●質量をもった夢の手触りを、いつまでも忘れることが出来ないでいる。
がしゃん、と派手に割れる音がした。
「ほらほら、もう。慌てないのよ」
茶器をひっくり返した|使用人《シスターズ》に、向かいの『あの子』は摘まんでいたラズベリーのマカロンを皿へ置く。そうして、ナプキンで優雅に白い指をぬぐいながら続けるの。
「《夜》に通じるからかしら。オマエは明るい中では存外お間抜けさんなのね」
可愛いんだから、と立ち上がる。
『あの子』の言葉に、ふと見る窓の外。地に這うものらが来ない朝を惨めに|希《こいねが》う世界。わたしたちのいる場所を照らす燭台の、僅かばかりの蝋燭たちが、『あの子』が歩くのに合わせて頼りなく揺れる。
伏せてぐすぐすと愚図る|使用人《いもうと》を抱え起こして。
「ねぇさまって本当にお優しいわ。《ねぇさま》とねぇさまって……」
横に座る妹の、その先は許さない――そう、セレナはとっても賢くて、いい子ね。
曖昧な笑みで口を噤む妹の、綺麗なライトブラウンを撫で梳きながら見つめる先。
可愛い『あの子』は。
髪色も年頃も違うというのに、そっくりの顔が向かい合う姿。
頬の涙を拭う白い指が、それより幾分か小さな手をとって――。
「あら、指を切ったの?」
指の付け根、ちろり覗く舌、白を伝う赤を遡り、ゆっくりと舐めとり、咥える唇。
『|あの子《わたし》』が《わたし》の裡にも流れるものを、飲み下してこくりと、動く喉元辺り。
ああ、何もかも、なんて可愛いんだろう。閉じた世界、甘やかに繰り返す日常を。
――ねぇ、わたしは、本当に。
●わたしが一番あなたをわかってあげられる、という感覚から抜け出せないでいる。
始まりが思い出せないの。わたしたち、異母姉妹兄弟。異なる|起源《ルーツ》などという上等なものがあるなら。本当にあったなら。ねぇ。どうしてこんなことになるの。ここは、どこ? 何度も、何度も、飽きもせず。マカロンのよう、甘酸っぱさに消える蝋燭が塗りつぶす夜。馬鹿なわたし、或いは――。《願い》の石の中で震える《夜》を弄ぶ彼女の手の中、お気に召すまま。お気に召すまで。 いいえ、分っているわ。全部、本当なの。触れる手も、感じる温もりも、寄せあう唇だって。いつだって、起きる全ては|貴女《かのじょ》の望み、本当のこと――だけど、何一つ、真実じゃない。
そうね。でも、ごめんなさい。
”| 《あなた》”ではないの。
|貴女《かのじょ》も。そして、わたしもよ。だから――。
●試し、傷つけ、削ぎ落とし、最期に残るものだけを貴女が《愛》と呼ぶのなら。
どうして裏切るの?
「おなじ、でなくちゃあ、駄目じゃないの」
止まない夜に、雨は降る。その夜を割る、雷鳴の轟き。
ちがう、ちがうの。わからない! 喚く恋人の甘いピンク、夢色の髪を――漸く捉えて、一切の躊躇なく引く。
「いっ……!!」
後ろに引かれ、豪快に倒れる。雨に緩んだ土草に|塗《まみ》れ、汚れてこそ尚美しい恋しい人。顔にはねた泥を優しく拭いながら、覗き込む顔、わたしと同じ顔。恐怖と驚愕に引き攣れて歪むそこに、煌く強さ。その瞳だけは、ああ。それが《猟兵》というものの――。
「そうよ。ちがうことが、問題なんでしょ?」
裏切りは許さない、貴女だけ行かせない。振り下ろすナイフで、大地に恋人の手を縫いとめる。喚くも呻くも、お好きにどうぞ。わたしはどんな貴女でも大好きだから。つき立てる牙。喉から胸、胸から臍と滑らす指に、ひくり、と悶える体の浅ましさ。どこまでも、甘く、甘い。
ごめんなさい、これが与えられる最期。これが受け取れる最期だから――だけど、それは伝えられない。
愛は暴力の言い訳にならないの。ねぇ、愛は、蹂躙の言い訳には、ならないのよ。
仰ぐ闇夜の曇天に胸の裡で問う――聞こえる?
