DAY○●○
「誉人、聞いてほしいことがあるっす」
「なン、どした」
「最近……いや、もうずっとなんっすけど、俺、誉人が可愛く見えるっす」
|俺《本人》に言うことか、唐突に俺を照れさせてえンか、そういう魂胆ならスカしてやっけどォ!? つーかお前の方がどちゃくそかァいいだろうがよ!――なんて心の声に蓋をして、努めて冷静に返事をした。
「……そっかァ、饗もそろそろ眼鏡が必要かもなァ」
「眼鏡をかけたらどうなるっすか?」
イケメンがふだん使わないアイテム使うと、イケ度の上方修正がかかるンだよ、この天然め! よけいモテるだろォが! 俺にヤキモチ妬かせてえンか!――なんて心の叫び声に蓋をし以下略。
「お前はどうなりたいのォ」
「ずっと可愛い誉人を見ていたいっす!」
「………………だったら今のままでいいだろ」
「へへへっ、それもそうっす!」
相談する相手を間違えているような気もしたが、梅印の相棒は、それはもう機嫌がよさそうに微笑んでいた。
(饗がいいンならそれでいいけどなァ……)
DAY◇◇◇
晴れた日曜。同じ朝でも穏やかに流れる時間は、緊張を抱く必要すらない。あるじは寝ぐせをつけたまま、微睡みの中にまだいて、くありと大きな欠伸をした。
ソファ――あるじがこだわって選んだ、スプリングが小気味よいハイバックソファだ――に体を沈みこませ、|ぬし《ぬいぐるみ》を抱きしめている。
「誉人」
「んぅ?」
「寝ちゃいそうっすね」
目を閉じたままのあるじの前に跪いて、睫毛にかかる前髪の先に触れた。
眠いだけだろうか。寝起きだから体が重いだけだろうか。血色は悪くない。昨夜と変わりはないように感じる。あるじの頬を撫でて、長くなった髪を耳にかけ、ついたままの寝ぐせを撫でつける――という口実のまま、あるじの頭を撫でた。
うっとりとしたあるじの睫毛が細かく震える。ゆっくりと瞼が開いて、紺色の双眼に饗が映る。
「もうちょっと寝てくるっすか?」
「いや、もう起きるよ」
抱きしめていたぬしを手放して、空いた腕の中に閉じ込められた。
「わっ、……たかと?」
バランスを崩し、慌ててソファに手をつき倒れないように自身も支える――ぎゅっと抱き着かれたまま、あるじは三度の深呼吸――の後にそっと離れて、台所へと向かっていった。
(………………いま、俺を吸ったっすか?)
あるじが道場の飼い猫相手によくやっている、アレではなかったか。
なんといったか――そうだ、猫吸いだ。甘えるような仕草だったのに、気づいてハッとした。
◇
朝食(今朝のおかずはだし巻き玉子とししゃもの塩焼きと豆腐の味噌汁だった)を摂っている最中に、「食ったらバイク磨いてくるわ」と宣言した通り、あるじは使った食器を片しガレージへと向かった。饗もなにをするでもなく、あるじの様子を見続ける。
バッテリーとやらを取り付けて、エンジンを始動、爆音が庫内に響き渡る。排気音は一定のリズム――ライトが切れていることもなさそうで、早々にエンジンを止めていた。
簡単な整備をして、車体を磨く。サイドミラーに映るあるじは、今、熱心に鏡面を擦っている。
真剣な眼差し、優しい手つき――面白くない。
鏡を見ているわけではない、磨いているだけ――なんて思えなくて。
(いいっすね……)
あるじを映せて。あるじに見つめてもらえて。あるじに磨いてもらえて。
「……饗? なんつー顔してンの」
「いつもの俺の顔っす」
ミラー越しにあるじと目が合ったが、ふいっと明後日の方向に視線を投げた。
「なン、どうした?」
「どうもしてないっす」
ダスターを放り投げたあるじが、饗の視界を占める――見上げてくる紺の瞳は、陽を浴びていつもより鮮やかに光っていた。その中に饗が映っている。
「どうもしてねえ顔じゃねえだろ。なン、言ってみ」
磨いていたミラーに背を向けて、バイクよりも饗を優先してくれた。
「へへへっ、もう、いいんっす」
「んん? ほんとかァ?」
「ほんとっす」
今、あるじに映っているのは、饗だけになったから。困り顔のあるじの、それでもどこか安堵して綻んだ頬に、饗から伝播した笑みが刻まれた。
