雪解けは遠く、然れど春遠からず
●黒橡
――夢を見た。
薄暗い部屋の中、ざらついた床が足の裏につく。薄くなった靴下の背では支えにもならずに、それでも音を立てないようにと足を浮かす。
『声を出してはいけない』
母はこの声を嫌っていた
『顔を上げちゃいけない』
母はこの目を愛してはくれなかった。
反響するように声が頭に届く。薄手のカーテンに残された花の柄はほつれ、破れた糸がゆらり、ゆらりと揺れる。隙間風が入ってきているのだろう。カーテンの揺れが次第に大きくなり――窓を、晒す。
「……」
錆び付いた鍵がぶら下がったままの窓には、何も映ってはいなかった。この部屋の中にあるのは、空っぽの瓶に、細い管。それと。
「……錠剤」
――これは、夢だ。
空の瓶はアトマイザーであり、細い管は注射器でこの錠剤はすりつぶして使う。
「……はぁ」
八上・玖寂(遮光・f00033)は息を吐く。幼い頃に暮らしていた部屋。ボロアパートの一室。
一歩、また一歩と進んだ先、転がったストローさえ玖寂のものでは無かった。あれの使い道が分かるからこそ、此れは夢であり部屋の片隅に座り込むものこそが玖寂が窓硝子に映らない理由だった。
「……」
少年が、壁に背を預けるようにして座っていた。細い体だ。投げ出された足には骨が浮き、薄汚れた服から覗く腕にはいくつもの痣があった。
「……」
一歩、前に出れば玖寂の影が少年をすっぽりと包む。窓から辛うじて入りこんできていた光が失せたことに気が付かない訳も無いだろうに。少年は吐く息さえ殺すように、ただそこに座っていた。己の身を、全てを投げ出すように。
「いつまでそうしているつもりですか」
それに、声をかけてしまったのは此れが夢だと分かっているからか。吐きだした息が自嘲を滲ませ――それさえ、珍しさを感じていれば少年が、嘗ての自分が、声を上げた。
「――母さんが、……てくれるま……」
「――」
目が、合う。青い――蒼銀の瞳。それに出会った瞬間、ぐらり、と意識が揺れた。じくじくと痛む頬の感覚に体の重さが"返って"くる。この場所に、この部屋であったこと。いつものこと。母が――……。
「なによ……そんな目で見て。私が気に入らないって言うの? 忍!」
そこには、母がいた。
長い髪を振り乱し、少年の――玖寂の頬を叩いた母が声を荒げる。
「お前がいなければ昔に戻れるのに。お前が、お前がいなければ……ねぇ、言ってみなさいよ!」
座り込んだままでいても母の行動は変わらなかった。胸ぐらを掴んで、頬を叩いて。しゃがみ込んで、聞くのだ。玖寂に――忍に。
「ここにいてごめんなさいって!」
求め続ける謝罪に意味は無く、少年に言うべき言葉があるわけでも無かった。母が落ちつくような言葉も、笑ってくれるような言葉も。
「……ぁ」
「お前の声なんて聞きたくもない!」
言えと言いながら喋るなというのは母の常であり、それでも今日はまだマシな日だった。
「その目、青い目が嫌なのよ。どうしてそれなの? その目が気持ち悪い!」
「……」
マシな日であったと玖寂は覚えており『忍』は知らなかった。知る由も無く、知る気も無かった。
「お前の所為で私の人生は台無しよ」
「――」
あぁ、殴られるな。と思った。握られた拳を避けるだけの体力がある訳も無く、その意志もない。殴られ、罵られ、それが当たり前になった少年は何度目かの拳でぐらり、と意識を落とした。
「お前なんか、お前なんか産まなければよかった」
母の、その言葉を聞きながら。
●Lamp Black
――ガタガタと机が揺れていた。
「――……」
寝起きで聞くには随分な音に、だるさの残る体で玖寂は手を伸ばす。スマートフォンを手にしたところで、昨日そのまま寝ていたことに気が付いた。
「……はぁ」
寝起きの頭を軽く振るって、髪をかき上げた。一度、頭から熱い湯を被った方が良い。鈍く体に残る痛みの理由は分かっている。昨日接触したUDCの毒だろう。この程度であれば依頼人にであるUDC組織に連絡する必要も無い。尤も、報告したところで福利厚生が出る訳でも無いが。
「……」
その程度の毒であるからこそ、今日の夢の理由にはならなかった。精神汚染があった訳でも無い。あれはただ――見たからだ。海月と人を模した姿をした邪神の眷族は、蒼銀の煌めきを纏っていた。
「青」
その蒼銀が招いた『夢』だった。幼い頃の玖寂の――八上・玖寂となる前の少年の夢。
「……まったく」
吐きだした息は何度目か。軽く肩を竦めるようにしてサイドテーブルに手を伸ばす。
カツン、と指先がテーブルに落ちた。くしゃりと空の容器を掴むのであればまだしも、何も無いテーブルに指先は落ちて、トン、トンと珍しく辿る。
「……」
置いていた筈の煙草は無く、夢見は最悪。
最悪と思いがあっただけマシと思う程の情緒は己には無く――ただ、夢の中で感じられなかった忌忌しさだけが何と無しに今の玖寂にあった
