女の頭痛の種であると断じる。
片や成金コネの金ピカ令嬢。
片や卑しくも薄汚いコソ泥狐。
互いが互いをそう評して憚らぬからこその衝突。
その火花が不和の種にならぬのは、ある種の奇蹟であったことだろう。いや、本当に奇跡的なバランスで聖竜騎士団内の秩序は保たれていたのだ。
「あのさぁ……そのキンキラキンのドレスなんとなからない?」
ヘレナはため息混じりに顎をやってエレインの姿を揶揄する。
そう、今のエレインは何処に出しても恥ずかしくないほどにゴールドであった。
頭の先から爪の先まで全部ゴールド。
あまりにもキンキラしているせいで、ヘレナは辟易していた。
他者のファッションセンスにどうこういうつもりはないが、はっきり言ってエレインのそれは最悪であった。
「覗き見するならもっと相応しい服装ってのがあるでしょ?」
エレインは地味な目立たぬ色合いのピッタリとしたスーツを身にまとっていた。
なんだ? 今から狙撃でもするのか?
そう思わせるような地味な色合いであったし、事実彼女の姿は周囲に溶け込むようでもあった。
口元を覆うマスクを下にずらしていなければ、彼女がそこにいると認識することもできなかったはずである。
だが、対しるエレインの姿はゴールド。
光を反射し、綺羅びやかに。そう無駄に綺羅びやかに光を発し続けていたのだ。
ヘレナが言う通りこれは覗き見、出歯亀ってやつである。
なのに、隣にエレインがいるのだ。
どんなにヘレナが凄腕の諜報員であったとしても、パートナーがこれでは成功するものも成功しない。
「覗きだなんて失礼な。どこかの卑しいキツネと一緒にしないでくださる?」
「これが覗きじゃあなくってなんだっていうのよ」
ヘレナは溜息をつく。
これで何度目かわからない。エレインと顔を合わせると腹の底から溜息が湧き上がってくるのだから不思議でならない。
くい、と指が差すのは海竜教会の裏手である。
大陸側からは死角になっているが、その裏手にて行われていることを、危ういと感じた主の命によって二人は監視の任についているのだ。
はっきり言って、趣味が悪いと思ったかもしれない。
男女のことである。
そういう痴情のもつれなど人の営みがある以上、珍しくもない。
それはエレインも同様であったことだろう。
だが、貴族社会に身を置く身である。そうした出来事がスキャンダルとして主である第一皇女の弱みになるのならば、これを排除しなければならないのが従う者の務めであった。
「いいこと、駄目キツネ。わたくしにはアイディール家の女としてメルヴィナ殿下を。聖竜騎士団の先輩としてルウェインを見守る義務があるのよ」
胸を張るアイディール家令嬢。
キンキラドレスが一層煌めくようであった。
うわ、とヘレナは彼女が胸を張ったことで散布されるような香水の匂いに鼻を摘む仕草を見せた。
匂いがキツイ! と手でエレインを寄せ付けぬようであった。
「あーはいはい、じゃあ仲良く覗き見しましょーねー」
面倒くさくなってヘレナはエレインを無視することに決める。
だが、無視させてくれない、無視できなくなるのがこの二人の間柄である。
「それを下衆の勘繰りをして、この駄目キツネ。これを覗き見? これは影から見守っているだけだわ。間違いが起こらないようにね」
「間違いって何の間違いよ?」
ハッ、とヘレナは鼻で笑う。
貴族令嬢にとっての間違いとは?
