【神英戦争】涙を超えた先に
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彼女はいつからそこにいたのだろうか。
まるで煙かなにかのように、音は人知れず、部屋の片隅に現れ、ジョン・フェラーを興味深げに眺めていた。
鮮やかな檸檬色の長髪を指先で繰りながら、女は理知を湛えた碧眼を見開いていた。
女は、司書が着るような白のブラウスと黒のロングドレスで全身を固め、慇懃とした挙止でもってただそこに立っていたのだ。
女を前にした時、ジョンの脳裏を掠めたのは、白と黒との二色で彩られだけの、色褪せた過去の追憶であった。
モノクロの世界にて、ジョン・フェラーはおぼろげな輪郭ながらも、自らと共に林道を歩く女の姿を見た。面差しは影に隠れ、風貌は不明瞭であった。だが、ジョンには隣を往く者がなんとは無しに女だと分かったのだ。
とはいえ、女の姿が思い浮かばれたのも束の間、脳裏の残影は直ちに霧散していった。
現実に引き戻されたジョンのもと、視野に映ったは、古ぼけた二人掛けの小さな木机、壁際を飾る書棚、そして、ドア付近に置かれた、酒瓶を貯めるに任せた木造の戸棚だけであった。
最低限の設備が整えられた殺風景な小部屋と、風変わりな女の姿がそこにはあるだけだった。
「いやぁ、お嬢さん、どなたかな?この部屋は厳重にケルベロス達が守っているはずなのだがね」
羊皮紙で装飾された物々しい古書を優しく撫でる、金髪碧眼の女の姿がある。
ジョンが尋ねれども、女はわずかに眉を細めるだけだった。
彼女が何者かを、ジョンが知る由は無い。
とはいえ、この個室は地下数百メートルに所在する、英国政府にとっての機密研究施設であり、ジョンにとっての政務室でもあった。
一つわかることがあるとすれば、ここは、DIVIDE直轄英国第一軍および近衛軍団の兵らの大隊に守られた研究施設の最奥部の一角に当たり、部外者が易々と足を踏み入れるなど出来る場所ではないという事だ。
となれば、ただの人という事はないだろう。
ぼんやりとジョンが女を眺めていれば、女が一歩を踏み出した。
「まぁ、いいさ、せっかくの客人だ。まぁ腰掛けてくれたまえ」
誰に言うでもなく、ジョンは独り言つ。最も、女が何者であろうともジョンにはさしたる問題は無かった。
彼女が、狐狸の類であろうとも、はたまたデウスエクスと呼ばれる存在であろうとも、それは些末な問題に過ぎない。
ジョンに促されるようにして、女が椅子に腰かけるのが見えた。
小さな木造机を挟み、ジョンと女とは対面するような格好で木造りの椅子へと背を沈めた。
互いに視線が交錯する。ぽつりジョンが零した。
「良いスコッチがあるんだ。チェスでも楽しみながら、軽く歓談しようじゃないか?」
言いながら、ジョンは机の真ん中にチェス盤を置き、ついで机端にグラスを二つ用意した。
酒棚から、普段は飲みもしない年季の入ったスコッチを取り出し、グラスに注ぎ、一つを女のもとへと差し出した。女は酒杯を受け取るや視線を、ジョンと左右の戸棚の間で行き来させながら、尋ねる。
「私…魔導書を蒐集しているの?書棚に収められているものはどれも名のある魔導士によって編纂された魔導書ばかりとお見受けしますけれど」
女がジョンを見据えながら、言い放った。
ジョンは軽く肩をすくめてみせる。
「お目が高いねぇ、お嬢さん。どれも、写本だが一級品さ」
「こちら、いただけませんこと?」
矢継ぎ早に女が言った。
ジョンは心地よげに鼻を鳴らす。そして、チェス盤で並べたポーンの前進でもって回答とした。
「もちろん、構わないが、一勝負。あなたが勝ったのなら、そうだ、オリジナルも添えて贈呈するつもりさ」
ジョンは言った。
あぁ、間違いない。彼女は、人ならざるものであろう。無限の命を有した人ならざる人。デウスエクスなのだ。して、今、自分は英知の結晶たるデウスエクスと直に言葉を交える機会を得たのだ。
これを僥倖と言わず、何を僥倖と言おうか。
自然、声音が熱っぽく興奮した。目頭に熱いものを感じる。
「あなたを殺してから奪うという選択肢もこちらは選べるのよ」
女が冷笑を浮かべるのが見えた。
優艶たる声音は、しかし殺気を帯びながら鋭い刃をジョンの喉元に突き付けていた。だが、ジョンが引くことはありえ無い。
「殺されるのは困るねぇ。だけれど、お嬢さん、私には…」
ジョンは指先でもって、自らのこめかみを一叩き、二叩きする。
「私には、これがある。お嬢さんの求める魔導書に加えて、私の知識もお嬢さんに与えようじゃないか?一手指しながら、魔術の知識を語っていくのもまた一興ではないだろうかな?」
ジョンの言葉に、女の柔らかな口元が綻ぶのが分かった。
甘美なため息と共に、紡がれた女の声音はやはり理知の輝きに満ちていた。
「面白い。でしたら、一手、御指南いただきましょ。マッドサイエンティスト?」
女のほっそりとした指先がポーンを掴むのが見えた。
●
「えっと」
声音の主へと目を遣れば、猟兵達の前方、水着姿のグリモア猟兵と目があった。
エリザベス・ナイツ。グリモア猟兵だ。
してエリザベスは、全身を水沫を濡らしながら、どこか困惑した様に視線を泳がせていた。
言い訳めいたような口調でエリザベスが訥々と語り出す。
「海でね、遊んでいたんだ。うん…突然、予知が下りてきたの。こんな格好でごめんなさい」
伏し目がちに視線を落としながらエリザベスは、決まりが悪そうに口をもぐもぐとさせる。
「その…。うん、重要なのは予知の内容で。実はね、みんな、知っている?数日前に英国放送を騒がせたジョン・フェラーという科学者という方がいらっしゃって。今回の予知では、ジョンさんの研究施設兼別荘にデウスエクスが襲い掛かることが分かったんだ」
エリザベスは、そこまで言うと、何かに気づいたようで慌てふためいたように身を屈める。
ローシャンのトートバッグに掌が伸び、もぞもぞと中を探り出した。ほっとエリザベスが一息つく。
エリザベスの手の中、一振りの指示棒が握られていた。そう、エリザベスの転送器である。
再びエリザベスは猟兵達を正面に見据える。
「敵デウスエクスの目的は、グラビティチェインの奪取はもちろんだけれど、施設内に収納されている兵器の破壊にあるみたい。『断片竜ページドラゴン』、『魔術司書ライブラリアン』がすでにヴィッラ内の地下の最奥部へと向かっているみたい。まずは、みんなを地下研究所奥の格納庫へと転送するから、防衛部隊と共闘して、断片竜を迎撃してもらいたいんだ」
エリザベスは、捲し立てるようにそういうと、指揮棒を一振りし、ゲートを顕現させる。
ついで、口早に付け足す。
「断片竜ページドラゴンを倒したら、次が本番。魔術司書ライブラリアンと交戦に入って貰うね。今回は予知が断片的で、彼女の真意はよくわからない…。ただ、ライブラリアンは時間差を置いて、格納庫に現れるみたい」
エリザベスは一息の間に言い切ると、言葉を切った。
そうして、ゲートの転送先を英国リヴァプールの郊外へと連結させる。
「それにしても、こんな格好の上に、予知もだめだめで、ほんとにごめんねー。…ただね、予知とは関係ないのだけれど、研究所内には屋内プールも備え付けられているんだ。あの…、敵を倒した後、そちらで遊んでみてもいいかも――なんて」
あわただしい転送と共に、今、英国における戦いの第二幕が幕を開けるのだった。
辻・遥華
オープニングをご覧頂きましてありがとうございます。辻・遥華と申します。
舞台は再びケルベロスディバイド世界。イギリスのリヴァプール郊外の、研究所にて。
英国が誇る、放射線物理学および魔道物理学、機械工学の碩学とも名高いジョン・フェラーの研究施設を兼ねた別荘が、デウスエクスにより襲撃を受けました。
デウスエクスは、グラビティ・チェインの奪取に加え、地下格納庫に保管されている、新型人型決戦兵器の破壊、機密情報の強奪を目的に研究所を強襲しました。猟兵の皆さんには、彼らデウスエクスを迎い打ってもらいます。
今回は神英戦争の第二部、第一話となります。
神英戦争を通して、第一部の登場人物/状況は前話までのものを引き継いでおりますが、これまでの参加にかかわらず一話完結での内容となっています。ご興味湧きましたら是非、ご参加を検討ください。以下、各章の詳細についての説明です。また、MSページも併せて参照下さい。
●第一章
『断片竜ページドラゴン』がジョン・フェラー地下研究所へと襲撃しました。
彼らは、地下研究所の第一隔壁から第五隔壁までを突破し、第六隔壁目前まで迫っています。残す隔壁は、7~9の隔壁で、これらを突破された場合、敵は、格納庫内へと突入、新型兵器の破壊に移ります。
🔴ひとつにつき、隔壁が1つ破壊されてゆき、🔴×4で隔壁完全破壊となります。その後は、🔴×4で新型兵器破壊されます。第一章の🔴はそのまま、二章へと受け継がれます。
一章のボーナスは『決戦ポジションの要請』『断章における状況を上手く活用』です。
●第二章
『魔術司書ライブラリアン』との戦闘となります。第一章の成否によって内容が変化しますので、詳細は二章における断章を参考になさって下さい。
二章のボーナスは『決戦ポジションの要請』『断章における状況を上手く活用』の二つです。
●第三章
地下のスパ施設で、まったりとひと時をお過ごしください。
ご友人様、本シナリオ登場NPCとの会話をはじめ、ご自由に行動頂ければ幸いです。断章にて詳細、お知らせします。
一章、二章は参加者人数は依頼達成必要な4名様~最大8名様を参加者として想定しています。人数を万が一、超過してしまう場合は、先着順で採用させて頂きます。人数に満たない場合は積極的にサポート様にお力添えお願いすると思います。三章は人数制限なしです
第1章 集団戦
『断片竜ページドラゴン』
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POW : 飛び舞う断片の竜
対象の攻撃を軽減する【全身がバラバラに舞い散る魔導書の頁】に変身しつつ、【自身を構築する魔導書の頁に記述された魔術】で攻撃する。ただし、解除するまで毎秒寿命を削る。
SPD : 叡智を略奪する竜牙兵
自身が【知識欲】を感じると、レベル×1体の【知識や情報を略奪する竜牙兵】が召喚される。知識や情報を略奪する竜牙兵は知識欲を与えた対象を追跡し、攻撃する。
WIZ : カオスドラゴンブレス
詠唱時間に応じて無限に威力が上昇する【自身を構成する全頁の魔術を合成した禁術】属性の【ドラゴンブレス】を、レベル×5mの直線上に放つ。
イラスト:ひゃく
👑11
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵
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種別『集団戦』のルール
記載された敵が「沢山」出現します(厳密に何体いるかは、書く場合も書かない場合もあります)。多くの場合、敵は、あなたが行動に使用したのと「同じ能力値」の戦闘方法で反撃してきます。
それらを踏まえつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
| 大成功 | 🔵🔵🔵 |
| 成功 | 🔵🔵🔴 |
| 苦戦 | 🔵🔴🔴 |
| 失敗 | 🔴🔴🔴 |
| 大失敗 | [評価なし] |
👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。
●本題
愛用のトレンチコートに、かわって統一されたケルベロスコートを身に纏うのは、われながらいかにも奇妙な感がある。
魔力弾を込めた小銃を脇に添えて、周囲を見渡せば、がらんどうになった空間を埋め尽くすようにして、見慣れない兵士たちが三々五々で隊伍を組みながら雑踏するのが見えた。
ゆきむらは、脇に添えた小銃を手に取り、弾倉を開放、銃弾を込めていく。
手にするのは魔力弾と呼ばれる魔力を帯びた銃弾だ。大きさは口紅大で、円錐状の形をした銀製の弾丸の一つ、一つには魔法陣の様な文様が施されている。
ずっしりとした質量感があり、銀色の光沢を帯びた弾丸は、壊れ物の様な見た目に反して、ものものしい印象をゆきむらへと与えていた。
ゆきむらは、丁重に銃弾の装填を終えると、小銃を両手で構えた。
コンクリート壁が左右に連なる、開け広げになった無機質な空間のもと、鋼鉄製の分厚い隔壁がゆきむらの前に立ちはだかっていた。
隔壁を挟んだ遠景より、重苦しい足音が、幾つも響くのが聞こえた。
けたたましい足音だ。
まるで地鳴りや、海鳴りの様な雑音を彷彿とさせる足音が、ますますに勢いを強めながら、津波の様に、ゆきむらと外界とを隔てる隔壁手前まで近づてい来ていた。
「メンター…敵、すぐそこまで来ています。百から二百くらい…かな」
コンクリートに反響する騒音に交じって、ゆきむらの耳元で鳥の囀りの様な小声が響いた。
目を遣れば、目じりの垂れた三白眼が、上目遣いにゆきむらを見つめていた。
喜怒哀楽の感情が剥がれ落ちた様な、穏やかな小顔がそこにある。
無表情な面差しのもと、形の良い三白眼を一度、二度と瞬かせながらカエシア・ジムゲオアは平素と変わらぬ沈着とした態度でゆきむらを眺めていた。
「みたいだな、カエシア――。まぁ、なんとかなるだろ。やれるだけやるとしようぜ」
鷹揚とした挙止でもって、カエシアの肩元にゆきむらが手を置けば、それまで、感情の色に乏しかったカエシアの表情が七色に色めきだつ。
白磁の頬が、ばら色の輝きでほの赤く染まったこと思えば、横一文字に紡がれた口元が柔和な弧を描く。
カエシアが、前方へと姿勢を変えれば彼女が纏ったケルベロスコートの裾が、金魚の尾の如く、優雅に揺曳した。
今、ゆきむら、カエシアの両名は地下研究室防衛へと足を運び、そして不運にもデウスエクスの襲撃に遭遇したのである。
自らの不運を嘆息しながらも、ゆきむらは、指先で銃の引き金をこすりながら、ふと思う。
このデウスエクスとの遭遇は、ある意味で必然であったのかもしれないと、そんな想いがゆきむらへと去来していた。
一九九八年は、人類にとっては災厄の年であったと言えるだろう。
ゆきむら自身、当時、未だ生を受けていなかったために、当時の状況がどんなものであったかは、風聞や資料から朧げに伺い知ることはできなかった。
一九九八年を境に人類の生活様式が一変したということは、各資料が共通に伝える事実であった。
かつて存在したとかいう大預言者ノストラダムスの大預言を前倒しにすること一年、空より舞い降りたデウスエクスを名乗る異形の神々は人類に変化をつきつけたのである。
人類は、異形の神々により蹂躙され、人類が数千年を超えて連綿と築き上げてきた文明は、崩壊一歩手前まで追い込まれたのだという。
しかし、あれからすでに二十と六年がたった。
この二十六年のうち、デウスエクスよりの亡命者が齎し技術や人類側の努力により、人類は決戦都市を築き、人類はデウスエクスに反抗を続けている。
今や一部地域ではデウスエクスの勢力を完全に圧倒するほどに人類は勢力圏を巻き返しつつある。
英国は、人類側の反抗勢力における急先鋒の一角と言えるだろう。すでにデウスエクスは度重なる戦いにより、英国での支配権の大部分を失いつつある。
なるほど、英国は軍事、政治の両面における大国というに相応しいだろう。もしやすれば、デウスエクス襲来以前よりも国力は増し、国体は強固となったかもしれない。
だが、旭日の勢いのもと戦いを展開する英国であるが、内実は以外にも複雑な様相を呈していた。
それは一重に英国軍内部の分裂にあると言えるだろう。
ここ一年間における英国軍、特に稀代の英傑ラファエル・サー・ウェリントンによる第三軍の台頭により、今や、英国軍内部は一触即発の危うい緊張感が流れている。
幾つかの偶然が味方したのもあったが、ラファエル率いるDIVIDE直轄英第三軍の躍進ぶりによって、今、軍内部はラファエル率いる新興勢力と、第一軍、近衛軍団による門閥勢の二つに分かれたのである。
そして、この第三軍の栄耀ぶりが呼び水となり、政治的、軍事的な混沌を英国にもたらしたのである。
これまで軍主導で展開されてきた英国の統治体制に対する不満が軍外部、つまり、政府や王族のもとより噴出したのである。
政府や王族は、毒をもって毒を制するとでも言わんばかりに、第三軍を助力した。
結果、英国内における政治的軍事的力学は、近衛軍団および第一軍における門閥と、ラファエル率いる第三軍を政府、王族が支援するような形で成立した連合体との駆け引きの上で揺れ動くことなったのである。
小銃の口元を指先で撫でながら、ゆきむらは、小銃で前方を睨み据える。
周囲を窺えば、防衛部隊の面々もまた、続々と射撃の態勢を整えていく。
突如、石壁の様に反り立つ隔壁が、内側に大きく陥没するのが見えた。
轟音があがり、壁面がひしゃげ、軋みを上げる。コンクリート壁を圧迫するように、その表面に無数の拳痕が浮かび上がるのが見えた。
空気は性質を変え、重苦しく淀んでいった。
すでに敵は隔壁を隔てて、すぐ前方まで迫りつつあるようだ。
内心でゆきむらは、毒づく。
なぜ、わざわざこの日を選んで自分はこの研究施設に足を運んだのだろうかと。
ここは、地下数百メートルに位置する、英国第一軍所属の地下研究施設に当たる。
第三軍に所属するゆきむらが、この場所を訪れたのは、一重に学生時代の清算のためという側面が強かったが、しかし、なにもこのタイミングで敵も襲来することも無いだろうにと思わずにはいられない。
工学部志望であるため、どうか同行させてくれとせっつくカエシアの申し出を、なぜ断らなかったのかと、今となっては後の祭りだが、自分の軽率さを苦々しく思わずにいられなかった。
だが、ゆきむらは、先日の会見で発表された新型人型決戦兵器がまさか、こんな地下研究施設に格納されているなどとは露とも考えていなかった。
とはいえ、もはや後戻りは出来はしない。
敵が来るなら、カエシアと共に戦うしかない。
隔壁を打ち付ける拳はますますに、その数を増やしていく。均整のとれた隔壁表面は、もはや、凸凹に形を変え、至る所でぎしぎしと悲鳴を上げていた。
そうして、隔壁はついぞ、限界を迎える。
ひと際激しく隔壁表面が内面へと落ちくぼんだかと思えば、ついぞ、壁面は圧力に耐えることなく無残に崩れ落ちていく。
礫や砂片が散る中で、穿たれた拳大の小穴より、無機質な瞳が、剥き出しになる。
一撃、一撃と拳が、隔壁を殴りつけるたびに、壁面には続々と欠損孔が口を開き、亀裂がしわがれた襞(ひだ)となって広がっていく。
隔壁は、もはや耐える事叶わず、完全に崩落し、粉々に砕け散った、
開け広げになった視界の元、居並ぶ無数の竜の姿がある。
「隔壁を展開する――」
後方より、声が響いたかと思えば、足元から鋼鉄製の防壁がせり上がり、それらは遮蔽物となって兵士らを前方から包み込む。
ゆきむらは、カエシアを伴って、せり立った防壁の中へと身を隠すと、照準を迫り来る竜の一体へと向けて絞る。
ゆきむらにとっての不幸なる一日は、こうして、今、幕を開けたのである。
――――
以下に同行するDIVIDE部隊を記載します。
基本的には通常の決戦配備とほぼ同様の効果となりますが、名前付きのキャラクターを決戦配備に選ばれた場合は、テイストとしてやり取りなどを描かせていただきます。
Cr、Df、Jm、Md、Sn
→指定なし。
Cs:ゆきむら&カエシア
→風貌体裁の怪しげな自称ベテランケルベロスと、女子高生ケルベロスの子弟コンビです。それぞれカエシアが魔術結界を張りめぐして、支援を、ゆきむらが魔銃にて射撃援護にあたります。
●閑話(以下、作戦とは関係ないので余裕ある方のみお読みください)
全ての事の起こりは、七月十八日の英国放送に端を発したと言えるだろう。
七月十八日のリヴァプールは、冷風が掠める、穏やかな気候のもと、平素にも勝る賑わいぶりを呈していた。
某ホテルで開かれた、軍による会見内容は、デウスエクスとの戦いに疲弊した者たちの心を和ませ、激励させるものとなるはずであったからだ。
この日、科学者ジョン・フェラーによる記者会見が行われたのは、一重に彼の後援者たる、DIVIDE直轄英国近衛軍団の最高責任者である、マーチン・カッターフィールド元帥による口ききによる部分が大きく、どちらかと言えば近衛軍の活躍を都合よく喧伝するための側面が強いだろうことは、誰の眼にも明らかだったが、それでもなお、内容自体は喜ばしいものであった。
それでもなお、新型兵器の発表との前触れで報道された会見内容に市民たちが胸躍らせたのは確かな事実であった。そして市民よりの反応はマーチンには心地よいものであったのだろう。
マーチン、いや近衛軍の凋落ぶりは甚だしいものがあった。
英国軍における唯一の元帥号の所持者たるマーチンは、もとより独裁官の如き強権力を振るい、軍事に限らず、市民生活にも多大な影響をあたえてきた。
彼の軍事的素養は確かなもので、たしかにマーチンは、DIVIDE直轄軍の最高司令官として英国における危機を幾度も未然に防いできた。
しかし、反面で内省的手腕となると幾分も杜撰なものであり、人々にとっては、彼は煙たい存在とも映ったし、政府高官や王族にとっては、彼の行為は越権行為に過ぎるように感じられたのだった。
そして、栄華必衰の常ともいおうか、綺羅星のごとく現れた一人の天才ラファエル・サー・ウェリントンの登場が人々の思いに拍車をかけた。
見目も良く、人心にも厚いラファエルを前にした、軍略家マーチンの名は、完全にかすみ、彼は、英国軍における旧弊へと直ちに堕していったのである。
マーチンの権力欲は決して小さいものでは無かったし、彼の肥大化した自尊心は、彼が若い小僧の前に屈する事を許すことは無かったようだ。
マーチン元帥は、彼がかつてより温め、ついぞ軌道に乗りかけた新プロジェクトを大々的に英国内へと発表することで、巻き返しを図ったのである。
そして、彼は研究者ジョン・フェラーによる記者会見によって自分の功績を世に広めようとしたのである。
この日、ゆきむらは弟子カエシアとの昼休憩のおり、テレビのワイドショーにて、偶然にも近衛軍による記者会見を目撃したのであった。
そして、後日ゆきむらが、第一軍の研究施設を訪れるに至ったのは、一重に、記者会見に現れた、中肉中背の男、ジョン・フェラーに負う部分が大きかった。
報道官は、口をそろえてジョンの事を天才と呼んでいた。
最も、ジョン・フェラーが天才呼ばれることに、ゆきむらは、やや違和感を覚えずにはいられなかった。
中肉中背の、五十路の男にゆきむらが師事したのは、本郷における大学時代におけるひと時の間に過ぎなかったが、あえてジョン・フェラーという男を評するというのならば、天才というよりは、奇人という表現が幾分も相応しいようにゆきむらには思われたからだ。
そして不幸にも、このゆきむらによるジョン・フェラー評はこの日の会見を通じて、英国民における共通の見解となっただのである。
ジョン・フェラーは、現代物理学の父の一人との評価を得るのは正しいだろう。
一九九八年を境にして、人々はデウスエクスが齎した魔術との共生を余儀なくされた。
ジョンが現代物理学の父の一人に数えられるその最大の要因とは、彼が提唱する新物理学の基礎理論が、新たに導入された魔術という概念に科学的説明を半ば強引ながらも付与した点にあるだろう。
陽子、中性子、電子の概念に加えて、彼は魔素なる新たなる概念を補足することで、デウスエクスが齎した魔術を、人類が積み上げてきた科学分野の枠に無理やりに押し込めたのである。
学界からの反発もどこ吹く風、ジョンは自分の提唱した魔術理論を、放射線物理学、量子力学の分野で応用し、遂には、機械工学の分野においても導入してみせたのだ。
英国における人型決戦兵器とは、支援ロボの発展形に当たる。二足歩行で、人間の動きをそっくりそのまま再現する人型決戦兵器は、まさにジョンが提唱する魔術理論を土台にすることで完成した、現代物理学の結晶と言える。
このジョンの才能をマーチンは買って、ジョンに大型の研究施設兼別荘群と、そこの最高責任者の地位を与えたのである。
ジョンにとっては、濡れ手で粟とはまさにこのことであった。
自らの才能を遺憾なく発揮する場を得たジョンは、第三世代と呼ばれる次世代型人型決戦兵器の開発に嫡子、ついに完成にこぎつけたのである。
マーチンの肝いりで始められた人型決戦兵器の最新機の開発は、成功裏に終わった。
マーチンが見抜いたジョンの科学者としての才幹は間違いないものだった。だが、マーチンは、ジョンの人間的欠落を見落としていたと言えるだろう。
そして、ジョンの精神的欠陥はこの日の会見の席で白日のもとにさらけ出されたのである。
記者会見は、こじゃれたホテルの宴会場を貸し切って開かれていた。
会場には英国政府関係者や報道陣をはじめ、第三世代型開発にて協力関係にあった日、豪、伊の三国の要人が詰めかけており、賑わいを見せていた。
会見は、まずはマーチン元帥の辟易とする様な長演説から始まり、そして政府高官や王族の挨拶が続いた。
杓子定規の挨拶に会場が屈託し、やや場が白けだしたころ、ついに問題人物ジョン・フェラーが壇上に姿を現したのである。
やや猫背気味に背を折りながら、ジョンは、のっぺりとした面差しを参列者へと向けると軽く首を引いて、けだるそうに会釈する。そうして彼なりの最低限の挨拶を皮切りにジョンは、眠たげに口を開くと、ぽつぽつと演説を始めるのだった。
「えぇ、まずはマーチン元帥殿、女王陛下を始めとした王族の皆様、更には政府関係者の皆様に感謝を…」
風貌体裁は中肉中背の中年男である。猫背気味であり、声音もくぐもっていいたため、お世辞にもジョンは画面映えからは程遠く感じられた。
訥々と言葉を重ねながら、ジョンは簡単に挨拶を済ませると、まずはマーチンを古ローマ帝国のトラヤヌス帝に重ね、ついで自分をトラヤヌス時代の技術者アポロドロスに喩えてみせたのである。
明らかに不快そうに顔をしかめる王族や政府関係者を尻目に、マーチンは謙遜しつつも喜色満面でマーチンの言葉に鼻息を荒げていた。
最もこの時点においては、参列者たちは、この風変わりな男に興味津々といった様子で、彼の発言に好奇の眼差しを投げかけていた。
だが、部外者たちの好感は束の間のものであった。
ついで、ジョンに差し向けられた質問が場の雰囲気を一変させたのである。
ジョンの回りくどい話に退屈したのか、日系記者が彼に尊敬する科学者について尋ねた際、彼の解答があまりにも場の期待から外れたものであったからだ。
「――まず、一人目はオッペンハイマー氏でしょうね。彼は啓蒙の光でもって、旧人類を新たなるステージへと勧めたと言えるでしょう。彼の功績をまずは湛え、我が師と仰ぎたい」
ジョンの冷ややかなる声音が熱を帯びた。
一瞬、参列者たちが目をむき出しにするのが見えた。
しかし、ジョンは張りつめていく空気など毛ほども気にならぬようで、演説を続けていく。
中指を折り、ついで人差し指を折るとジョンは、更に語気を強めて熱弁する。
「もう一人は、ヴェルナー・フォン・ブラウン殿を挙げましょう。V-2は素晴らしい発明品だ。仮に私が、フォン・ブラウン氏と同じ立場にあったら、悪魔のもとで同じ選択を取ったでしょう」
ジョンの碧眼は輝いていた。
しわがれたジョンの声音だけが歓喜の色を滲ませながら、水を打った様に静まり返った会場に流れていた。
ここに集ったのは英国関係者がほぼ九割を占める。ヴェルナー・フォン・ブラウン、旧世紀において宇宙開拓に功あった科学者である。反面で彼は英国にとっては悪魔のごとき象徴でもあった。
危機の時代において、かの悪魔の如き科学者を称賛する事に純粋に共感できる英国人などはこの場には存在などはしなかった。
重苦しいどよめきが立ち込める会見席にて、しかしジョンは衆目の厳しい視線を一身に浴びながらも、顔色一つ変えずにV-2ロケットについて長広舌を披露するのだった。
彼が言葉をつづけるたびに、場の空気は淀んでゆき、凍り付いていく。
して、ジョンが演説を終えた時、彼に送られたのは、雨あられと降り注ぐ罵声や、空き缶やごみくずの嵐であったのだ。
結果、記者会見は、新型の人型決戦兵器に関する言及をなされることなく、飛び交う罵声によって中断されたのであった。
これにて、近衛軍団司令官の総大将マーチンの面目は丸つぶれとなった。
ゆきむらが人づてに聞くところによれば、マーチン元帥は憤懣ぶりを隠す素振りもせず、現代のフォンブラウン、ジョン・フェラーに謹慎を命じたという。
その話を聞くに及び、ふとゆきむらの脳裏を横切ったのは、あの日、卒業論文の提出日にジョンが残していった奇妙な質問についてであった。
過日と変わらぬ、放埓とした態度も、他者を食って掛かった態度もジョン・フェラーは、かつてとなんら変わらなかった。
当時と比べて、目じりが濃くなり、しっとりとした黒髪に白いものが交じりつつあってもジョン・フェラーは、ジョン・フェラーのままだった。
そんなジョンをテレビ越しに目撃した時、ゆきむらは、卒業論文の受け取りと交換に提示された質問がなぜか脳裏を掠めたのである。
学生時代は、数年も前に遡る。
提示された質問の存在などすでにゆきむらの中で風化しつつあった。
だが、かつてと変わらぬ姿で振る舞うジョンが、ゆきむらの足を幾分も軽くしたのだった。
気づけば、ゆきむらは、夏休み休暇中のカエシアを連れ、謹慎中のジョン・フェラーが待つ、研究施設へと歩を進めていた。
ここにゆきむらの最悪の一日が始まったのだった。
ハル・エーヴィヒカイト
◎
連携○
▼心情
新型人型決戦兵器。興味はあるが今は守りに専念するとしよう
しかしあの二人はまた無茶をしているのか?
