青きは夏、未だ春遠くとも
こつり、こつりと夕焼色の廊下へ足音響かせ、懐かしき校舎を歩む黒い着物姿の娘。
夜を宿した艶やかな黒髪は真夏の熱のなかでも涼しげに揺れ、蝉時雨に紛れてかすかな鈴の音が響く。
名を静峰・鈴という。青春というものに恵まれなかった、神器に囚われた贄の巫女。
浮世離れした彼女の姿を誰かが見たならば、或いは新たな七不思議として噂になったかもしれない。
武蔵坂学園。
かつて鈴と同年代の少年少女達が、命を賭して世界中の闇と戦った末、奇跡のような勝利を収めたとされる組織。決戦から数年の時を経た今、灼滅者と呼ばれた者の多くは卒業し、各々の人生を歩んでいるという。彼らの過ごした日々は、けして普通の学生生活と呼べるものではないかもしれない。けれど確かにそれは青春であったと、当時を知る者達は言うだろう。
――親しき学友が明日はひとをおびやかす魔性と化し、時に自ら斬らねばならなかった世と。其処には如何程の切なる願いが積もった事でしょう。
学校、なるものを一目見てみたい、その好奇心からだった。ふと学園を訪れた鈴は灼滅者達の青春に想いを馳せるも、結んだ像は夏の陽炎のように茫洋と揺らいで形にならない。想像力が及ばないのだ、知識として多少伝え聞いただけの話であるから。小さく溢した吐息は融けそうな熱をはらんでいた。
かつてこの地に在った緊迫感は去って久しいが、夏休みだと聞いたのに人が多い。何故だろう――部活動という慣習を鈴は知らなかった。学び舎というものに触れたいという思いはあれど、さすがに少々気がひける。暮れが近づいてもまだ強い日差しを木陰で避けながら、夏服姿の少年少女らを遠くから眺めていると、やがて下校を促すアナウンスが流れ、彼らも徐々に岐路につき始めた。
談笑しながら道路の曲がり角に消えていくその背中。ひとつひとつが遠い世界の御伽噺のようで、いつまでも眺めていたい気持ちにもなるけれど。
(いえ、なれどここで満足する訳には。勇気を持ってまずは一歩、と)
鬼妖の類を討滅する時より余程鼓動が高鳴るのは不思議なものだ。心密かに憧れていた日常という非日常への想いを胸に、鈴はひそりと校舎に向かって歩みを進めた。
からころと履物の音が響く廊下に生徒の姿はない。急いで帰ったのだろうか。生徒の落とし物らしきキーホルダーや、中途半端に閉められた窓のクレセント錠が、つい先程までここに人が居たのだという気配を感じさせた。
いよいよ日は沈みかけ、西の空が茜色をたたえて燃え始める。
白い壁が、廊下が、郷愁を誘う橙色に染められてゆく。異界の入口めいた校舎の中にあってなお夕映えに飲まれぬ、黒の着物を淑やかに纏った娘の姿は幽世の住人たるに相応しいものだ。ただひとつ長く艶やかな黒髪だけが、想い焦がれるような憧憬を宿して赤を反射しながら、さらりと流れていた。
教室の扉に指をかけ、恐る恐る横にすべらせてみる。……まだ施錠はされていないようだ。そっと中に入ってみる。チョークの粉の痕が残る黒板、掲示された時間割表、静かに時を刻む丸い壁掛け時計。
それらが意味するものはあまりわからない。だが高まる胸の疼きには勝てず、すこし失礼して誰かの椅子に座ってみる。あの教壇に教師と呼ばれる人々が立っている光景を想像し、生真面目に背筋を伸ばして膝に手を添える。すると、机の中に何かが入っていることに気づいた。
「本……?」
どうやら、この席の持ち主は所謂置き勉の常習犯らしい。だがそんな文化も知らない鈴は、忘れていって仕舞われたのでしょうかと素直に首を傾げ、見知らぬその生徒の人となりに想いを馳せる
――ああ。此処で色んなひとが学び、遊んで、たくさんの心と触れていくのですね。