え、まさか男女の事情というものをご存知なのかしら、とヘレナは、その鼻で笑う所作一つに全部籠めたつもりであった。
それは相手が相手であれば、赤面してしまうものであった。
自分の頭の中の想像。
ともすれば、品性を疑われるような妄想を指さされるようなものであったからだ。ヘレナにとっては、それは男女の情事であり、生理的なものであり、人間という生命のの営みにおいては必要不可欠なものであるから、別に珍しいものですらない。
だが、初な貴族令嬢であれば、貴族教育のうちにて恥じ入るところもあるだろう。
はしたない、と言われるようなものであったからだ。
けれど、ときにはしたないとされることが無性に心惹かれるものであることも理解し、理解できぬと無情にも己から遠ざけるものであった。
が、しかし。
「間違いは間違いよ。そちらのキツネは一体何を想像しているのかしら?」
エレインもエレインである。
例え、如何にそうした男女の情事というものを、こうした場で口にするのは憚られる。
がしかしである。
初心であるのかそうでないのかなど、口にしなければ確定しない事実である。
無理に事実であると言及しようものなら、その行為事態が品性下劣な行いであると追求することができる。
まるで言葉の畳返し。
そうした手管に慣れ親しんだのは、権謀術数渦巻く貴族社会にあってのことであろう。
「さあ? 虫も寄り付かない金ピカのご令嬢には一生縁が無い間違いかな?」
ヘレナもさるものである。
この程度の言い返しなど予想の範囲内。
むしろ、次なる弾を装填しているまである。余裕の攻防である。
百戦錬磨のヘレナがこの程度でたじろぐと思っているのならば、それ自体が初心の証明でもあった。
「あらあら?さすがミラージュテイルのキツネは間違いの経験が豊富でいらっしゃるご様子ね?」
知っているということは、即ち間違いの経験があるということである。
語るに落ちるとい湾ばかりにエレインは高笑いを上げる。
あら、はしたない、わたくしったら、という演技すら付け加える余裕がそこにはあった。
「このまま一生間違い続けるのかしら?」
ムキになって否定すれば、初心である。否定しなければ、間違い多き失策の如き人生であったと認めるところになる。
ヘレナがどう返答しようと、エレインはこの突き合いに勝利できる。
「え~?」
だが、ヘレナにはワイルドカードがある。
エレインが持てる者であるというのならば、ヘレナは王家のために汚れ仕事を引き受け続けた多くを失い続けた者、言い換えるならば、持たざる者。
であるのならば、彼女のワイルドカードは唯一つ。
そう、『とぼけて何も言わないに等しい返答をする』である。
故にエレインは目算が外れてこめかみがビキる。
この期に及んでとぼける?
そんな外交の一手が通じると思っているのか? これが小国家同士の外交の場であったのならば、舐められて当然の行為をヘレナは当たり前のようにカードを切ってきたのだ。
しかし、これは小国家同士の外交ではない。
ただの一個人同士。
であるのならば、それが最良にして最高の一手。
故に、エレインはこめかみ引きつらせる。
「あ~?」
令嬢にあるまじき声である。
が、ヘレナも負けじと額を突き付け合わせ、挑発に次ぐ挑発を『買えるなら買いますけどぉ?』くらいの感じでビキっているのである。
そう! ここに聖竜騎士団の龍狐相搏つ――!!
●海竜教会
メルヴィナ・エルネイジェ(海竜皇女・f40259)の目元には痛々しい黒いクマができていた。
大いなる戦い。
猟兵にとっては帝都櫻大戰と呼ばれるサクラミラージュの存亡を賭けた戦いの後、彼女は眠れぬ日々を過ごしていた。
誰がために君は進む。
そう問いかけるような己の真の姿を引きずり出す強大な敵の力。
メルヴィナも例外ではなかった。
己の真の姿を引きずり出され、そして幻視した。
「何度言えばいいのだわ、ルウェイン」
「い、いえ、その……わかっているのです。ですが、私にとって皇女殿下は女神に等しき……いえ、女神以上の存在なのです! 今、この状況も身に余る境遇と申しましょうか、状況と申しましょうか。一生に一度あるかないかの幸運であることは当然承知しております!」
