これは、いつかの夢の話。
獣のみどりの双眸が、ふたつの彩になるよりもずっと前の頃のこと。
常闇の世界に、今日も名ばかりの朝が来る。太陽が存在しないのが当たり前のこの世界では、いつだって月だけが空に昇っている。
カーテンの隙間からはぼんやりと、雲を纏った月明かりがわずかに輝いている。それがなんだかこわくて、少年はベッドから降りるのをためらっていた。
ふんわりとあたたかい布団に潜り込んだまま、膝を抱える。そうしていれば、呼びかけてくれる声があると知っていたから。
「起きているかしら」
軽やかに、それでいてやわらかな音色が聞こえて、狼の耳はぴくりと跳ねる。彼女の足音はいつだってしないものだから、ほのかな香りとその声が一番に飛び込んでくる情報だった。
「あら、今日はお寝坊さんなのね」
まだ思考がゆるく動かないままの少年が眠るベッドに近づいて、少女はそうっと布団をめくる。伸ばされた手は少年の頬を撫でて、彼女は甘く笑んだ。
「おはよう、ワンちゃん」
「……うん」
隙間から覗く月光を隠すように、彼女はこちらに身体を向けている。けれど、少女の銀の長い髪は月光そのもののようで、少年にはあまり意味をなさない気がした。
もぞりと起き上がれば、ひょいっとベッドから飛び降りる。しゃらりと細い銀鎖が首で揺れるのはいつものことで、自分が彼女のモノである証がうれしかった。
「おなかがすいたでしょう? 食事はしっかりとらないとね」
「リタは食べたの?」
少年が尋ねれば、リタと呼ばれた少女はくすりと笑みをこぼす。
「ええ、とっくに。でも、食後のデザートはまだだったわ」
「ならいっしょに食べたい」
「そう言うと思った」
おいで、と招かれるがまま、彼女のしろいゆびさきに触れる。つなぐ手がうれしくて、ぐるる、と自然に喉が鳴った。
朝食を終えたふたりが向かったのは、あわい銀色の花々が咲き乱れる庭。月明かりはすっかり雲が覆い隠してしまったのに、此処はいつだってやわらかな色彩をたたえている。
昏い空は変わらずとも、少年の心が不思議と和らいでいるのは、きっとこの箱庭が安心できる塒だからなのだろう。
「ほら」
少女の手からふわりと放り投げられた赤い宝石を、追いかける。なんだか何処までも、うんと走れてしまうような、そんな感覚のままに駆けだして、赤いそれを拾いあげた。すぐに持って帰ってくれば、少女はふんわりとした灰色の髪をやさしく撫でる。
その手つきがうれしくて、犬そのままのような行動だって嫌じゃなかった。
「リタ、花のわっか作って」
「あなた、それすきね」
この前つくってもらった花の環は、すっかり萎れて枯れてしまった。大事に大事に飾っていたのに、気づけばいつの間にか崩れてしまう。その度に、こうやって新しいたからものをつくってもらうのが楽しみのひとつで。
花畑に腰を下ろした少女の傍で、少年はちょこんと座りこむ。しろいゆびさきが花を一輪、二輪と摘んで、ひとつずつ編みあげていく。繊細な作業は少年には難しく、何度教わってもくしゃくしゃのものしか生まれなかった。
「ここをね、こう通すの」
「……むずかしい」
「たくさん練習すればいいのよ、花はいくらでも咲いてるんだから」
そうして、できあがり、と呟いた少女の手元には、銀の花咲く冠が完成する。冠は少年の頭へと乗せられて、灰の毛並みをきらきらと輝かせている。
「ありがと」
「次は首飾りにする?」
そう尋ねられて、首を横に振る。
「これだけでいい」
首筋で確かにひかりをえがく銀鎖を指さしてから、少年は自分の手から生まれた出来損ないの花の環から一輪を抜き出す。少女のこゆびに結わえつけられたよれよれの銀の指輪は、花冠よりもひかえめな輝きで存在を報せている。
「リタにあげる」
「ふふ、ありがとう」
それを大切にするとも、素敵だと褒めることもない。けれど少年にとっては、彼女にあげられるものをあげることができた――ただそれだけで満たされた心地がして、十分だった。
穏やかに過ぎていく時間のなか、少年の思考はぼんやりと融けていく。銀の箱庭はいつだってやさしくて、少女の膝はあたたかい。
「眠たくなってきた? お昼寝の時間ね」
うとうとと船をこぎそうになる瞼を必死に開けようとするのを、しろい手がそうっと伏せる。そうされてしまうと、いつもすぐに眠りに落ちてしまう自分が居た。
「大丈夫、次に目を覚ましても、わたしが起こしてあげる」
「ほんと?」
閉じられた瞳は、少女の姿を映さない。けれど、頷いてくれているように思えたから。
「リタ、またおはようって言ってね」
約束という言葉を使うのは、なぜだかすごくこわくて、できなかった。
「――おやすみ、イドクレス」
ああ、やっぱり約束すればよかったな。そんな風に思ったのはどうしてなのだろう。
その理由もわからぬまま、そうして仔狼はまどろみのふちで完全に意識を手放す。
――ぱちり。青年が目を開ければ、まだ見慣れぬ宿屋の天井だった。
ひどくちいさく唸り声をあげて、ふたいろの瞳はカーテン越しの朝陽によって細められる。
「……」
懐かしい夢だった。どこかいびつで、本来よりもすこしだけまぁるくなったような過去が、イドクレス・ルプスの胸をずきりと痛めつける。
ほんのすこし、想うのは。あの時に約束していれば、今でもあの箱庭で愛してもらえたのではないか、なんて。
夢のなかでなら永遠に、ずうっとやさしく抱きしめてくれているのでは、なんて。
「……馬鹿みたいだ」
今更帰ることができたとして、あの頃のように戻れるわけもない。
だから、くりかえし、くりかえし。思い出される夢のかけらだけが、青年の心の安寧をたもっている。
ベッドから起きあがり、身支度を整える。
かつての幼い愛玩動物は、すっかりヒトの雄としての生を過ごしている。
ただ、人を嫌うように振る舞っては、困っている誰かのために手を貸すことを日々の活動にしながら、夜が来るのを繰り返す。
おはよう、と微笑んでくれる少女の姿は、また、夢のなかで。
成功
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