ふと思う。
もし異世界の俺という存在が居るならば、やはり拠点とする場を似たような名で呼んでいたりするのだろうか、と。
ベルクシュタインの魔道具店――かつて灼滅者仲間の間でそう呼ばれていたとある団地の一角は、今でも小綺麗に片付けられ青春の面影を映している。便宜上の店主の真面目だが親しみやすい人柄もあり、いつでも友や生徒が立ち寄れる憩いの場として残しておきたかったのかもしれない。
ニコ・ベルクシュタイン(花冠の幻・d03078)が敷地内に足を踏み入れると、すっかり立派な番鶏となった名古屋コーチンのファルコンが遊んでほしそうに近づいてくる。また後程だ、とファルコンをひと撫でしたニコは、きりと表情を引きしめ、棚や抽斗の中で大切に保管してあった愛用の殲術道具達を改めて眺めた。
トレードマークである花冠の三角帽子と赤い衣装。魔法使いらしい定番の箒。虹の星が連なる首飾り。どれもニコの想い出とこだわりが詰まった品々だ。そして懐中時計――そういえば此れは長年無銘の侭にしていたな、と追想する。
ニコは同じ型の時計を懐から取りだした。店頭に並ぶものよりもかなり使いこまれ、骨董品としての味を持ち始めているそれ。思い立って銘を刻んだのは、家庭を持って間もなくの事だったか。
(……未だ学園に籍を置く仲間も多い。矢張りかつての大戦を戦い抜いた一人として、掴み取った平穏を、俺自身の大切な者達を此の手で護らねば)
二〇二三年五月、突如として復活ダークネスが現れだしてから一年と数カ月が経つ。無論ニコもただ放っておいた訳ではないが、周りから「先輩には家庭があるでしょう」等と言われ、救護や情報収集に回る事が多く、歯痒い思いをしていた。
そこへ降ってきたのが『猟兵』と呼ばれる異世界の戦士達、オブリビオンという未知の敵の存在だ。ニコの知らない復活ダークネスが日々加速度的に増えていき、世界は再び大きな危機に晒されている。
大切な家族には心配をかけるが、もはや下がってはいられない。そう思い、再度花冠を被ろうとした、丁度その時であった。
「此れは……何事だ?」
懐中時計から虹色の光がきらきらと溢れ、針が高速で時を刻み始めている。まるで、遥か先の識らない未来へとニコをいざなうように――時計盤の上に浮かんだ虹色の星が廻る。そして辺り一帯が光で満たされたのち、ぴたりと時計が止まる。
「定刻通りだな。……うむ……胸に来る想いが有るものだ。こうして、実際に貴方を目の前にしてみると」
「……な、な、な……」
ニコは、突如出現した|彼《﹅》の姿に驚愕し、思わず壁際まで後ずさった。よもや己の知らぬ間に顕現した復活ダークネス、もといオブリビオンではないかと疑ったほどだ。
彼――その妖精騎士、そして由緒正しき魔法の継承者でもある猟兵の青年は、ニコのリアクションを見て緊張していた表情を緩める。ああ、此の方は確かに俺の恩人で違いないと。
「驚かせてしまい申し訳ない。お目にかかれて光栄に思う。俺は……百年後の貴方の懐中時計だ」
今は、貴方の名を拝借してニコ・ベルクシュタイン(虹を継ぐ者・f00324)を名乗らせて頂いている――グリモアで転移してきた猟兵のニコは、灼滅者のニコに向かって深々と礼をした。
成程そうだったのか、の一言ではとても片付けられない精神状態なのは灼滅者のニコである。
学園の図書館からコピーして持ち帰っていた猟兵に関する資料の山を片っ端から見直し、それらしい記述に辿り着いても、なおも信じ難い思いだ。
「……お前はまさか……俺のこの、懐中時計のヤドリガミ、だというのか?」
時計、目の前の――若干目つきが鋭いような気もするが――ニコを名乗る黒縁眼鏡にカマーベストの青年、そして姿見に映った己を順繰りに見やる。信じられない。
が、先程時計に起きた不可思議な現象を見るに、なにより直感的にもそうではないかと思った。このヤドリガミという種族は、日本に来て聞いた付喪神というものによく似ている。
もしもこの先自分に何かがあって、銘入りの懐中時計が人手に渡ったとしても。