「あとで走りにいこうな」
「また後ろに乗っていいっすか!」
肯いたあるじは投げたダスターを拾い上げて、作業に戻った。
「もうすぐ終わっから、もうちょい待ってろ」
(仕方ないっす……今だけ、俺のあるじさまを独占させてやるっす)
イヤだけど。
このあと、あるじをたっぷりと独占するのは、他の誰でもない饗だから。
DAY◆◇◆
謎の小さくも平たい壺型の容器が洗面所にいる。
あるじの私物だ。見たことがない。スキンケア用品でも、髭剃り泡(シェービングクリームの意)でも、コンタクトレンズの手入れ用品でもなさそうだ。
「たかとー、これ、なんっすか?」
「んあ? ああ、ワックス」
「わっくす?」
買い出しリストを作っていた手を止めて、近寄って来てくれる。
「前髪切ろうか迷ってンだけど、こうしたら上がるでしょォ」
壺からクリームを出して髪になじませれば――
「ふおっ」
あるじの額、丸出し。
「俺もやるっす!」
髪がベタベタするが、あるじとのオソロイに弾んだ。
なにか言いたそうなあるじと目が合って、彼は先に吹き出す。
「おーおー、かっけェよ」
「誉人もかっこいいっす!」
「そうかい」
「そうっす!」
やっぱりなにかを言いたそうなあるじだったけれど、彼の笑顔が、そんな些細な疑問を吹き飛ばした。
DAY◇◇◆
ちょっと出かけてくる――そう言って、|別世界《どこか》へ行ってしまってから、半日が経った。
ご丁寧に、|饗《﹅》を藍のポーチに包んだまま、傷つかないようデスクに置いて。
あるじの太刀と脇差は、刀掛けに居る。
「……まーたスマホまで置いていってるっす」
完全なシャットアウト状態だ。連絡がつかない不安はあるけれど、戦闘態勢でないことは、そこに居るあるじの愛刀たちが物語っている。加えて、蒼い脇差の彼には銀色のチェーンが垂れ下がってた――銀環は指に嵌めていったらしい。
|なにか《オブリビオン》と戦っているわけではなさそうだから、そのうち帰ってくるだろうけれど。
「今日は、映ってくれない日っすか」
毎日共に居るが、離れてしまうとやはり寂しいと感じてしまうから。
あるじが心置きなく長居する場所には、いくつか心当たりがある。
迷いは一瞬だった。
○
カウンター席を陣取って、ずいぶんな時間が経っていたが、追い出されることはなかった。
お気に入りのネコの仕事っぷりを眺めて酒を煽る――これが極上なのだ。
客は誉人以外にもいて、ネコは先刻から忙しくしている。時間帯も相俟って、店内にはサカナの脂の焼ける香ばしい香りが立ち込めていた。
美味い酒、美味い|肴《サカナ》、かァいい店主――三拍子揃った居酒屋は、【ととにゃ】しか知らない。
「聞いてよミケサン、饗のヤツね、こないださァ」
バイクの後ろに乗せて、海まで走った。潮風はまだひやりとしたけれど、波に反射した陽光の美しさは、なかなかに絶景だった。
もう少し季節が進めばまた夏がくる。海水浴シーズンだ。去年も海遊びをした。そう、初めて砂に埋めてもらった。あの押しつぶされるような、簡単に崩してしまえるけれど、もったいないような感覚は絶妙だった。
ミケサンは海のプロでしょォ――刺身を食いながら、店主相手に駄弁り続ける。
饗が可愛くて仕方ないのに、饗はつれない。誘えばどこへでも一緒に来てくれるし、体を預けてくれるけれど、饗から誘われることは稀で、ときどき――否、現在進行形で不安を覚えている。
「でも饗は俺から離れねえン……あいつ、俺をあるじだって言ってンだけど、あるじってよくわかんねえ」
やっぱりよくわかんねえ。恋人じゃない、家族でもない。なのに、誉人は可愛いだとか、好きだと言ってくれて、愛していると囁いてくれて、抱き締めてもくれる。
「……あるじって、なんなんだろォ……」
酒のせいでぼんやりする。意識の海に落ちていく感覚は、気持ち悪い。心臓は早鐘のようで、くありと欠伸が出た。
卓に突っ伏して、汗をかいたグラスを眺めていたが、気怠くて眼を閉じて吐息。
だから、店主が暖簾を分けて入ってきた新たな客を仰ぎ見て、「ふくくっ」と愉快げに笑ったことに気づかなかった。