▼ポジション
Cs
▼戦闘
まずは到着次第UCを起動し、戦場を領域で包む
同じ戦場にいる二人には癒しが齎され生存能力が高まるはずだ
そしてゆきむら達と合流、[集団戦術]でしっかり連携を取っていく
「つくづく縁があるようだ。前衛は私に任せてもらっても?」
そちらはいつも通り生存を最優先で。余裕があるなら術式で私の術をブーストして欲しい
領域は2時間以上は維持できる。その間に領域内に広がった無数の刃の花弁で断片の竜や召喚された竜牙兵を斬り刻もう
敵の攻撃は[心眼]で[見切り]、[霊的防護]を備えた刃で[受け流し]回避する
「あいにくお前たちに渡す知識は欠片も持ち合わせてはいない。疾く本来の役割に還るがいい」
ゲートを潜り抜けた先、ハル・エーヴィヒカイト(閃花の剣聖・f40781)の靴先がコンクリート張りの足場を踏み鳴らす。
コンクリートの固い感触を足裏に感じながら、ハルは体勢を整える。
二度、三度と靴先でコンクリートを蹴り上げてみれば、乾いた音が開け広げになった空間へと木霊した。
左右へと一瞥を送れば、くすんだ乳白色のコンクリート壁が遠方へと向かい、延々と連なっているのが見えた。
天上に等間隔で並んだ白色灯が、目眩むような白光でもってコンクリートで舗装された幅広な空間を照らし出している。
周囲は、情緒や風情とは無縁に、冷たい無機物が齎す無味乾燥な白色で塗り固められている。
まさに地下研究所通路とに呼ぶにふさわしい光景である。
刀の柄に手を添えて、ハルは一歩を踏み出す。
鋭い眼差しで前方を窺えば、コンクリートの足場は、所々でせり上がり、白くなだらかな胸壁となって、幾つもの防壁群を形成しているのが分かった。
そして、防壁群の中には半身を隠すような形で、淵を金糸で刺繍した、漆黒のコートに身を包んだもの達の姿があった。
黒地のオーバーコートに身を包んだ兵士たちは、ケルベロスと呼ばれる異能力者たちである。
彼らは一つの防壁につき四、五人で身を寄せ合いながら、大部分は防壁越しに前方を鋭く睨み据えている。
ケルベロスの視線を追えば、防壁を挟んで十間(18m)程先に、数多ひしめく異形の竜が見て取れた。
まさに名が体を表すとはこのことで、『断片竜ページドラゴン』と呼ばれる異形の竜は、紙片で構成された体躯をそびやかしながら、不気味な蠢動を続けていた。
ハルは、断片竜を凝視する。
紙片が、数百と折り重なることで形成された拡翼が、のびやかに空へと向かっていた。幾項もの魔術書の項が重なりあうことで竜を彷彿とさせる顔面部や体幹が彼らの体動によって揺れ動いていた。
竜は足を持たず、彼らが作ったのだろう力場により、その体躯は低空を揺蕩っている。
おそらく、魔術書が竜の肉となり、魔力が竜の血や神経叢、結合組織となって『断片竜ページドラゴン』を支えているのだろう。
竜たちは、低空にわずかに浮かび上がりながらハル達のもとへと距離を詰めてくる。
ふむと小さく吐息をつくと、ハルは剣の柄に手を添えた。
交戦までの手順を脳裏で整えつつも、ハルが肩越しに後方へと視線を遣れば、通路の先には、ぶ厚い鋼鉄製の隔壁が降ろされ、先細りする小径を塞いでいるのが分かった。
新型人型決戦兵器と言っただろうか。
断片的な予知から憶測するに、通路の奥の格納庫には、件の新型兵器が格納されているのだろう。
それが果たしてどんな機体であるのか、興味がないわけでも無い。
だが、機体を対面するよりも早く、ハルにはやるべきことがある。
そう敵デウスエクスの殲滅だ。
迫り来る敵を露払いし、状況が落ち着いた後で、噂の第三世代型人型決戦兵器とやらを見ればよい。
まずは状況の鎮静化に努めるべきだ。
ハルは直ちに前方へと視線を戻す。
そうして、もはや後方には二度と目を遣ることなく、右斜めに走り出し、張り巡らされた防壁の一隅へと身を潜らせた。
四、五人が収容限界であろう防壁の中、そこには六人ほどの人影が見受けられた。
ぎゅうぎゅうに身を寄せ合う兵士たちの中、よく見知った男女の姿があった。
二人は、愛用のトレンチコートや白地に花柄のワンピースとは趣を変え、他のケルベロス達同様の統一された、黒のケルベロスコートに身をつつんでいた。
正規のケルベロスコート姿の二人にやや奇異の感を抱かないでも無かったが、少女の愛らしい三白眼や、男の妙に形の整った切れながの垂れ目を、見まがうほどにハルは耄碌してはいない。
ハルは顔を前方へと固定したまま、視線だけを二人へと遣って、口早に告げる。
「つくづく縁があるようだ。ゆきむら、カエシア――。さっそくだが前衛は私に任せてもらっても?」
ハルの言葉に応じるように、カエシアが円らな三白眼を瞬かせ、ついでゆきむらが、形の良い顎をしずかにひいた。
「もっちろんだ、ハルの兄さん…」
「全力で援護…します」
矢継ぎ早に二人がハルへと答えた。
また無茶をしたのだろうか。それともなにが目的があってここに来たのだろうか。
詳細はハルには分からない。まったくもって不運な二人だとは思う。
とはいえ、ここで二人と遭遇できたのはある意味で幸運と言えた。
二人の骨柄をハルが把握できていたのは、共闘時には大きなアドバンテージとなりえたし、更に言うのならば二人ともに度重なる戦いによって動きが洗練されたものだった。
既にゆきむらは射撃の態勢を取り、カエシアは魔法陣の展開するべく右手を伸ばしている。流れるような挙止で展開される一連の行動は、幾度も死線を乗り越えてきた熟練兵そのものの巧みさがあった。
「二人とも頼む…」
ハルが指示だしすると同時に、カエシアが首肯する。一瞬の間もおかずに、白樺ともガラス細工とも見紛う、壊れ物の様なカエシアの指先から、蒼白い光の水沫が溢れだした。
蒼白い微光は、清浄たる水の飛沫のごとくあふれ出すと、ハルの頬を撫でつけ、絹の心地よさで全身を包み込んだ。
まるで、魔力で織り込まれた外套を羽織るかの様な心地であった。
光に包まれた瞬間に、ハルは、自らの内奥で燻ぶっていた燈火が火勢を増していくのが分かった。
燎原の火が留まることなく全てを焼き尽くすように、ハルの中で溢れた力の奔流は血管網を走り回り、肺臓を焼き、心の臓へと激しく打ち付けた。
このままでは力とはただの無秩序に過ぎず、すぐさまにハルの全身を焼き尽くすだろう。
しかし、反面でこの激流を法則で縛り上げた時、無秩序な力はユーベルコードへと昇華するのだ。
自らの中で奔騰していく魔力の激流にハルは、一定の法則を与えるべく意識を集中させる。
脳裏にて思い描くは、眩耀の陽射しの中、枝葉を差し交す白梅の木立である。
春風に吹かれ、梢を揺らす梅の花をハルは脳裏に見た。
梅の花弁は、吹く風に圧倒され、けなげな抵抗も虚しく、枝葉を離れ、儚げに舞い散った。
一片、一片と梅の花弁が中空へと舞い上がってゆく。
気づけば、爛漫と舞い散る花吹雪により世界は銀白に染め出され、強く、そして耽美な銀世界が脳裏にて生み出された。
この心象世界こそが、奔騰する魔力に対する楔であり、唯一の法となった。
ひとたび、風雅たる白梅並木の心象世界が紡ぎだれれば、魔力はかの世界を再現するべく、血の流れに乗り、ハルの右手の中へと収束してゆく。
じんと熱くなった右手で剣の柄を力強く握りしめる。
「ゆきむら、カエシア、両名共にくれぐれも無理はしないようにな。可能な限り援護を頼む…。敵は私が切り伏せよう――」
口数少なく言い終えると、ハルは勢いそのまま防壁から再び身を乗り出し、居並ぶ断片竜の前へと躍り出た。
軽く一歩を踏みしめて、剣をわずかに寝かせ、柄で断片竜たちを睨み据える。
剣の鯉口を切れば、青ざめた刀身が、澄んだ貴人の面持ちで、わずかに顔を覗かせた。
断片竜の数は、二百をわずかに上回るだろうか。対する友軍の数は五十を数える程度だ。
戦力比は、四対一と、少なくともハルにとっては、脅威足りえない兵力差であった。
剣の柄に指を絡めてがっしりと掌で握りしめる。右足を前方に滑らせ、ついで、腰を半身程捻る。呼吸を深めてゆくと同時に、左ひじを後方へと引き、居合の構えを完成させる。
断片竜とハルとの間合いは、数間以上も離れており、未だ剣戟の間合いには程遠い。
だが、ハルにとっては彼我を隔てる距離など、問題とはなりえなかった。
ハルは、不可視の剣でもって敵を切り裂くのだ。
ユーベルコード『境界・碧月光華』とは、世界の理を変容させる。
ユーベルコードにより支配された法則のもとでは、白梅の花弁こそが刃であり、その一片一片こそが、ハルによる無数の剣戟と化すのだ。
「咲き踊れ狂乱の刃――」
白い息がハルの桃色の唇より、零れだした。
糸を引くようにもうもうと立ち込めた吐息は、天上に備え付けられた白色灯へと吸い込まれていく。
「――碧月光華」
柔和に響く声音は、奇跡の福音となって周囲へと響きわる。
ただ円を描くようにして腰をひねり出し、ついで、無心のままに右ひじを前腕へと滑らせれば、銀青色の刀身は鞘元を離れ、なめらかな軌道でもって空を一閃する。
握った剣は、今やハルの指先と一体化していた。掌には荷重や違和感の様なものは何ら感じられない。無意識のうちに随意筋は伸長を終え、流れるような一撃を繰り出したのである。
数万と繰り返してきた抜刀術だ。
体はまるで呼吸でもする様に、完璧な形で、居合の構えから抜刀までを再現してみせたのだ。
銀色の閃光が、一筋なびいたかと思えば、ついで、閃光の軌跡をなぞるようにして、淡い白光がそぞろ舞い上がる。
舞いあがる白光はますますにその数を増やしてゆき、気づけば梅の花を彷彿とさせる、白く儚げな花弁の形を造形する。
花弁はひらひらと、空を揺蕩いながらついぞ、通路全体へと溢れていき、周囲を白い光の濁流の中へ埋没させるのだった。
境界・碧月光華により生み出された世界においては、優美たる花弁こそが、冷酷たる刃の象形でもあった。
爛漫と舞い散る花弁が互いに身を寄せ合ったかと思えば、ひと塊となる。そうして、優雅に空を遊泳しながら、
断片竜へと押し寄せ、花吹雪の中に竜の全貌を覆い隠した。
白い花弁は、竜の表皮を完全に覆いつくし、鋭い切っ先でもって、断片竜の皮膚たる紙片を突き刺していく。
断片竜の表皮に施された魔術障壁は、白い刃によって、絹を裂くかの如き容易さでやすやすと切断されていく
表面の紙片に裂創が入ったかと思えば、刃は、折り重なった紙片の次の項を目指し、ますます深く刃を沈めていく。
花弁と花弁とが折り重なりあい、断片竜を上方より押しつぶすようにして群がっていく。そのたびに、刃がより深く断片竜を抉り出した。
白い花弁によって覆いつくされた竜の輪郭が激しく動揺を始めるのが見えた。
断片竜は、花吹雪から逃れんと、両力を激しく揺さぶり、全身を勢いよく体動させ、抗い続けた。
しかし、いかに断片竜が激しく動き回ろうとも、花弁はねっとりと断片竜の全身にまとわりつき、鋭い棘で竜の肌や肉を刺し貫いていく。
突如、断片竜がぴたりと動きを止めるのが見えた。
竜の不動を合図に、花弁はするすると断片竜のもとを離れ、周囲へと四散してゆく。
そうして花弁が再び宙へと舞い散るや、断片竜の体躯を構成していた魔術書は、もはや竜の形状を保つこと能わず、宙を舞う無数の紙片へと姿を変えるのだった。
断片竜は、花弁が齎す死の食指に絡めとられ、死に絶えたのだ。
絢爛美麗たる花吹雪の中、切れ切れになった魔導書の断片は、しばし、優雅に空を揺曳しながら、固いコンクリート床の上へと舞い落ち、断片竜の名残や芳香を一切感じさせることのない無数の紙屑となって、床上へと無残に積み重なっていく。
ハルは視線を動かし、舞い散る花弁を誘導する。ハルが断片竜を睨み据えれば、花弁は巨大な波濤となって次なる断片竜へと襲い掛かり、無数の花弁の抱擁でもって、断片竜を切り裂き、圧殺し、彼らを無機質な紙片へと変えてゆく。
空を彩る花弁の中、断片竜が崩れ落ちていく。
ただ、ハルは視線を動かしながら、一体一体と敵を屠っていく。
もちろん、断片竜とて、剣戟の嵐に翻弄されるに任せ、ただただ数を減らすばかりではなかった。
彼らは、落命の危機に瀕して、その原因たるハルの剣戟に探求心をもったのか。いずれにせよ彼らの中で起こった探求心は、知識欲と結びつき、彼らの異能を発現させんとする。
断片竜の胸元の六芒星が紫色を帯びるのが見えた。
空間に揺らぎの様なものをハルは感じ取る。なるほど、敵もまた自分同様に世界を新たなる法律で書き換えようとしているのだろう。
だが、ハルとて敵を自由に動かすつもりは無い。
すでに彼らの動きは、心眼とも言うべきハルの両の眼によって丸裸にされていた。
断片竜の胸元の六芒星が完全に紫色に染まるよりも早く、ハルは敵の懐へと飛びみ、剣を振り上げた。
「あいにくお前たちに渡す知識は欠片も持ち合わせてはいない。疾く本来の役割に還るがいい」
上段より剣の、一閃を見舞う。
言葉が告げられるよりも早く振り下ろされた剣戟は、風切り音さえも残さす疾風の一撃となり、袈裟切りに断片竜の心窩部を、胸元の魔法陣ごとに断片竜を一刀両断した。
剣戟の余韻は、銀色の軌道を束の間、空に描いたが、直ちに消え去っていった。
おそらく、カエシアの魔法陣がハルの潜在能力を引き上げたのだろう。紙片に施された魔術結界は、ハルの繰り出す剣戟になんら抵抗できぬままに消失した。
結果、まさしく紙細工を切り裂くかの様な手ごたえのなさでハルは断片竜を切り裂いたのだ。
心窩部を裂かれた断片竜のもと、竜の形状を保っていた紙片は、支えを失い、てんでばらばら四囲へと四散していく。
掌を返し、剣を再び鞘へと納めれば、剣の鍔が軽やかな音色で鉄鞘を打ち鳴らした。
凛と響く鉄音の中、ハルは次なる断片竜へと狙いをつける。
飛び交う無数の白梅の花弁は、勢いを落とすことなく、次なる獲物目掛け、空を踊り狂い、断片竜へとのしかかっては、彼らの肉たる無数の紙片を周囲に散乱させてゆく。
銀世界は、ますますに鮮明さを増してゆく。そのたびに、花吹雪に交じって、無数の紙片が飛び散った。
大成功
🔵🔵🔵
日下部・香
◎
連携〇
決戦配備:Cs
英国放送を騒がせた……ああ、何日か前に父さんがそんなこと言ってたな。詳しいところは聞いてないけど、デウスエクスとの戦いに集中しなくて大丈夫なのか? オトナには色々あるんだろうけどさ。
しかし、ちょっと敵多すぎないか!?
