ティタニウム・マキアの原罪
●妻たるもの
妻たるもの、夫の帰りを家にて待つもの。
それは時代錯誤であると昨今では笑われるものであったかもしれない。
けれど、ステラ・タタリクス(紫苑・f33899)にとっては、言わせておけばいいことであるとも思っていた。
彼女が今いるのは『メリサ』と呼ばれる業界最高峰の殺し屋のセーフハウスである。
亜麻色の髪の男『メリサ』は、呆然としていた。
なんかセーフハウスに足を踏み入れた瞬間から違和感があったのだ。
例えば、ドアノブ。
僅かに湿った感触があった。
例えば、セーフハウスに満ちる空気。
己ではない匂いが混じったような気配があった。
そうした些細な違和感を感じ取ることで生き残るが、この業界に生きる者の秘訣であると言えば、そうであった。
業界最高峰とも言われる彼ですら出し抜く存在がいる。
「あ、『メリサ』様、おかえりなさいませ」
そう、三つ指ついて頭を垂れているメイドである。
ステラはどういう理屈からかは理解できないが悉く『メリサ』のセーフハウスの所在を抑えている。
『ケートス』と呼ばれる電脳ハッカーの偽装さえも彼女はものともせずに位置を特定してくるのだ。
「……間違えました」
ばたむ、と扉を閉じて『メリサ』は脱兎の如く逃走を図る。
だが、その一歩目は容赦なくステラの手に掴まれていた。
「ぐっ! 離してくれよ! 俺が何したっていうんだよ!?」
「何もしてないからではないですか! こうして妻たる者がセーフハウスをお守りしていたのです! ねぎらいの言葉一つあってもいいのではないでしょうか! いえ、この際、抱擁でも! いえ、接吻の一つや二つ! いいえ! やはり此処は既成事実を!!」
「欲張りが過ぎないかなぁ!?」
「やはり、婚姻届を正式に!!」
「何いってんの!?」
もはやセーフハウスの意味をなしていない。
二重の意味で、だ。
ステラに知られている時点でセーフハウスではない。そして、今まさに玄関先で大騒ぎを演じたことで、周囲には野次馬のような|目《ドローン》や|耳《集音機》が殺到していることだろう。
『メリサ』は巨大企業群『ティタニウム・マキア』に楯突いた殺し屋である。
如何に致命的な打撃を与えたのだとしても、巨大企業群は、その名の通り巨大そのものである。
個人を蟻に例えるのならば、巨大企業群は巨象である。
いや、もっと巨大な何かであることは言うまでもない。
だからこそ『メリサ』は身を隠しているのだ。
だが、である。
「またこのセーフハウスも引き払わないといけないじゃないかよ! 俺、『ケートス』にまたドヤされるの嫌なんですけどぉ!」
「ならば、この私、メイドをお雇いくださいませ。ライバルとか他の女の影ごと振り切ることができます!」
「それが既成事実とか言い出すんだろ! わかってんだぞ!」
「ああん、『メリサ』様のいけずぅぅぅ♡」
「変な声出さないでくれるかなぁ!?」
ぎゃんぎゃん。
ステラを引きずる『メリサ』。
振り切ろうとしてもステラが掴んでいる義体の脚部が言うことを聞いてくれないのだ。普通に生身の肉体よりも力が上であるのにステラは掴んで離さないどころか、ずりずりと引きずるのが精一杯なのだ。
「あぁん。去ろうとする殿方に縋るのも、なんと申しますか。これはこれで良いものですね」
「なにかに目覚めている……!」
ステラが、ぽっ、と頬を赤らめるのを見て『メリサ』はヤバいと思った。
彼女を遠ざけるには理由がある。
別に彼女がしつこいからではない。あとやべーメイドだからでもない。それは『メリサ』にとっては理由になっていない。
だからこそ、ステラにはわからないのかもしれない。
「というかですね。最近ずっとサイバースペースに潜っていたくせに、どうしてちょこちょこ姿を見せるようになったのですか私とのデートはいつですか!!!」
「後半が本題でしょうがよ!」
「そうですが、なにか」
足を掴んでいた手を離してくれたと思ったら、がっつりと手を握られている。
なにこれ、と『メリサ』は思った。途方にくれたと言ってもいい。
どうあっても逃さないという鋼鉄の意志を感じる。
「デートしましょう♡」
「……」
やだ、って言ってもステラはきっと諦めないのだろう。
デートするまで帰ってくれない気がする。いや、デートと認めた時点で、彼女の思う壺であるように思えた。
ので。
「まぁ、あのときのことは良いです。デートで許してあげます。もしくはこれに捺印を」
きゃっ! 言っちゃった! みたいなノリで婚姻届を差し出してくる。
殆どのものが電子媒体になっているサイバーザナドゥにおいて今どき物理の紙の婚姻届けである。
手にして『メリサ』は嘆息する。
「……あぁっ!?」
びりびり。
即座に破く。
電子媒体であれば、こうもできないだろう。いくらでも復元できるのだから。
けれど、紙の媒体は違う。
物理的に鑑賞できてしまう。
