その意味を未だ知らない
「今日からここが君の部屋だ」
そう言われて通されたのは、殺風景な石造りの部屋だった。大きな出窓と、ベッド以外は何もないと言っていい。――壁に掛けられたり、部屋の片隅に置かれたりしている、棘や縄のついた様々な器具を除けば。軽く目を見開いて、あちこち見回していたら、ポンと肩に手を置かれた。
「すまないね、こんな部屋しか用意できなくて。首尾よくオラトリオの少年が手に入るなんて思っていなかったから、空いている部屋がここしかなかったんだ。後でまた、君にふさわしい部屋を用意させよう。欲しいものがあれば何でも言ってくれ。何でも買ってあげよう。何が欲しい?」
肩を抱いて、機嫌をとるように猫なで声で囁いてくる相手……フォルターって言ってたっけ、のヴァンパイアに首を振って、小声でいらない、と答えた。
「そうかい? 君は欲がないんだね」
少々驚いたように言う彼の言葉には無言で答える。殺風景とはいったけれど、今までいたところに比べれば雲泥の差だった。藁じゃないベッドなんて初めて見たし、この頑丈そうな石壁なら、隙間風も入ってこないだろう。ただ、もしひとつだけ欲しいものを述べるとしたら。画材が欲しい、と思った。僅かばかりの果物の汁とか、石とかじゃなくて、もっとちゃんとした……それこそ、昔見た旅の絵描きが持っていたような、絵の具だったり筆だったり、キャンパスみたいな。それでこの石壁に思いっきり絵を描けたら、どれだけ心が華やぐだろう。想像しただけで心が躍る。――でも。どうせ叶わぬ願いだと俯いた。近隣で、年頃の少年が次々とヴァンパイアの居城に連れていかれる事件が頻発していたことは知っている。連れていかれた少年は二度と戻って来なかったことも。何が起きたかはだいたい想像がつく。相手はヴァンパイアだ。大方、血を吸われ尽くして死んだんだろう。それで、自分の番が来たんだと思う。たぶん自分も、近いうちに死ぬ。殺される。この、フォルターとかいうヴァンパイアに。正直、死ぬのはさほど怖くない。あまり痛くなければいいなと思うぐらいだ。神の御使いとか呼ばれ、崇められていたにも関わらず。村のためにどれだけ祈っても、天候を変えることも飢饉を防ぐことも、貧困にあえぐ人々を救うこともできなかった。そんな自分ができるのは、ただ村のために死ぬことぐらいだと思う。自分が死ねば、少なくとも自分の分の食い扶持は浮く。貧しいのに、御使い様のためだと無理して供物を捧げていてくれていたのは知っている。それがなくなるだけでも、多少は足しになるはずだ。それに、自分が血を捧げれば、少なくともフォルターはこれ以上村には手を出さないかもしれない。自分が本当に神の御使いだとしたら、死ぬことで少しは神の奇跡だって起こせるかもしれない。……ただ。チラとフォルターの方を見る。
「今日は疲れただろう。立ち話もなんだし、座って少し話そうか」
などと、肩に手を回したまま、上機嫌でベッドまで連れていく彼の口ぶりから察するに、どうもすぐに殺すってことはなさそうだ。この部屋に連れてきた時も言っていた。「今日からここが君の部屋だ」と。しばらくここで暮らすこと前提みたいじゃないか。そもそも、連れてこられて最初にされたのは風呂で身を清めることだった。すぐに殺すなら、わざわざ身綺麗にする必要もないはずで。一体、何を考えているんだろう。そうした疑問を口にするのもなんだか恐ろしく、ただ促されるままにベッドに腰掛ける。フォルターも隣に座った。
「さて……それじゃ、ちょっと、脱いでくれないか?」
開口一番に言われた一言に目を剥く。このワンピースみたいな、丈の長い白いシャツ着せたのは彼なのに。思わずシャツとフォルターを交互に見る。着たばかりなのにすぐに脱げとか、ますます意味が分からない。戸惑いシャツの胸元を引く僕に、フォルターは慌てたように両手を振った。
「ああ、説明が足りなかったね。すまない。何分、オラトリオの少年を手に入れたのなんて初めてだから。その翼を、よく見せて欲しいんだ。付け羽じゃないか――とかね。ああ、別に疑っているわけじゃないが」
珍しいのか。この翼が。確かに、村でもオラトリオは自分一人だった。何らかの神秘体験と共に覚醒する――みたいな話を聞いたような覚えはあるが。そう多いわけでもないのだろう。まあ、翼を見せるくらいなら……とシャツのボタンに手をかける。翼が引っかかって脱ぎにくい。オラトリオの少年を手に入れたのは初めて、と言っていたし、オラトリオ用の服もないんだろう。ただ翼部分に穴を空けただけの、急ごしらえの服だ。オラトリオ用の服も必要か、と呟くフォルターの前で、ようやくシャツを脱ぎ捨てる。下着くらいは履いているけれど、ほとんど裸だ。ほう、と彼が感嘆の声を上げる。