「だから、そういうところなのだわ。私はもう何度もルウェインとあなたの名前を読んでいるのに。あなたは私の名前を呼ぶのに、時と場合を、そして場所を選べというのだわ」
「御身のお立場が……」
「またそれなのだわ。全力でと言った言葉は嘘偽りだったのだわ?」
「いえ、そんなことは! 滅相もございません! 我が身、我が言葉、全てがメルヴィナ殿下の!」
「……」
「メルヴィナ様、御身の……」
「……」
「メルヴィナ姫」
「……」
「め、メルヴィナ、の」
「よろしいのだわ」
目が覚める。
メルヴィナは己の寝台の上にて起き上がり、我が肩を抱く。
震えているのではない。
己の身の火照りが、彼女自身にとって予想もしないものであったからだ。身動ぎすれば、ぬるりとした感触がある。
汗を拭っても、水差しから喉を潤しても、頭の中にて反芻される、あの戦いで見た在り得たかも知れない可能性が増幅されるようにして彼女の心の中に広がっていく。
あれは現実ではない。
あんなことは起こっていない。
経験してなどいない。
だから、己が毎夜夢に見るあれは、戦いの残滓にすぎないのだとメルヴィナは己に言い聞かせる。
「なのに、どうして」
夢の中からルウェインはいなくならない。
あの嫌いな男。
自分につきまとう男。
気持ち悪いし煩いし、憎いし気持ち悪いしで最悪な男。
なのに。
己の肩を抱いた手。
それを思い出してしまう。己が自らの肩を抱いても、あの時の、浜辺での出来事を想起させられてしまう。
あの手は熱かった。
奪いたいのならば、強引に奪ってしまえばいいというのに、酷くあの手は優しかった。
壊れ物を扱うように己の肩を抱きとめた、その手のぬくもりを自分は無情に突っぱねることもできたはずだ。
それくらいの理由が彼女にはあったはずだ。
けれど、それができなかった。
嫌いだ。
言うまでもない。
あんな男。自分の感情にだけ素直で、退けても遠ざけても、それでもひたすらにつきまとうような行い。
それがどうしても愛されようとかつての夫に縋りつこうとして、縋り付くことさえ拒否された己に重なって見えてしまって、なおのこと自己嫌悪とに入り混じった感情が滾々と湧き出してくる。
「このままじゃ益々おかしくなってしまうのだわ……」
だから、遠ざけたい。
言葉で言ってもルウェインは遠ざけられないだろう。
なら、どうするか。
決まっている。
今、ルウェインが己に見ているのは、幻想の己。
生命を救われたという極限の状況で見てしまった幻に突き動かされ、愚直にも破滅へと邁進していることに気が付かぬ哀れなる男なのだ。
なら、できることは一つ。
真の恐ろしさを前にすれば、あのハリボテのような愛を嘯く男も離れざるは得ないだろう。
もう思わせぶりであったり、優柔不断なる態度は許さない。
己の真の姿を見て、あの男はきっと離れていくだろう。
それがいい。
そうした方が良い。
あの愚かしくも真っ直ぐな男は、己のような陰湿な女より、もっと輝けるような……それこそ蓋をされて尚青く澄み渡るような自由な空で羽ばたく女性……。
そこまで考えてメルヴィナは己の中にある仄かな昏い感情に気がつく。
違う。
これはそんなものではない。
こんな感情を抱くからこそ、己は『怪物』なのだ――。
●呼び出し
ルウェイン・グレーデ(自称メルヴィナの騎士・f42374)は、浮足立っていた。
それはもう地に足がついていない表現がしっくり来るほどに浮かれていた。
今なら3mm程地面から浮いているどこかの青いタヌキ型ロボットのようにさえ歩く事ができるという自負があった。
青いタヌキ型ロボット?
一体全体己は何を言っているのだろうな、とルウェインは胸中で自嘲する。が、どうにも笑みが抑えられない。
いやいや、いかんいかん。
こんなだらしのない顔をメルヴィナ殿下に見られるわけにはいかんのである。
彼女に付き従う騎士が、斯様に浮かれてニヤつくような気持ちの悪い行動を取るだろうか? いや、取らない。取るわけがない。
彼女の騎士として未だメルヴィナ自身から認められる所は、一切ない。
よりお傍に、という願望はあまりにも己の身に不相応なる望みである。
