●夏の日
『夏夢入っちゃダメ!』
それはヘロヘロとした文字であった。
なんというか、言い方を間違えればミミズの這ったような文字であった。
この文字の書き方を『夏夢』は知っていた。
ふわふわと浮かびながら首をひねる。
ホワイトボードが台所の扉に掛けてあったのだ。
なんで?
思い当たるところが何一つなかった。
「どうしてでしょう?」
なにか気に障るようなことをしてしまったのだろうか?
いや、そんなことはしていないはずだ。
でも、自分が思っていないだけで相手には不快な思いをさせてしまったことがるかもしれない。
巡る思考はぐるぐると頭の中で駆け回ってしまう。
この暑さであったのならば、そりゃ溶けてしまうであろうよ、と思うほどに回転する思考。
え、本当に?
何度もホワイトボードに書かれた文字を読み返す。
「入っちゃダメ」
何度見ても心に来る文字である。
ううぅ、とうめいていると『玉福』がやってくる。
「にゃーん」
いつもよりワントーン声が高い。
ご機嫌なのかな? と思うが表情からは伺い知れない。だが、なんかこう、自分にかまってくれているように思えるのだ。
足元に来ることは稀である。
まあ、ご飯の催促であったり、おかわりであったりなど、用事がある時だけ『玉福』はよってくる。
べつにそれが嫌なわけではない。
むしろ、お猫様に振り回されてご褒美です! とすら思っている。
だからこそ、首を傾げる。
「あのぉ、なにか御用ですか?」
「にゃーん」
「ええっと、鰹節ならあるんですけど」
「にゃーん!」
え、いいの!? と言わんばかりに『玉福』がじゃれてくる。
おお、なんだろう。
思った以上にお猫様がデレてくれている。
一年に一回あるかないかのデレである。これはなんと素晴らしい日であろうか!
『夏夢』は自分に腹を見せる『玉福』に感激しきりであった。
「こ、こんなことがあっていいのでしょうか!」
「にゃん」
こっちで頼む、と冷房の聞いた部屋へと誘われる。
「はわはわはわわ」
『夏夢』は思わず握り拳でガッツポーズをしていた。
幸せすぎる。
えー、本当に今日は何なのだろう? なんでこんなにお猫様がデレてくれているのだろう。
揺れる二股の尾さえ、もしかしたら触らせてもらえるかもしれない。
いや、それどころか、そのお腹に顔を突っ込んで猫吸いさえさえてもらえるかもしれな……いや、いやいやいや。
待て。
そんなだいそれたことを考えてはならない。
お猫様である。
自由奔放であるべきであるし、そんなことをしようものなら烈火のごとく怒り狂うのがお猫様なのだ。
とりわけ『玉福』は、気位の高いお猫様である。
そんなことさせてもらえるわけがない。
「にゃーん」
はよ、来いと言わんばかりに『玉福』の尾が揺れている。
「ごちになります!」
ちょっとテンションがおかしくなっている。
誘われるままに部屋に飛び込むと、盛大な破裂音に出迎えられる。
炸裂した紙吹雪。
飛ぶテープ。
キラキラとして綺麗だと思うよりも早く、呆然としてしまっていた。
「こ、これは……?」
「ぷっきゅー!」
「クエクエッ!」
パンパカパーンと『陰海月』と『霹靂』がクラッカーでお出迎えしてくれている。
わけがわからない。
何がどうなっているのか?
「クエ」
これ、と言うように『霹靂』がもってきたのは、プレゼント包装紙にくるまれた箱であった。
馬県・義透(死天山彷徨う四悪霊・f28057)も一緒にやってきて、解説してくれる。
そうでなければ、事態が全くわからなかっただろう。
「こ、これは?」
「今日は『夏夢』がこの屋敷にやってきて一年でしょう。『陰海月』が気がついて教えてくれたのですよ」
「ぷきゅ~」
振り返ると、そこには『陰海月』がぶどう型のケーキを運んできている。
ろうそくが一本立っている。
火がゆらゆらと揺れているのは、きっと屋敷の主が言う通りに一年経ったからなのだろう。
「え、ええ……! いいんですか!? そんな、私に、なんて」
「一年、頼りましたからね。あなたがいてくれるだけで、随分と助けられました」
「そんな……」
「きゅ~!」
『陰海月』が台所に入らないように、とホワイトボードに記していたのは、ケーキを作っていたからだったのだ。
嬉しい。
涙は、でているのかどうかはわからない。
けれど、やっぱり嬉しい。
じゃあ、もしかして『玉福』がいつも以上にデレていたのは。
「にゃーん」
そういうこと、と『玉福』が頷く。
「さあ、みんなで食べましょう。あ、その前に」
屋敷の主たる義透が笑む。
まずはろうそくを吹き消さねば、と。
それが喜ばしき祭日の始まり。
一年に一度のハレの日。
皆で祝う最良の日。
夏の日の一日は、今日という日を経て特別な日になるのだった――。
成功
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