数には数だ。【螺旋弓術・黒雨】で【制圧射撃】を行おう。敵の進行妨害と、詠唱の妨害も兼ねてな。これ以上隔壁を壊されるとマズい。
ただ、この技は手数が多い分威力に欠ける。強化魔術の使える人に支援を頼みたいな。
あとは、敵を構成する頁の中に見える魔方陣、もしかしたら弱点かもな。狙ってみる価値はあるだろう(【スナイパー】)。射撃武器を持っている人にもそれを伝えておこう。
ゲートをくぐりった日下部・香(断裂の番犬・f40865)の脳裏を横切ったのはある日の父のぼやきであった。
あれは夕食の席だったろうか。
父は、眉をひそめつつ、箸で料理皿をつつきながら、嘆息まじりにテレビ画面に映し出される英国放送の一幕に顔をしかめたのである。
日下部家の面々は、皆が皆、多かれ少なかれ、DIVIDEに縁を持つ。
香はケルベロスとしての力を有していたし、家族の一員たるオルトロスも同様だ。
香の父母はDIVIDE職員であった。弟の満にしても、ケルベロスという職業に羨望の念を抱いており、いずれはDIVIDEに関連した職に就くだろうことが推測された。
故に、日下部家ではDIVIDE関連の事件が話題に上がることが多かったし、ケルベロス関連の番組がより優先的に
食卓を飾った。
あの日の父は複雑な面持ちで、食い入るように、番組に魅入っていた。
映像をじっと見つめながら、父は、英国におけるDIVIDEの現状は複雑怪奇もよいところだと、ため息まじりに呟くのだった。
香は世情に疎いところがあったが、父が言うには、英国では、DIVIDE関連者による軍閥の様なものが形成され、英国の政治全般に深く根を下ろし、陰に陽に英国政府の方針を決定しているという事であった。
特務機関DIVIDEが国家に影響力を持つという点では他国と差異は無かったが、どうやら英国ではその傾向はより顕著であるとのことであるのだろうと、香は半ば聞き流すように父の言葉にうなづいた。
父は箸で、じゃがいもをつまみ、口元にほおってはふはふと咀嚼すると、再び持論を展開する。
国家の社会機構やDIVIDEとの距離感は対デウスエクスで一致さえしていれば、なんら問題ないものであると父は断言する。
なるほど、DIVIDEにとっての至上命題とは、デウスエクスから人類を守ることにある。
だからこそ、香自身、この父の考え方に強く共感できるものがあった。
その後父は、食事を食べ進めては箸をおきを繰り返し、英国における光と影について語って見せた。
香は、その内容を詳細に覚えていたわけではないが、父が言うところによれば、綺羅星の如く現れた一人の天才によって、英国は驚天動地のありさまを呈しているのだという。
テレビでは、神妙面の報道官が先日の英国放送におけるジョン・フェラーとかいう陰険そうな男を特集し、彼の記者会見での尊大な物言いを酷評した。
番組は、ジョンが罵声を浴びせられながら、記者会見の場を途中退席するに至る顛末が幾度も映像として流され、その後妙にかしこまった報道官による、英国政府からの自国民や国民、DIVIDE関係者に対する遺憾の念の表明にて幕を閉じた。
だが、父は、報道官の言葉に軽く首を左右させると、ジョン・フェラーの失言などは取るに足りないものであると一笑に付す。
本質はジョンにではなく、イギリスの軍部にあるのだと父は箸をおきおき、やや語気を強めた。
英国は強い国だと父は言う。
軍事の天才、ラファエル・サー・ウェリントンの勇躍ぶりによって英国は、国内からデウスエクスを順調に駆逐しつつあると父はやや躊躇いながらも言った。
このラファエルこそが光だと、父は目じりの皺をやや深くしながらも、しばらくの逡巡の後に言った。
しかし、光が増せば増すほどに、落とされる影はより濃くなる。
そして、この影の部分こそが、ジョン・フェラーを背後で操るマーチン元帥にあると父は結論付けたのだ。
正直、話はそこで打ち切られたが、香は、英国における軍首脳陣に関して、なにか煮え切れないものを感じた。
オトナは、様々な事情を抱えているのだろう。だが、現代において、デウスエクスとの戦いに専念せず、内輪もめに明け暮れては、ますますに、平和は遠のくばかりだ。
内憂外患…。受験勉強の折、漢文の授業中に覚えたこの不吉な四文字の漢字が現すように、英国は外敵たるデウスエクスと内なる分裂という二つの課題に直面していると言えるだろう。
ケルベロスは人類を守る刃のはずだ。
ラファエルにせよ、マーチンにせよ、彼らの真意を香が伺い知ることはできなかったが、ケルベロスとしての責務を度外視して行動する二人に香は、眉を顰めずにはいられなかった。
そして同時に思う。
果たして、ケルベロスとして自分にもなにかできることがあるのではないだろうか。
そう考えた時、気づけば、香の足はグリモア猟兵のもとへと伸びていた。そうして、香は、ゲートへと足を踏み入れ、騒ぎの渦中にあるリヴァプールへとむかったのである。
ゲートを潜り抜けた先、広がっていたのはアスファルトの大地であった。
落下際、両の足で力強くアスファルトを踏みしめれば、着地の反動で鈍い痺れの様な感覚が足裏に走った。
香が顔をあげれば、周囲が白一色で覆いつくされていることに気づく。
それはアスファルト張りの側壁や、足場が齎した乳白色ではない。人工的な白に紛れ、優美たる純白が無機質なアスファルト通路には溢れていたのである。
乳白色のアスファルト壁が長く連なる研究室の通路のもと、香を出迎えたのは中空を流麗たる純白色に潤色する、白梅の吹雪であった。
グリモア猟兵の話によれば転送先は、無機質な研究所という触れこみであったはずだ。
実際に、香が舞い降りた空間は四囲やコンクリート壁で覆われた足場をコンクリート床で舗装した、いかにも研究所然とした場所であった。
本来ならば樹木一つ存在しないはずのアスファルト張りの通路は、しかし、この空間とはあまりにも不釣り合いな無数の白梅の花びらにより、爛漫と彩られていたのである。
一瞬、何事かと思ったが、花弁の流れる先へと目を遣った時、香は凡その状況を理解した。
一人でに走り抜けてゆく花弁の目的地には、数多蠢く、歪な竜の姿があった。
竜を正確に定義することは難しかろうが、かの歪たる異形は、紙細工とは言え竜頭と拡翼をもち、外見に関するならば、竜と扱ってよかろうと香は見る。
魔導書の紙片によって体幹や頭部、翼を構成された竜の姿がそこにある。
白梅の花弁が舞う中、竜は紙細工の翼を振り回し、紙片が幾重にも折り重なりあって構築された体躯を、激しく揺すりながら、舞い散る花弁に激しく抗った。
いかなる方法によってか開口を可能としたかは判然としなかったが、紙細工の口元が開き炎の吐息を吐くのが見えた。
竜の口元から炎が巻き起これば、それらは巨大な炎の大腕でもって宙を薙ぎ、数多押し寄せる白梅の花弁を飲み込み、燃え盛る炎柱をひとつ、またひとつと巻き起こした。
今や戦場は、断片竜を襲い掛かる白梅の花弁と、花弁に続き飛び交う銃弾、そして断片竜による火炎の吐息によって、覆いつくされていた。
そして、香は空間を埋め尽くすように飛び交う白梅の花弁は、おそらく仲間の猟兵によるユーベルコードによって生み出されたものなのだろうとすぐに気づく。
戦場の一角に目を遣れば、防壁を挟んで応戦を続けるケルベロス達から一人離れるような格好で、白髪の男性剣士が、敵陣の中で大立ち回りを続ける姿が伺われた。
おそらく、断片竜を切り裂く無数の花弁は、あの剣士が生み出したものなのだろう。
剣士が剣を振るうに併せて、花弁は優雅に断片竜にまとわりつき、一頭、また一頭と断片竜を切り伏せられていく。
彼が凄腕だろうことは疑う余地はない。
とはいえ…いかに彼の個の力が優れていようとも数で勝る相手を一人で圧倒するのは不可能というものだ。
――となれば、数には数で対抗するよりほかない。
香は、周囲を見渡すと、防壁の一角へと走りこんだ。
防壁には魔術障壁が張られているためか、竜より吐き出された巨大な炎の大腕は、防壁を構成する硬い石の表面に触るや、たちどころに委縮し、金粉の火の粉を上げながら虚しく霧散していった。
防壁群に身を隠せば、ユーベルコードの発動までの時間を稼げるだろうとの判断から、香は反射的に防壁群へと身を隠したのだった。
前傾姿勢で疾駆しつつ、勢いそのまま防壁の内側へと滑りこむ。半球状に張り巡らされた防壁群の隅へとそっと腰を落とすと、ついで香は、手にした螺旋弓・穿の弦を指ではじいた。
弦が大きくしなりを上げながら、しとやかな調べを弾奏した。
――手触りは悪くない。
と一人ごちながら、香は、防壁内にて自らに集まったケルベロス達の視線に応えるように声を張り上げた。
「私は、香。一緒に戦わせてもらうよ」
防壁内で窮屈そうに体を寄せ合う六人の男女が目元を柔和に綻ばせ、香へと一揖するのが伺われた。
一人一人へと香は、視線を移してゆく。そうして、防壁の一隅にて銃を構える男へと視線をやったところで、香の視線は男に釘付けになった。
やや目じりの垂れた、二十恰好の男の姿がそこにある。怜悧な輪郭を描く端正な面差しのもと、ほの赤く染まった唇が柔和に綻んでいた。
さらさらとした柔らかな黒髪がたなびいていた。いかにも人のよさそうな、よく整った面立ちが、どこか不思議そうに香へと向けられていた。
もっとも、香は彼の見目に惹かれたのではない。男の放つ魔力量のあまりの少なさにたまらず、目を奪われたのだ。
香は、魔法の類を扱うのは得意ではなく、必然、魔力の探知なども不得手とした。
しかし、そんな香であっても、モデル顔負けの二十恰好の男が、脆弱な魔力を有していないことを感じ取ることができたのだ。
全身をケルベロスの正装たる黒のオーバーコードで包み、魔力の小銃を持った二十恰好のこの男は、それでもDIVIDEの一員としてここで戦っている。
そんな男に、なぜか香は弟、満の面影を一瞬、見た気がしたのだ。
一瞬、呆けた様に香は目を丸くした。
そんな香に気づいてか、二十恰好の男が、ますます笑みを深くする。
「香だな。俺はゆきむらと…」
ゆきむらはそう言うと、隣立つ、内気を絵にかいたような少女へと顔を向けた。
ゆきむらに促されるような形で、少女の内省的な三白眼が香へと静かに向けられる。
「カエシアです――。えっと香ちゃん…?よろしくね…。私も全力でサポートするよ?」
香は、ゆきむらから少女へと視線を移す。
そうして再び、香は目を丸くする。
そう、カエシアと名乗る少女からは、これまた、魔術に疎い香にもわかるほど、桁違いの魔力量を教唆するかの如く、膨大な魔力の波動が絶えずあふれ出していたのだ。
香は不釣り合いな二人組へと交互に視線を遣りながら、さっそく切り出す。
「えっと、それならカエシアさんには魔術での援護を、それからゆきむらさんには射撃武器での援護をお願いできますか?」
言いながら、防壁から半身を乗り出すと香は、鋭い視線でもって断片竜の胸元を指し示した。
「あの魔法陣が敵の弱点かもしれない。それで、ゆきむらさんにはあそこをピンポイントで狙ってもらい。やれそうですか」
二人は香に続き、防壁の縁から顔だけ覗かせ、断片竜を窺った。
そうして敵を暫く観察した後、再び断片竜から吐き出された炎の吐息を合図に、ゆきむら、カエシア、香の三人は再び防壁の中へと首をひっこめると一堂に顔を突き合わせた。ゆきむらが、香へと首肯するのが見えた。
ついで香はカエシアへと視線を移す。
「カエシアさんには、私の援護をお願いしたいんだ。魔術の素養はあるとは思うのだけれど、強化魔術の心得は――?」
「えぇ、得意です、任せてください」
香が言い切るより早く、横一文字に結ばれたカエシアの唇が柔和に開かれた。
内省的な三白眼が力強く見開かれれ、白い花の様な掌がするりと香へと伸びる。
一つ、二つと蒼白い燈火が、カエシアの指先へと続々と灯ってゆく。
そうして五指すべてに蒼白い炎が灯ったかと思えば、焔はゆらゆらと揺れ動き、そうしてカエシアの小さな掌の中で形を変えながら、六芒星を刻印し、蒼白い微光のヴェールを一枚生み出し、香のことを包みこむのだった。
蒼焔のヴェールが香の肌に触れ、溶け込んだ。
とくん、心臓が力強く鼓動した。
体の中で、膨大な力がうごめき、うねりをあげるのが分かった。
うねりはますますに勢いを増し。気づけば巨大な波濤となって香の中で荒ぶりだす。
ユーベルコード発現には、必然、多くのエネルギーを必要としたが、それを遥かに超える力が今、香の中で暴れまわっている。
いかにユーベルコード発動のための出力が大きかろうと、力が無秩序に膨張するばかりであれば、それは単なる暴走に他ならない。あふれ出す力は制御されてこそ、初めてユーベルコードとしての体をなすのだ。
香は、力を必死に制御せんと呼吸を深める。
呼吸の意識を肺から下腹部へと移し、大きく吸って吐いてを繰り返していけば、ふと香の脳裏に、日下部家に住み着いた一頭のオルトロスの少女の姿が去来する。
あの厳格ながらも優しい、姉の様な一頭の獣との訓練を脳裏にて反芻すれば、溢れだした力は一定の法則と秩序のもとに香の中で再構成されていく。
じんと右の手甲に熱い感覚を覚えた。
左手で螺旋弓・穿を支え、矢をつがえるような格好で無手の右手を弓の弦に添える。
右手の熱感に呼応するように、無手の右手の中に現れたのは、黒い光沢を帯びた一本の矢であった。
この矢こそが、ユーベルコードそのものなのだ。
ユーベルコード螺旋弓術・黒雨とは、日下部・香のみに使役することを許された奇跡の御業と言えるだろう。
一矢を放つことで、千をも超える矢が生み出し、これら千を超す破魔の矢により敵を滅する。
相手の数は百五十程度であり、こちらの手数は千を超える。数で勝る敵に対して、手数の多さで対抗するべく、香はこの技の使用を決めたのだ。
もちろん、この技にも弱点もあった。螺旋弓術・黒雨は、圧倒的な手数の多さを誇る反面、質より数を優先する性質上、一矢、一矢の威力はより低いものとなった。
当初、香は、敵の進行妨害や詠唱の妨害を趣意に、友軍援護のため、この技を選択したつもりであった。
だが、今、香は指先に握られた黒矢によって当初の認識を改める。
弦に添えられた黒矢をまじまじと見つめた時、そこには、使用者たる香でさえ、伺い知ることが出来ぬほどの強大な力が秘められているように香には感じられたからだ。
黒矢か顔をあげ、ついで香が防壁の縁へと身を寄せ、前方を窺えば、絶え間なく放たれた炎の吐息が、束の間、途切れていることに気づいた。断片竜は、舞い散る白梅の花弁に翻弄され攻め手を弱め、結果、一瞬の空白がここに生まれたのである。
この瞬間を好機と言わずして、なにが好機と言えるだろうか。
香は、ゆきむら、カエシアの両名へと目合図すると、立ち上がり、そのまま防壁の外へと身を乗り出した。
「射ち、写し、穿つ――」
背を直立させ、黒矢を固定した右指先を後方へと引いてゆけば、弓の弦が軋みを上げながら、弧を描くようにして伸長する。
ただ、両の眼で群がる断片竜を見据えつつ、胸を限界まで大きく開き、黒矢を引く。弓射の姿勢を保ったまま、右の母子、第二指、中指で弓矢を力強く固定する。
指先の黒矢は解放の時を求めて、ぎしぎしと悲鳴をあげていた。
それでもなお、指先の力を決して緩めることなく、香は矢を解き放つべき瞬間を静かに見定める。
目前の断片竜の群れが、全身と共に紙細工の口もとをわずかに開くのが見えた。
「――天を衝き、地に降る。此は、黒き雨なり」
半ば無心で言の葉を紡ぎ、矢を放つ。
右三指が力を緩め、矢羽根を離れれば、拘束を解かれた黒矢が前方へとするりと滑り出す。
張りつめた弦はたわみ、ついで鋭い矢尻が轟轟と唸りを上げながら空を切り裂いた。
黒い靄のようなものが、長い尾を曳きつつ、断片竜目掛けて一直線に空を駆け抜けてゆくのが見えた。黒矢は今、黒い疾風とも、黒い獣ともつかぬ、一陣の黒い閃光となって空を切り裂いたのだ。
矢は瞬く間に香のもとから遠ざかり、一息の間に、香と断片竜とを隔てる空間を半ば程まで走り抜けた。
そうして、勢いよく空を走り抜けていったかと思えば一転、激しく動揺し、粉々に砕け散るのだった。
無数の砕け散った矢の破片が、黒点となって宙にばらまかれた。しかし、砕け散った矢の破片は、砕けても尚、重力に抗いつつづけ、地面に落下することなく、それぞれが全く野放図に空を彷徨いだす。
ある破片は上空へ、また別の破片は左方へといった具合に、黒点の群れはまるで命でも持ったかの様に無軌道に、空へと広がってゆき、そうして、しばしの揺曳の後、形状を一変させるのだった。
破片は、見る間に質量を増してゆき、一片一片が、当初放たれたと同じ黒い矢へと変貌した。
結果、砕け散った矢の破片は、千を上回る大量の矢へと姿を変え、空間を埋め尽くしたのである。
ここに驟雨の如く降り注ぐ、無数の矢が顕現された。
そして、無数の矢は、白梅の花弁により彩られた通路を縦横無尽に走り抜けながら、時に幾何学模様を描き、時に、直線軌道そのままに、断片竜たちに鋭い矢尻を突きたててゆく。
無数の矢が紙片で構成された翼を穿ちぬけ、魔導書制の体を刺し貫いていく。
紙細工の竜は血を流すことはなかったが、斜に降り注ぐ矢の豪雨の前に、よろめき、後ずさり、地団太を踏んだ。
無数の弓射により断片竜は、完全に浮足立った。彼らは前進の足を止めて、完全に防戦へと追いやられる。
断片竜は、炎の吐息でもって、自らに迫る矢や、降り注ぐ白梅の花弁、更にはケルベロス達の放つ銃撃に対応する。
紅い炎の大腕が白い花弁を薙ぎ払い、ぱちぱちと火の粉を爆ぜた。しかし、幾重にも重なった白い花弁は続々と焔のもとへと押し寄せ、竜の放った火炎を消火する。
結果、虚しく散りばめられた金粉と、金粉の間を縫うようにして降り注ぐ黒い雨滴とだけが残った。
無数の矢は、焔に守られることなく完全に無防備をさらけ出した断片竜を撃ち抜いていく。
一矢、また一矢と矢じりが断片竜を突き刺した。
矢撃に交じり、ケルベロスの放った銃弾が、よろめく断片竜の両翼を打ち抜き、頭部や心窩部を吹き飛ばしてゆく。
香の予想通り、心窩部を撃ち抜かれた断片竜は、もはや性状を保つこと叶わず、力なく崩れ落ち、ばらばらの紙片となって四散していく。
驟雨の如く降り注ぐ矢に穿たれ、一体、また一体と断片竜が崩れ落ちていくのが分かった。
続々と数を減らしてゆく断片竜を尻目に、香は、掌を力強く握りしめると、再び防壁へと身を隠し、ゆきむら、カエシアの両名のもとへと舞い戻る。
無事な香を前に、ゆきむらたちが安堵の吐息をつくのが見えた、
すかさずに返ってきた二人の笑みに応えるように、香は今度は、弓袋から木製の矢を一本取り出すと、再び弓につがえる。
「さぁ、このまま一気に押し切ろう、ゆきむらさん、カエシアさん」
香は、声を弾ませる。
そんな香の声に応じるように、ゆきむらが射撃で、カエシアが魔術によって断片竜へと攻勢を仕掛けた。
戦場を舞う無数の矢により、ここにデウスエクスは前進を完全に停止したのである。ここに戦いの趨勢は大きく猟兵側へと傾き、戦いは次の局面へと移行してゆくのだった。
大成功
🔵🔵🔵
暗都・魎夜
【心情】
連中の侵略が止まらないというのはまあこの際何も言わねえが
こういう研究施設を襲うってのはいただけねえぜ
【決戦配備】Cs
魔術結界でページドラゴンの移動を封じる
「よっ、この間ぶり」
【戦闘】
似たような奴はうちの世界でも見かけたが、こいつらはガチのドラゴンってことか
実質魔術で構成された肉体を持ち、そこから使役する竜牙兵もブレスも中々脅威だな
竜牙兵の追尾は悪路に誘い込み、「足場習熟」「ダッシュ」でおびき寄せる
「斬撃波」で付近の照明を破壊しつつ「暗視」で移動
「地形の利用」でドラゴンを誘い込み「召喚術」「全力魔法」のUCを発動
「知識はやれそうにねえが、代わりにこいつを受け取ってくれ」
ゲートを潜り抜けた先、暗都・魎夜(全てを壊し全てを繋ぐ・f35256)が降り立ったのは、がらんどうと開けたコンクリート張りの通路であった。
グリモアは目的地は地下研究所といっただろうか。
どうやら、研究所の棟と棟とを連結させる回廊部分へと魎夜は降り立ったらしい。
着地ざま、前かがみになった体勢を整え、周囲を窺えば、狭いコンクリート通路にて、友軍が敵デウスエクスと激しく干戈を交える様が視界に飛び込んでくる。
魎夜は、両手を合わせる。
ぽきぽきと指の骨を鳴らしながら、周囲の状況を子細に観察する。
近傍から遠景へと向かい視線を遣れば、広々とした空間には、ドームの様な防壁群がいくつも立ち並んでいることに気づく。
白いなめらかな胸壁をそびやかす防壁群のもと、一つの防壁群につき、四、五人のケルベロスが身を寄せ合うようにして息をひそめていた。
友軍は、統一された漆黒のオーバーコートに身を包み、小銃を両手で構えながら、防壁の縁より、営々と射撃を繰り返していた。
打ち出された銃弾は、通路奥より押し寄せる、断片竜ページドラゴンなる異形の竜と、彼らが使役する白骨で構成された人型のデウスエクスを時に掠め、時に撃ち抜いてゆく。
打ち寄せる銃弾の嵐の中に身を置いても尚、デウスエクスらは、横列を崩すことなく、一糸乱れぬ連携のもと、潮が満ちてゆくようにひしひしと前進を続けていく。
彼らは、麾下の竜牙兵を盾として自らを守らせ、火炎の息でもってケルベロス達に対峙した。
銃弾に穿たれ、竜牙兵の白骨が砕け散り、灰白色の破片を巻き上げた。
ぱらぱらと舞い散る骨片は、しかし、赤い焔の中で瞬く間に焼き払われていく。
紅く揺らめく視界のもと、白骨化した友軍の遺骸など気にも留めることなく断片竜たちは吐きだした焔とともに
勇往と歩を重ねていく。
暴君そのもの歩を刻む断片竜たちの偉容は、なるほど竜を冠するに相応しいものであった。
断片竜ページドラゴン、紙片と魔術によって構成された、異形の竜は、実質的には魔術で構成された肉体を持つと見るのが適切であり、その脅威の程は、一匹一匹が竜と買わぬものであろうと推察する。
魎夜は断片竜の武器を、竜牙兵、そして火炎の息とみる。
現状、断片竜は竜牙兵を自らの護衛一辺倒で行使していたが、むしろ魎夜は竜牙兵は、攻勢の際により脅威となるだろうと見る。
更に、断片竜の炎のブレスはなるほど、かなりの威力を誇るだろうことが戦場の端からでも、はっきりと察することが出来た。
炎を回避する事などはこの狭い足場では不可能に近い。戦場が狭小であるという事より津波のごとく襲い来る炎は、防壁群という堤防によってはじめて遮られることが可能になるのだと見る。
まったくもって、厄介な相手だと思う。
断片竜の火の息により、現状、ケルベロス達は、必然、防壁群を挟んで相対する事を余儀なくされていた。
じっと魎夜が前方を見据えていれば、再び、断片竜の口元より、火の粉があふれ出すのがみえた。
断片竜の口元が開口されれば、赤黒い塊が吐き出される。
焔の吐息だ。
竜の口元より勢いよく吐きだされた炎の吐息は、禍々しげな赤黒い舌を乱暴に振り回しながら、立ち並ぶ防壁群を巨大な炎の大腕で抱擁する。激しく火の粉が舞い上がり、そのたびに乳白色の胸壁には黒い染みの様なものが浮かび上がる。
しかし、いくら胸壁に黒染みが増えようとも、防壁群は決してぐらつくことなく、堅固に立ちはだかった。
直撃すれば灰と化すだろう地獄の業火は、防壁群によって堰き止められ、徐々に勢いを落としていく。
炎が鳴りを潜めていく中、ケルベロス達は防壁群の中で銃弾の装填を行い、火勢が衰えたところで一斉に防壁群から身を乗り出すと、小銃の斉射によって断片竜へと散弾を雨あられと浴びせるのだった。
防壁群の縁より、小銃の砲身が顔を覗かせれば、銃列は一斉に火を噴き、魔力を帯びた弾丸の嵐が、断片竜たちを貫いていく。
友軍のケルベロスに交じって弓射にて断片竜を撃ち抜く者や、剣にて一体、また一体と断片竜を切り伏せていく者の姿も見受けられた。