本来ならばメルヴィナから聖竜騎士団を辞せよと言われてもおかしくないが、そういった沙汰はない。
だが、慢心してはならぬ。
これは一層鍛錬に励み、武功を立てねばならぬという勅そのものであるとルウェインは勝手に解釈していた。
とまあ、そんなとりとめもない思考であるが、彼にとっては最大の関心事であり、常に考えておかねばならぬ事柄であったのだ。
そんな彼にメルヴィナから直々に海竜教会へと参ぜよとの命があれば、そりゃもう浮足立つのも止められぬというものである。
「此度はメルヴィナ殿下直々のご招待に預かり至極光栄であります! お目通りを願いたく!」
ルウェインは『エルネイジェ王国』の男爵である。
騎士としての爵位としては、最も下位に叙される身分。一般市民と比べれば、確かに貴族階級にあるが、爵位の上位たる貴族からすれば名も知らぬ木っ端であることは言うまでもない。
故に武功が必要とされる。
この『エルネイジェ王国』では武功こそが全て。
身分ではなく、力によって邁進することを是とするがゆえに、現皇王『グレイグ・エルネイジェ』のように貴族でないことはおろか、他国の兵士であっても、その地位へと上り詰める事ができる。
かつてはルウェインもそうであった。
俗に言う所のエルネイジェ・ドリームを掴む。
己がグレーデ家がそうであったように武功でもって成り上がることを目的としていたのだ。
だが、それはもう何処かにぶっ飛んでしまっていた。
人は衝撃的な出来事に遭遇すると、それまでの積み上げてきた全てを擲ってしまうという。時にそれは恋と呼ばれるものであった。
恋は盲目とよく言ったものである。
ルウェインも例に漏れず、そうであったのだ。
「通るが良いのだわ」
「はっ! ルウェイン・グレーデ、此処に参上仕り申し上げます!」
頭を教会の裏手に通されたルウェインは、夕日沈まんとする『エルネイジェ王国』の海を見つめるメルヴィナの背中に思わず見惚れそうになった。
あまりにも絵になる光景であった。
暮れなずむ陽の色合いは、徐々に色濃くなっていく。
その橙たる色がメルヴィナの黒髪を染め上げんとしているが、その美しい御髪は何者にも染まらぬ高貴なる黒。
如何に表面上は橙の光を艷やかに反射するのだとしても、真芯まで染まることはない。
まさにメルヴィナの尊い意思を示しているようにルウェインには思えたのだ。
この場に膝をついて存在できているという幸運をルウェインは噛み締めていた。正直、たまらん。この出来事を枕元でリフレインしながら眠りに落ちれば、海よりも深い眠りにおちて、快眠し、心地よい起床に恵まれるであろうことは確定事項であった。
「ルウェイン……」
「ハッ!」
メルヴィナは振り返らずに言葉を紡ぐ。
己に、そのご尊顔をお見せにならずとも良い。いや、むしろ沈む夕日とメルヴィナの顔が合わされば、多分自分の情緒は爆発する。確信がある。
ので、それはそれでよかったのかもしれないが、己の網膜というフィルターに、夕日とメルヴィナがセットになっている光景を刻み込むことができぬのは、それはそれとして口惜しい想いがあった。
っていうか、普通に面をあげて良いという許可がないので、そもそも見ることはできないのであるが、それはそれである。やっぱり。
「この前の……『ビバ・テルメ』での、その、あれは本気なのだわ?」
厳粛な雰囲気とは裏腹なる歯切れの悪い言葉。
本来ならば聞き返す所なのだろう。
だが、ルウェインは微塵もなく、淀みもなく即断にして即応する。
「ハッ! この愛は依然変わりなく! 忠義に代えて心血共に捧げる所存であります!」
きっぱりとした言葉だった。
あまりにも言い切るものだから、メルヴィナは僅かにたじろいでしまう。
が、此処で勢いに流されてはならない。
彼女にはわかっていることだった。
この男のこういう所が嫌いなのだ。愛すれば愛されると盲信している所。それが嫌いで嫌いで嫌いで、嫌いになれないところであるのは、自分でもわかっている。
だからこそ、嫌いなのだ。
それ以上に嫌いなのは、応えられぬ己によって彼がいたずらに傷つけられること。
傷つけたくない。
己と同じ傷を追ってほしくない。
だから、遠ざけねばならない。
己の与えた傷ですら喜ぶのは、まだ生命があるからだ。