「ミケさんにもわからにゃいけど……梅の旦那は、旦那を大事だって思ってくれる御仁にゃ」
「ンン……」
そうだ、大事だ大切だ特別だと言ってくれる。
「それって、俺がさァ、あいつの持ち主だからってことでさァ……」
俺はそんなことぜってえしねえけど、俺はさ、やろうと思えば簡単に|饗《あいつ》を壊しちまえるとこにいる。俺に命を握られてンのと同義――誉人の機嫌を損ねないようにしようとするのは、当たり前なのではないか。
饗はもはや自分であるじを選ぶことが出来る力を持っている。誉人に固執することはないのだから、捨てられないように壊されないように必死になる必要はないだろう――なのに、誉人を喜ばせる言葉を囁いてくれる。
家族でもなければ、恋人でもないのに。
「俺はさ、ミケサァン……饗に甘えられてえン、もっとあいつを甘やかしてえのァ、べったべたにかァいがりてえンさ……でもなァ……ヤることヤってンのに、あるじだァって……」
それでも誉人から関係を変えてしまう勇気はない。
饗は誉人をあるじだと思ってくれているから、離れない。そこにあぐらをかいているのだ。
あるじであることに不満はない。友達だといわれて嫌でもない。彼の相棒として戦地を駆けることは誇りだ。
「俺、饗の恋人になりてえ……」
でも本当は、心を通わせる恋仲がいい。今もめちゃくちゃに饗に恋をしていて、彼の元がモノだとかどうでもよくて、いまの姿形も些末なことで。
先に主従なんて、不平等な関係を結んでしまったことを、謝りたい。
好きだと言わせて悪かった、と。
とってつけたように、彼の指に指輪を嵌めた。枷をつけるようなことをしてしまった。
「どうしたら恋人になれンのォ……」
「うなぁ……、ミケさんにぁ難しい問題にゃす……でも、旦那のお考えを、御仁にちゃんと伝えるにゃす」
くふくふっと機嫌良さそうに店主が笑っている。
帰らないといけないけれど、少しだけ、あと、ほんの少しだけ。
◇
「にゃいすなタイミングですにゃ、梅の旦那」
「お世話をかけたっす、ミケさん」
酔い潰れているあるじの本音の吐露に、むず痒くなった。
あるじの足元に跪いて、酔って気持ちよさそうに眠る頬に触れた。酒のせいで焼けるように熱く、真っ赤になっている。
「迎えにきたっす、誉人」
「きょお?」
「そっす、一緒に帰るっす」
ぼやりと起きて、饗の首に腕が回る――勢いよく抱き着かれて、バランスを崩して尻もちをついた。あるじも椅子から落ちてしまって、椅子が倒れた。
「わっ、危ないっす」
「あはっ、きょおだァ! きょーお」
「ミケさん、申し訳なかったっす」
「にゃふっ、お気ににゃさらず~」
幼子のように饗に甘えるあるじを負ぶって、代わりに勘定を。首筋にくすくす笑っているあるじの息がかかって擽ったいが、今の彼になにを言ってもくすくす笑うだけだろう。
それはそれは、しこたま呑んだのだろう。酔い方が物語っている。
「にゃかよくするにゃすよ」
「はいっす、今度は俺も一緒に来るっす」
「いつでもどうぞですにゃ」
店主は、やっぱり上機嫌で饗を見送った。あるじが贔屓にしている居酒屋とはいえ泥酔するまで吞んでいるとは思いもしなかった。
酔いをさまさせようと夜風に当てる。ゆっくり歩いて、横丁を進む。
「誉人、」
「ん?」
「……俺、誉人の恋人じゃなかったんっすか?」
「んん……?」
「誉人は、俺の大事なおひとっす――あるじさまで、相棒さんで、恋人だと思ってるっす」
「……んんん?」
呻くだけの返事が愛しくて、思わず笑声を漏らす。
好きだからあれほど負担のかかることができるのだ。好きだから、離れることができない。好きだから、命を預けているのだ。シルシがあってもなくても、もっともっと深いところで、饗はあるじを慕い愛している。
「饗は、俺に恋してるン?」
恋とはどういうものか、はっきりと分からないけれど、あるじのことを想えば想うほど、しんぞうが喧しくなるのを恋と呼ぶのなら――はっきりと是と答えよう。
「俺、誉人以外のひとに触られたいなんて、思ったことないっす。許しているのは、誉人だけっす」