二人の活躍もあってか、ケルベロス達は戦線を維持し、優勢に保っているようだった。
事実、断片竜は、今、ほぼ身動きできぬままに、銃弾や弓射、白梅のごとく舞う剣の一閃によって、続々と数を減らしていく。
両軍の動静から判断するに、戦況は友軍がやや有利といったところだろうか。
とはいえ、状況は予断を許さない。
先の懸念通り、断片竜が竜牙兵を攻勢のために使用すれば、味方の優勢は容易に覆されるだろう。
今、ケルベロス側は強力な防壁に身を守られることで、攻勢に意識を傾注させることが出来ている。
防壁という障壁がうまく機能することで、ケルベロス達は敵の接近を未然に防ぎ、攻勢により、敵を屠っているにぐしない。つまりは防壁の崩落と共に戦況は一変する。
魎夜が防壁の一つに見遣れば、半球状に巡らさられた乳白色の胸壁には褐色の焦げ目がこびりついていたが、ほぼ損傷らしい損傷は見受けられなかった。
乳白色の壁面には魔術文字が刻印されており、そして魔術文字に沿う様にして、乳白色の壁面を一層の蒼白い魔術による障壁が覆っているのが分かった。
この場の何者かが、防壁に魔術を施すことで、ただのコンクリートの防壁は、灼熱の業を遮る金剛盾と変貌したのだ。
では、魔力の発生源はどこか。果たして誰がこの魔術障壁を生み出しているのか。
魎夜は、空間を支配する魔力の流れへと意識を向ける。
胸壁の表面に張り巡らされた薄氷の様な魔術障壁より、蒼白い帯の様なものがたなびいているのが分かった。
帯状に漂う魔力の微光は、戦場の一点へと流れ、収束してゆく。
魔術の流れを追う様に、戦場の一角へと目を向ければ、そこには、魎夜の良く知る少女の姿があった。
やや目じりの垂れた三白眼に、丸みのある小さな鼻梁が小顔の中に理路整然と配置され、童女の様な面差しを形成している。
カエシア・ジムゲオアの姿がそこにある。かの少女は前方へと右手を伸ばし、一心不乱に魔術障壁の形成に意識を集中させているようだった。
彼女が静かに肩を上下させるたびに、白磁の頬を汗の雫が流れ落ちた。
この二十にも満たない少女が、ただの一人ですべての防壁群を支えているのだ。
つまり、この拮抗状態はカエシアにより維持され、そして彼女の喪失と共に失われる。
悪辣な想像だが、仮に、自分が慈愛や道徳観といった人間の善性の一切合切をかなぐり捨て、ただただ効率性を重視して戦いに臨む悪鬼であったとすれば、間違いなくカエシアを第一に標的とするだろう。
そして、魎夜が対峙するデウスエクスは無慈悲たる侵略者であり、ただ合理性のみを追求して暴虐の刃を振り下ろす、無機質な悪魔なのである。
彼らの飽くなき征服欲や侵略の熱意に関しては、あえてこの場では、発言を差し控えよう。
だが、魎夜は、病院施設や研究施設などを標的にした、いわば銃後の人々に焦点を絞った彼らの卑劣な行為をも、糾弾もせずに寛容と見過ごすつもりは無い。
研究施設を襲うってのはいただけねえ。
ましてや…敵が子供を狙うというのならば、魎夜は一切の慈悲なく敵を駆逐するだろう。
カエシアが身を隠す防壁群のやや後方にて、虚空にてなにかがぼんやりと浮かび上がるのが見えた。なにかの影が中空に姿を現したのである。
曖昧な影は徐々にその輪郭を明らかにしていく。
ふと薄汚れた白骨が、虚空よりするりと姿を現した時、既に魎夜は勢いよくアスファルト床を蹴り上げていた。
カエシアは防壁の形成に意識を集中させていたし、同じ防壁内で身を寄せる、ゆきむら、友軍のケルベロス達もまた、前方より押し寄せるデウスエクスの対処に終始し、後方の異変に気付く素振りも無い。
魎夜はアスファルト床を疾駆する。魎夜が疾駆する間に、虚空より一体の怪異が姿を顕現させる。
竜牙兵、肉の削ぎ落ちた、白骨のみで構成された骨標本の如き怪異が、中空より突如姿を現したのだ。竜牙兵が手にした剣をカエシア向けて振り上げても尚、カエシアを始めとした防壁内の面々の意識は竜牙兵の埒外にあった。
銀色の軌跡を描きながら、剣の切っ先が天井を睨み据えた。
竜牙兵がすり足で一歩一歩とカエシアへと距離を詰める。ついぞ、無慈悲な白刃が、カエシアの無防備な背中を剣戟の間合いに収めるまでに迫る。
ぴくりと剣先がわずかに振動し、剣が振り下ろされんとする。
しかし――。
魎夜の体が竜牙兵に立ちふさがるような格好で、カエシアと竜牙兵との合間に割り込んだ、
まさに間一髪のところで、魎夜は竜牙兵の懐に飛び込んだのだ
「よっ…!」
後ろ立つカエシアへと軽やかに声を掛けると、魎夜は疾駆の勢いそのままに、右足を軸足にして大地を力強く踏みしめ、腰をわずかに捻る。
肘を引き、脇を締める。腹横筋や腰臀筋、更には体幹筋に力を蓄えつつ、目の前の竜牙兵の懐へと狙いを定めた。
息を吐きだし、ついで全身蓄えた力を絞り出すように開放する。
臀部から体幹に至るまでの筋群は一斉に伸長し、ついで魎夜の右拳が竜牙兵の心窩部を守る肋骨群へとめり込んだ。
「あっ…」
魎夜の背中越しにカエシアの驚嘆の声が聞かれた。
魎夜は、彼女の声に耳だけやりながら、そのまま勢いよく拳を振りぬいた。
突き出した拳が竜の心窩部を覆う肋骨群を打ち抜き、そうして、白骨化した竜の心窩部をえぐりぬいた。
魎夜の拳に骨を断つ確かな手ごたえと共に、熱感の様なものが走るのが分かった。振り上げられた剣が、竜牙兵の掌から力なく零れ落ち、乾いた音を上げながらアスファルト床に横たわる。
眼球の存在せぬ、空洞と化した竜牙兵の眼窩に灯った蒼白い炎が消失するのが見えた。
拳には心地よい掻痒感が走っていた。魎夜は弧を描くようにさらに半ば程腰を捻り、勢いよく拳を振りぬいた。
拳に煽られて竜牙兵の巨躯が、軽やかに宙に舞った。
巨体が、勢いよく後方へと飛びのき、暫く揺曳した後、物言わぬ白骨となってアスファルト床へと沈んでいった。
顎を引き、後方へと顔だけやりながら、魎夜は良く見知った二人へ目合図する。
仰天気味に見開かれたカエシアの三白眼が柔和な光を帯びて輝きだし、ついで半ば放心したように立ち竦むゆきむらが、そそくさと敬礼するのが見えた。
そんな二人を交互に見やりながら、魎夜は鷹揚と言って見せる。
「この間ぶりだな、お二人さん…!」
白い歯を光らせながら魎夜が言えば、ゆきむら、カエシアの両名が相好を崩した。
魎夜は、すぐさまに二人の隣に並び立ち、早々に挨拶を打ち切ると、てきぱきと指示だしを開始する。
「こんな風に五月雨式に竜牙兵を召喚されたらたまったもんじゃない。俺の方で敵を一気に片づけてくるぜ。それで、敵を誘い込みたい。結果術で障害物を作り出して貰っていいかい?通路の右端に敵を追い込むんだ」
「は…はいっ!」
魎夜が告げれば、カエシアの薄桃色の唇より素っ頓狂な声が上がった。
緊張気味に背を直立させるカエシアへと、魎夜は苦笑で返事を返すと、防壁の縁に手を掛けて、軽やかに身を乗り出した。
「それじゃあ、いってくるぜ。お二人さん、くれぐれも無茶はしないようにな。それと…ちょっとばかし、周りが暗くなるかもしれねえが、まぁ許してくれよ」
不敵な微笑と共に端的にに告げる。
そうして魎夜は、二人を尻目に、銃弾飛び交う戦場を斜めに駆け上がっていく。
カエシアの張り巡らされた結界により、断片竜は不可視の檻の中に身を閉じ込められたようで、身もだえ始めた。前進しようとも行く手を不可視の障壁に遮られ、結果、竜牙兵は押し出されるような格好で、通路右端へと続々と群がってゆく。
魎夜は、群がる断片竜たちの前へと躍り出ると、仁王立ちして彼らの進路を防ぐ。
竜たちの前へと右手を伸ばし第二指を一度、二度と折り、挑発気味に笑ってみせる。
果たして、竜牙兵と断片竜たちは魎夜目指して、一斉に押し寄せる。
狭い通路をへし合い押し合いしながら走りあがってくる大量の敵を前に、魎夜はますますに笑みを深めた。
今、地の利は魎夜にある。
狭隘な空間においては、大兵力は時と足かせとなる。
正面戦力は必然的に限定さたし、数の多さが、軍団の統率性に乱れを生むためだ。
事実、魎夜のもとへと押し寄せる敵達は、狭隘な空間にて、互いに激しく身をぶつけ合うことで、明らかに前進の速度を落としていた。部隊間の連携も失われ、敵は部隊というよりは個々に魎夜へと襲いかかるような惨状ぶりを呈していた。
押し寄せる竜牙兵の第一陣が、魎夜を無数の白刃でもって強襲した。
白刃の軌道を両の眼でしっかりと見極める。直線的な軌道で自らに迫る竜牙兵の剣戟は、魎夜にはあまりにも単調にすぎた。
刀身が魎夜の髪先に触れたまさにその瞬間、魎夜は僅か半身程後方へと飛びのいた。
目の前を銀色の閃光が掠めていくのが見えた。
鼻先に吹き付ける心地よい微風に、魎夜は口端を綻ばせながら、ついで、自らに左右から迫る二の太刀、三の太刀に備える。
身を屈め、左方へ、そして右方へとジグザグに疾駆すれば、魎夜へと迫る白刃は、魎夜の頭上すれすれを掠めながら虚しく空を切る。
竜牙兵の側方を走り抜けながら、曲芸師よろしく、アスファルト張りの側壁の上を壁走りして、自らへと迫る四の太刀、五の太刀を容易にいなしてみせる。
大地と水平位を維持したまま、アスファルト壁を走りぬけ、愛刀『滅びの業火』の斬撃波で天井の白色灯破壊する。
剣の刀身をそっくりそのまま投影した衝撃波が、白色灯に触れるたびに、ガラス片が砕け散り、銀紛をまき散らした。
一つ、また一つと白色灯より光が失せ、周囲へと薄闇が立ち込めていく。
速度を落とすことなく、側壁を走り抜け、そうして、魎夜は群がる断片竜の中へと舞い降りた。
着地ざま、滅びの業火を左右に薙ぎ、居並ぶ断片竜を切り伏せる。
そうして足場を確保し、アスファルト床へと舞い降りるや、魎夜は四囲を埋め尽くす断片竜たちへと不敵な笑みを向けた。
「悪いな、知識はやれそうにねえが、代わりにこいつを受け取ってくれ」
断片竜が鋭い視線でもって、一斉に魎夜を刺し貫いた。
紙細工の口元より赤黒い炎の舌が伸びている。爆ぜた火の粉が、薄闇の中で、煌めいていた。金粉となった火の粉が空を優雅に泳ぎ、魎夜の頬をざらりとした感触で撫でた。
四方八方を敵に囲まれている。飛んで火にいる夏の虫とはまさにこの事だろう。
だが、残念なことに魎夜へと迫る火勢は、虫の一匹も殺せぬほどに微々たるものであった。むしろ、この死中に身を置くことこそが、魎夜にとっての最善の位置取りであったのだ。
魎夜の接近を未然に防ぐことが出来なかった時点ですでに断片竜の未来は決したのだ。
魎夜は愛刀『滅びの業火』を鞘に納めると、ついで、右拳を前方へと突き出した。
赤漆で塗られたような、紅玉色を湛えた手甲が優艶と輝いていた。
手甲『魔召機甲イグナイトバイザー・ツヴァイ』とは、魎夜にとっての枷とも言えるだろう。
無限にも近い力を身に宿す魎夜の魔力はこの手甲によって、幾分も制限されていた。
ここに、魎夜は自らの力の片鱗を解き放つことを決めたのだ。
「――ヴァンパイアストーム」
魎夜の声音が薄闇で閉ざされた空間へと響き渡った。
魎夜の声に従う様に朱色の手甲に、黒い斑点の様なものが一つ、また一つと浮かび上がってゆく。
ぞわりと、空気が震えだすのが分かった。
軋みをあげる大気のもとで、手甲に浮かび上がった黒斑はますますにその数を増やしていき、ついに朱色を完全な黒色で塗りつぶすのだった。
そうして手甲が黒一色に塗りたくられて赤みを一切失ったまさにその瞬間、手甲の上の黒班の一つが心地よげに収斂しだし、ついで、中空へと向かい優雅に浮かび上がった。
手甲に浮かび上がった黒斑が、続々と空へと続々と舞い上がってゆくのが見えた。
黒班は、空へと浮かび上がるや、ついで立体的な膨らみを持ち、黒い球体となって空を揺蕩った。黒斑はますますに手甲を離れて空へとあふれ出してゆき、空間を無数の黒い球体で埋め尽くすのだった。
突如、球体から黒い翼の様なものが一対、羽を伸ばした。
羽に次いで球体に、耳や牙の様なものが塑像された。鋭い目が象嵌され、両の足が形成され、球体の中央部にくびれが生じ、球体は大蝙蝠へと姿を変えていく。
魎夜の手甲より黒斑が絶え、かわって、その表面が再び赫々と輝きだすとき、周囲の空間は、濃い黒色を湛えた数多の大蝙蝠によって埋め尽くされたのである。
魎夜は、右手の指先を擦り合わせて、軽やかに指を鳴らす。
軽やかな指音に従う様に、溢れだした大蝙蝠は、勢いよく羽をはためかせながら低空を滑空し、群がる断片竜へと猛然と襲い掛かった。
大蝙蝠は四、五体で群れをなしながら、断片竜へとまとわりつき、断片竜の皮膚とも言うべき紙片を鋭い牙でもって串刺しにする。
無数の牙が断片竜を食み、彼らの血液とも言うべき魔力を吸い出していけば、断片竜を支える魔力はたちどころに失われ、ぐずりと断片竜が崩れ落ちていく。
大蝙蝠が断片竜を覆い隠し、牙を突き立て血を啜る。
彼らが吸血に満足し、断片竜の元を飛び去っていけば、まるで魔法かなにかにかかったように、紙細工の竜は崩れ落ち、変わって無数の紙片が宙を舞った。
魎夜を中心にして、大蝙蝠の群れは放射状に通路の外壁へと向かい飛翔していった。
吸血蝙蝠の名が示すように、彼らが通り過ぎた後には、血液とも呼ぶべき魔力を吸血され、体躯を支える事叶わずに絶命した断片竜の残骸が、紙吹雪となって虚しく舞い散るだけだった。
断片竜の消滅に伴い、主を失った竜牙兵もまた、白骨となってアスファルト床に崩れ落ちていく。
大蝙蝠の群れが、不気味な黒い旋風となって飛び去っていった後、魎夜の周囲にはすでに竜の姿はなく、かわって、白骨と紙片とで堆く築かれた小山だけがアスファルト床に姿を現した。
魎夜を追い、狭隘な通路へと足を踏み入れた断片竜と竜牙兵の一団は、吸血蝙蝠の一団により魔力を奪われ、物言わぬ紙片と白骨へと姿を変えたのである。
紙片で出来た小山を飛び越え、魎夜はカエシア、ゆきむらが待つ防壁の中へと舞い戻る。
「実はこの技、結構得意技なんだぜ」
魎夜が鼻を鳴らし、冗談めかすように二人へと言って見せれば、ゆきむら、カエシアがおかしそうに微笑んだ。
ヴァンパイアストームにより、敵陣の一角は、完全に切り崩された。防壁越しに前方を窺えば、当初、数百を数えた断片竜は大きく数を減らし、長く連なった横陣は切れ切れに切断されていた。
「あと一息…。この調子で研究所を守り抜こうぜ」
立ち上がりざま、二人に告げると、魎夜は防壁を辞して、敵陣の一角へと突貫する。
再び、剣を振りかぶり、断片竜の一体を切り伏せた時、ふと後方でなにか巨大な力が奔騰するのに魎夜は気づいた。
この力により、戦いは終息へと向かい一挙に加速してゆくのだろうと半ば確信しつつも、魎夜は、決して攻め手を緩めることなく、ますます激しく、戦いの中に身を投じてゆくのであった。
大成功
🔵🔵🔵
エクレア・エクレール
◎、Cs
少しばかり遅れてしまったようじゃな。
この前は隔壁を破る仕事じゃったが、此度は防壁を守る仕事か。
任された。あのような薄紙の輩にここからは1枚たりとも破らせはせぬとも。
しかしここで|雷《力》を用いては施設に如何なる影響が出るか分からぬな。
まずはあやつらを追い出すとしようか。
カエシアという者に施設の内壁の防護を依頼。
たまには嵐の神殿に属する者としての力を見せよう。
《十字槍》を敵に向かって構え、大兄より授かりし《嵐のルーン》の力を発現。
敵どもを施設の外へと吹き飛ばそう。
外へと出たなら、存分に力を振るえる。
《十字槍》で薙ぎ払い、《雷霊剣》や《雷霊鎖》を解き放ち、《纏雷》をもって打ち据えよう。
乳白色を湛えたアスファルト床に、無数の紙片が乱雑に散らばっていた。
エクレア・エクレール(ライトニングレディ・f43448)が紙片の一つを見下ろせば、ミミズがのたくったような風変わりな筆跡で、紙面一杯を埋め尽くすように魔術文字が綴られていることに気づく。
転送先のアスファルト床には、ほつれた魔術書の束が足の踏み場もないほどに散乱し、通路の至る所に小山を築いていたのである。
天井では、砕け落ちた白色灯のもと、剥き出しになった照明が、弱弱しげに明滅を続けていた。
紙片に埋もれたアスファルト床には、黒い瘢痕がこびりつき、欠損や陥没が至る所に散見された。
通路を両脇から挟む、アスファルト張りの側壁には、熱傷の痕を彷彿とさせる爛れた黒ずみが滲みだしており、それら黒ずみと並走するように、壁面には深々とした断層が顔を覗かせていた。
散乱する魔導書とはデウスエクスのなれの果てであり、通路の被害はデウスエクスとケルベロスとによる激しい戦いによってもたらされたものであろう。
少し出遅れてしまったようじゃな、と内心で独り言ちりつつ、エクレアは手にした十字槍を肩に担ぎ、蜂蜜色の瞳をそっと細める。
前方を窺えば、友軍のケルベロスが、分厚い防壁を挟んで敵デウスエクスと対峙する様が伺われた。
ケルベロス達は銃列を作り、絶え間ない銃撃でもってデウスエクスに応戦していた。
銃弾の行く末に、断片竜ページドラゴンなる魔導書によって全身を構成する異形の竜の姿が伺われた。
数多折り重なった紙片の束が、竜を彷彿とさせる猛々しい体幹部を塑像していた。紙片が疎と密をなしながら組み合わさることで、凹凸のある立体的な竜の顔面部が形作っている。縦に連なった魔術書の束は、ふくらみのある拡翼を構成し、それらが紙細工の体幹部をゆったりと覆っていた。
敵は、紙切れで作られたとは言え、竜の名を冠するに足る最低限の風格を備え、竜とみるになんら違和感のない姿形を象っていた。
いかなる機序によって魔導書が竜の形を保っているのかは判然としないが、通路に数多押し寄せた紙細工の竜は、口元から吐き出す火炎の吐息でもって、対するケルベロス達は小銃の斉射によって互いにしのぎを削っていた。
エクレアが、順繰りに戦場の要所、要所へと視線を移していけば、猟兵なる異能の戦士たちが、計三名ほどエクレアの視界を横切った。
ケルベロスと猟兵との奮戦により、すでに断片竜は進撃を阻まれ、数を大きく削がれているようで、控えめにみても戦況は友軍側優位に大きく傾いていた。
それでもなお、予断を許さない。
敵デウスエクスは一体一体が精鋭であり、少しでも気を抜くようなことがあれば、エクレアたちが守るべき格納庫はたちどころに火の海の中に沈むだろう。
エクレアが肩越しに後方を窺えば、格納庫へと向かうに従って道幅を狭めていく長廊下のもと、出口部分に分厚い鋼鉄の隔壁が一枚、降ろされている事に気付く。
隔壁の先にはグリモア猟兵の言う格納庫が存在するのだろう。敵はそこに収納された新型機とやらを狙っているのだ。
隔壁をそうやって見つめるにつけ、ふと、エクレアの脳裏を先立つ戦いの光景が掠めた。
つい先日、エクレアは山村防衛の任についたが、その際にはエクレアは敵工廠部の破壊、ひいては隔壁破壊を一手に引き受けた。それが一転、今度は隔壁の防衛を任されたのだ。
奇妙な偶然とでもいおうか、状況が破壊から防衛へとまるっきり立場が入れ替わったが、再びエクレアは隔壁を前にして佇んでいた。
エクレアは隔壁を背を向ける。
そうして仁王立ちすると、任すがよい――と、一人、隔壁群へと向かいうそぶいてみせる。
破壊するにせよ、守るにせよ、やることは大きくは変わらない。
ただ敵デウスエクスを討伐することに意識を傾注させるだけのことだ。
エクレアは再び前方へと視線を戻す。そうして、移動のルーンを開放すると、自らの目的地たる防壁群の一隅へと見やる。
防壁内では、計六人のケルベロスが隊を組み、相互支援のもとで、射撃を繰り返していた。
彼らは防壁の影に身を隠しながら焔の息をやり過ごし、火勢が衰えたところで、防壁より一斉に姿を現すと、断片竜へと無数の銃弾を見舞った。
群がる銃弾は、黒い敷物となって空を覆い、飲み込むように断片竜へと殺到した。
弾丸の一撃、一撃の威力は微々たるものであったが、間断なく放たれた弾丸は、点では無く面を構成し、断片竜へと襲い掛かり、表皮を構成する紙片を続々と撃ち抜いていった。
銃弾の嵐は断片竜の表皮部へと深々と突き刺さり、彼らの皮膚たるページ片を次々に突き破ってゆく。
結果、断片竜は押し寄せる弾幕に圧排されるような格好で半歩ほど後ずさり、そうして再び態勢を整えるべく足を止めるのだった
ケルベロス達による高度な連携や、射撃の精度の高さはなるほど見事である。
しかし、反面でエクレアは、このまま永遠と睨み合いに徹し、徒に時間を消耗する事を良しとは考えなかった。
エクレア掌を擦り合わせれば、蒼白い糸のようなものが掌から零れだした。
蒼白い糸は乾いた音を上げながら、しばし、宙を揺蕩うも、雷の余韻をわずかに空中に残し、すぐさまに空気の中へと溶け込んでいく。
エクレアは目をむき出し、断片竜の一団を睨み据える。
数は二、三十体といったところだろうか。雷と嵐の力を開放すれば、容易く蹴散らすことが出来るだろう。
問題となるのは敵の数では無い。エクレアが危惧したのは、通路で雷力を使用した際の、研究施設への影響についてであった。
エクレアが使役する電の力は常軌を逸した威力を誇る。
精密機械と雷とが、相性が悪いのは、周知の事実である。
エクレアが雷の力をなんの考えも無しに振るった時、精密機器類の結晶とでも言うべき新型人型決戦兵器にいかなる被害が出るかは定かでは無かった。
新型機防衛の任に付きながら、防衛戦の余波で新型機を破壊してしまうなど、本末転倒も良いところだ。
故に、エクレアは、新型機への被害を可能な限り小さくするために、結解術を得意とする少女のもとへと急行したのである。
「おぬし、名をカエシアといったかの? すまぬが、施設の内壁をまもって貰えぬかの。わしの雷撃は加減を知らぬゆえに」
高速の一歩と共にエクレアは、カエシアの隣へと一息の間に到着した。
カエシアの左手に立ち、幼げな相貌へと視線を落とす。そうしてさっそく要件を切り出せば、突如現れたエクレアに驚いてか、カエシアが目を丸くするのが見えた。
カエシアはしばし、呆けた様にエクレアを眺めていたが、すぐに状況を飲み込んだようで、エクレアの進言にゆっくりと首を縦にふる。
「わかりました――。今…周囲に結界を張り巡らせました――。天井壁以外は私の魔術防壁で包んでいます…。狙うのなら――天井を」
カエシアが円らな三白眼をゆっくりと上転させた。左右および足元、更には後方の壁面に沿って魔力が一層の薄い皮膜となって張られている事が分かった。
魔術障壁の埒外にある天井壁だけが、心もとないコンクリートの壁面をそびやかしていた。
うむとエクレアは一頷きでカエシアに応じると、防壁の縁へと向かい、つかつかと歩を進めていく。
歩きざまに移動のルーンを開放すれば、靴裏を焼けるような感覚がひた走った。
焼けるような感覚は靴裏から這い上がるようにして、下腿部へと広がり、膝部を冒し、両の太ももへとせりあがってゆく。
薄紙の輩などなんぞのものであろうか。
竜の偉容を誇ろうとも、迸る雷の前では敵は、紙切れ同然である。
エクレアは陽気に口端を持ち上げ、右の大腿を屈曲させる。
背を屈め、前傾姿勢を取り、踏み込んだ右足を軸足にして疾駆の体勢を整える。
右足でもって力強く足元を踏み知れば、確固たるコンクリートの足場は泥かなにかのように沈み込み、華奢なエクレアの右足がコンクリート床に深々とめり込んだ。
地面へと沈み込んでゆく靴裏より、青色と紫色とが混淆した光の泡沫が、溢れだしていくのが分かった。
両の足に力を蓄えたままに、エクレアは通路先の断片竜たちを睨み据えた。
数多降り注ぐ銃弾は、紙細工の両翼によってそのほとんどが弾かれ、乾いた音を立てながら、アスファルト床へと力なく落ちていく。
紙片で構成された翼と見え、その実、翼には魔術が施されているのは一目瞭然だ。
生半可な攻撃では紙片を貫通することなどできはしないだろう。
銃撃が鳴りを潜め、空間を埋め尽くしていた黒々とした弾幕の嵐が刹那の間、途切れた。銃声の絶えた長通路のもと、隊伍を組んだ断片竜の一団が、羽を広げ、首元を前方に突き出すのが見えた。