眼の前にいるのは『怪物』なのだと知らしめる。そうすれば、この愚直なる男も気がつくはずだ。千年の恋も冷めるはずだ。
「その相手が愛する人を縛り上げ、絞め殺してしまう『怪物』だったとしてもなのだわ?」
試すような口ぶりになってしまったのは、何故なのか。
メルヴィナは自身でも気がついていなかった。
一縷の望みにかけようと思ったのか。
それとも、違う答えを待っていたからなのか。
構わない。それは恐ろしい。
どちらかの答えが来ると思っていた。
だが。
「自分にとってはご褒美です!」
「気持ち悪いのだわ」
思わずメルヴィナは口に出していた。
ルウェインの眼は、澄んでいた。あまりにもきれいな瞳であった。
黄金の輝き。
誰にも穢せず、穢してはならぬと思わせるような真っ直ぐな瞳。
だからこそ、かつての己の盲信を形にして突きつけられるような思いであった。そして、ルウェインは止まらないだろう。
例え、己の素直な拒否の言葉でさえも、彼が止まる理由にはならないのだ。
「メルヴィナ殿下のためとあらば、生命など惜しむに足らず!」
言い切る言葉にメルヴィナは振り返る。
その瞳にあるのは、妖しき煌き。
身に封された因子。
機械神の力の半身。
その力の発露によってメルヴィナは巨大なる真の姿を晒す。
まるで海蛇の『怪物』の如き姿である。
海にて船員を惑わし、水底へと誘うセイレーンのようでもあったし、また船体ごと引きずり込み、締め上げて竜骨すらへし折る力の象徴でもあった。
どちらにせよ、海の化身。
人の浅はかなる感情や考えなど全てを押し流す潮流のごとき力を持って彼女はルウェインの前に己が醜き『怪物』の姿をさらけ出す。
だが、ルウェインは感激に心震わせていた。
雄大なる海を感じさせるお姿。
であるのに、その滑らかな鱗の壮麗たるや如何なる至高の匠によっても成し得ぬ精緻さ。
波打つ尾鰭のなんと流麗なことか。
そして何よりも、妖しき輝きを放つメルヴィナの大海よりも深き美しき青い瞳。
吸い込まれそうだ。
いや、吸い込まれても良い。
むしろ、その瞳に己という存在が刻み込まれるのならば、その不敬を許されるのならば、己の生命など塵芥ほどの価値もないと真にルウェインは思っていたのだ。
「なんと神々しいお姿! まさに大海の化身! 否! 美の化身! メルヴィナ殿下の真の姿……! 大海の竜帝を御見に宿したお力の発露、その神々しさ、筆舌に尽くし難く……!」
その言葉に偽りはない。
瞬間、ルウェインの体はメルヴィナの下半身……海竜の体躯によって絡め取られ、宙に浮かぶ。
ミシミシと骨身が軋む音が響く。
「ああ、憂鬱な面持ちさえも美しい……」
「これは例え話じゃないのだわ! ルウェイン、答えなさい! 私は『怪物』なのだわ! 見るのだわ! この姿を! これこそが、私の本性なのだわ。あなたの見た私はただの幻想にすぎないのだわ!」
激昂するメルヴィナの表情を見てルウェインは思った。
なんという激情。
それもまた海が見せる一面。
彼女の表情は美しい。
息が漏れる。いや、本来ならうめき声が盛れるほどの痛みがルウェインの体躯に走り抜けている。だが、ルウェインは痛みよりも先に、メルヴィナの海竜の如き下半身に抱きしめられているという事実に喜びが噴出していたのだ。
痛みは気の所為である。
いや、気の所為なわけがない。
痛いもんは痛いのだ。
だが、ルウェインは気合でも根性でもなんでもなく、ただ純粋にメルヴィナへの思いのみで痛みを退け、喜ぶに打ち震えていたのだ。
「私は愛する人を本当に絞め殺す『怪物』なのだわ! 元夫はそんな私の本性に気づいていたのだわ! だから私が幾ら愛そうと頑張っても無駄だったのだわ! 私の愛は人を殺してしまうのだわ! それでもあなたは私を愛せるのだわ!?」
「我が忠義は変わらず!」
その吐露にルウェインは即座に返す。
内心では激情が吹き荒れていた!
いいのだろうか! メルヴィナ姫に抱きしめられていて! こんなご褒美、ちょっと望外である! いいのかな! こんな幸運なことがあって!
むしろ、何かを代償にしなければ得てはならない幸運なのではないか!
じゃあ、生命を支払うしかないのである!