次の、その次の、そのまた次の持ち主が、己と同じように日々ネジを巻き続け、手入れを施し、時には汚れを磨き、想いを、魔力を込め、共に時を刻み続けていたら、そうなってくれるのではないかと感じたのだ。
願望に近い考えであったかもしれない。だが、猟兵のニコはその問いに頷いて破顔する。
「其の通りだ。貴方にもそうお考え頂けて、誠に……誠に、喜ばしく思う」
感極まる想いだ。灼滅者のニコは、猟兵のニコにとっての最初の持ち主。
無銘の懐中時計であった自分に名前を彫り、魂を、価値を刻んでくれた者。
『誰よりも自分に魔力を注いでくれた恩人』という特別な存在。或いは、それ以上でもあるのかもしれない。その彼が「ヤドリガミである」と思ってくれたのだ。これほど嬉しいことがあろうか。
猟兵のニコは本体である懐中時計を懐から取りだし、灼滅者のニコへ手渡す。ヤドリガミにとっては己の心臓を握らせるような行為だ。だが、彼なら簡単に壊すような扱い方はしないと憶えている。
百年の時を経たその時計は、灼滅者のニコが持っているものより随分古びた色合いになっていたが、保存状態はよく風格が出ている。針が、命の鼓動を刻むように時を進めていることを掌で感じる。赤いルビーと紋章が特徴的な蓋をそうっと開けば、裏面には見慣れすぎた癖字で銘が彫られていた。
灼滅者と猟兵、ふたりの名。
『Nikolaus=Bergstein』――と。
そして、猟兵のニコは百年間……には、すこし満たない思い出話をした。
歴代の主たちがどのような人物で、どんな世界でどんな暮らしをし、どのように扱ってくれたかを語り聞かせた。様々な人物の手に渡ってきたが、共通しているのはみな欠かさずネジを巻いてくれたこと。そして、ここまで自分が壊れぬようにと気遣い続けてくれたこと。
灼滅者のニコがどういった経緯で己を手放し、誰の手へ渡ることになるかも時計は識っている。だが、その未来だけはけして言うまい。そこだけは語らず胸に秘めておく。
「最後の持ち主はアルダワ魔法学園の生徒だった。今の貴方の教え子達程の年齢の少年だ……そしてかつての貴方達同様に世界の敵と戦い、無謀にも難所へ突入し、例え力の差が明らかな強敵を前にしても……彼は勇敢に、――」
今想えば、あの少年は武蔵坂学園の灼滅者たちによく似ていた。
眦に涙を浮かべ、言葉を詰まらせる猟兵のニコを見て、灼滅者のニコはその少年が辿ったであろう道を察する。みなまで言わずとも良い、そうだ珈琲でも飲むかと言って席を立つ。
幾許かののち、出てきたブレンドは二人の愛好する珈琲店のものだ。その懐かしくも、慣れてもいる不思議な苦みと薫りを味わううち、猟兵のニコの心も幾らか落ち着いてきた。
そうだ。もう二度とあのような思いをしたくはない。
「ベルクシュタイン氏。俺は、貴方が今の平穏を掴むまで、どれだけの苦難を乗り越えてきたか、その全てを知っている。懐から常に見ていたのでな」
灼滅者のニコは、ダークネスとの激闘の日々を最初期から最後までひと時も休まず駆け抜けた、多大な貢献者のひとりだ。都市伝説やご当地怪人が起こす些細な事件から、血も涙も凍る程の凄惨な戦場まで、あらゆる事件の解決に日夜走り回っていた。
特に強敵であった新宿迷宮におけるロード・パラジウムとの邂逅や、ソロモンの大悪魔サレオスとの激闘ではどれ程悔しい思いをした事か。だが、時計は彼が命を散らさずにすんで安堵していた。
闇に堕ち、暴れに暴れて結局帰らなかった彼の知人を見ていた。その者に直接狙われた時など肝が冷えたものだが、灼滅者のニコは勇敢に戦い、闇への誘いを退けた。
数々の戦争、最後の大戦を乗り越える中、彼は生涯の伴侶となる人物を見つけ、ついに故郷ドイツで結婚式を挙げることも叶った。
『灼滅者のニコ』ではない『ニコ』としての、平穏であたたかな人生は始まったばかりで、ゆっくりと歴史の海へ刻まれゆくはずなのだ。
ゆえに、時計は想う。
恩人がようやく勝ち得たささやかな幸せを、何としてもこの手で守りたいと。