断片竜が紙細工の口元を一斉に開く。魔導書で構成された口奥で、赤い揺らめきが迸る。
エクレアは勢いよく、アスファルト床を踏み抜いた。
断片竜が火炎の息を吐きだす一瞬の硬直を狙い、エクレアは一挙に断片竜たちの懐へと迫る。
エクレアの右足がアスファルト床を離れれば、まるで弾丸の如き速さで、エクレアが低空を滑空していく。
エクレアの小さな体が、立ち塞がる風の防壁を立ちどころに貫き、ものすごい勢いで飛翔していった。飛び去ったエクレアにやや遅れて、アスファルト床が間延びした様に軋りをあげるのが聞こえた。
音が音として認知されるよりも尚早く、今、エクレアは稲妻の如き速さで、断片竜たちへと疾走しているのだ。
瞬きする間の一瞬の間に、エクレアの小柄な体躯が断片竜の目前へと現れた。
右足を伸ばし、エクレアがアスファルト床へと着地を果たす。瞬間、極音速を超える滑走による加重が右足へと重苦しい反動となってのしかかる。
小柄のエクレアの一歩が、アスファルト床を陥没させ、粉塵を周囲にまき散らした。
右足につぎ、左あしでアスファルト床を踏み鳴らす。両の足で大地に踏みとどまり、更に、肩に背負った十字槍の柄で床面を打ち鳴らし、疾駆する自らの体躯を制動させる支えとする。
結果、着地より二歩、三歩ほど蹈鞴を踏みつつも、ぴたりとエクレアの体が制止する。
まさに一呼吸の間に、断片竜とエクレアの眼と鼻の距離まで迫った。電光石火の近接にようやく、断片竜たちが反応らしい反応を示す。無機質な竜の眼が一斉にエクレアへと向けられるのが見えた。
既に時遅し。
断片竜は、今、死地にあるのだ。
エクレアは、肩幅に両足を開くと、弧を描く様に十字槍を上段で構え、鋭い穂先でもって断片竜を制した。
「大兄上も屈託しておろう。しておぬしらは幸運にあるぞ? 大兄上より授かりし嵐の力、一身に賜ることが出来るのだからの。光栄と思うがよい」
槍を振り上げて、上空で円を描く。
一周、二周と、穂先が上空を旋回すれば、槍先に旋風が絡みつく。
周回を重ねるたびに、生じた旋風は、ますますに勢いを増し、渦を巻きながら荒ぶり、すさまじい暴風となって周囲へと吹き荒れてゆく。
嵐の中心より生じた突風が、暴虐たる指先をアスファルト床へと伸ばし、散在する紙片を巻き上げた。
突風は、肉食獣のごとき低い唸りを上げながら、散らばる紙片を絡みとり、ついで、数多群がる断片竜の一団を飲み込でんいくのだった。
突風は、螺旋を描く牙でもって、断片竜たちを巻き込むと勢いそのまま上空へと舞い上がり、天井壁を突き抜け、上階へと駆け上っていく。
エクレアは槍の旋回を止めると、目と鼻の先にて濛々と立ち込める嵐の中心部へと身を投げ、烈風の抱擁と共に、天空へと浮上していく。
巻き起こった突風は、天井壁を一枚また一枚と撃ち抜き、瞬く間に地上に姿を現した。
ものの数十秒の間に数百メートルほど上空へと駆けのぼった突風は、地表を撃ち抜くと瞬く間に研究所の遥か上空へと過ぎ去り、断片竜たちを天高く吹き飛ばした。
断片竜に続き、エクレアもまた、数百メートルを瞬く間に急浮上して、上空へとするりと舞い上がった。
突風が強固な足場取って、エクレアを支えていた。上空へとエクレアが高度を上げてゆくに従い、地上に立ち並ぶビル群は眼下へと遠ざかり、青空が迫ってくる。
上昇に伴い、空はますますに青みがかり、空気が薄らいでいく。そこには、エクレアと断片竜を除き大海原を彷彿とさせる大空が横たわるだけであった。
ここに舞台は整のった。エクレアの雷霆神としての力を妨げるものは何者も存在しはしなかったのだ。
「轟雷――!」
柔らかな哄笑がエクレアの口をついだ。
凛としたエクレアの声に呼応するように、雲一つない晴天を稲光が走り抜けていく。
稲妻は雄々しく空を駆けてゆきながら、樹枝状に雷光の尾を張り巡らせていくと、無数の分枝でもって、断片竜たちの拡翼や体躯を一重、二重と拘束する。
エクレアは、十字槍を腰より釣り降ろすと、雷鎖で縛り上げられた断片竜たちへと右の指先を差し向けた。
左方から右方へと向かい指先を一閃させれば、指先が描き出す軌道に合わせて蒼白い雷光が空を駆け抜けていく。
雷光は、長い尾を曳きながら空を駆け、自らの進路を塞ぐ断片竜を一斉に串刺しに貫いていく。
雷光は、纏雷とも呼ばれる、雷霆神が振るう刃である。
刃は、鋭い軌道でもって、断片竜の匕首を突き付け、左前胸部に刻印された六芒星を寸分たがわずに打ち抜いていった。
心臓部が撃ち抜かれれば、魔力の供給は瞬く間に失われ、断片竜を形作っていた魔導書は、糊を失ったようにばらばらにほつれ、無数の紙片となって空へと飛散していくのだった。
蒼天を雷光が走り抜けていくたびに、一体、また一体と断片竜が崩れ落ちていく。
しかし、未だに断片竜は数多く存在する。
左手に十字槍を、右手に雷の剣、雷霊剣を携え、エクレアもまた、駆け巡る雷光に続き、颯爽と空を飛翔し、断片竜へと襲い掛かる。
そうして、纏雷が打ち漏らした断片竜を十字槍や、雷霊剣で、一体、また一体と切り伏せていく。
雷光が蒼天を踊り狂う中、エクレアも縦横無尽に空を駆けながら、雷霆神の面目躍如ともいうべき万夫不当の勇猛ぶりを遺憾なく発揮し、雷撃の刃でもって断片竜の悉くを根切にするのだった。
雷が消え果て、空が静謐さを取り戻した時、そこには数多散らばる紙片と、金色の長髪を風に揺らす一人の少女が残るだけだった。
木の葉のように、空を揺曳する無数の紙片をエクレアは見下ろせば、否応なしに眼下に広がるジョン・フェラーの研究所兼別荘地が一望された。
エクレアは童女の様な柔らかな面立ちを曖昧に歪ませた。
苦笑なしには眼下の光景を眺めることはできなかったからだ。
地表には、大穴が穿たれており、そこからは、地下研究所の動揺ぶりがなんとは無しに伺われていた。思った以上に大兄上の力は桁外れであったようだ。
地上の光景を一人、苦笑がちに見送りながら、エクレアは来たのと同じ順路でもって、地下研究所へと舞い降りていく。
落下に伴う心地よい浮遊感はものの数十秒の間に終わりを迎え、着地に伴う軽やかなる衝撃がエクレアの足裏にじんと広がった。
思えば、地下研究所を離れたのは、時間にして数分程度のわずかな時間に過ぎなかった。
再び、薄暗い無機質な地下研究所がエクレアを出迎えた。
薄闇の中に沈んだ長通路で、突如、歓声が巻き起こるのが分かった。すでに長廊下には敵の影は見られず、ただ虚し気に散乱する魔導書からは、竜なる異名を誇示した断片竜の痕跡をなんら見出すことはできなかった。
敵の全滅に兵士らが、一斉に鬨の声を上げたのだ。
兵士らの歓呼の声は、薄暗い長廊下へと海鳴りの様に反響していった。長廊下は、兵士らの歓喜の声によって瞬く間に埋め尽くされ、騒然となった。
だが、エクレアは、歓喜に湧く長通路を射抜く、冷笑まじりの鋭い視線を長通路の遥か彼方より感じ取っていた。
嵐は、そっと息を殺しながらも、不吉な靴音と共に長廊下へと間もなく、訪れるだろう。
大成功
🔵🔵🔵
第2章 ボス戦
『魔術司書ライブラリアン』
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POW : 赤の書
敵1体を指定する。レベル秒後にレベル×1体の【炎の魔術書】が出現し、指定の敵だけを【火柱魔術】と【爆発魔術】で攻撃する。
SPD : 青の書
敵1体を指定する。レベル秒後にレベル×1体の【水と氷の魔術書】が出現し、指定の敵だけを【水刃魔術】と【氷嵐魔術】で攻撃する。
WIZ : 緑の書
敵1体を指定する。レベル秒後にレベル×1体の【風と雷の魔術書】が出現し、指定の敵だけを【竜巻魔術】と【落雷魔術】で攻撃する。
イラスト:ナミハナノ
👑11
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴
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種別『ボス戦』のルール
記載された敵が「1体」出現します。多くの場合、敵は、あなたが行動に使用したのと「同じ能力値」の戦闘方法で反撃してきます。
それらを踏まえつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。
| 大成功 | 🔵🔵🔵 |
| 成功 | 🔵🔵🔴 |
| 苦戦 | 🔵🔴🔴 |
| 失敗 | 🔴🔴🔴 |
| 大失敗 | [評価なし] |
👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。
※このボスの宿敵主は
「エミリィ・ジゼル」です。ボスは殺してもシナリオ終了後に蘇る可能性がありますが、宿敵主がボス戦に参加したかつシナリオが成功すると、とどめを刺す事ができます。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。
●閑話(以下、作戦とは関係ないので余裕ある方のみお読みください)
互いに駒を進めるたびに、盤上からは一つ、また一つと兵士らが消えてゆく。
ポーン同士がぶつかり合えば、一方は盤上から取り除かれ、生き残った歩兵もまた、ナイトの槍の鋭い一突きや、ビショップの鉄槌を受けて落命した。
司書風の女とジョンとがチェス遊びに興じてよりどれほどの時間が立ったろうか。
少なくとも半刻も立っていないだろうことは確かだが、この短時間のうちにすでに趨勢はほぼ定まった言っていいだろう。
ジョンは軽い苦笑いと共に自らの盤上を眺めた。
これが笑わずにいられるだろうか。道楽で始めたとはチェスと言え、まさかこれほどに不甲斐ない結果となろうとは連敗王ジョンと言えども予想谷しなかった。
互いに指しかわす事、二十数手のうちに、ジョン失地王は多くの歩兵を失い、城の両壁を崩された。
忠義の騎士は死に絶え、僧侶たちは殉教して果てたのだ。領土には数多、敵兵が押し寄せ、ジョン失地王と彼にとっての最愛の女王を取り囲んでいた。
「さぁ、あなたの番よ?」
理知を湛えた声で女がジョンを促した。
前方を見遣れば、氷の様な青々と冴えた碧眼がジョンを真正面から見据えていた。
ジョンは苦笑交じりに指先を王へと伸ばす。
ジョンの枯れ木の様な指先が自らの生き写したるキングの駒に触れた時、しかし、ジョンに去来したのは悔恨と逡巡の念だった。
今や盤上において、王と女王は崩れ落ちた城壁の元、数多の敵の刃のもとに晒されていた。
ここで王が逃げれば女王は死に、女王を逃がせば王は斬首され、死に絶える。
チェスにおいては、王が生き残ることが絶対条件だ。
この世界においては王はすべてにおいて優先して生きねばならぬという不文律に背馳すれば、その時点で王国は滅びる。
この冷たい法則のもとではクイーンを逃し、キングを殺すなどという事は決して許されはしないのだ。
しかしジョンの指先は、しばしキングの駒を握りしめたまま、ぴたりと動きを止めた。
「なぁ、お嬢さん…。それにしてもチェスというのはあまりにも現実感の無い競技だとは思わないかい」
苦笑交じりにジョンは呟いた。
やおら、女が静かに小首を傾げて冷たい視線をジョンへと投げかけてきた。
ジョンは、女の視線をやり過ごしながら言質を吐く。
「いくら何でも王が弱すぎるじゃあないか。女王は自由気ままに動き回るのに王は鈍重で、前線に立つでも無く、ただ隠れ回る。まったくもって…このゲームが私は嫌いだよ」
なにかがジョンの脳裏を走り抜けていった。
ぼんやりとした輪郭を取りながら、柔らかな姿態を描く女の影がジョンの中に浮かび上がった気がした。
ジョンは、キングの駒から指を離すとそのままクイーンを掴み一歩後方へと退かせた。
「無能な王など死ねば良いのさ。私は、無能な王を生かすのではなく、優勝なクイーンを生かす…。私の負けだよ」
クイーンの駒を後方へと進めれば、王を盾にするような格好で玉座へと深々と腰を下ろす。
象牙細工のチェス駒が、盤上を進み、空虚感を湛えた、寂し気な音を響かせた。
「あら、これで終わりです事?キャスリングでさんざ王は逃げ回ったあげく、最後はクイーンのために命を差し出す。無能も極まれりとはこのことかしら? 禅譲をお勧めしますわ」
女が、表情筋一つ動か事なく、感慨無げに言い放った。
ジョンは肩すくめて、苦笑をますます濃くしながら、盤上の王が倒される瞬間を網膜に焼き付けた。
まったくもって女の言う通りだと思った。だが、おそらく同じ状況が何度訪れようともジョンはまったく同じ選択を取っただろう。そして、そのたびにジョンはおぼろげに霞んだ過去との邂逅を果たすのだ。
「無能さ。この王というやつは、まったくもって、度し難いほどに無能なね。なぁ、お嬢さん――、一つだけ質問を良いかな?」
ジョンが言えば、女が皮肉げに鼻を鳴らす。
「本当に太々しいお方。自分からチェス勝負を挑んできて、知識を授けると言ったわりには、無言のうちにゲームを進めてすぐに投了でしょう。それで、今度は質問を投げかけるのはいささか厚かましいのではなくて? 私、あなたからまだ何も聞かせていただけていませんことよ?」
女がわずかに瞳を細めるのが見えた。
嘆息まじりに吐き出された吐息が、書棚と酒棚のみを備えた無機質な小部屋へと漂ってゆく。
ついで、女は席を立つとジョンに背を向ける。
「とは言え、もう私、参らなければいけません事よ? 精々、次にお会いするときまでにもう少しチェスの腕を磨いておくことですね。その時に、質問に関してはその時に気が向きましたご回答しましょう」
「そうだね。では、また再開できる日を楽しみにしているよー」
女の後ろ姿へと声を投げかけようとも、しかし、女は決して振り向くことなくそのまま遠ざかっていた。
再び女は、煙かなにかのように霞んでゆき、ジョンの政務室を辞去するのだった。
過ぎ去った女と追憶の女とを再び脳裏にて照応してみせても、まったくもって共通項が浮かび上がらなかった。
鮮やかなブロンドに柔和な面立ちと、輝くような美貌を誇った女の面立ちは、ジョンの脳裏にて追憶の残滓となって揺蕩う女とは似ても似つかわないものであったし、口調や挙止もかけ離れていた。
果たしてあの美女に、もはや面立ちも思い出すこともできない自らの姉のなにを重ねたのだろうか。
一つ言えることがあるとすれば、二人の知性にはやや似通ったところがあろうか。
姉の知能を果たして、ジョンは嫉妬したのか。それとも愛したのか。
決してジョンが及ぶことがないだろう聡明たる姉に、かつてジョンが抱いた得も言われぬ感情とは果たして何だったのだろうか。
愛とも憎しみとも嫉妬とも憧憬ともつかぬ、しかしそのすべてに通じたあの灰色の感情を果たしてなんと呼ぶべきだろうか。
ジョンは未だに応えに窮していたが、しかし、女の姿が彼方へと消え去った時、あれほど渇望した問いへの答えは、既に遠のいており、そして、脳裏にておぼろげながらも浮かび上がった最愛の姉の姿はもはや跡形も残さずに霧散していた。
卓上には、空になったウィスキーグラスが二つ、寂し気に置かれてるだけだった。
王を失ったクイーンが寂寞の玉座にて、一人陣取っているのを目にした時、ジョン・フェラーの口元をついたのは、科学者としての皮肉げで、冷ややかな嘲笑であった。
●本題
活況に湧き立つ長廊下へと、するりと女の影が伸びる。
突如現れた、人影へと目を遣れば、そこには黒い長衣に身を包んだ女の姿がある。
怜悧さを湛えたアクアマリンの瞳を伏し目がちに落としながら、どこかけだるげに、アスファルト張りの通路を進む。
女のヒールが軽やかにアスファルト床を踏み鳴らすたびに、歓声は潮を引くように勢いを落とし、兵士たちは半ば、茫然と女へと視線を遣る。
金髪碧眼の美女を絵にかいたような貴婦人が、富貴にそぐわぬ長廊下に舞い降りたのだ。
喪服を彷彿とさせる黒地のロングスカートの長裳裾が、女が歩を進めるたびにひらひらと翻り、縁に刺繍された数珠模様を強調させた。
小さな微笑を女は浮かべながら、指先を風雅に躍らせつつ歩を進める。
女は美女の類といってなんら憚られることは無いだろう。
染みやくすみ一つない、瑞々しいまでの相貌には、冷たげな印象が常に付きまとっていたが、切れ長に斜を描く碧眼や、柔らかな面立ち、すらりとした長身と、その見目は男たちの垂涎の的と言えた。
ここに現れたのがただの美女ならば、兵士たちはなにも銃では無く歓待でもって女を迎え入れただろう。
だが、 眼前より巨大な肉食獣、いや物の怪の類が現れた時、そこに脅威を感じぬものがありえただろうか。
デウスエクス『魔術司書ライブラリアン』それが彼女の名だ。
女の周囲には、赤、青、緑の表紙で装丁がなされた魔導書が揺曳していた。
女より迸る魔力は、人智を超えていた。
この場に介したケルベロス達は、迸る圧倒的なまでの魔力の余波に当てられ、蛇に睨まれたカエルの如く、銃を辛うじて構えながらも、完全にすくみ上っていた。
歓声は瞬く間に絶えて、今や長廊下は不気味な静寂により支配されていた。
あえて彼女に恐怖しないものがいるとすれば、それは、彼女に対抗しうる魔力を秘めたものか、もしくは、魔力の素養を一切持たぬ者だけであった。
女の威圧感に飲み込まれ、恐慌へと陥ったケルベロス達の中、一組の男女が女の前へと躍り出る。
カエシア、ゆきむら両名だ。
二人は、女とケルベロスとの間に割り込むと、それぞれが武器を女へと向け、対峙する。
ぴたりと女が足を止めて、ゆきむら、カエシアの両名を交互に見据えた。
「面白い方たち。魔術書の蒐集とグラビティチェインの回収、そして試作機とやらの破壊のために赴きましたが、あなたたち二人。いえ、あの風変わりな研究者も含めて、ここには面白い方々があまたいらっしゃりますことね?」
いらだちを孕んだ声だった。
女は言の葉を紡ぎそうしてカエシア、ゆきむらの両名を一瞥すると、ついで魔術書の一冊を手に取り、魔術の詠唱を開始する。女の高速詠唱に対してカエシアも直ちに魔術を練り上げた。
両者が同時に手を伸ばし、魔術を放てば、カエシア、魔術司書ライブラリアンを隔てる、僅か数間の空間にて、魔力の波動が奔騰し、それらは互いが互いにぶつかり合っては貪りあい、小爆発を生み出すのだった。
立ち上る炎とともに爆風が生じれば、ぱらぱらと礫片が巻い上がり、轟音と激震が長廊下へと広がっていった。
砂塵と礫片とが白砂の鮮やかさで、視界を覆いつくしていく。
ここに、デウスエクスと猟兵たちによる次なる戦いの幕が切って落とされたのである。
――――
以下に同行するDIVIDE部隊を記載します。
基本的には通常の決戦配備とほぼ同様の効果となりますが、名前付きのキャラクターを決戦配備に選ばれた場合は、テイストとしてやり取りなどを描かせていただきます。
Cr、Df、Jm、Md、Sn
→指定なし。近衛軍、第一軍の兵士よりなる門閥の子弟たちです。緒戦で勝利を重ねましたが、ライブラリアンの放つ魔力に当てられて完全に怯みあがっています。うまく鼓舞しなければ、上記ポジションからは、十分なポジション効果を得ることは難しいと予想されます。
Cs:ゆきむら&カエシア
→風貌体裁の怪しげな自称ベテランケルベロスと、女子高生ケルベロスの子弟コンビです。それぞれカエシアが魔術結界を張りめぐして支援を、ゆきむらが魔銃にて射撃援護にあたります。
柄倉・清春(サポート)
喫茶店で働く傍らに暗殺業を営む男
今は特務機関DIVIDEに所属しており二足ならぬ三足の草鞋を履く
強面だが粗暴なわけではなく日常生活では気さく
殺しの関わる仕事の時は途端冷徹になる
暗器を交えた肉弾戦と中距離からの牽制・奇襲を好む
戦いに流儀を持ち込まないのが流儀
搦め手、揺さぶり、闇討ち、あらゆる手段を用いる
生物の急所を熟知しており、異形と戦う際も経験則に基づき攻撃箇所を決める
身に宿した悪魔の力は奥の手
ユーベルコードは指定した物をどれでも使用
多少の怪我は厭わず行動し、他の猟兵に迷惑をかける行為はしません
依頼の成功のためなら汚れ役を担う事も
自身が性的な行為を行うのはNG
●
物陰に身をひそめながら、一人、男は漆黒の瞳を光らせた。
手の中に握りしめた一振りの小太刀が、冷え冷えとした感触で指先に吸い付いてくる。
グリモアの元を訪れゲートをくぐりたのち、柄倉・清春(悪食子爵・f33749)が舞い降りたのは殺風景なアスファルト張りの長通路であった。
グリモア猟兵の説明によれば、地下数百メートルに位置する研究所とのことだったろうか。
地上の暑気は鳴りを潜め、かわって地下道には、冷気まじりの白霧が重苦しくのしかかっていた。
息を殺し、小太刀を強く握りしめる。瞳を絞って、濃霧の中へと目を凝らせば、二つの人影が白霧の中で浮かんでみえた。
一つは小柄な女の人影だ。少女は、金の縁取りがなされた漆黒のケルベロスコートを身にまとっていた。
ケルベロス、つまりは友軍だ。
少女はなにやらを詠唱しながら、濃霧の一点へと向かい、右手を突き出している。
清春は少女の手の指す方へと視線を遣る。
濃霧の中を窺えば、なにかの影が浮かび上がって見えた。
女の影だ。濃霧の中で、少女より頭一つ分ほど長身な女の影が揺らいで見えた。
女は、わずかに背を左方へと傾けながら、まるで頬杖でもつくような格好で、少女と向き合っていた。霧が流れ、疎らとなれば、薔薇の蕾を彷彿とさせる女の紅色の唇が浮かび上がる。
女は、軽やかに唇を動かしながら、聞きなれない単語を紡いでいる。
魔術の詠唱だろうと清春は直感的に感じ取った。
女が魔術を唱えるのと同じく、少女もまた魔術を詠唱していた。
両者の詠唱が歌となってアスファルト張りの通路へと木霊していった。二人の声音が絡み合い、高まり、艶っぽい二重奏となって周囲へと響き渡っていく。
女と少女の高低入り混じった音律は、共鳴し合いながら音量を増してゆき、しかしすぐにぴたりと鳴り止んだ。
まるでボレロが曲の最後に一挙に盛り上がりを見せ、その後、急転直下、鳴り止むように、二人の声はわずかな残響を残しながらもすぐに鳴り止んだ。
旋律の余韻が清春の耳朶を揺らす中、突如、少女と女の掌より紫色の光が迸った。
女たちの歌に続き、耳をつんざく様な轟音がアスファルト壁を打ち鳴らした。
紫色の光芒は、少女と女のもとを解き放たれるや、長い尾をひながら勢いよく空を駆けてゆく。
そうして、二条の光は、互いが互いの眉間へと紫色の牙を突き立てて、激しくぶつかり合い、ついではじけ飛んだ。
少女と女とは同時に雷撃の魔術を放ったのだ。
両者の魔術の威力は拮抗しているようで、ほぼ同質量の魔力で構成された雷撃は衝突するやたちどころに、霧散し、白い霧を周囲へと散りばめたのだ。
たまゆら姿を現した女と少女が霧の中へと飲み込まれていった。
清春は、少女の影から視線を外して、女の影を注視した。
濃霧の中、女の黒影が不気味に動揺していた。
清春は中腰に姿勢を保持したまま、すり足で一歩を踏み出した。
女の名は『魔術師司書ライブラリアン』と言っただろうか。グリモア猟兵より大まかな風貌などは聞き及んでいたから間違いないだろう。
デウスエクス、人類にあだなす存在が彼女の正体だ。
一見すれば人間となんら変わらぬ敵を前にした時、清春は、自らの血が冷たく流れ出すのを感じずにはいられなかった。
人を殺す――。褒められた話ではないが、暗殺術に関しては清春はそれなりの心得がある。
濃霧たちこめる戦場で、少女と女は激しい魔術の応酬を繰り返していた。
うすぼんやりとした視界のもとで、幾度も雷光が轟いた。通路の中を雷光が迸り、衝突し合い、砕け散る。
一見両者の勢いは均衡しているように見えたが、雷光が放たれるたびに、少女の影がじわじわと後ずさっていくのが分かった。