「――……それは、俺があるじだからじゃねえの?」
「んー、違うっす」
優しいひとだから。ずっと悩んでいたのだろう。縛りつけてしまっていたのだろう。
|饗《﹅》は誉人のものだし、饗だって誉人のものであるから。
あるじだけど、それだけではない。
ゆっくりと横丁の端へと歩いていく――ここを出たら、家まで、あと少し。
玄関を開けて、あるじの靴を投げ、一度ソファへと下す。くてんくてんと重そうな頭が揺れて、にこにこと笑うあるじの身支度を整える。コンタクトレンズだけは饗が外すわけにはいかないから、なんとか起こして外させた。
ふにゃりととろけるあるじをベッドまで連れていって、寝かせる。
熱い手の甲に自身の掌を重ねる。指を絡めて、あるじのいつもより高い熱を感じた。どくどくと指を打つ早い脈を数えながら、あるじの寝息に耳を傾ける。
「誉人……」
返事はない。
寝顔は起きているときよりもずいぶんと幼い。饗を映しているときの獰猛さの欠片もない。
饗の恋人になりてえ――耳に蘇る甘い本音。酒の勢いに負けて溢れて零れた言葉が、あまりに健気で嬉しくて。
「俺の、狼さん」
そんなに可愛いことばかりして饗を喜ばせて、まったく――このまま喰らってやろうか、なんて。
少しだけあるじのまねをした。
DAY○●●
頭が痛い。完全に二日酔いだ。
「おはよっす、誉人」
「ん……ぉはよ」
水を持ってきてくれた饗に挨拶。差し出された水を受け取って、一口。渇いた体に染み入っていくようだった。
「誉人は俺の恋人だと自覚した朝はどうっすか?」
「……ァに?」
「可愛いこと言ってたっす。誉人は、俺の恋人になりたいって」
「………………うそ」
「どれが嘘なんっすか?」
コップを持つ手が震えそうで、慌ててサイドテーブルにコップを置いた。ついでに眼鏡をかけてみたけれど、はっきりくっきりとした視界に、さっそく後悔した。ちらっと視線を上げれば、首を傾げた饗がいたのだから。漆黒の瞳にじっと見つめられてしまって、逃げ場はない。二日酔いのせいで頭は痛いが、バクバクと動悸を続ける心臓の方が苦しい。顔から火が出るようだった。
「お、れ……」
もう酒は控える。いくら美味しくたって、飲む量を考えないといけないと深く反省した――否、今はそういうことではなくて。ああ、喉が渇く。
「なんも、うそ、ついてねえ……けど、俺、そんなこと言ってたン……」
「言ってたっす」
にぱっと笑った饗の八重歯がのぞいて。
(………………マジかァ……!!)
かけた眼鏡が恨めしかった。
◇
「俺は、誉人のことを恋人さんだと思っていたっす」
「ひっ」
「……ダメだったっすか?」
「ちがう! ちがう、ごめん」
照れて爆発しそうになっている。さきほどからあるじの顔色は赤から戻らない。
「待って饗……心臓爆発しそう……」
「爆ぜちゃダメっ、あ!?」
がばりと布団を被ってしまった。隠れてしまったあるじだけれど、ベッドの上から消えてしまったわけではない。きしっきしっとスプリングがわずかに音を立てた。布団を奪い取ってしまうことは簡単そうだが、そんなことはせずに、あるじが自分から出てくるのを待つつもりだった。
「……俺、饗のあるじでしょ」
くぐもった声が、ゆっくりと聞こえてきた。
「俺、お前のこと縛り付けてんじゃねえかって……」
「縛られてないっす」
「無理やり従わせてたんじゃねえ?」
「無理やりなことなんてないっす。ヤなことは嫌って言うっす」
そうしてきたはずっす――嫌なものは嫌だと、断ってきたと思っていたが――そういえば、あるじ相手に拒否した事例の方が少ないことに気づく。けれどそれは、あるじが無茶な要求をしてこないからだし、許容範囲のお願い事だし、叶えてあげたいと奮えることだと、あるじは気づいていないのか。
布団の上からあるじをつつく――反応はない。
「たーかーとー?」
ぽふぽふと布団を叩いて、出ておいでと促す――中で唸っているのが聞こえた。
「たっぷり伝えたつもりだったっす。俺は、誉人のこと、好きっす」
「あるじだからだろォ」
