Lady in the Mirror
二〇二三年五月。
かつて灼滅したダークネス達が突如復活し、各地で事件を起こしている――その一報を聞きつけた橘・レティシアは、急遽旅先から日本の拠点に帰国し、もう何年も使う機会のなかった殲術道具の数々を検めていた。
――この剣を手に取るのも久しぶりね。あら、これは確か――。
学生時代からの相棒としてきたチェーンソー剣。ハンガーにかけられた高校の制服。贈り物や冒険で入手した想い出の品を収めた小物入れ。その中にひとつ、にぶい輝きを放つ鋭利な硝子の欠片が混ざっている。
いや、これは硝子ではない。鏡だ。曇った鏡面に映し出される己の顔を見て、レティシアは何故これが此処にあるのかを思い出す。それはまだ、世界が闇に支配されていた時代のこと。彼女が武蔵坂の学生であった頃の話だ。
きっかけは知人のエクスブレイン――骨董品店の子息であるという出自だったか。独特な扮装の反面、仕事ぶりは至って真摯な青年だった――が、常の如く「事件だ」と持ち掛けてきた話であった。
とある廃遊園地に『むさぼり蜘蛛』と呼ばれる眷属が出るという。傍にダークネスの気配もなく、所謂はぐれと呼ばれる弱い個体だ。数も数体程度との事であったし、他の灼滅者達の多くは丁度大きな事件で学園から出払っていた。なので鍛錬も兼ね、レティシアは単独で依頼を請け負う事にした。
当時は眷属ですら一般人の生命をおびやかす存在だった。現場に急行すると、腕時計の針は既に真夜中を指していた。湿り気を帯びた初夏の夜風がさわさわと木々を揺らし、土と緑のにおいを運んでくる。
(……素敵ね。こんな時でなければ四季を感じていきたいのだけど)
冬服と夏服が切り替わる季節だ。五感が描いた旋律を自然と口遊みながら、レティシアは園内に足を踏み入れる。
昔は地元で愛されていたのだろう、山中のちいさな遊園地だった。放置され、落ち葉が降り積もった園内を探索すると、すっかりペイントの剥げたレトロなゴーカートや、雨風に晒され錆びた観覧車が目につく。曲の続きが浮かんできそうだったが、まずは討伐だ。
(蜘蛛が棲みついていそうな場所は、やっぱり屋内かしら)
文字のかすれた案内板を頼りに、ミラーハウスと書かれた建物をめざして道なりに歩いていく。寂しい受付をすり抜けて内部に入り、懐中電灯をつけた。すると、急に四方から視線を感じ、一瞬奇妙な悪寒が背筋を駆ける。
無限に続く迷路の中に無数の女が佇んでいた。
すらりと背が高く、長くやわらかな薄桃色の髪は腿ほどまではあるだろうか。半袖のセーラー服に少し長めのスカート、何処か遠くを見ているような秘密めいたまなざし――左手に巨大なチェーンソー剣。
(……。客観的に見ると、私、あまり夜中には出会いたくないかもしれないわね)
学園内で謎の転校生扱いを受けているらしい理由が少し理解できた気もした。けれど、鏡に映った己の姿は見慣れている筈だ。今更驚いたりなどするだろうか。
だが、理由を考える前に彼女の耳は周囲の雑音を拾い上げる。かさかさと壁を這い、何かが近づいてきている。むさぼり蜘蛛だ。こんな所に籠ったせいで余程飢えているのだろう、足取りは本能のままに餌を求めていた。ならば――敵が曲がり角から現れた瞬間、持っていた懐中電灯で大きな眼を照らす。
腹の大口からぎちぎちと呻き声が漏れ、足が止まった。敵が光で怯んだ隙にチェーンソー剣を駆動させ、胴体を一気に叩き斬るべく腰部を狙って刃を振り下ろした。
刃が喰い込み、蜘蛛はじたばたと脚を動かしながら鋼の糸で繭を作って防御を試みる。だが、趨勢は既に決している。駆動を続ける鋸の歯は糸の一本如き容易く千切り、じわじわと敵の肉体を削り取っていく。
……ぶちん、という手応えがあり、腹部が胴体から切り離された。蜘蛛は暫くぴくぴくと脚を動かしていたが、じきに息絶えるだろう。悠長に眺めて待っている余裕はない。敵は複数で此方は独りだ。地の利も相手にあり、上手く動かねば囲まれてしまうだろう。
(迷路という場所は少し厄介ね。けれど聴こえるわ、あなたたちの奏でる生命の歌が)
戦う為に磨き上げたレティシアの音楽技術は、戦場内の物音の大きさ、聴こえてくる方向や種類からおおまかな状況を伝えてくれる。建物の特性上通路は狭い。それを利用して、一対一の戦いにさえ持ちこめればこちらが有利だ。
網を張って待っていては逆に追い込まれるばかり。積極攻勢を仕掛けるべく、レティシアは己の耳に従って迷路を駆ける。恐れることなく軽やかに、しかし良い緊張感も忘れずに。そう、戦いは音楽を奏でることと似ている。
忍びよる蜘蛛達を次々に薙ぎ払っていけば、耳に届く雑音も次第に減っていった。もう積極的に動いてくる相手はいないようだが、完全に気配が消えた訳でもない――レティシアは慎重に探索を進めていく。時折誰かに見られている気がして、振り返ったが、そこに居るのは自分自身だ。
(……妙ね)