状況としては、デウスエクス側が優勢といったところだろうか。ケルベロスの少女は必死に応戦しているようだが、ライブラリアンより放たれた雷撃を全て防ぐこと能わず、雷撃の五発に一発は、少女の側方すれすれを後方へと走り去っていった。
一応の形で少女は互角の状況を取り繕っているが、この危うげな均衡状態は間もなく崩れるだろう。
だが、一時的にとは言え、少女とライブラリアンの魔術が伯仲していることは疑いようもない。そして、ライブラリアンの意識が完全に少女に向けられているこの状況は清春にとっては、僥倖とも言えた。
清春は、じわりじわりとライブラリアンへと距離を詰めていく。
歩を刻むにつれて、空気が殺気でぴりぴりと震えだした。周囲にたなびく靄がざらりとした感触で清春の頬を撫でていた。
今、清春は死地へと向かい足を延ばしている。
しかし、清春の口元をついたのは乾いた笑みだった。
気配を消し、足音を殺すと同時に、清春は猛きん類の瞳でもって、ライブラリアンの胸元を射抜く。
右手に握りしめた小太刀は氷の様な冷たさで、掌を刺していた。
この冷え冷えとした感覚と共に、清春は、人類の盾たるDIVIDE職員たる仮面と、冷酷なる暗殺者たる仮面とが、自分の中で一切矛盾する事なく同居している不思議さを笑わずにはいられなかった。
暗殺術などは、本来ならば侮蔑の対象にしか過ぎない。
暗殺など、いかに大義名分を取り繕うとも卑劣たる行為以外のなにものでもない。歴史上、暗殺者が湛えられたことなど皆無であろう。
暗殺者としての仮面を被りながら、人類の称賛を浴びる。
そんな状況に清春は苦笑せずにはいられなかったのだ。清春は、前傾姿勢を取りながら白霧の中へと飛び込んだ。
同時に清春は、ユーベルコード、影の追跡者にて、自らを模した黒影を召喚する。走りざまに清春が指を鳴らせば、黒影は、ライブラリアン目指して、アスファルト床の上を這うようにして走り抜けてゆく。清春は右手より、黒影は左手側より挟み込むような格好でライブラリアンへと距離を詰めていく。
小太刀を返して、刃先をライブラリアンの喉元へと向ける。突如、白靄の中、魔術を詠唱していたライブラリアンが首を傾けるのが見えた。
氷の様な冷徹な瞳が、燦然とした輝きを放ちながら、清春へと鋭い視線を向ける。
ライブラリアンは右手を前方の少女に向けたまま、左手のみで清春と影とを制する。
「ラ・フィ・ラ・エル・ル」
魔術の詠唱だろう。
女が何かを呟けば、彼女の傍らで浮遊する一冊の魔導書より、紫色の稲妻が、にょきりと棘を伸ばした。
「戦いを邪魔するなんて無粋なお人。そんな動きで私の眼をごまかせるとでも?」
詠唱を終えてライブラリアンが、権高に鼻息を荒げた。
「死になさい――」
ライブラリアンが無慈悲な宣告を下す。
高慢たる女王の号令と共に、魔導書よりは紫色の稲妻が起こり、白霧立ち込める大気の中を勢いよく走り抜けてゆく。
稲妻の通り道に一致して霧は押しやられ、晴れた視界の元で、気高い女王の尊顔が清春にも覗かれた。
稲妻はただまっすぐに空を駆け抜け、寸分たがわずにライブラリアンが狙いすました物体を撃ち抜くのだった。
そう…雷撃は、大地を掛ける『影』を、予定調和の如く貫いたのだ。
高慢たる女王ライブラリアンが愉悦げに目を細めた。
しかし、彼女が喜色満面、表情をほころばすのを他所に、雷撃の刃に貫かれた人影はまるでガラス細工のように手ごたえ無く砕け散り、文字通り影も形も残さずに、大気の中へと霧散していった。
ライブラリアンの余裕顔から血の気が引いていくのが分かった。
ライブラリアンが形の良い瞳を彷徨わせた。未だ状況がつかめていないのだろう。ライブラリアンは焦燥気味に視線を左右させ、ついで下方へと落とした。
しかし、ライブラリアンに考える暇を清春は与えるつもりは無かった。
彼女が状況を把握するよりも早く、清春はライブラリアンの首元目掛けて、小太刀を投擲した。
牽制を意図しての清春の一撃を、ライブラリアンは咄嗟に身を捩らせることで、間一髪でいなしてみせる。
だが、咄嗟に身を捩らせたことで、必然的に彼女の筋群は緊張し、結果、ライブラリアンはわずかな隙を晒すのだった。
清春は、地面すれすれを掛けながら無防備になったライブラリアンの懐へと飛び込んだ。
「わりぃな。正々堂々とやり合えると自分を過信するほど耄碌してやいねえんだ」
吐き捨てるように言い放つと、清春は仕込み杖の鯉口を切る。
一歩を踏み込み、ライブラリアンを完全に刺突の距離に収めた。
仮にデウスエクスが人間同様の人体構造を取るとすれば、上半身だけでも急所足りえる部位や臓器は数多存在する。
頭部全般から、咽頭部。左右の頸動脈、両の肺臓に心窩部と、数えただけでも、軽く五、六は存在する。
最も確実なのは心臓だ。
骨太な胸骨に覆われているために、刺突の際には肋間よりのアプローチが求められるが、まず心臓をつぶせば人は死ぬ。仮に心臓への直撃を外したとしても左肺は損傷を免れることは無いだろう。
黒檀の鞘を払えば、銀色の刀身が顔を覗かせた。
勢いそのまま、剣を前方へと突き出せば、剣の切っ先はまるで吸い込まれるようにして、柔らかに隆起したライブラリアンの左胸部を突き刺した。
肉をえぐる感触が清春の掌にじんと走った。
薄い筋層を断ち、勢いそのまま心臓目掛けて胸郭深く、剣を突き刺してゆけば、剣の切っ先は肋間を滑るようにして進み、女の胸奥へと埋もれていく。
切っ先が、薄く張られた心膜に切れ目を入れ、心筋に綻びを刻む。
そうして、切っ先がまさに心臓を貫かんとしたその瞬間、しかしライブラリアンは、体を強引に右方へと捻り後方へと飛びのいた。
結果、刃もまた強引に軌道を変えられ、肺臓を穿ちぬいた。
肉厚な心筋群を抉る確固たる感触に代わって、海綿かなにかを裂くような手応えのなさが掌の中に残った。
赤黒い血液が創傷部より滲みだし、白いブラウスごとに女の司書服を赤黒く染め上げた。
女の口端より、赤黒い雫が流れ落ちていた。
女は喀血にも拘わらず顔色一つ変えることなく、滔々と呪文を詠唱しながら、清春へと右手を伸ばす。
チッと舌打ちしながら、清春は女の胸郭から剣を引きぬくと、後方へ飛びのいた。
魔術師司書ライブラリアンは魔術の詠唱を終えると、涼しい微笑さえも浮かべつつ、雷撃の魔術で清春を迎撃する。
長い尾を曳きながら、雷が数多の鋭い刃を清春へと突き立てる。
後方へと飛びのき一撃目をいなし、喉元まで迫った第二撃を、剣の一閃で切り裂いた。それでもなお、三撃、四撃目までも完全にいなす事は能わず、清春は咄嗟に濃霧の中へと飛び込み、雷の魔術より身を隠した。
霧の中で、身を捩らせて三撃目、四撃目をいなした時、すでにライブラリアンは間遠となっていた。
奇襲攻撃は半ば成功、半ば失敗といったところだろうか。
とはいえ、暗殺者としては課題が残るものの、ケルベロスとしての職務という点に限定するのならば、結果は及第点をもらっても良かろう。心臓部を外したとは言え、片肺はつぶした。敵は間もなく酸欠状態となるだろう。ならば敵の疲弊を窺い、隙を突き、再び命を断てばよい。
清春は再び剣を鞘へと納めた。そして、獣の瞳でライブラリアンを遠間より観察する。
暗殺者の刃は、獲物を求め、その獰猛なる牙をますます研ぎ澄ましてゆく。立ち込める濃霧の中で、白刃が煌めいた。
成功
🔵🔵🔴
暗都・魎夜
○
【心情】
こいつはちょっとした相手だな
多様な魔術は対応が難しいし、ビビるのは当然だ
だが、敵の強さが分かるのも強さの内
恐怖を知るってことは強さの初歩だ
頼りにしてるぜ、ケルベロス
「行くぜ、イグニッション!」
【決戦配備】cr
ライブラリアンに近接攻撃
ケルベロスたちを「コミュ力」「勝者のカリスマ」で「鼓舞」
「たしかに奴の魔術は大したもんだ。だが、その攻撃も乱発できるわけじゃねえ」
「師匠が言ってたぜ、"力には技、技には力を"ってな」
【戦闘】
「天候操作」で優しい雨を降らせケルベロスを支援
万色の雷でライブラリアンを攻撃
魔術の攻撃からケルベロスを「かばう」
「(誰何の言葉に)通りすがりの能力者さ、覚えておきな!」
魔術師司書ライブラリアンが膝を崩すのが見えた。
カエシアの魔術に続く仲間猟兵の奇襲が功を奏したのだ。敵デウスエクスの胸元には、巨大な裂創がどこか痛ましげに口を広げていた。
魔術と魔術との応酬によって立ち込めていた白霧は薄れてゆき、暗都・魎夜(全てを壊し全てを繋ぐ・f35256)の晴れ渡った視界のもと、アスファルト張りの通路が明瞭と浮かび上がってゆく。
魎夜は静かに敵デウスエクス、魔術司書ライブラリアンを観察する。
左季肋部を一文字に横断する裂創よりは、どす黒い血が滲みだし、ライブラリアンの司書服を赤黒く染め上げていた。
衣服にしみ出した血液は、そのまま雫となって滴り落ちて、床上にどす黒い斑点を描いていた。
おそらく傷は肺臓にまで達しているのだろう。床に描かれた斑模様は、鮮血の鮮やかさを失い、淀んだ黒色を湛えていた。
驚くべきは、明らかな重傷を負いながらも凛然と表情を取り繕うライブラリアンその人にある。
ライブラリアンは僅かに体勢を崩しつつも、苦悶げに表情をしかめるでもなく、苛立ちや焦慮を浮かべるでもなく、表情筋一つ動かすことないまま、微笑を浮かべながらケルベロス達に対峙していた。
裂創は、一見したところ深手に見えたし、当初の出血も派手であったが、少なくともライブラリアンの致命傷とはなりえなかったようで、傷口からは僅かな静脈血が染み出すばかりである。
ライブラリアンの周辺に揺蕩う赤の魔導書は、攻撃魔術を練り出すでもなく、赫赫と装丁を煌めかせている。
おそらくライブラリアンは、右手一本でケルベロス達を制しながら、空いた左手で赤の書を手繰り、自らの荒療治にあたったのだ。
ライブラリアンは炎でもって動脈を焼灼して、半ば強引に止血を済ませたのだ。
自らの臓器を焔であぶるなど、想像もつかぬほどの痛みを催すだろう。そんな拷問じみた苦行を敵は表情一つ崩すことなくやってのけたのだ。
ライブラリアンは、肩で息をしながら、覚束なげに足をよろめかせたが、冷たい微笑だけは崩すことは無かった。
彼女はあの氷の冷笑でもって、居並ぶケルベロス達を威圧し続けたのだ。
女王然とした威風は多少の傷を負っても尚、ライブラリアンから失われてはいない。いやむしろ益々に冴えわたってゆくように魎夜には感じられた。
こいつはちょっとした相手だ。多様な魔術や圧倒的な魔力の総量はもちろん、ライブラリアンは優れた頭脳を最大の武器として常に最善の一手を打つ。
ライブラリアンは、佇まいや仕草の一つ一つに至るまでに細心の注意を払い、冷酷の女王を装っているのだろう。そのために、いかなる苦痛をも甘受してみせたのだ。
深手を負いながらも表情一つ変えない様は、千両役者顔負けの名演ぶりである。そして、上手く自らを取り繕う事でライブラリアンは、彼女にとっての最良の状況を作り出したのだ。
本来ならば、味方猟兵の攻勢に続き、ケルベロス達は直ちに追撃に移るべきだった。
だが、無言のままに伸ばされたライブラリアンの白樺のような指先を前にした時、ケルベロス達は二の足を踏んだのだ。
一歩を踏み出せば、魔力が雨あられと自分たちを襲う。破滅へと至る想像がケルベロス達の脳裏を横切ったのだろう。
結果、ケルベロス達は及び腰のまま、追撃の好機を見逃し、対するライブラリアンは応急処置を済ませ、態勢を整えたのである。
ケルベロス達は今、ライブラリアンの掌中にて翻弄されている。
最もケルベロス達が、ライブラリアンに恐れおののくのも当然と言えるだろう。魔力はもちろん、戦いの経験に関しても、ライブラリアンは、一枚も二枚も、ケルベロス達の上手をいっている。
とはいえ、ケルベロス達が遊兵となったままでは勝てる勝負も勝てたものでない。彼らを奮い立たせる必要がある。
また、ケルベロス達がライブラリアンに怯んでいることは、なにも不都合なことばかりでは無い。
恐怖を知ることとは、いわば戦士としての発芽とも言えた。
自らと敵との力量をしっかりと類推出来てこそ初めて、戦いにおいて人は敵に委縮し、恐怖する。実力がかけ離れていればこうはいかない。
つまりライブラリアンに恐怖できるという事は、友軍がそれなりの実力を有していることの証左とも言えた。
また、恐怖と恐慌は似て非なるものであり、前者は克服することが出来る事を魎夜は知り得ていた。
となれば自分の役割はただ一つだ。
肩で風を切りながら歩を進め、立ちすくむケルベロス達の傍らに並び立つ。
魎夜は、居並ぶ面々へと目合図すると、肩をそびやかし、声を張る。
「恐怖を知っているだけで大したもんだ。誰だって死にたかねえよな…俺もそれは同じさ」
鷹揚と言い放てば、衆目が一斉に魎夜へと向けられる。
自らを恥じるように眦を吊り上げるものもあれば、ライブラリアンに対する恐怖を拭い捨てることが出来ないのか、未だに顔を蒼くしたままに俯きがちに恐れおののく者の姿もあった。
一人一人を一瞥しながら、魎夜は続ける。
「ここで感じた恐怖は本物さ。そして、恐怖を感じたものは、絶対に強くなる。障害を乗り越えた時、人は大きく羽ばたくのさ。…なぁ、これから俺と一緒に殻を破らないかい?」
魎夜は言いながら、右手を天井へと突き上げた。
赤漆で塗りたくられたような、紅玉色の手甲が高々と天を突けば、天井にこじ開けられた大穴より、銀白色の陽射しが斜に降り注ぎ、手甲へと集まっていく。
銀色の光は、魎夜の突き出した拳へと収束すると、今度は優雅に飛散してゆき、灰色の足場に柔和な光の綾を刻むのだった。
差し込む斜陽に続き、一滴の雨粒が虚空より降り注いだのは、まさにその時だった。
銀色の雨滴だ。
天を突いた魎夜の拳より、雨の雫が迸っていた。。
雨粒は、魎夜の突き上げた拳より起こり、翠雨の様な穏やかさで、ひたひたと降り注ぎ、アスファルトで覆われた長通路を白銀色の輝きで満たしていく。
一滴、また一滴と雨粒が降り注ぎ、魎夜の髪先を濡らしていく。銀色の雨は徐々に雨脚を強めていきながら、魎夜達を雨の帳の中へと隠してゆく。
魎夜の放つユーベルコード『ヘヴンリィ・シルバー・ストーム』により、世界は柔らかな銀色の雨により包み込まれたのであった。
この異常事態を前に魔術司書の瞳が、訝しげに細めるのが見えた。
彼女は再び口をせわしなげに開閉させながら、抑揚のある声音で魔術の詠唱を開始する。
ライブラリアンの傍らに揺蕩った青色の魔術書が、蒼白く輝き出せば、無数のツララが虚空より顔を覗かせ、ライブラリアンを中心に扇状に配置されていく。
ライブラリアンは、魔術の詠唱を終えると右の拳を握りしめた。
瞬転、数多生み出されたツララは、吠えるような轟音を響かせながら、無数の氷刃となって空中で踊り狂い、魎夜もろともにケルベロスの集団へと襲い掛かった。
「やらせるかよ…!」
魎夜はケルベロス達の前へと躍り出ると、両手を広げ、押し寄せるツララの前に立ちふさがった。
ツララは驟雨の如き勢いで八方より魎夜を押しつぶす。魎夜の視界が、数多押し寄せる蒼白い氷の刃により、青一色に塗り固められた。
ツララの群れは、間断なく空を埋め尽くし、魎夜目掛け、四方八方より鋭い槍を突き出した。
最早逃げ場などは存在しなかった。
――しかし、もとより魎夜は攻撃を避けるつもりなどは無い。
友軍に勇気を示す事こそが、魎夜の最重要課題であった。
不敵に笑って見せる。
指を擦り、降りしきる銀色の雨を弾けば、魎夜の指先で光の泡沫が火花の様に弾け飛んだ。
魎夜は、勢いよく右手を一薙ぎする。
瞬転、右腕の一閃に続き、魎夜の指先ではじけた火花が七色に輝きだし稲妻の形を象った。
魎夜の挙止をなぞるようにして、一陣の雷光が横一閃に空を駆け抜けていく。七色に輝く万色の稲妻は、魎夜へと差し迫るツララを薙ぎ払っていく。
まるでガラス細工かなにかのように、稲妻に撃ち抜かれ、ツララは砕け散ってゆく。右腕の大薙ぎと共に、全てのツララは乾いた音を上げながら粉々に破砕された。
ツララを全て砕いても尚、稲妻の猛威が鳴りを潜めることはなかった。稲妻は、ツララを突き抜け、勢いそのまま、雷光の穂先をライブラリアンの喉元へと向けて伸展させた。
わずかにライブラリアンが顔をしかめるのが見えた。
彼女は舌打ちしながら、半歩ほど後ろざると、再び、ツララを幾本も生み出し、それらを束ねて防壁とした。
生み出された氷の防壁を雷の槍が打ち据えた。
鋭い稲妻の一撃のもと、ツララが粉みじんに砕かれ、銀紛をまき散らす。
一本、また一本とツララは砕かれてゆく。
多重に敷かれた氷の防壁が、稲妻の勢いに勝った。
稲妻は、幾重にも巡らされた氷の防壁を全て撃ち抜くことは叶わず、穂先をライブラリアンの喉元に刃を突きつけながらも、本懐を遂げられぬままに霧散していくのだった。
ツララが砕け散り、稲妻もまた消滅した。
長廊下には、銀色の雨が雨音を上げながら降り募っていた。
雨音を除き、全ての音は絶えていた。
静寂の中、魎夜は腕を振り下ろす。
魎夜とライブラリアンの攻防は痛み分けに終わった。
しかし、魔術は永続されるわけでは無い。曇天の雲居から、時折、太陽が顔を覗かせるように、ライブラリアンの魔術にも隙は、必ず生まれる。
「たしかに奴の魔術は大したもんだ。だが、その攻撃も乱発できるわけじゃねえ」
雨音の中で魎夜の声が響いた。
「師匠が言ってたぜ、"力には技、技には力を"ってな」
魎夜は言いながら、右手を数間程の距離を隔てて立つライブラリアンへと突き出した。冷静沈着そのものの女王の美貌に、焦燥の翳りが滲みだす。
「今、敵の力は俺の技で押さえつけた。さぁ、あとは俺たちの‶力″で敵デウスエクスを一網打尽にしてやろうぜ」
拳を握りしめて、魎夜は一歩を踏み出した。
背中越しに友軍ケルベロスの熱望の視線を感じる。熱っぽい息遣いが、魎夜の背にのしかかっている。
後方で、友軍の雄たけびが上がった。
振り絞ったように紡がれた、声ともならぬ裏返った声音と共に、無数の軍靴がけたたましくアスファルト床を踏み鳴らした。
堰を切ったように友軍ケルベロス達が、ライブラリアンへとなだれ込んでいく。
彼らは、魎夜の側方を勢いよく駆け上がっていくと、銃を投げ捨て抜刀し、各々が鋭い一撃をライブラリアンへと繰り出すのだった。
ライブラリアンは、即座に魔術防壁を張り巡らせて、そうしてケルベロス達の攻撃に対処する。
時に氷刃でケルベロスを切り裂き、巨大な氷柱を生み出して、自らの防壁とした。
氷刃とケルベロスの一人が切り結ぶのが見えた。ツララを一つ、二つと打ち抜き、ライブラリアンへと突貫するケルベロスの姿も見受けられた。
四囲より押しつぶすように無数の兵士がライブラリアンへと群がってゆく。
もちろん、未だに、白刃がライブラリアンを捉えることは無かった。
奇襲を活かせども縮まらないほどの実力差が、一般のケルベロスとライブラリアンとの間には懸隔していた。この差を埋め尽くすのは、作戦だけでは如何ともしがたい。
だが、ケルベロス達の突撃は何も無為に終わったわけでは無い。
今やライブラリアンは攻勢から守勢へと転じている。
ケルベロス達の攻勢は、氷の刃や氷柱に阻まれて中断を余儀なくされたが、結果、ライブラリアンはケルベロスの対処にすべての魔力を傾注させることとなり、必然、魎夜に対する備えは疎かとなった。
そして、味方が必死に作り上げた隙を見逃すほどに、魎夜は間抜けもなければ、不義理でもない。
魎夜は、呼吸を整えながら半身程腰を下ろす。肘をわずかに後方へと引き、脇を絞る。そうして、正拳付きの構えを取ったままに、意識を集中させる。
呼吸を深めつつ、拳に意識を集中させれば、朱色の手甲より七色の泡沫が零れだした。
銀色の雨が齎した雷光の輝きがそこにあった。
拳を固めれば、七色の光が魎夜の手甲で膨れあがってゆく。
「行くぜ…イグニッション!」
掌がじぃんと熱く燃えていた。
極点へと至った力を一挙に解き放つように、魎夜が右拳を前方へと突き出せば、収束した力の奔流は、万色の稲妻となって空を切り裂いた。
はたと、ライブラリアンが視線を魎夜へと向けた時、既に万色の稲妻はライブラリアンの眼と鼻の先まで迫っていた。
なんら抵抗できぬままに、ライブラリアンの姿態が万色の稲妻の中に飲み込まれた。眩いばかりの光の中で、ライブラリアンが身を捩らせるのが見えた。
津波の様に押し寄せた万色の稲妻に煽られて、ライブラリアンの細身が宙を舞い、後方へと勢いよく吹き飛ばされてゆく。
辛うじて魔術障壁を張って身を守ったのだろう。万色の稲妻に弄ばれ、数間程、後方へと吹き飛ばされたライブラリアンは、よろめきながらも、直ちにその場に立ち上がった。
決して感情の色を浮かべる事の無かった美貌をわずかにしかめながら、ライブラリアンが肩を激しく上下させていた。
喀血で赤く染まった唇を震わせながら、ライブラリアンが再び魔術の詠唱を始めるのが見えた。
「よっしゃ。みんな、下がって一旦、体勢を整えるぞ」
魎夜は手を振り上げて友軍ケルベロス達に指示出しする。
銀雨により最低限の負傷は癒されるとはいえ、遮二無二ライブラリアンを攻め続ければ友軍の被害も指数関数的に増大していくだろう。
また、手負いの獅子ほど厄介なものは無い。下手に攻めれば、むしろ、こちら側が大きく消耗する可能性すらあった。
魎夜の号令一下、ケルベロス達は、一糸乱れぬ連携の元、直ちに後方へと退いていった。
魎夜は友軍を引き連れ、再び、防壁の中へと身を潜らせると、共に戦った部隊員を見て回る。
なるほど、軽症のものは散見されたが、重傷者の姿は見受けられなかった。
また多少の負傷者は出したが、変わって場の雰囲気は一変した。
当初の悲壮感は、既に周囲の友軍からは感じられなかった。仲間たちに気負った感じは無く、誰も彼もが意気揚々といった風に表情を輝かせていた。
ここに流れが大きく変わったことを魎夜は肌感覚で実感する。
防壁に背を預けながら、魎夜は仲間たち一人一人へと微笑を投げかけてゆく。
ふと、幼顔のケルベロスと目があった。
「お兄さん…。ありがとうございます。俺、生まれて初めて家名に恥じないように必死に戦うことが出来たんだ…」
まだ年端も行かぬ少年が燦燦と瞳を輝かせながら、食い入るように魎夜を見据えていた。少年は目を真っ赤に腫らしながら、声も絶え絶えに魎夜に言った。
憧憬まじりの笑顔を目の当たりにした時、しかし、魎夜の胸奥を刺し貫いていったのは、薔薇の棘が齎す鋭い疼痛であった。
魎夜は苦笑交じりに首を左右させる。
「いいや、俺のおかげじゃないさ。恐怖と向き合ってそれを打ち破ったのは、君なんだから。もっと自分に胸をはっていいと思うぜ」
鷹揚と魎夜は言い放つ。
DIVIDE世界では、少年少女たちが戦いに駆り出されているのが現状だ。
本来ならば、恋愛をし、学業に励み、同世代の友人と遊びあう青春時代を犠牲にして、彼らは戦いに身を投じたのだ。
戦いとは大人の領分だという思いが魎夜には強い。
フィクション世界ならばともかく、現実では子供には自由奔放な青春時代を過ごして貰いたい。少年少女が戦う戦場に居合わせるたびに、そんな思いが幾度も魎夜へと去来した。
「三男坊とは言え、マクレガー家の男児として、俺、少しだけ自信を持つことができました――。ありがとう、えぇと、お兄さんお名前は」
少年が小首を傾げた。
魎夜は少年の頭に手を載せると、穏やかに目じりを吊り上げる。
「通りすがりの能力者さ、まぁ、覚えておきな」
曖昧にはぐらかして、魎夜は立ち上がる。
左目を眇めて、少年へと陽気に目合図する。そうして少年へと別れを告げると、魎夜は直ちに防壁群を後にする。
次代の者たちが戦いに巻き込まれぬために。
そんな思いを抱きながら、魎夜は再び、戦いの渦中へと身を投じてゆくのだった。
大成功
🔵🔵🔵
日下部・香
◎
連携〇
決戦配備:Cs
ええい、ビビるな! |私たち《ケルベロス》がデウスエクス倒さなくてどうする!