違う。
求めているのは、そんなものじゃあない。
「なら……!」
メルヴィナは焦れた。
己が求めている言葉はそれじゃないのだ。そんな言葉ではない。忠義などではない。
そのまま海に飛び込む。
夕日の光が海中にさえ及ぶも、それは昏い海底にまで届くことはない。
酸素が泡沫となって己たちから遠ざかっていく。
それは生命が失われんとしていることを示していた。
何処まで言っても陸上の生物である人間にとって海とは恵みをもたらすのと同時に、死をもたらす場所でもある。
そんな場所に立ち入って言い訳がないのだ。
苛立つままにメルヴィナはルウェインを巻き付けたまま身を寄せ、その抵抗できぬ彼の首元に両手を伸ばす。
海竜の下半身では抱擁と勘違いしてしまう。
であるのならば。
明確な|殺意《愛》で。
その白い肌に添えられる掌。
五指はルウェインの頸を覆い、力が籠められる。ミシミシと音が響く。
「これでもまだ言えるのだわ!?」
怒りに歪む表情。
その顔さえルウェインは美しいと思った。
骨が軋むほどの熱い抱擁。
メルヴィナに全身を包まれているという高揚。
ヌメヌメとしたメルヴィナのお肌と己の肌が触れ合っている!
こんなの実質、抱擁以上のあれやそれではないだろうか!
むしろ、情事以上のなんか、そういう! あれ! ではないのか! いかん! 非常にいかん!
メルヴィナ姫は、姫である。
首を絞められて酸欠になりながらルウェインは、なんか思考が残念なことになっていた。
ハイというより、生命の危機に肉体が警報を打ち鳴らしている。
が、ルウェインは一喝するように黄金の瞳を持ってメルヴィナを見つめる。
言葉を発することはできない。
けれど、夕日の光は水底にあってなおメルヴィナを射抜く。
生命の危機にあって、己の生存よりも優先されるべきものがあると、その瞳は言っていた。
「……――!!」
メルヴィナは気がついた。
気がついてしまった。
見て見ぬふりをしていた衝動。
己の殺意とは即ち愛の裏返しである。これほどまでに激烈なる感情をルウェインに向けるということは、それだけ彼に対する想いの深さでもあった。
裏切られ、不信に伏してなお、煌めく黄金が其処にある。
その美しさは真摯なるものであった。
自らが求めてやまぬものであった。
なのに、メルヴィナは己がそれを自らの手で壊そうとしていた事実に気がついてしまったのだ。
海中より身を翻し、海竜教会の床にルウェインと共に海中より脱する。
海水があたりに飛び散り、己が体躯も真の姿から常なる人間の姿に戻っている。
「ガハッ! ゴホッ!」
「ご、ごめんなさいなのだわ……! 私、そんなつもりじゃ……」
「ゴホッ……」
「やっぱり私は狂ってるのだわ! 壊れてるのだわ! 病気なのだわ!」
メルヴィナは己のしでかしたことに、瞳をうるませ、決壊するように涙をこぼす。
殺そうとした。
愛そうとした。
それが行き着く先、その末路の一端にメルヴィナはまさに足を踏み入れてしまったのだ。
これが己。
見られたくないもの。知られたくないもの。
けれど、知らずにはいてほしくないもの。
故に、その相反する感情にメルヴィナは堰を切ったように涙を流して馬乗りになったルウェインへと涙をこぼす。
「……今度は本当に人魚でしたね」
その言葉にメルヴィナは首を傾げる。
何を言っているのか。
酸欠でおかしくなったのか? いや、常なる行動を見ていれば、むしろおかしくない言動であった。皮肉である。
「は?」
どういうことだろう。
メルヴィナは考える。やや間があってから、それが初めて会った時のことを言っているのだと気がついた。
馬乗りになっていたメルヴィナの肩をルウェインは抑え、身を正す。
すぐに離れてしまった掌の熱をメルヴィナは惜しく思ってしまっていた。
が、ルウェインはそんなことに気がつく素振りもなく、居住まいを正して膝をつく。
また、それだ。
「メルヴィナ殿下……申し訳ございません。自分はメルヴィナ殿下がお抱えになられていた深い苦しみに気づいておりませんでした」
いや、実際には『間近で感じるメルヴィナ姫の香り! ンアーッ!!』とか思っていが、おくびにもださない。
その忍耐力、別なところで使ったら? と先輩たちは思ったかもしれないが、今は仲良く喧嘩中である。
「愛が届かぬというのは、それは深海の暗闇よりも深い苦しみでございましょう」
「違うのだわ。私が一方的に元夫を……夫婦なら愛さなきゃいけないと、人を愛する人が人に愛されると思い込んでいたのだわ……」