「肌も白くてきめ細やかで美しい……翼も……本物だな。体から直接生えている……なるほど、こうなっているのか」
などとぶつぶつ言いながら翼の付け根をなぞる指に、正直ぞわっとした。そのままフォルターの手は背を滑り、下の方へ……と、不意にその手が止まった。
「……おっと。いけない。せっかく手に入れたオラトリオの美少年、ここで散らすのはあまりにもったいないな。もっと時間をかけて、じっくりと愛でなければ……すまない、もう着ていいよ」
はあ、と首を傾げつつ、脱いだばかりのシャツを再び羽織ってボタンを留める。着ていいと言ったくせに、フォルターはどこか名残惜しそうな顔で着る様を見ていた。……本当に翼を見るだけだったんだろうか。なんだか、あの手つきにはそれ以上の意味を感じたけど。すっかり着終わった後でも、フォルターは落ち着かなさげな様子で胸元を掴み、何事か呟いていた。
「ああ、しかし困った……裸なぞ見てしまうと、今すぐにでも欲しくなってしまう……ダメだ、耐えなければ……我慢したらしただけ、果実は美味しくなるのだから」
チラチラとこちらを見ながらぶつぶつ言っている彼は、どこか苦しそうにも見えて。ヴァンパイアなのに。人々を傷つけ、苦しめるヴァンパイアなのに。何を我慢しているのかは知らないけど、苦しそうな様になんだか同情心がわいて、つい顔を覗き込むようにして訊いてしまった。
「あの……大丈夫?」
血なら吸われたって構わない。無駄に生かされる方が心苦しい。どうせいつか殺されるなら、いっそここで一思いに血を吸い尽くして殺して欲しい。フォルターが僅かに目を見開いた。まじまじとこちらの瞳を覗き込む。
「……そうだな。味見するくらいは構わないか」
ひとりごちて、そっと顎の下に指を添えて、上を向かされる。てっきりそのまま首すじに噛みつかれるのかと思ったら、唇に唇を押しつけられた。
「んっ……!?」
びっくりして言葉が出ない。なんだこれ。どこか湿った感触が気持ち悪い。驚きに体が硬直して、相手を突き飛ばすという選択肢も浮かばないでいるうちに唇は離れた。たぶん時間にしたら一瞬のことだったと思う。思うけれど、その一瞬が体に刻み込まれたみたいに抜けない。
「何、これ……」
唇に手をやって呟くと、
「なんだ、キスも初めてなのか?」
そう訊かれた。キス? あの、唇と唇をくっつけるやつがそうなのか。確かに今まで経験したことはなかったから。戸惑いつつ首肯する。相手の目に喜色が浮かんだ。
「そうかそうか、初めてか! なら、その先のことはもっと知らないだろう。安心するがいい、この私が直々に教えてやろう……!」
興奮ぎみに息も荒くして両肩を掴み、ベッドに押し倒してくる。そのまま覆い被さってきたその時、突然ドアが開いた。
「フォルター様! この前捕らえて鉄の処女に入れといた少年がもう虫の息で」
「なんだ騒々しい! 今いいところだったのに!」
舌打ちして体を起こしたフォルターはしかし、
「……いや、かえってよかったかもしれん。せっかく手に入れたオラトリオの少年を、早々に食い潰すところだったからな。楽しみは後にとっておこう……」
一転して不敵な笑みを浮かべ、
「まずはこの前の少年から堪能するとしよう。そろそろ食べ頃なはずだからな」
颯爽とドアの方に歩いていく。扉に手をかけたところで不意に振り向いた。
「それでは……ロビン? また今度。君には、キス以外のことも色々と教えてあげよう……だから」
逃げるな、とフォルターの口が動いた。その刹那、彼の紅の瞳がすっとこちらを射すくめるように細められる。ただ、それも一瞬のことで。次の瞬間にはもう忘れたみたいに、ニコリと微笑んでいた。
「それじゃ、また明日。おやすみ」
それだけ言ってドアの向こうに引っ込む。はあ、と曖昧な返事だけして、つられて起こしていた体をドサッとベッドに横たえる。なんだか、ドッと疲れた。また明日……明日も、あるのか。自分に明日があるらしいという事実が、あまり嬉しくない。
(「また……ああいうこと、されるのかな」)
そっと唇に指を当てて思う。まだ、相手の唇の感触が残っている気がする。分からないなりに、あまり気持ちいい行為じゃなかった。これなら、一思いに血を吸われて殺された方がまだマシだった気がする。せめて眠ろう、眠って忘れようと目を閉じた。
――少年は、ロビンは。その意味を、未だ知らない。
成功
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