……といっても、奴の魔力の強さは私でもわかる。怯むのも無理はないだろう。とりあえず動ける面子で何とかするか。
奴の魔力は強大だ、なんとか攻撃を止めさせないとジリ貧かな。
【魂断ノ剣】なら一時的に敵の身体部位と共に魔術を封じることもできるかもしれないが……どこを斬るのが最善かイマイチわからない。
カエシアさんなら、奴が魔術を使うのに重要な部位がわかったりしないだろうか? 例えば、喉とか指先とか。
あとは【ダッシュ】で近づいてズバッと……いや、正面突破だと反撃喰らいそうだ。【残像】残して敵の不意をつきたいな。
●
青白い火の粉が鮮やかに宙を舞っている。
そう、雷光の名残がそこにある。
綿雪を彷彿とさせる蒼い光の泡沫は、ぱちぱちと音を鳴らしながら弾け飛び、微細な粒子となって大気の中へと溶け込んでゆく。
どこからともなく降り始めた銀色の雨は既に遠のき、雷光も間もなく消え果て、アスファルト張りの通路は再び暗澹とした薄闇の中へと沈み込んでいた。
天井の大穴より零れる淡い陽光だけが、乏しい唯一の光源となって灰色の足場に淡い光の輪を描いている。
日下部・香(断裂の番犬・f40865)は息を飲みながら、敵デウスエクスを目で追った。
度重なる攻撃を受け、深手を負った魔術師司書ライブラリアンの痛々しい姿が、数間ほどの距離を隔てた先にある。
ライブラリアンはアスファルト壁に手をついて体を支え、半生半死の体で辛うじてその場に踏みとどまっているように見えた。
だが、ライブラリアンの口元に浮かび上がった冷たい微笑を目の当たりにした時、香は、現状の優勢ぶりがまるで嘘のように吹き飛んでいくかの様な錯覚を覚えずにはいられなかった。
固唾を飲みながら、香はライブラリアンをしげしげと見つめる。
いや錯覚などではないだろう。
魔力に疎い香でも、ライブラリアンのもとで、魔力が益々に猛威を増していくのがわかった。
魔術のの波動を肌に受ければ、嫌でも体が反応する。
魔術全般に関しては苦手意識を持っていたが、同居しているオルトロスの厳しくも慈愛に満ちた薫陶を受けて、魔術のイロハは身に着けることが出来た。
まじまじとライブラリアンを睨み据えれば、なんら変哲の無い空間がうすぼんやりと歪んで見えた。
空間がねじれて、襞の様なものが幾重にも形成されているのだ。
おそらくは、魔術障壁が幾重にも張り巡らされているのだろう。
障壁の中心で、ライブラリアンが右手の魔導書をめくりながら、なにやらを呟いている。
彼女の声音が、怜悧な刃の鋭さでアスファルト通路へと木霊するたび、ライブラリアンを中心に魔力が膨れ上がってゆく。
香の脳裏で危険信号が赤々と点滅していた。
魔力の素養の有無などに関わらず、直感的に危険が差し迫っていることに香は気づいた。
攻防一体で今、ライブラリアンは戦いに臨んでいるのだ。
ライブラリアンは、魔術障壁を張り巡らせることで盾として、同時に攻勢魔術を練り上げ矛の準備に取り掛かっている。
果たして、どれほどの離れ業を敵デウスエクスが今、行っているのか、詳しいところは香には分からなかった。
だが、ライブラリアンは、命に危機に瀕し、なりふり構わずに勝利のみを追求することを決めたのだろう。
彼女にとっての目的とは、一義的には、人類よりグラビティチェインを略奪することにある。
短期的な視座に立てば、突発的に街を襲い、そうして人々の命を刈り取ることが彼女、いやデウスエクスにとっての最も単純な略奪の形態と言えるだろう。
だが、より視野を広げて、長期的で効率的な戦略的視点よりグラビティチェイン搾取の方法を思案した時、おそらくデウスエクスは、別の方法にたどり着いたのだ。
人類の強さとは結束力にある。そして、知恵や知識、適応力にある。
ジョン・フェラーなる科学者が考案したという新型人型決戦兵器とは、いわば、亡命ケルベロス達が齎した魔力という新技術を人類が応用し、魔術と科学とを融合させた故に生まれた、知恵と適応の産物と言えただろう。
デウスエクスは、人間の知恵と適応力をこそ最大の障害と見なしたのだろう。
そして大局を見据えた時、より効率的にグラビティチェインを収奪する方策を、デウスエクスは新型機破壊に見出したのだ。
いかに猟兵やケルベロスが強力とは言え、デウスエクスの侵攻のすべてを未然に防ぐことなどはできはしないのだ。
グリモアが予知し、自分たちが駆け付ける戦場とは、全体の中のごく一部に過ぎない。
自分たちの戦いが無駄だなどという冷笑主義を掲げるつもりは香には毛頭、無い。
事実、ケルベロスや猟兵の活躍があってこそ救われた命は数知れない。
だが、反面で、世界の趨勢を決するのは世界に生きる、一人一人の人間にかかっているのだと香は考える。
その代表は噂のラファエル・サー・ウェリントンであり、カエシアであり、ゆきむらであり、ジョン・フェラーその人でもあった。
目の前では、仲間猟兵たちが、ライブラリアンに攻勢を仕掛けるべく駆け上がっていくのが見えた。
いずれもが精鋭であることは疑いようもない。
だが、彼らがいかに強力であっても、ライブラリアンもまた強力なデウスエクスなのだ。
ユーベルコードを使用した今、猟兵たちの攻撃は、ライブラリアンを守るようにして幾重にも張り巡らされた魔術障壁により弾かれ、無力化されていた。
今、ここで状況を変えることが出来るのは、自分とそれから友軍のケルベロスだ。
ここに集ったもの達が力を結集させれば、きっと障壁にも大穴を穿つことができるはずだ。
香はライブラリアンから視線を外し、防壁の中で待機する友軍たちを嘱目する。
防壁の一隅へと身を向ければ、意気揚々と武器を構えるケルベロス達の姿が伺われた。
先刻、味方猟兵の激励により、勢いを取り戻したケルベロス達だ。
彼らは、状況がただならぬ状況へと向かいつつあるのを察してか、もはや守りを捨て、防壁より完全に身を乗り出して、銃砲を雨あられとライブラリアンへと浴びせていた。
銃列が一斉に火を噴けば、銀で鋳造された魔術弾が鋭い螺旋を描きながら、ライブラリアン目掛けて空を駆けてゆく。
銃弾の群れは、黒いうねりとなって空を駆け抜け、ライブラリアンの眼と鼻の先まで肉薄するも、空間のゆがみによって弾かれ、虚しい音を立てながらアスファルト床に落下していく。
明らかに銃弾の数が足りないのだ。
息を吹き返した仲間は全体のうちの一部にしか過ぎない。
仮に今の銃弾に倍する数の火力があれば、分厚い結界に亀裂を生み出すことが出来たはずだ。
香は、他の防壁群へと順繰りに視線を送っていく。
そして、愕然たる事実を知る。
攻撃に参加しているのは、ただ一つの部隊にしかすぎず、味方ケルベロスの七割程度は、未だに意気消沈したままに立ちすくみ、防壁の中で震えあがっていた。
ライブラリアンの冷たい、氷の様な碧眼に睨み据えられれば、確かに委縮するのも当然だ。
迸る魔力を前にした時、声を失い、遁走したくなるのも自然な反応と言えるだろう。
かなりの距離が隔たれているにも関わらず、ライブラリアンが放つ圧倒的な殺気は、錐の様な鋭い刃となって香を苛んでいた。
一歩を踏み出せば、暴風の如く押し寄せる魔術が自らを粉々に粉砕するだろうと、そんな恐怖が脳裏を横切った。
だが――。
――だが、自分たちはケルベロスなのだ。
人類を守るケルベロスなのだ。
香は進む。
一歩を踏み出して、ライブラリアンを睨み据えた。
威圧されていないと言えば嘘になる。
だが、最初の一歩を踏み出すことが出来れば、あとは、目に見えぬ無数の人々の期待の声が香の背中を押し出すのだ。
香は、魔力が荒れ狂う戦場をひた走り、防壁の中へと潜り込む。
防壁の中でガタガタと震える友軍へと詰め寄ると、香は声を張って彼らを鼓舞する。
「ええい、ビビるな! 私たちケルベロスがデウスエクス倒さなくてどうする! 私たちが力を併せれば、敵を打倒すことが出来るはずだ。さあ、みんな――、一緒に戦おう...!」
全員が力を併せれば勝てる――とそんな思いから、自然と語気が強くなった。
だが、激励のための香の言葉は虚しく木霊するばかりであった。
ケルベロス達は悄然とした様子で俯き、皆が皆、押し黙ったままだった。
香と同年代くらいの少女が、恐る恐る香を見上げて、すぐに俯いた。
彼女は、地べたに腰を下ろすと、両膝を抱え込むような格好で両手を肩に回し、力なく首を左右しつつ、消え入りそうな声を漏らした。
「無理よ――。私は、ただパパに言われて、ここに来ただけだったんだから。うんうん、私だけじゃない、みんなそう。後方で数年間勤務すれば、すぐに出世を果たせるって聞いたから来ただけ。キャンパスライフを楽しみながら、片手間でケルベロスとして活躍する。そんな約束だったのに…。あんな化け物に勝てるわけがないもの。ケルベロスになんて…なりたくなかった――」
消え入りそうな弱弱しい声で少女は呪詛を吐く。
すすり泣きと共に放たれた少女の言葉が、防壁内にて淀みとなって広がっていく。
一人、また一人と力なく武器を下ろすのが見えた。
たまらず、香は眉をひそめた。
確かに敵の魔力が強大であることは香でも理解できた。怯み、尻込みするのも当然だ。
また、香自身、ケルベロスの誰もが高潔であるわけでは無い事は頭では理解していたつもりだった。
また希望的観測に過ぎないかもしれないが、目の前で泣き崩れた少女も、一時の恐慌から、やや行き過ぎた言葉を発したにすぎないのだろう。
だが、それでもなお、少女の言葉には同意などできない。
世の中には幾らケルベロスに憧れても覚醒出来ずにいる者が、数多、存在する。
誰かを救いたいと渇望しながらも、力及ばずに、涙するものがいる。
ケルベロスが万能たり得ないことは分かっている。
一般人と同じように泣き、笑い、恐怖する。強大な敵が目の前に現れれば、たじろぐことだってあるだろう。
それでもなお、ケルベロスとは人々の心に希望の燈火を灯す存在であり、そしてそんな存在たるべきと信じ、香は日々、研鑽に邁進してきた。
少女に怒りを感じたわけでは無い。
だが、天衣無縫を自認する香であっても、ケルベロスの投げやりな態度を見過ごすのは正直、つらかった。
こと、ケルベロスという職業に関して言うのならば、やや生真面目のきらいが過ぎるのかもしれないが、ケルベロスには絶対に超えては一線があると香は考える。
自分だって親との軋轢には何度も頭を悩ませた。
姉の様であり、師の様でもあるオルトロスと出会うことが出来なければ、未だに悶々とした思いを抱えたままに戦場に赴いていたかもしれない。。
だが、仮に家族との間になにかしらのわだかまりを抱えて戦場に立とうとも、香はケルベロスとして人類を守るという最後の一線をたがえるようなことだけはしなかっただろう。
もちろん、香には自分の思想を強要するつもりは無かった。それでもなお、やはり、胸の中にはほの苦い疼痛がじぃんと走っていた。
「わかったよ――。気持ちは私にもわかるからつもりだから…」
香は少女から目を背けると誰に言うでもなく、呟いた。
少女を見放すつもりも、蔑視するつもりも無かった。だが、口をついた言葉は、歯切れ悪く、途中で途切れた。
香は首を左右させて、自分に活を入れる。
ないものねだりをしている場合ではない。
友軍で戦えないものがいるのならば、動けるメンツで何とかするまでだ。
不幸中の幸いとも言うべきか、全体の三割程度は必死に戦いを続けていたし、カエシアやという頼りになる仲間もこの戦場にはいる。
せめて、結界を打ち破るためのきっかけが欲しい。
ケルベロス達は防壁から身を乗り出し、銃撃でもってライブラリアンをけん制していた。だが、彼らの火力では障壁を打ち破るには圧倒的に力不足だ。
もしも、一瞬でも障壁さえ崩すことが出来れば、香には切り札がある。
魂断ノ剣――、数分間という短い時間であるが、この技によって切り裂かれた敵は一時的に攻撃の矛を失う。
赤漆塗の鞘を力強く握りしめる。
これまで数多の戦場で共に戦ってきた自らの愛刀『常切』がこの鞘の中に収められている。この剣で相手の魔力の発生源を断つことが出来れば、状況は大きく変わる。
香は防壁を後にする。
そうして、未だ激しく抗戦を続けている友軍のもとへと一挙に駆け寄った。
「よっ、香のお嬢ちゃん…! いやぁ、助かるよ――、お嬢ちゃんが来てくれれば百人力だ」
香が友軍のもとへと駆けつけるや、馴れ馴れしい声が香の鼓膜を心地よく揺らした。
声の主へと振り向けば、妙に顔の良い男が微笑みを浮かべながら、香へと目を瞬かせていた。
黒の蓬髪を指先でぽりぽりと撫でながら、男は晴れやかな表情で銃の弾込めを行っていた。
ゆきむらと言っただろうか。
魔力の際を一切持たない彼は、どうやらライブラリアンに恐怖など微塵も感じていないようで、自然体のままにライブラリアンと対峙している。
たまらず、香の口元より愛らしい苦笑が零れた。
ゆきむらを不快に思ったわけでは無い。滑稽さを嘲笑したわけでもない。
むしろ、力ないゆきむらが、ケルベロス以上に勇敢に敵に立ち向かう姿が香には眩しくさえ感じられた。
「ゆきむらさん。全力で私も戦いますよ…。でも、正直突破口が見いだせないんです」
苦笑ながらに香は、掌で剣の鞘を一撫でした。
ゆきむらの隣に並び立ち、ライブラリアンの前方、帳の様になって幾浮かび上がる、不明瞭な魔術の障壁をじっと俯瞰する。
「あぁ、俺たちの銃弾が弾かれちまってるもんな。その…香ちゃん」
ゆきむらが声を潜めて、香に耳打ちした。
「悪いな。カエシアには黙っていて貰いたいんだけど、実は俺ってケルベロスの力なんて微塵も持っちゃいなくて、相手がどれくらい強いかなんて見当がつかないんだ。正直、敵がただの美人さんにしか見えないんだよ。相手は強力なのか?」
間の抜けたような声だった。
香はさらに苦笑を深めながら、ゆきむらへと応える。
「えぇ、かなり強敵ですよ。私も魔術はちょっと苦手なんだけど、それでもわかってしまうくら、相手は、相当な手練れです」
微笑みながらそう言うと、ゆきむらが困惑気味に肩をそびやかした。
「思った以上に強力なのか…。それはちょっと骨が折れるな。となれば、作戦を考えないとな」
言いながら、ゆきむらが小銃の撃鉄を起こした。
鉄が軋む音が鳴り響き、ついで無機質な鉄の銃口がライブラリアンの眉間を狙いすます。
「敵デウスエクスは、今、魔力を貯めて、強力な魔術を放とうとしてます。もしも魔術が放たれたら、隔壁はおろか、格納庫も粉みじんになってしまうはず。それくらい強力な魔術を放とうとしているんです。なんとか攻撃は止めなくちゃ」
香もまた小声でゆきむらに答えた。
「オッケーだ。ところで香のお嬢ちゃん、なにか妙案はあるのかい?」
「えぇ…一応は。魔術障壁さえ破ることが出来れば…私にはこの剣があります。これで、相手の魔術を封じます」
鞘から剣を払う。
抜き身になった常切が銀色の刃先を煌めかせた。
抜刀ででゆきむらに応えてみせる。
ゆきむらは、小銃をライブラリアンに向けたまま、視線だけを香へとやると、形の良い唇をわずかに持ち上げた。
「オッケーだ。魔術障壁なら、カエシアがなんとかするはずさ。あとは、なにが必要だい?」
ゆきむらが鷹揚と答えた。緊張感のない声がむしろ、心地よく聞こえた。
「敵の魔術の発生場所が分かれば――と。どこを斬るのが最善かイマイチわからないんです。例えば、指とか喉とか。発生源が分かれば、あとは私の剣で…切り裂けるんですけど」
香が言えば、口元をゆきむらが愉快げに吊り上げた。
男性にしては柔らかな印象を与える指先が、銃把に絡みつく。
ゆきむらの指先がトリガーを押しこめば、撃鉄が勢いよく落とされ、雷管が打ち鳴らされる。
黒の光沢をたっぷりと滲ませた銃口が、火の息を吐きだし、ついで、銀製の銃弾が勢いよく空を駆けてゆく。
つんざく様な風切り音を上げながら、銃弾は、銃口の発射角の従い、魔術司書ライブラリアンの眉間へと猛然と突き進み、そうして、彼女を肌先三寸まで捉えたところで、不可視の壁に阻まれ、毬玉かなにかのように弾け飛んだ。
氷の微笑を浮かべるライブラリアンが、まるで羽虫かなにかも見るような目つきで、ゆきむらを一瞥した。
つんざく様な銃声の中、のびやかな抑揚と共に、ライブラリアンが泰然とした様子で魔術の詠唱を重ねてゆく。
再び、銃声が響き、ゆきむらの手にした小銃より、銃弾が放たれたる。
ゆきむらは、銃をスライドさせながら、発射角を微妙に調整し、ライブラリアンの心窩部、左右の前胸部、臀部、下腹部、そして、彼女が手にした魔術書目掛けて銃弾を見舞った。
乾いた風切り音が鳴り響き、目標物を目指して、銃弾が空を駆けあがっていく。
ライブラリアンは心窩部へと迫った銃弾など歯牙にもかけず、ゆきむらをあざ笑う様に、視線をゆきむらから外し、防壁群の一角へと向けた。銃弾は、寸分たがわずにライブラリアンの心臓部へと突き進むも、やはり、不可視の防壁によって叩き落されて、虚しくアスファルト床へと落下する。
左右の前胸部や臀部、下腹部へと迫った銃弾も弾き飛ばされて、同じ顛末を辿った。
魔導書目掛けて、飛翔する弾丸も、その末路はなんら変わらりはしなかった。
ライブラリアンは、魔術書を持った右手を側方へと振るい上げ、わずかに後方へと足を引き、そして魔導書に迫った銃弾を障壁にて弾き落としてみせるのだった。
ライブラリアンは、悠然とした挙止でもって再び魔導書を構え、次いで、カエシアやその他のケルベロスの攻勢に備えるのだった。
「たぶんだけど、魔力の発生源は…なんとなくわかったぜ」
ゆきむらが、小声で香に呟いた。
はたと香は瞠目がちにゆきむらへと視線を移す。
「えっ…、本当ですか――?」
やや声音が裏返っているのが自分でもわかった。ゆきむらが銃弾を放つ間、つねに魔術のセンサーを張り巡らせ、ライブラリアンの挙止を窺っていたが、魔術の流れに乱れのようなものは無かった。
「あぁ、実はさ、カエシアが魔術で応戦したり、仲間のケルベロス達が銃弾で戦うのをぼんやりと眺めてたんだけどさ、敵のデウスエクスは、流れ玉ばっかりに反応してたんだよ…。右手の魔術書…そこに銃弾が向かった時、反射的に回避行動を取ってる」
ゆきむらは言いながら、弾倉が空になるまで銃弾を打ち切った。もちろん、放った銃弾はライブラリアンの魔術障壁に阻まれて、虚しく飛散するばかりであった。
だが、銃弾が魔術書を掠めるたびにライブラリアンは僅かに体勢を変えて、魔術書前方に張った魔術障壁の濃度を微妙に密とした。
ゆきむらに言われるまで気づかなかったが、ライブラリアンは魔術書に明らかに気を払っている。
「カエシア、どうだ? 相手の魔術の発生源は分かるか?」
ゆきむらが語気を強めてカエシアへと尋ねた。
カエシアは、間断ない魔術でライブラリアンへのけん制を行っていた。前方へとすらりと伸びたカエシアんお二の腕は、絶えず紫色の光芒を纏い、帯電した光の粒子が、乾いた音を上げながら、巨大な雷光となって迸っていた。
ライブラリアンの張り巡らされた魔術障壁は、幾つかがカエシアの放つ魔術に砕かれた。
だが、それでもなお、雷撃は全ての魔術障壁を打ち砕くこと叶わず、また、崩れた障壁もたちどころに修繕された。
カエシアは、大きく溜息を吐きだすと、力なげに肩を落とす。
「メンター、香ちゃん、ごめんなさい…。全然、わかりません。まるで巨大な嵐を前にしているみたいなんです。魔力が渦が大きすぎるんです。正直、全身から魔力が、発生しているみたい。発生どころは検討もつかない…です」
カエシアの言葉にゆきむらがうなづいた。
ついでゆきむらが香を正面に見据える。
「半分は賭けになっちまう――」
外連味ばかりが悪目立ちする、三枚目男が、神妙な表情で香へと言った。
香はゆきむらと顔を合わせると、小さく頷いて応える。
「えぇ、でも…私はゆきむらさんの賭けに乗ってみたい」