それはステラも承知の上だろうに、それでも律儀にこうして婚姻届を持ってくるのは可愛げがあるのかと問われたら、まああるんじゃないのって応えるところである。
しかし、それとこれとは話は別である。
「ヤバすぎんでしょ」
「誰がやべーメイドですか」
そうぶーたれるスタラを背に『メリサ』は歩き出す。
ゆっくりとした歩調であった。
特にこれが何なのであるかは言わない。言えば、それだけステラが勘違いするだけであるからだ。
物言わぬのが正解。
そういう時だってある。
故に『メリサ』はステラと共にサイバーザナドゥの汚染進む裏路地という色気もへったくれもない道を歩む。
これが別の世界であったのならば、良い雰囲気の光景などを背景にすることもできたのかもしれない。
けれど、ここはサイバーザナドゥ。
緩やかに滅びを先延ばしにしている世界である。
あらゆるものが躯の海が雨となって降り注ぎ、汚染している。
「掃き溜めに鶴ってじゃあないけどな」
「それは褒め言葉になっているのでしょうか」
「さあ?」
「そういう捻くれ加減もまた……萌えッ!!」
何言ってもこの人打ち返してくるな、と『メリサ』は思ったかもしれない。
「ところで『生ける屍』とおっしゃられていた、『ティタニウム・マキア』の最深部に安置されていた、あの駆体」
「話題の気温差」
「風邪を惹かれてしまいますね。温めます! 人肌で!」
「どうあってもそっちにつなげてくるじゃん……」
「いえ、話を逸らさないでくださいませんか?」
ステラは『メリサ』の手を握りしめたまま見上げている。
わかっている。
この亜麻色の髪の青年は、いつだってはぐらかす。
何故か、ということは言うまでもないだろう。彼はなにか知っている。他の存在と違って、明確に何かを掴んでいる。
「なんとなくは理解できているのですが。あれは、あの青い鋼鉄の巨人はデータだけを復元したものに『何か』の残滓が宿った程度のもの、ですか?」
ステラが思うに、あの『生ける屍』と呼ばれたオブリビオンは『セラフィム』に連なるものではないかと推察できている。
あれが『セラフィム』というものの最終世代であるというのならば、何故あんなに不完全な状態で『ティタニウム・マキア』は秘匿していたのか。
「残穢、というのが正しいだろうな。人にはできないことをやろうとして人から逸脱していったのに、世代を重ねるごとに人に戻っていくんだから、お笑い草だよ」
「それは」
「輪廻というものがあるのだとして、ぐるりと一周回ったら元に戻るもんなのかな。生まれたものの罪が生まれたこと自体にあるというのなら、生きることは、その生まれながらの罪を注ぐための行路だとは思わないか」
黒い瞳の奥にある感情をステラは知らない。
「生きることは贖罪だとでも?」
「原罪なんてものがあるんだっていうんならね。けどさ、そんなもん知らなくたって人は生きてるだろ。生きることをやめないだろ」
生命とはそういうものだ。
なら、『ティタニウム・マキア』がしようとしていることはなんなのか。
「まあ、どちらにしたって」
「いいえ。どちらにしても、ではありません。私は、安心して『メリサ』様が大手を振ってお天道様の下を歩くことを望んでいます」
そして、ステラは笑む。
少し意地悪な顔をしていた。
「どちらかというと、そっちはどうでもいいメイドですので」
ステラが何を言わんとしているのかを知り、『メリサ』は両手を上げて降参だというように肩をすくめた。
いつの間にか握っていた手が離されている。
なんで? とステラは思ったかも知れない。
いつの間に、とも思ったかもしれない。
「もう、そんなに照れないでくださいませ」
「照れっていうかさ、あんたのようにお綺麗な人に、こういう場所は似つかわしいんじゃないかって俺は思うんだよ。それに俺は」
ここではない、『此処』から逸脱したものだから、と『メリサ』は頭を振る。
「あんたはとっくに気がついているのかもしれないけれど。『メリサ』は蜂って意味だぜ?
蜂ってのは女王様がいて、他は大体一律さ。つまり『みんな一緒』なんだ。なら、俺みたいなのは逸れ者だ」
「それが一体何だというのです」
「だよな、そう言うよな。わかっていたけど」
「そうやって煙に巻いて。少しくらい、お・し・え・て・く・だ・さ・い・ま・せ♡」
ぐい、とステラは『メリサ』に近づく。
手は握ることはできなかった。
けれど、『メリサ』は、ふ、と笑う。
ステラの姿は『メリサ』にとってはまばゆいものであった。
己の思うままに生きること。
己が為すべきことに何一つ恥じるところがない。
だが、『メリサ』は違う。
己に恥じるところばかりだ。恥ばかりの人生だ。
失敗し続けている。
どうにも上手くいかないことばかりだ。
そんな己に彼女はどうにも執心している。
「やだ」
そう笑って『メリサ』はステラとまだ追いかけっこを演じる――。
成功
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