あの殺人鬼のガード・ダウン
●だれかのかけら
もしも、魂が砕け死ぬのならば、砕け散った破片は誰かの心に突き刺さるものなのかもしれない。
死ぬには程遠く。
血を流すには浅く。
薄皮一枚破くのがやっとという破片の鋭さ。
取るに足らないと言う者が殆どであろうし、真に邪悪なものであればあるほどに、その破片に気を止めることはない。
また真に善なる者もまた目に止めることはないだろう。
ならば、誰がそれをわかってやれる。
人間だけだ。
悪性と善性のゆらめきを良心と呼ぶ人間ならば、その欠片がもたらした痛みを理解できる。
己があの少年にしてやれたことは、どれほどのことであっただろうか。
打ち明けられた悩みに対して、己は何をしてやれただろうか。
僅かなこともしてやれたとは思えない。
青春時代というのは、往々にして悩み苦しむものだ。
その苦しみが子供を大人にしていく。
苦々しい気持ちも、いつかは笑い飛ばすことができるはずだと大人である己が言わねばならなかったし、示さねばならなかったのだ。
だが、己はそれを為すことができなかったように思える。
十余年もあまり姿を見ていない少年。
仮に姿を見たとして、彼の姿はどのようなものだろうかと想像するしかない。
それが意味のないことであるとはわかってはいるが、息災なければよいと願うばかりだ――。
●護符
摩津崎・灰闢(済度無相・f43898)は確かに、と手渡された護符揃えを確認して頷く。
時は夏の夜。
今年は酷暑と呼ばれるほどに過ごし難い日々が続いている。
とは言え、夜となれば湿気がなければわずかに過ごしやすい。本当にわずかであるが。
けれど、灰闢は額に汗かくことなく身じろぎ一つして居住まいを正す。
所作としては完璧だった。
完璧すぎた、と言えるかもしれない。
「お忙しい中、申し訳有りませんでした」
「本当にな。そう思っているんなら、の話だが。無茶を言うのが流行っているのか最近の若者は」
慇懃無礼とも言えるほどに折り目正しい態度に寺の住職は渋い表情を隠すことなく言う。
「――と、申しますと」
「フン、こっちの話だ。お前が気にすることはない」
つっけんどんに言い放つ住職に灰闢は、張り付くような笑顔を崩さなかった。
あくまで己が無理を言って住職に護符揃えを依頼したのだ。
住職の愚痴一つなど受け流して然るべきであった。少なくとも灰闢は『そうしたほうがよいから、そうした』のだ。
別に人と人との関係を上手く構築しようだとか、赦す心があるからではない。
全て打算の上だ。
今後も住職に護符を頼むこともあるだろう。
色々試してみたのだが、結局元の人格の手にしていた護符が手に馴染んだのだ。当然と言えば当然かも知れない。
「ああ、なるほど。あちらがそうなのですね。なるほど大口だ」
灰闢が視線を向けたのは住職の背後にある幾重にも呪言めいたものが走る護符を巻き付けた巨大な縛霊手であった。
まるで巨人の手甲のようだった。
あれのせいで住職のスケジュールが逼迫していたのだろう。
思ってもいないことであったが、ご苦労さまです、と慇懃無礼にならぬ程度に表情を作って頭を下げる。
「探ってくるんじゃあない。それに急を要するなら自分で書いたらどうだ」
わざわざ手間を掛けて己に依頼することでもないだろうと言外に言っているのだろう。
灰闢は笑みを貼り付ける。
「このような清浄な符、私には作れませんから」
「……だろうな、お前は我欲に塗れている」
住職の言葉に灰闢は、笑みを貼り付けていてよかった、と思った。
今更、そのたぐいの言葉に動揺することはない。いや、もっと言えば、『動揺の一つでもしてみせればよかった』とさえ思っただろう。
故に灰闢は、住職の言葉に乗ることにしたのだ。
「なんでもお見通しですね」
「人様の性根が薄っすら見えてしまうもんでね」
「それはお気の毒に」
冗談。冗句。
そう、これは他愛のないやり取りだと言わんばかりに灰闢は、冗談めかした言葉で応酬を切り上げる。
住職はそれ以上言ってこなかった。
やはり、とも思った。
彼の言うところの性根が見える、というのはESPの類である。だが、微弱。総人類エスパーへと変貌したサイキックハーツ世界において、やはり能力の強弱というものは存在する。
住職のそれは、エスパーになる前から存在してはいたのだろう。
だが、微弱過ぎるゆえにダークネスに狙われることはなかったのだ。
そういう意味でも『お気の毒』だと灰闢は思った。
その程度の力ではない方がマシだ。生半可な力ほど自分だけではなく他者をも巻き込んでしまう。よくわかっていた。
「それでは私はこれで」
切り上げてさっさと帰ってしまおう。
目的のものは手に入れたのだから。
「待て。一つ聞きたい」
「なんでしょう」
その瞳に灰闢は嫌なものを感じる。
「最初に来た時、武蔵坂の学生の紹介と言っていたが……それは石英と名乗る者ではないのか?」
やはり縁者か、それも深く近いものではないだろうが。
「……何故、そうお思いで」
「面差しが似てる気がしてな」
あちらも縁者であるかも知れぬと思ったのだろう。なら、乗る。ためらいなんてない。
「ご推察の通り、親戚です。此方が良いと助言を頂きまして」
「そうか……今も健勝か?」
頬が釣り上がりそうになった。
その言葉からは最も程遠いだろうと知っているからこそ、愉悦が顔をのぞかせるようだった。
引きつるように表情筋を固める。
「ええ、元気ですよ。とてもね」
硬い笑顔。
上手く作った笑顔。
貼り付けたよな笑顔。
「……お前が帰った後は塩をまく必要がありそうだ」
「あながち間違いではありませんね、その対応」
まるで悪霊にやる対応だ。
まあ、間違ってない。
「冗談だよ」
「私もです」
なんてことのない軽口。
そう、全てを事細かく詳らかにする必要はない。
利用できるものは利用する。
例え、己を訝しんでいても、あの微弱な能力では己の真相にたどり着けまい。
なら、なんの問題もない。
こらえろ。
笑うのは今じゃあない。
感情を沈め、灰闢は帰り道にて釣り上がる頬を己が掌で覆い隠す。
それは真を覆う闇のようだった――。
成功
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