「――早いな。今日はどうした」
カラン、カラン、とドアベルが軽やかな音色を響かせていた。夏の仕様にでも変えたのか。ビーフシチューの仕込みにキッチンに立っていた男は無口なわりに店の造りには随分と凝っていた。
路傍の壁。
酒を嗜むバーには鍵穴も取っ手も無いというのに、毎週金曜にはこのビーフシチューを目当てに客が多くやってくる会員制のバーだった。
「あの子とどこか出かけでもするのか」
あの子、と店長が言うのは偲のことだった。孫のように世話を焼いている人に、否を告げる。
「――特に何も。煙草もらいます」
夢見の悪さ、というものは随分と人を不快にさせるらしい。口許、笑みを浮かべたままにそう言うと玖寂は慣れた様子で手を伸ばす。
「……、せめて聞け」
「本当に嫌でしたら、取らせないでしょう」
くすねた一本を咥えれば、ライターを投げつけられた。珍しい、と思いながら火をつける。外で吸えと言わないのは気分か。煙に身を沈めた先でカウンターに肩肘をつけば、カタン、と店長が包丁を置いた。
「お前も随分と変わったものだな」
「ご冗談を」
煙を吐く。薫る紫煙を見送るようにして、顔を上げる。無口な店長にしては珍しい踏み込みだった。静かに向けられた視線に玖寂は微笑む。吐息一つ零すようにして、年齢でしょうか、と言う様は三十を越えたばかりの男にしては随分と美しくあり――その様に眉ひとつ動かさぬ店長とて、玖寂よりは随分と年上ではあったが同じような年頃の人間に比べれば若く見えた。ひたり、と玖寂が見据えた先、店長は表情一つ変えずに口を開く。
「少なくとも、お前を拾った時に比べればな」
「大人になったからでしょうか」
「そうだろうな。死にかけの子供が随分とデカくはなった」
微笑んで告げた玖寂の言葉に、珍しく返された言葉は長かった。偲にするような口数の多さに、僅か眉を寄せれば答えの方が先にやってきた。
「あれを喪ってもう十年以上になる」
それは、玖寂との出会いというよりはこの店主が喪った愛猫のことだった。わざと選ばれた言葉か――思い出すことがあったのか。確かにあの頃――この無口な男に拾われた時に聞いたことがあった。飼っていた猫が急に亡くなり、その頃お前を拾ったのだ、と。
「そうですか」
あの頃、人が死ぬのだから猫も死ぬだろう、と玖寂は思った。口に出さなかったのは恐らく正解だったのだろう。母親が帰ってこなくなった部屋の中、一人で居た玖寂は組織に拾われ、その組織に使い捨てにされた時にこの男に拾われた。
(「つくづく、拾われることが多い」)
骨の浮いた子供は、同年代の子供達に比べて殆ど話すことは出来なかったが組織は暗殺者として、そして工作員としての英才教育を施した。
『今日から貴方は『七条』となる。名前は好きにすると良い。期待している』
ドッグタグの代わりに首裏から背にかけて竜胆の刺青を彫られたのもその頃であった。群生することの無い花が、組織の在り方を示していたのか。暗器を始めとした武器の取り扱いから礼儀作法。言語から演技、身分偽装に必要な作り物の趣味まで全てを教え込み――十七の頃、使い捨てにされた。それ自体、組織の中で生きていれば然程珍しい事でも無かったのだろう。昨日まで見ていた者が消え、新しい者がやってくる。この花は群れて咲かず、一輪でその意味を成すが故に――只の一輪、首を落とそうとも花は花であり続ける。
「あの頃には比べれば、お前も随分と人らしい」
「僕も人間ですので」
空っぽの男の笑みに、無口な男が表情を崩すことは無かった。別に会話を楽しむような仲でも無い。二本目の煙草は別に良いだろう。携帯灰皿をポケットから取り出せば「そうだな」と脈絡も無く声が投げられた。
「夢見が悪いこともある」
「――何故、そう?」
脈絡も無い話だ。それでも、思い当たる節があったからこそ玖寂は目をやる。バーの窓硝子に映った目は黒い。あの夢とは違う。当たり前だ。コンタクトで色を変え、ずっとそうして生きている。だというのに、今日はひどくあの青が目に付いた。
「店長」
「あの男が来ていた。昨日のUDCについて追加の報告書が欲しいそうだ。あいつに聞くと……」
足音より先に気配がした。当たり前のように玖寂と同じか、或いは少しばかり先に気が付いた店長が目をやった。
「来たようだな」
「あぁ、生きてたようですね。何よりです」
それは真っ黒なスーツに身を包んだUDC組織のエージェントであり、今回の仕事を玖寂に振ってきた男であった。
●濡羽
「先に連絡は入れたのですが。先日貴方が接触したUDCについて、記憶に影響する毒素が検出されました。接触した可能性のある一般人のリストの提出を」
生きていたのか、と言う程の毒であったのか。今朝方の夢見の悪さを思い出して、玖寂はやってきたエージェントを見た。
「随分と急な話ですね。追加の依頼でしょうか?」
吐く息がひとつ。喪服姿のエージェントは眉を寄せた。
「事後調査であると?」