「いいえ。それは真なる愛でございましょう。メルヴィナ殿下の愛は、只人のそれよりも遥かに深すぎるもの。それ故に苦しんでおられた。自分にも覚えがあります。己の身を焦がすほどの愛が、どれほど苦しいのか……」
ルウェインは面をあげ、メルヴィナを見つめる。
悲しげな瞳であった。
己が愛。
それは確かに忠義に置き換えられるもの。
だがしかし、それは押し付けがましいものであったのだと彼は気がついたのだ。
「そして、自分はメルヴィナ殿下を苦しめてしまっていた。これは万死に値する罪にほかなりません。此度のこと、これこそが我が身への断罪。それを他ならぬメルヴィナ殿下より賜るということは、幸運以上の何ものでもございませぬ」
その覚悟が己にはあるのだと示すようにルウェインは深く頷く。
だが、メルヴィナは頭を振る。
「違うのだわ! そうじゃないのだわ! あなたに死んで欲しいなんて思ってないのだわ! ただもう私に構わないでほしいのだわ! 私は『怪物』なのだわ!」
そう『怪物』は他者を傷つける。
生命を奪う。
そのように振る舞わなくとも、『怪物』が『怪物』で在り続ける限り、周囲には争いが巻き起こる。
かつての歴史が、百年前の争いがそれを証明してる。
「ですが、この忠義を捨てることはできません。捨ててしまえば、それはメルヴィナ殿下への最大の裏切りでありましょう」
「そんな言い方はずるいのだわ!」
「申し訳ありません! ですがメルヴィナ殿下を裏切ることは、自分にとってメルヴィナ殿下を失うことと同義なのです!」
その言い切る言葉に偽りはなかった。
黄金の瞳はまっすぐに青い瞳を射抜いていた。
それは身勝手の極地であった。
「あなたは身勝手すぎるのだわ! 私の気持ちを知った気になって! 私のことを考えているつもりで、本当は自分のことしか考えてないのだわ!」
その通りだった。
自分のためと言いながら自分の忠義に置き換えている。
言葉を置き換えれば、それで煙に巻けると思っているのだろう。
だからこそ。
「それでもメルヴィナ殿下を裏切ることはできません!」
ルウェインは叫ぶ。
己が心の内を、それしかないのだと示すように。一切の二心がないことを示すように、生命の危機にひんして尚、言い切ったのだ。
真しかない。
この真を信じられないのならば、メルヴィナの心はもう壊れきっていただろう。
だが、壊れきっていない。
ひび割れ、傷が入ってなお、その心は求めているのだ。
「――……~~~っ、もういいのだわ! わかったのだわ!」
それはルウェインよりも大きな叫びであった。
「そんなに私が好きなら、もう勝手にしたらいいのだわ……」
殺されかけても。
生命が失われそうになっても、それでも離れないのだという。
なら、もう無理だ。
降参するしかない。
信じたくないと意固地になっても、それすらルウェインは身勝手にもとどまる。
潮流に押し流されぬ樹木のように、一本気を示したのならば、メルヴィナは己が信じる愛に誓ってこれを見てみぬふりはもうできぬと理解したのだ。
「お仕えするお許しを……いただけると……?」
ルウェインは身を震わせていた。
大海に押し込められても、その頚を万力の如き力で締め上げられても、それでも身一つ震わせなかった男が、肩を震わせている。
「でも! いきなり私も好きとかそういうのじゃないのだわ! そもそも私はあなたのことを全然知らないのだわ! だからまずは友達からなのだわ!」
「ファッ!? お友達!?」
ん!?
ルウェインは、ちょっと己の思っていたのと違うメルヴィナの答えにビビる。
そう、彼にとっての忠義とは一方的な愛。
それを向けられる苦しみをメルヴィナに味あわせていたことを深く恥じていた。故に、その許しを得られるのならば生命などいくらでも捧げる所存であったのだ。
だが、今、なんか。
一足飛びな。
これ、なんか違うレースに飛び込んでしまったかのような。いや愛とは種類があるのか? 違う。ルウェインにとっての愛とは一本道しか存在していない。
であるのならば、彼にとっての人生のゴール地点がいきなり延長されたようなものである。
それも違う。
すでにゴールラインを割った。
が、レースだと思っていたそれは、試合。
恋の得点試合。
0-1。
どすんと一発ルウェイン・サイドにメルヴィナの強烈シュートが炸裂してゴールネットを揺らしただけなのだ。
「……嫌なのだわ?」
「いえ! まさかお応えいただけるとは想像の隅にもなく! 至極恐悦! ですがよろしいのですか!? 自分はメルヴィナ殿下を苦しめた大罪人でもあります!」
マジで話が斜め上である。
「罪悪感があるならせめて静かにつきまとうのだわ……」
ん?