だから、|貴女は貴女しか愛せない《・・・・・・・・・・・》。
わたしは、オマエのようには、ならないわ。
|わたし《エミュレーション》は、オマエの|模造品《イミテーション》じゃ、ない。
暫し、二人絡まりあうように縺れ転げ、遂にナイフを振りかぶる。
「ちがう、ちがうのっ。ごめんなさい、ちがう! どうして!」
見下ろすのは、見下ろされるのは。
雨でも分かるわ。あなたの涙は、きらきら、きれい。だけど、おちついて、きいてちょうだい。
「もう、おなじ、じゃ、ないけれど……、う、くっ」
とても、上手にしてくれた。|猟兵《あなた》はそうしないといけなかった。何も違わないから、大丈夫。言いたいけど、喉元を血が競りあがって、あまり沢山を話せない。震える手で、引き寄せる愛しい人。裏切りを、わたしはわたしに許さない。わたしはあなたを裏切らない。あなただけを|彼女《オブリビオン》の元へ向かわせたりしない。
「《ひとつ》になら、なれるわ。わたしたち」
込み上げる血の、それが最期のキスの味。
「これからもずっと一緒よ――” ”」
愛の代わりに名を告げる。
まがい物の温もりの、|触《さわ》れる嘘の中で、これだけがわたしたちの真実だから。
奪わせやしない――わたしが成るの、あなたの中で。
やがて、最期に残るもの。
●育む愛の実る季節の巡るならば、私にもどうか、そのひと欠片を。
振り上げたナイフ、雨に濡れた刃が雷に煌く瞬間を見せたかった、と身悶える。
「どちらがどちらか、もう、分らないくらいにグチャグチャで。交じり合って、それはもう……」
両頬に手を添えて、ほぅとつく感嘆。うっとりと細められた目。
「いつか、私もねぇさまとそんな風に。そしてそして! セレナもひとつにっ……!」
きゃー! いっちゃった! と一層と身を捩る|妹《セレナ》に、お馬鹿さん、相手は私の|分身《エミュ》なのよ? 調子に乗らないで、とアリス・ロックハーツは呆れ顔。指を弾いてそのおでこを打つ。
そうして、その白い指をペティナイフの持ち手に絡めた時だ。
ふと思い出して、聞く。
「わたし、沢山エミュっているから。それで、セレナのいう《ねぇさま》はどの子だったかしら」
「アリスよ! |アリス・セカンドカラー《・・・ ・・・・・・・》! お忘れになったの?」
言葉にはせず、可愛いセレナの言葉に微笑をひとつ返し、ロックは器用に林檎を剥いて。
……本当にお馬鹿さんね――あの子はそんな名ではなかった筈。
「……面白い話だったわ。まぁ、私の好み、かな?」
「そうでしょう?」
勢い込んでセレナが頷く。
「いつか、セレナの野望が果たされたなら、三位一体、私のところにおいでなさいよ」
「そ、そしたらねぇさまがた3人とひ、ひと……!!」
興奮が限界を超えたか、セレナはのけぞると、そんなぁ、すごすぎますっと自分の顔を手で仰いで。
「まさか、私に勝てるつもりなの。もう、本当にお馬鹿さんなんだから」
あなたの妄想は悲恋じゃなくて、悲劇っていうのよ。
そうして、姉妹はくすくすと笑いあい、ナイフが林檎を切り落す。
「だけど、そうね。……楽しみにしてるわ」
いつかくる収穫の|秋《とき》を。
小さな唇が、摘まみ上げた林檎をしゃくり、と噛んだ。
成功
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