「そうっす、けど違うっす……誉人は、……んー、肩書きっていうんっすかね、立場がひとつでないといけないと思ってるっすか?」
あるじで、友達で、相棒で、恋人――欲張りなのだろうか。しかし、彼との関係は、もはや一言では言い表せない深いものになっている。
かけがえのないお人だ――だから、大切大事特別と伝えてきた。
「なんっすか、誉人? よく聞き取れないっす」
あるじが何かを呟いたことは分かったが、不明瞭な言葉だった。
出てくるまで待つつもりだったが、言葉を聞き取れないのはイヤだ。
「……わかったっす。俺も一緒に入るっす!」
「うひゃっ!?」
勢いよく布団を捲って、ささっと潜り込んで、二人一緒に布団に包まれた。ずれた眼鏡が壊れてしまわないか少しだけ心配したが、そんな余裕もないあるじが珍しかった。
「恋人なんっす、これくらいしても構わないっすよね」
「……ん゛っ!」
「どうっすか。俺は、誉人の恋人さんっすか」
「……ん」
照れて言葉が出てこないあるじの顔を間近で眺めて、笑みを深めた。
DAY●●●
手土産のカステラを携え、饗を連れて、ととにゃへやってきた。
先日の酒の失態を詫びにきたのだが――ととにゃの店先で、見知らぬ猫妖怪と、ミケがなにやら言い争いをしていた。
「ふん……おニクに勝る食材はにゃい」
「にゃに!? おサカナが一番にゃす!」
「ミケはホンモノのおニクの味を知らにゃいから、おサカナが一番なんてネゴトが言えるにゃ」
「シャビこそ! ホンモノのおサカナ食べたこと、にゃいのか!」
「おサカナ、飽きるほど食べてきたにゃ。だから、おサカナはもうケッコウにゃす。世はおニク。おニクこそ正義! にゃあの作るおニク料理こそ至高! 帰れにゃす! これ以上ミケと話すことはにゃい!」
「ふぎゃああああ!!!」
「ふぎゃああああ!!!」
いよいよふたりとも威嚇し合って、尻尾はぼんと膨れ上がっている――それを見て饗は純粋に心配したが、あるじはずいぶんと葛藤しているようだった。
「きゃっとふぁいとしてる! ミケサン…まんまねこじゃん……!」
「ミケさんは猫妖怪さんっす」
「そうだけど! うっ……なにあったン……や、かァいい……!!」
(たぶん、ミケさんは、誉人より年上っす)
見目は可愛らしくとも、舌っ足らずな喋り方をしているけれども、なんとなく感じる。
(水を差すことはしないっすけど……まあ、いいっすか)
あるじがゴキゲンならば、それで。
あの御仁が可愛いと言われたくらいでプライドを傷つけられたとは思わないだろう。というか、今までから、あるじはことあるごとにミケを可愛いと評してきた。
「ああ、いや……――まって、ふたりとも落ち着けって」
このままでは傷つけあってしまうかもしれないと、あるじはふたりの間に割って入って仲裁に乗り出した。
○
『おニク処かしわや』
店主のシャビは、ミケとは昔馴染み――と言えば、ミケは心底嫌そうな顔をした。猫同士だが犬猿の仲らしい――で、この度ととにゃと睨み合うように店を構えた。
|かしわ《トリニク》と銘打ってはいるが、トリだけにあらず、いろんなニクの料理をメインに、ニクに合う酒を提供するという――どこかで、聞いたことのあるコンセプトだ。ミケは、もごもごと怒りで口が動いている。いちいち可愛いと騒いでしまいそうになるが、誉人はぎゅっと腹に力を入れて我慢した。
「そんないがみあってちゃミケサンとこのお客サンだってビックリするだろ?」
「反りが合わない手合いにはわんさか出会うっす。そういうもんっす」
「気の合うヒトを見つけて、気持ちよく生きる……てのができりゃァ、文句ねえわなァ」
けれど、ミケにとっての災厄は向こうからやってきた。こればっかりは、どうしようもない――避けてばかりはいられない。
「なんで……ケンカなんかしてンのォ?」
シャビはスカしたように薄ら笑いを浮かべているが、尻尾は雄弁――不機嫌を隠さずぶんぶん振られていた。
「そこなミケが、にゃあにケンカをふっかけてきたにゃす」
「シャビがおサカナをバカにするようなこと先に言ったにゃす!」
「バカにするもにゃにも、事実にゃ」