怪談の類などは怖くない。むしろ意外と愉しんでしまう方だったりするが、このミラーハウスには何か厭な気配が憑き纏っている。警戒しながら残る蜘蛛を探していると、行き止まりで鋼の繭の中に閉じ籠っているのを見つけた。
「生き残りたいのね。少し可哀想な気もするわ。けれど、私達にも守りたいものがあるのよ。ごめんなさい」
チェーンソー剣の歯で糸を引き千切り、敵の防御を強引に剝がしていく。繭の中に大きな口が見えた。あと一歩……そう思い踏み込んだ時、背後から急に粘液の糸が絡みついてきた。驚いて振り返ると、天井から一本の糸で垂れ下がったむさぼり蜘蛛がすぐ眼前まで迫っていた。虫が苦手ならば悲鳴を上げていたろう。
「……追い込まれたように見せかけて、私を食べようと狙っていたのね。迂闊だったわ」
腹部から涎をたらした蜘蛛が大口を開ける。レティシアは咄嗟にチェーンソー剣を嚙ませてやり過ごそうとするも、糸が絡まって身体が上手く動いてくれない。
「……っ!」
かわし切れず、むき出しの白い腕に蜘蛛の牙が突き立てられる。退避しようにもここは行き止まりだ。先程まで繭に籠っていたもう一体も中から這い出て、レティシアを更に糸で縛りつけてくる。動けば動くほどねばついた糸が手足に絡み、致命傷を避けるのがやっとだ。
蜘蛛の牙が肩に突き刺さる。飛び散った血飛沫が鏡にかかり、己の鏡像が紅に染まっていく。とびきり紅く見えるのは瞳だった。唇はわずかに弧を描いている気がした。
鏡像……? いや。
鏡像ではない。|その女《﹅﹅﹅》は確かに微笑んでいた。
あかい唇に、見る者を誘うような蠱惑的な笑みを浮かべて。
獲物が巣にかかるのを心待ちにしていたような顔をして。
『ああ、ようやく逢えたわ。私を此処に閉じこめている、憎くて愛おしいもう一人の私』
鏡の中のミラーハウスは白い蜘蛛の巣で埋め尽くされていた。脳が蕩けるような声で、女は甘く、唄うように囁きかけてくる。
ねえ、ずっと勿体ないと思っていたの。|私達《﹅﹅》の美しい声と姿があれば世界中の人間を魅了できるわ。まるで蜘蛛の巣へ虫を絡めとるみたいに……誰もが私という快楽に溺れ、ただ楽園の歌を奏で続ける。音楽以外の言葉は意味を失い、世界が音で満たされる。ねえレティシア、あなたの本能もそれを求めているのではないかしら。
さあ、その聞き苦しい騒音を奏でる剣を棄てて。さあ、私に身も心も委ねて。魂ごと生き方を変えるのよ。あなたは至高の歌姫。女神にさえ成れる存在なのだから――。
「……幻聴にしては長いわね。ごめんなさい、あなたとは分かり合えそうもないわ」
そうね、でも、せっかくだから私の歌は聴いていって。
レティシアは鏡の中の己のねばついた視線を振り払うと、|現実《﹅﹅》の敵へ意識を向ける。四季、寂しさ、命の鼓動、忍びよる闇。この遊園地で目にした光景が与えてくれたひらめきを、即興曲として歌いあげる。まだ粗削りで完成度は低いメロディ。けれど、今を生きる者の力強さに溢れた彼女の歌声は、種族を超えてあらゆる者の心に響く。
「どうかしら。音楽以外の言葉はいらない……そうでしょう?」
レティシアを挟み撃ちにしていたむさぼり蜘蛛達は、まるで何かの支配から解き放たれたように彼女を狙うのをやめ、鏡に向かって牙を突き立て始めた。不思議なこともあるものだ――そう感じながらも、絡みついた糸を払い落とし、再度チェーンソー剣を構える。
「それにね、私ってこう見えて結構お転婆なの。神秘的な歌姫って型にはまっていたら、そういう歌しか歌えなくなっちゃうもの。そんなのはお断りよね!」
それ、ぎゅいんぎゅいん!
武器の重さを感じさせず、羽根のように軽やかに振り回せるのも日頃の鍛錬あってこそ。アーティストは体力勝負だ。ターンと共に背を斬りつけ、ステップを踏みながら反撃の牙をかわす。二度も不覚は踏まない、糸はしっかり剣の回転に巻き込んで千切る。
「私の音楽は支配するためのものじゃないのよ。そう、世界をもっと自由に、より良く変える為の力なの」
仕上げに鏡ごと二体の蜘蛛を薙ぎ払えば、敵の気配は完全に消え失せた。レティシアは足元に落ちた鏡の破片を覗きこむ。そこには見慣れた己の顔が映るだけだった。
建物を出ると、丁度朝日がのぼる時刻だった。闇が晴れゆく時の燃えるような赤。この時間帯の空が、レティシアは一番好きだ。
不思議だ。まるで誘われて来てしまったかのようだった。確かに垣間見た気がする。己の中に眠る闇の人格――淫魔の存在を。音楽への情熱、ゆえに内に秘めたる衝動。戒めとして、レティシアはにぶく輝く鏡の欠片を制服のポケットへ忍ばせる。
口遊むメロディは先程よりも洗練されている。そう、全てが終わったら世界中へ歌を届けたいという夢はある。堕とすのではなく心を熱狂させ、奮い立たせる魂の歌を。
成功
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