「アフターケアの範囲には入らないでしょう。他の方が良ければ、ご随意に」
微笑んで告げた玖寂に、たっぷり十秒、間を置いてエージェントは頷いた。
「分かりました。追加の依頼とします。貴方も交渉を覚えたようですね、玖寂」
「評価してくださるとは光栄です」
胸に手を置いて一礼をしてみせた玖寂の真心の無い穏やかな口調に、エージェントは頬を引きつらせ――結局、生意気の一文字を報告書につけた。
「それほどの毒だったのでしょうか?」
仕事の予定を組みたてながら玖寂は、煙草の火を消した。
記憶に関与する毒であったのであれば、あのUDCに殺させた遺体を『工場』が集めていた理由も分かる。だが、UDCから生成された毒を一般人が上手く利用できるものなのか。
「一時的な記憶の欠落や想起を齎すようです。UDCの捕食本能を利用したものかと。新種の薬物でも開発しようとしたのか……」
海月に似た姿をしたUDCだった。"食事"の際に使われる毒は、UDCがどれだけ興奮したかによって代わり『工場』はその遺体から薬物を作り出すまでがセットになった場所だった。
(「狩り場だったが為に、あれだけ毒が満ちていた」)
お陰で、当初の予定とは違うルートを使うことにはなったのだが、あの状態が正常とは玖寂には思えない。
「彼らは、事態が制御不能に陥ることを考えもしなかったのでしょう」
吐息一つ零すようにして、玖寂はそう言った。
恐れていないのであればまだしも、考えてはいなかったのだ。UDCというものを、自分達の手で管理できると、飼い殺しにできると思っていた。
「まぁ、そいうことですから。貴方に追加調査をお願いします。精神汚染もないようですから」
あれば入院ですけど、と言いきった男は、喪服の裾を軽く払って席を立つ。
「こと今の貴方に関してはリスクは低いかと。
まぁ、一度死んだ人間はそう死にませんから。
身分を用意します。他は貴方の仕事通りに」
「――えぇ」
それは、あの頃も言われた言葉だった。店長に拾われ、やってきたUDCエージェントに組織を潰す手伝いをしろ、と言われたのだ。
『そうしたら新しい身分を工面しましょう』
あの頃も、喪服に身を包んでいたエージェントの男は玖寂を真っ直ぐに見てそう言った。今の玖寂と同じくらいの年齢をしていた男からの提案は、玖寂にとって初めて自分で決断した仕事だった。
母に捨てられ、組織に拾われ、使い捨てにされ――そうして店長に拾われた後に、自分で選んだ。
『八上・玖寂……?』
『えぇ、それが貴方の名前ですね。情報は洗浄済。貴方と同年代の男性名義です。記録では、六才の頃に母親と共に渡米、その後、母子ともに行方不明となっています。長年籍が宙に浮いていたので、問題も無いでしょう』
『分かりました。ではそのように』
組織を潰し、その日から、忍は八上・玖寂となり――この名義で十年以上、今もフリーランスとして手を血に染めてきた。何故か拾ってしまった偲と共に。
「……」
生きていた。いつ死ぬか、分からないと思っていたこの身が。
●静けき祈り
夕方になって漸く、買うことができた煙草に火をつける。バーには早めの客が既にやってきていた。路地裏に背を預けたまま、夕暮れに染まっていく空を玖寂は見上げた。
「……」
変わった、と誰もが言う。だが変化や変革は中味のある人間のものだ。この口調は"あの人"を模倣したものでしか無く、七条・忍は現場の状況やターゲットの好みに合わせて言動を変えてきた。空っぽの器に詰めこまれた知識は、完璧な模倣や演技を『忍』に与えた。どんな役であっても『玖寂』は演じきるだろう。
――だが玖寂の「本当の自分」というものは、どこからもいなくなった。
『まぁ、一度死んだ人間はそう死にませんから』
それは七条という工作員が死んでも変わらない。
他人に、仲間に、偲に、自分自身に、嘘ばかりついて生きてきた。本当のことなど何一つ、否、己は何一つ持ってはいない。
(「すべて虚飾で塗り固める他ない」)
ふと、早々に組織に見切りをつけた元同僚の事を思い出した。
『こうしてると昔を思い出すな』
『懐かしむような歳でしょうか?』
『生きりゃそうもなるさ。面白いだろ?』
何処を刺したら死ぬかの生き物では無く――ただの、人として今を生きているから。
「……生きていれば、ですか」
虚構で塗り固めた自分が生きた果てに何があるかなど分からない。人の言うような変化など、あるようにも思えず。だが、それでも生きていけば何かがあるのならば――……。
「……」
それを受けとめる日が来るのだろうか。
「今日は、少し飲んでいきましょうか」
毒の影響か、思考が妙な方向に向く。
らしからぬ言い訳を舌に溶かして、玖寂は息を吐いた。紫煙が夕暮れに滲み、ゆっくりと染まる景色が玖寂の見上げる世界にあった。
成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