「ストップ! それってぜってえ白黒つかねえから!? どっちが美味えってねえだろ、どっちも美味えし!」
簡単に火がつくふたりの間の誉人は、慌てた。どちらか一番にならないと気が済まないのだろうが――積年の恨み、こええ……なんて、安易に首を突っ込んでしまったことを後悔し始める。
「そうっす。どっちも美味しいじゃだめっすか?」
サカナにはサカナの良さがあって、ニクにはニクの良さがある。そこに味の好みを混ぜると話はややこしくなる。
冷静になれ――は、ライバル心剥き出しのふたりだから、今は難しいかもしれないし、あらぬ油を注ぐかもしれない。
大人になれ――は、ふたりとも十分なオトナだろうから、怒られそう。
(えー、ただのキャットファイトじゃなかった……)
後悔しきりの誉人だった。
「どっちもうまいのは当然にゃす。でもにゃあの作るおニク料理がいちばんおいしいにゃ」
「あー。シャビサン、それは、やっぱダメだわ……そこ混ぜないでよ。自信あるのは分かったし、たぶんおいしい料理作るンだろうけどォ」
こじれる原因は、やっぱりそこだ。
「俺ね、こいつの作った肉料理が世界で一番うめえって思ってっからさ……俺、何を食ってもうめえって思える馬鹿舌だけどさ、饗の料理だけはさ、誰のよりうめえンだわ」
シャビがじとっと饗を見上げて、その視線は誉人へと移る。尻尾はぶんぶん振られて、イライラマックス――といったところか。そういうとこはかァいい…! とか思ってしまう。
「なんで話をややこしくしたっすか」
「だって、シャビサンの料理が一番おいしいとは、俺、言えねえもん――食ってねえけど」
「俺の作るものがプロに勝てるとは思えないっす」
「なんで? こないだのハンバーグ、めっちゃ美味かったし」
「シャビさんのハンバーグ食べてないじゃないっすか」
「何食ったって、饗のがうめえって感じンだから、食わなくてもわかるでしょォ」
「俺の焼いたサカナより、ミケさんの焼いたサカナの方が美味しいっす!」
「それは仕入先の問題と、焼くってことに集中できるかどうかでしょ。饗は魚を焼きながらいろんなものも作っちまうし片づけンだろ? そういうとこ。でも饗の焼いた目刺しは美味かったよ」
ぽかっと口を開けてミケが、こちらを見上げている。そして、いよいよくふくふ笑い出した。
その様子を見たシャビは驚きこそすれ、つられるように笑い出す。
「梅の旦那はすごく大切にされてるにゃ、誰も勝てにゃいにゃす」
「確かにお身内のお料理を引き合いに出されると勝てにゃいにゃ」
ふくくっ、ぷくくっと笑うふたりの棘は落ちていた。
◇
仲裁中に痴話げんかを挟むという荒業……なにも解決していないが、ケンカだけは止めることが出来た。
あるじは、ミケに手土産のカステラを手渡し、先日の失態を詫びたあと、今はとても楽しそうに『おニク処かしわや』の暖簾をくぐっていく。
どんな料理と酒を出してるか偵察してくると、ミケに囁いていた。
「シャビサンの言う、いちばんおいしいおニク料理ってなに?」
「いろいろにゃ……くぷぷっ、ハンバーグ食べるにゃすか?」
先刻あるじが饗のハンバーグはうめえなんて言ったばっかりに、いらぬ対抗心を燃やさせてしまったみたいだ。
シャビは、しなやかな背をしゅっと伸ばして、オープンカウンター前に広がる鉄板の向こうに立つ。ニクの焼ける香りが立つまで、もう少し。
DAY△△△
仕事を終え、帰宅した。真っ暗な|居間《リビング》に電灯をつけて、ギョッとなった。
(誉人が落ちてるっす……)
真っ黒の大きな狼がヘソ天で寝ていた。
日々の積み重ねの中で、家の中だけ――饗だけに見せてくれるようになった、|リラックスし《だらけ》きった姿がそこにあった。
(踏まなくて良かったっす)
布団に片付けようか、もう少しこのまま放っておこうか。すぴすぴと鼻が鳴って、脚がぴくんと動く――もう少し、特等の光景を眺めていようと、あるじの隣に静かに座った。
成功
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