なんか。
流れ、違うような。だが、ルウェインは構わなかった。
これがゲームならクリアである。言うまでもないが。
だが、ゲームがクリアされても人生は続く。
「海原のような寛大な御心! 深海のように深いお慈悲! 忠誠を以て恩赦に報いたく! しかし具申を! 具申をお許し頂きたく!」
すんごい食い気味であった。
なんか平身低頭、額を床にこすりつけて摩擦熱で火を起こすくらいの感じで、メルヴィナ怖いなって思った。
「友とはお互いに支え合い、並び立つ仲間! 恐れ多くも今の自分はメルヴィナ殿下の隣に立つことが許されるほどの器を持った人間には及ばず! なのでここはどうか一つ! 騎士としてお仕えさせていただければと!」
それはまるで手順を踏むことに拘るお硬い人間の性分のようでもあった。
メルヴィナにとっては、それは面倒くさいことであった。
良いと言っているのに。
けれど、ルウェインが実直で愚直であることを知っている。
なら、言う言葉は一つ。
「気が済むようにしたらいいのだわ……」
「有難き幸せ!!」
はぁ、とメルヴィナは息を吐き出す。
仕方ないことだ。
わかっていたことだ。わかっていないふりを今までしていたツケなのだ、これは。
なら、致し方ない。
でも、メルヴィナは頭を振る。
彼女の手がルウェインの首ではなく、頬を包むこむ。
「でも……私の騎士になるなら、他の女と一緒にいちゃダメなのだわ。お姉様やヘレナ達なら別にいいけど……」
「はっ!」
ルウェインは一にも二にもなく即応する。
本当にわかっているのだわ?
まるでワンコが尻尾を振っているように思えてならない。
「女の人のそういうお店に入るのはダメなのだわ」
そういうお店。
メルヴィナもわかっている。
男性というのは、常々溜まるものなのだ。発散しなければならない。
欲求というのは人を愚かにする。
けれど、生理的なものであることも知っている。
そういう、のなら、とメルヴィナは自らがと思わないでもなかったが、他ならぬルウェイン自身が己の騎士に、と言ったのだ。
なら、覚悟を見せてもらわねばならない。
「入りません!」
言葉ではいくらでも言い繕える。
「もしも裏切ったら……あなたを殺して私も死ぬのだわ」
氷よりも冷たく、凪いだ海面よりも静かな声色だった。本気の本気であった。本気と書いてマジって読ませるタイプのセリフであった。
が、ルウェインはまるで意に介さない。
「生涯忠誠! 命を懸けて!」
これも即応であった。
本当にわかっているのだわ?
「こうやって私は人を束縛する気持ち悪い女なのだわ。本当に良いのだわ?」
本当に?
本当に本当に本当に?
後悔なんてしないのだろうか。
この男は、愚直がすぎる。生命の危険に晒されても、まるで気にもとめない。危ういと言えば危うい。
でもだからこそ。
「メルヴィナ殿下より賜ったご誓約! 心身に刻み込みます! ンアーッ!!」
いや、やっぱりなんていうか。
「気持ち悪いのだわ……」
ちょっと早まったかも知れないとメルヴィナは思った。
けれど、不思議なものだ。
言葉はいつもと変わらない。もちろん、ルウェインが気持ち悪いのもいつも通り。
けれど、これまでと違うことが一つだけあった。
それはメルヴィナの笑顔。
「おかしいのだわ。気持ち悪いのに」
夕日は落ちて夜の帳が満天の星空を引き連れてやってくる。
お互いに濡れ鼠。
海は穏やかな波間を経て、凪ぐ。
その海面は鏡面と同じく、満天の星空を写すだろう。
星空と星空に挟まれて尚、ルウェインの視界に映ったのは唯一人の女性のみ。
女神のように思えてならぬ美しき姫。
己が騎士として剣を捧げ、己が身を持って御守りすると決めたメルヴィナ姫。
例え、待ち受けるが凪の後に訪れる嵐の如き争乱の時代であっても。
それでも、その|忠義《愛》は揺らぐことはない――。
成功
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