長い睫毛に縁どられた瞳が優しげに細められる。江戸の山奥の郷で贄として育てられ、ほかの子どもたちとは終ぞ関われぬ侭であった、幸なき少女時代を追想する。
普通の学校生活。それが羨ましくない、といえば嘘になる。ただ、もう自分には手にできぬものだ。真夏の熱で淡く染まる頬に自然と浮かんだのは、此処で過ごす誰かたちの日常を慈しむような、ひどく穏やかな微笑みだった。
これが運命と諦め、嘆くより、誰もいない学校をもう少し知りたいと思った。時は返らない。抱けなかった幸福は取り戻せなくとも、いま触れて識ることならばまだできるから。
彷徨う侭に廊下を歩めば、やがて突き当たりの部屋に辿り着く。音楽室と書かれたプレートに興味を持ち、中に忍び入れば、壁にかけられた見知らぬ西洋人達の肖像画と視線が合う。そして大量の楽器が目についた。
鈴には見覚えすらないものがほとんどだったが、真っ赤に染まりつつある夕陽を反射して、一際その威容を濃くする黒い楽器の名だけは知っている。猟兵仲間はこれをピアノ、と呼んでいた――たいそう美しい音色を奏でるのだとも聞いている。
琴のように何処かをはじけばよいのか。笛のように息を吹き込むのか。どうもそういったものではないように思われた。唯、ながい白とちいさな黒が入り混じる長方形の板にはやはり見覚えがあった。和柄のように紋様としてもあしらわれるそれは、西洋では多くのひとに愛されている証だろう。
鈴はそれを鍵盤、という一言で表せるのだということすら識らない。けれど指先で感じて、触れてみたくて、ささやかな凹凸を感じ入るようになぞっていく。ほんのすこし押しこむだけで音は鳴るのに、触れ方が優しすぎるから、夕暮れの音楽室は雪ふる夜のような静寂につつまれている。
よく見れば側板や譜面台に傷がついている。年季の入った品のようだ。きっと、この部屋が灼滅者と呼ばれる者たちの歌で溢れていた頃から、これは此処に変わらずあって数多の青春を見守っているのだろう。瞼をとじ、見たこともないその時代に想いを寄せながら、鈴は己が知っているわずかな童謡をちいさく口遊む。
かすかに汗ばんだ白い喉をふるわせて。けして外には漏れないように。贄として育てられた少女に染みついた癖のようなものだ。鈴――誰かがくれたその名の如くはかなく転がる娘の声は、しかしどこか弾むような音色をおびて愉しげにも響く。
詩が見知らぬ世界を描く。浮かびゆくは長閑な山里の夕景。家に帰る子らの列へいつの間にかひそりと混ざっている、黒い髪の少女の背が浮かんだ気がした。
巡回の警備員だろう。不意にひとの気配を感じ、鈴はこそりと音楽室を出る。窓の外に目をやれば、みっしりと敷き詰められた高い建物のあいだに夕陽が消えてゆくところだった。窓灯りがぽつぽつと灯りはじめている。故郷の里にも幽世にもないあれらの中には、きっと鈴にはまだ想像もできない数々の営みがある。
(あの灯火の一つ一つが青春というものの残照。いえ、其れは未だ、或いは永久に続く愛しき時間であるかもしれません。……このような世界もあるのですね)
けして届くことがない、なれど此の手で護りたいそのちいさき光たちへ、夢見るような眼差しを向けてゆったりと笑みながら。
穏やかな夜を愛ずる娘は、宵の闇に染まりはじめた廊下の奥へと静かに歩んでいく。
黒い着物の袖が夜に翻り、融けて消える。足音すらも雪道を歩むが如く遠ざかり、夜の校舎には静寂だけが残される。何処かで鈴の音がかすかに鳴っている。教室の窓から望む空には、すべてを強く、優しく見守るような月がかがやいていた。
成功
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