灼滅者のニコは知らずとも、己は長い間彼に守られ、力をもらい続けてきたから。そして、彼の姿を模して顕現したこの身体に誇りと憧れを抱き、今までそれなりに長く戦ってきたという自負がある。
「……其のような細かな事まで記憶しているとは。いや、何とも気恥ずかしいというか……」
灼滅者のニコは話を聞いて驚いているようだった。何故猟兵のニコが此処へ来たのか――それも、彼ならば絶対にまた戦うはずと確信していたからだ。
「折り入って頼みがある。貴方はまた戦場に出ようと考えて居られるだろう。だが、どうか家族を大切にしてあげて欲しい。此の世界の事件も含め、全ての戦いは俺が引き受ける。
俺は時計のヤドリガミだ。貴方の、貴方の大切な人々のかけがえのない『時間』を、俺に守らせてくれないか」
もう嫌なのだ。
ただのもの言わぬ器物であった己に、深い愛情を注いでくれた人物を喪うのは。
心配無用だ、時間は必ず厳守する――猟兵のニコがそう言って出してみせた長針と短針を模した双剣は、かつての武器とは異なるものだが、確かに強い魔力を宿している。
元々武蔵坂の魔法使いとしては相当鍛えられた肉体を持っていたニコだが、このヤドリガミはより逞しさが増しているような気もする。それは多分猟兵として相当な経験を積んできた証なのだろう。
灼滅者のニコは考える。現時点での猟兵としての力量は、間違いなくこの時計の青年のほうが上だ。それに、もし己が思わぬ形で命を落とすようなことがあれば、家族や友を泣かせるのみでなく、彼も泣くだろう。ヤドリガミの力にどんな影響があるかもわからない。
で、あるのなら。
「承知した。俺は第一線からは退く事にする。其れでは頼んだぞ――百年後の『俺』よ」
「お、『俺』?」
猟兵のニコはその言葉に目を丸くする。灼滅者のニコは、はは、と笑う。
「俺の記憶を全て持っている。そして同じ名を名乗っている。ならばもうお前は『俺』だろう」
此の俺自身が認めるのだ、違いない。
お前が継いでくれ――ニコ・ベルクシュタインという、魔法使いの名を。
そう言ってさし出された手を、暫し呆然と見やる。恩人に其のような想いを託されるとは――先程とは異なる涙がこみ上げそうになるのをこらえ、正式に『ニコ・ベルクシュタイン』となった懐中時計のヤドリガミは、力強くその手を取る。
「……恐縮だ。だが、光栄の極みだ。貴方から戴いた此の名と力、生涯大切にしよう」
「そう大袈裟に畏まる事もあるまい。……いや、俺だから無理なのか……兎も角、お前は此れまで通りに過ごしてくれれば良い。そして、偶には此処へも訪れて、どのような冒険をして来たのか俺にも聞かせて欲しい」
お前は俺の事を全て識り尽くしているようだが、俺はお前が何と戦い、何を想ってきたのか、まだ殆ど識らないからなと灼滅者のニコは言う。
あの激動の六年間を共にした懐中時計が、果たして異世界でどんな冒険をしているのか――純粋に気になるではないか。家族に聞かせてやるのにも良さそうだ。
「ああ。其れから、こいつの事も大切にしてやって欲しい。俺が共に時を刻んでいく相棒故にな」
最後にしっかりとネジを巻いてやり、猟兵のニコから預かっていた懐中時計を返す。それが大事に懐へしまわれたのを見届け、灼滅者のニコは己が元々所持していたほうの懐中時計を見つめた。
――此れは益々手入れを怠ってはならないな。より大切に扱うとしよう。
そうして、懐中時計の百年は脈々と刻まれてゆくこととなる。
骸の海から染みだした過去は、時計の針を確実に狂わせている。
猟兵のニコは復活ダークネスが現れた世界線のことを記憶していない。知っていたらとうに報告している。ゆえに、ここから先の託された未来は、どれほど困難でも必ず自分の手で勝ち取ってみせねばならない。かつて灼滅者のニコ達がそうしたように。
時を狂わせる者をけして許さない。懐中時計のヤドリガミとして、魔法使いを継ぐ者として、その誇りと矜持を胸に――ニコ・ベルクシュタインの新たな戦いが、今日からまた始まる。
成功
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