ふと、香が、ゆきむらとの名前を呟いたとき、その語感から必然、歴史上の人物の姿が想起された。
学問としての日本史は、受験生にとっては無味乾燥で、苦痛な、暗記の連続である。
しかし日本では良くも悪くも暗記術こそが受験勉強の王道であるという不文律があり、文理問わずに低学年のうちは、歴史学の履修は必須となっていた。
日本史が中世から近世へと移り変わる中、つもり安土桃山時代から江戸時代への移行期に関して言うならば、日本史の教科書上では、大阪の陣から徳川幕府の開闢に至るまでの出来事が数行にわたり、簡素に記載されているだけだった。
うろ覚えだが、教科書には徳川家康、秀忠、あとは豊臣秀頼の名前が列挙されているくらいだろう。
だが、日本で生きる者ならば、誰しもが、その名を知っている。
真田左衛門佐幸村(さなださえもんのすけゆきむら)――。
父がお茶の間で視聴していた大河ドラマでも幾度か取り上げられた人物である。
幸村の父の代から数えて、徳川と三度戦い、そしてそのすべてで戦術的な勝利を挙げた人物だ。詳しいところまでは香は知らなかったが、圧倒的な敵を前にした時、『ゆきむら』の名を負う人物が味方にいるのは悪い気はしなかった。
香は微笑を浮かべながら足を踏みならす。
「行きましょう、ゆきむらさん! ババッと敵に近づいて、ズバッと…! 私が相手を切り裂いてきます」
二度三度と軽やかにアスファルト床を蹴り上げ、助走をつける。
きりっと、目を細めてライブラリアンが手にした魔導書へと狙いをつける。
「あぁ、頼んだぜ、香のお嬢ちゃん…相手の魔術障壁は――」
ゆきむらが、途中で言葉を切った。
間髪入れず、カエシアが続いた。
「敵の魔術障壁は…私が崩します。その隙をついて、香ちゃんは敵の魔術書を!」
言うや否や、カエシアが両手を振り上げた。
振り上げた、カエシアの指先で嵐が渦巻くのが分かった。
魔術の暴風が乳白色の繊細な指先に絡みつき、巨大な稲妻を生み出したのだ。
香はカエシアへと目合図して応えると、地面すれすれまで姿勢を倒して、疾駆の体勢を取る。
赤漆塗の鞘を左手で下方へと落とし、愛刀『常切』を右手で上段に構える。
香は、共に戦場を駆け抜けていった、最愛の義姉にして、厳格なる師の姿を思い浮かべる。
強さの象徴とは、あの漆黒の獣を差し置いて他に存在はしない。
あの背中を追い、自分を鍛え上げてきた。
そして、今日、あの背中を追い越すのだ。
香は、脳裏にて彼女の動きをトレースしながら、息を整え、突撃の瞬間に備える。
カエシアの指先に収束した膨大な魔力は、ますますに膨れ上がっていくのが分かった。
決して、ライブラリアンにも見劣りしないほどの魔力だ。
事実、香の視線の先、平然と立ち振る舞っていたライブラリアンが、その端正な面差しをわずかに引きつらせているのが分かった。
「行きます――」
幼さ残るカエシアの声が響いた。
「香のお嬢ちゃん、今だ――!」
ゆきむらの声が続いた。
両者の声が響き、ついで、カエシアの手が振り落とされる。
香は、二人の声を合図に勢いよく大地を踏み抜いた。
香の側方すれすれをカエシアの放った魔術の閃光が走り抜けていく。
まるで竜の様な形をとった紫色の雷光は、渦を巻きながら一直線にライブラリアンを飲み込んだ。
雷光が、ライブラリアン前方に聳える魔術障壁へと鋭い刃を突き立てれば、障壁の表面に亀裂が走る。まるで雲母かなにかが砕けるように、魔術障壁が一枚、二枚と砕け散るのが見えた。
ライブラリアンが、ぴたりと詠唱を止めるのが分かった。
彼女は、魔術書を右手で保持したまま、早口でなにやらを口にする。
彼女が言葉を重ねるたびに、魔術障壁がますますに厚みを増していく。
それでもなお雷撃は、三層、四層と障壁を撃ち抜いていく。
ライブラリアンが苛立った様子で魔術を詠唱するのが聞かれた。五層目の魔術障壁の表面にひびが入り、瞬く間に砕け散った。
巨大な雷光が、ついぞ、ライブラリアンの目前に聳える最後の障壁へと牙を突き立てる。
障壁が大きくたわむのが見えた。
雷撃と障壁とは、押しつ押されつしながら、陥没と隆起を繰り返す。
やにわに雷光が勢いを落とし、ついで障壁全体にも、蜘蛛の巣の様な綻びが走った。
雷撃は最後の力を振り絞るようにして、障壁を一歩、後方へと押し込むも、しかし、弱弱しく震えだし、紫色の飛沫となって飛散する。
雷撃は砕け散った。だが――。
ぴしりと、薄氷がひび割れるような乾いた音が鳴った。
淡い紫色の光の中で、魔術障壁に浮き彫りになった亀裂は広がってゆき、障壁全体を蝕んでゆく
ぴしりぴしりと音を上げながら、立ちはだかる障壁が完全に崩れ落ちた。
立ち込める光の奔流の中、ついぞ、ここにすべての障壁は破壊されたのだった。
香は、ただ、カエシアの魔術を信じて走った。
そして、カエシアの魔術は見事にすべての障壁を打ち砕いた。
今や香を遮るものはなにも存在しはしなかった。となれば、あとは香がやることはただ一つだ。
香は、一息の間にライブラリアンの懐へと飛び込んだ。
体をひねり剣を構える。
「分ち、封じ、縛る――」
両の眼で魔導書を睨み据える。
吐息をつき、剣戟の態勢を整える。そうして香が、まさに剣を振りぬかんとしたその瞬間、香の頭上で、蒼い瞳が、酷薄な色を湛えながらゆったりと細められるのが見えた。
「気づかないとでも思ったのかしら…?」
冷笑するようにライブラリアンが、言い放った。
瞬間、ライブラリアンの後方で待機していた魔導書の一冊より、焔が上がった。
「死になさい…?」
まさに剣の一閃よりもなお早く、立ち上る炎が香を包み込んだ。
焔は、赤黒い焔の舌を伸ばしながら、火柱を舞い上がらせ、立ちどころに香を飲み込み、焼灼する。
業火の中で、香の『影』が黒く縮み、塵芥となって燃え尽きていく。
ライブラリアンが、小さく肩をなでおろした。安堵したような息が彼女の口から零れた。
しかし――。
「分ち、封じ、縛る――」
凛然とした声音でもって、『香』はライブラリアンへと宣戦布告する。
香の声音に続き、炎の傍らをすり抜けるようにして、黒い影がライブラリアンの側方へと躍り出た。
凍り付いた時間の中で、ライブラリアンの視線が側方の影へとゆったりと移動していく。
少なくともライブラリアンは、香を焼灼したと錯覚したのだろう。
焔が火勢を落としてゆけば、焔の中、香の影は、まるで陽炎の様に霧散していく。
香の影は消失した。
しかし、焔が飲み込んだのは、単なる残像に過ぎない。なにも、直線的に攻めあがるほどに、香は単純思考では無かった。
残像を生み出し、咄嗟に回避行動に移ったのである。
結果、焔は残像を飲み込み、無傷なままの香は、今や完全に無謀になったライブラリアンの側方にて剣を構えるに至ったのだ。
腰をひねり、体に力を籠める。
限界まで体を伸展させ、ついで、一歩右足を前方に踏み出した。
「そして……断ち切る――!」
力強くいい放つ。
同時に、香が剣を振り上げれば、愛刀『常切』は、破魔の刃でもって、ライブラリアンの掌ごとに魔術書を一刀両断にする。
魂断ノ剣により、魔術書は切り裂かれ、ばらばらとなった魔術書の紙片が宙を舞った。
鮮血をまき散らしながら、ライブラリアンが苦悶の表情を浮かべるのが見えた。
魔術書がライブラリアンの手元を離れれば、それまで、嵐の様に高まっていた魔力の奔流が唐突に勢いを落としていくのが分かった。
思った通りだ。
魔術書が失われることで、ライブラリアンの魔術もまた、消失したのである。
香は、ライブラリアンから距離を取り、短刀を構える。
賭けは――私たちの勝ちだ。
防壁まで一挙に遠ざかると、香はゆきむら、カエシアの両名へと陽気に目配せする。
息を荒げながらカエシアが微笑み、ゆきむらが親指を立てた。
もはや相手は、最大級の魔力を繰り出すことはできないだろう。
そうなれば、あとは…彼らが戦いに終止符を打つはずだ。
香は、剣を構えながら、鷹揚と歩を進める味方猟兵へと視線を遣る。
今まさに、二振りの刃が、振り下ろされんとしていた。
大成功
🔵🔵🔵
ハル・エーヴィヒカイト
◎
連携○
▼ポジション
Cs
▼心情
魔術に特化したデウスエクスか
私の剣がどこまで届くかわからないが
全力で立ち向かうまでだ
▼戦闘
やるべきことは変わらない
二人には引き続き後方支援を頼む
連携して動く猟兵がいた場合は即席の[集団戦術]で相手の魔術に対抗しよう
まずはUCを発動
相手に直撃させる必要はない。空間を薙ぎ、この戦場に敵だけを斬り刻み続ける領域を展開する
相手の魔術書から放たれる攻撃を[心眼]と[気配感知]によって[見切り]、
水の刃を[斬撃波]によって相殺し氷の嵐は[霊的防護]を備えた刀剣で取り囲んだ[結界術]によって[受け流し]自身や二人の身を守る
勿論相手の目的を果たさせるつもりもない。私を倒さない限りは試作機の破壊もかなわないことを理解してもらう
UCによる斬撃の嵐で、奴の書の中でも試作機を狙う書を優先して[部位破壊]して行こう
相手が隙を見せたのならUCの空間を断つ一閃の直撃も狙っていく
エクレア・エクレール
◎、Cs
配下の竜を全て倒されてなお撤退を選ばぬのか
己が力によほど自信があるのか、それとも目的を一つでも達成しようとしておるのか
はたまた、見掛けによらず頭が回らぬだけか
いずれにせよ、おぬしにくれてやれる土産は|十字槍《これ》だけじゃ
炎や氷、さらには雷も操るようじゃが、その原初の力とくと味わうが良い
まずは一気に外へと押し出そう
魔術書は《雷霊剣》で対応
十字槍をもって攻撃しよう
なるほど、おぬしらデウスエクスは永遠不滅という話じゃったな
それならば撤退を選ばぬのも分かる
じゃが、復活にはグラビティ・チェインとやらを消費するのじゃろう
さきほど見せた力が底と思われても心外じゃ
炭一つ残らず消滅させてやろう(UC)
●
風が凪ぎ、豪雨が足音を遠のいていく。
暴風雨を彷彿とさせる巨大な魔力の渦が、急速に委縮していくのが分かった。
魔力が霧散した後で、硬いアスファルト通路のもと、かつての魔術の中心地には、ぽつ然と立ちすくむ金髪碧眼の女の姿だけがただ残った。
満身創痍とはまさにこの事だろうか。白のブラウスの上に黒地のシックなワンピースを重ね着した司書風の女は、息も絶え絶えに、いかにも消沈した様子で、辛うじて魔術の詠唱を唱えるに過ぎぬほどに疲弊して見えた。
既に大勢は決しつつあると、ハル・エーヴィヒカイト(閃花の剣聖・f40781)は見る。
敵は、魔術に特化したデウスエクスである。今、敵デウスエクス、ライブラリアンは、魔術を支える魔力の枯渇を前に喘鳴を上げているのだ。
当初、自らの剣がどこまで彼女に通用するかは、いまいち判然としないものがあった。
しかし、現状ならば十分に対抗することができるとハルにも断言できる。
傍らを見遣れば、友軍猟兵の姿もある。
以前、戦場を共に駆け抜けた少女で、たしか名をエクレア・エクレール(ライトニングレディ・f43448)と言っただろうか。
蜂蜜色の双眸が、爛漫と見開かれていた。少女が一歩を刻むたびに、アスファルト張りの通路に陽気な靴音が響き渡った。
少女が薄紅色の唇を優雅に開閉させた。
「さて、いかがするかのう? 敵は半生半死のありさまであるが、紛れもなく手練れ。異界の剣客殿…なにか良き献策はあろうかな」
少女は、ハルの隣まで歩を進めると、優雅に言い放った。
十代半ば程の風貌からは想像できない、古風な言いまわしで少女はハルに尋ねたのである。
敵デウスエクス『ライブラリアン』に視線を固定させたまま、ハルは頷く。
「現在、敵は、大きく魔力を減じられたとみる。となれば、好機である。と同時に、敵はおそらく戦いの方針を買えるだろう。敵が、このまま戦えば、追い詰められ、なんら目的を果たすことなく、敵は消滅の憂き目にあうろうことは明白だ。そのあたりは敵の知るところでもあるはずだ。――怜悧な彼女の事だ。格納庫の破壊が無理と見れば、より、現実的な成果を追求するのではないだろうか?」
ハルは答える。矢継ぎ早に少女が、問答を繰り返す。
「ふむ…より現実的な成果とは?」
「仮に私が敵ならば、格納庫の破壊を断念したとしてもなにかしらの手土産と共に討ち死にする事を選ぶだろう。デウスエクスは不死なる存在だ。悪辣な仮定になってしまい恐縮だが、今後の戦いを念頭に置くとすれば、敵は障害となるだろう人物たちを抹殺する事を選ぶのではないだろうか?」
言葉にすることで、自らの中の考えも固まっていく様だった。ライブラリアンがその矛をケルベロス達へと向けるだろう光景がぼんやりと想像された。
ひとしきり言い終えると、ハルはエクレアに先駆けて、一歩を踏み出した。
「とはいえ、やるべきことは変わらない。敵の攻撃はすべて無力化して、その上で敵を打ち破ればよい――。幸い、あなたもここにいる。二人で力を合わせれば、多少の障害など、もはや障害たりえまい。ご協力をお願いできるだろうか」
ハルが少女へと言えば、背中越しに屈託なさげな笑い声が響いた。
「うむ。もとよりそのつもりよ。では、剣客殿、儂とケルベロスらの守りを任せられるだろうかの?」
「あぁ、任された。攻撃はあなたに任せるが…はてさて、どれほど時間を稼げばよいかな?」
先の共闘の際、少女の戦いぶりを、ハルは脳裏にてしっかりと記憶していた。
機械神『レヴィアタン』との戦いにて、彼女は工廠破壊といいう重責を見事に果たした。その際、彼女が見せた圧倒的な雷撃の瞬きを、ハルは今なお、克明に思い出すことが出来る。
とはいえ、あれほどの力を発揮するのは容易ならざることであろう。
先だっての戦いにおいても、彼女は力を蓄えるのに時間を要したのをハルは同時に覚えていた。
「三分…いや、腹蔵なく言わせてもらうのならば五分、時を稼がれたし」
少女が言った。
ハルは無言で首を縦に振ると、さらに一歩を踏み出した。
同時に、鞘から三寸程度、剣を滑らせる。
わずかに顔を覗かせた刀身は、銀色の光沢をねっとりと滲ませている。
ハルは、そのまますり足で歩を進めてゆき、エクレアをはじめ、デウスエクス達を背にする様な格好で、ライブラリアンの前に立ちはだかった。
ライブラリアンが、不愉快そのもの口角を斜に落とすのが見えた。
「まったく忌々しい限りね」
ライブラリアンが、口を尖らせながら、憤然と言い放つ。
彼女は、空の右手に魔術書を顕現させると、即座に魔術の詠唱を開始した。
氷の瞳は、理知の色を湛えたままに、苛立たしげに見開かれていた。
最大級の魔術を未然に防がれ、ついで、捨て身覚悟の突貫へと戦略を切り替えた矢先、その戦略もハルが横やりを入れたのだ。
なるほど、彼女が気色ばむのも、分からないでもない。
ハルは苦笑でもって女に応える。
「忌まわしくて結構だ。誰一人とて、貴様の凶刃に傷つけさせるつもりは無いのでな」
再び、ライブラリアンの後方で、二冊の魔導書が色彩を帯びていくのが見えた。朱と青の羊皮紙で想定された魔導書が、赤らみ、青ざめ、魔力を迸らせた。
ハルは、抜刀でもって、ライブラリアンの魔力に対抗する。
「我が心、我が魂、我が生命――花と散れ」
言葉を紡ぐことで、自らの中、徐々に水嵩を増してゆく、奇跡の力の奔流を一挙に放出する。
目前では、ライブラリアンもまた、一心不乱に魔術を練り上げていた。
ハルの低音に負けじと、ライブラリアンのしっとりとした高音が絹の調でもって鳴り響く。
ハルの艶っぽい重低音と、ライブラリアンの鈴を転がすような凛とした声音が混ざり合い、高低相まった二重奏となって、長廊下へと響き渡ってゆく。
「其は別れを告げる刃。絶刀・雪月風花――」
ハルの雄々しい声音が、鈴なりに響く女の声を圧倒した。
「エル・アル・サルファ・メディオキウム・メドロリウム――」
艶っぽいハルの声音に抵抗するように、女が声を振り絞った。
「――さよならだ」
「――焔と氷の洗礼の中、粉塵と化しなさい」
終焉を告げる言の葉が、同時に紡がれた。
ハルが剣を抜刀し、ライブラリアンが右手を前方へと伸ばす。
瞬間、剣戟の軌道をなぞるようにして、薄紅色を湛えた桜の花弁が花吹雪となってあふれ出し、赤青の魔導書よりは赤黒い火炎弾と、青ざめた氷結の刃が数多、現出した。
ハル、ライブラリアンの挙止に従い、花弁は鮮やかに空を舞い、氷の刃が青白い閃光となって大気を切り裂いた。
桜の花弁と氷の刃がぶつかり合い、僅かな鍔競り合いの後、氷刃が砕け散った。
銀粉舞う中を、桜の花弁が一斉に駆け上がっていくのも束の間、しかし、生み出された無数の焔が、割って入るようにして、桜の花弁へと火の手を伸ばした。
焔が、鋸歯状の大口を開口させ、桜の花びらを飲み込んだ。赤黒い焔の揺らめきの中で白い花弁が、身を捩らせながら黒く燃え尽きてゆくのが見えた。
ハルは視線誘導でもって、桜の花弁を再び放つ。
今やアスファルト張りの通路は無数の花弁により埋め尽くされている、
ひとひらの花弁が燃え尽きようとも、舞い散る花弁は無限と存在するのだ。
ハルが鋭い視線でもって飛翔する火炎弾を順繰りに睨み据えれば、花弁は一塊となって焔へと群がり、今度は一転、花嵐が焔を包んだ。
綿花の様に膨れ上がった焔が、八方から押し寄せる桜の花弁によって抱擁され、圧縮され、散り散りの火の粉となって、四散する。
ここに戦場は、ハル、そしてライブラリアンの独壇場と化した。
ライブラリアンもハルも、互いに一歩も引くことなく、それぞれが攻勢と守勢に意識を傾注させながら、片や花弁を模した無数の剣でもって、片や焔と氷の魔術でもって干戈を交えた。
ライブラリアンが、繊細な指先でもって、鮮やかに虚空をなぞれば、無数の焔が赤い牙をむき出しにしながら戦場全体へと赤黒い尾を伸ばす。
時に防壁群へ、またある時はハルや、ハルの後方に控えるエクレアのもとへと、焔がなびいた。
ハルは、迸る炎に対して剣でもって答えを示した。
ハルが剣を横一閃すれば、花吹雪が舞い上がり、それらは巨大な網の様な形を取りながらすっぽりと焔を包み、鎮火する。
ライブラリアンが、指先を擦った。乾いた音が鳴り響く中、青の魔導書より生み出された氷結の刃が、続々と空を駆けてゆく。
彼女の挙止を視認するや、ハルは剣の切っ先で十字を切る。
氷結の刃の進路へと向け、先んじて桜吹雪を発生させる。
真剣を扱わぬとはいえ、剣の扱いにおいてはハルに一日の長がある。
顕現された氷の刃は、直線的な軌道でもって目標物へと向かい空を飛翔していくも、絶刀・雪月風花により生み出された桜の花弁に進路を阻まれ、中途で切り伏せられ、アスファルト床へと叩き落とされていく。
ライブラリアンが表情をしかめるのが見えた。
今やハルとライブラリアンの勢いは、完全に拮抗していた。ライブラリアンの魔術はそのすべてがハルのユーベルコード『絶刀・雪月風花』によって阻まれ、無力化されていたし、ハルも決定打を得られぬままにいた。
ハルとてライブラリアンの攻撃を全ていなし、その上で攻勢に転じるほどの実力を有しているわけでは無い。
だが、ハルにとってはこの均衡状態を維持する事さえできれば良かった。ハルには友軍の猟兵の存在があったし、味方ケルベロスもまた戦力として期待できる。
対して、ライブラリアンは孤立無援に追い込まれている。
その上、彼女にとっての切り札である魔力も払底しつつある。現状を打破して、有効打を与えなければ、彼女はじりじりと追い込まれて、結果、なんら成果をあげることなく、果てるだろう。
そう、今、時間はハルに味方しているのだ。
焦慮の翳りが、ライブラリアンの端正な面差しに滲んで見えた。
そして、元来ならば聡明な女は、焦燥感より明らかな悪手を打つ。
ライブラリアンは、ハル目掛けて距離を詰めるのが見えた。
生み出した氷結の刃を片手に携え、彼女はハル相手にやっとうで勝負を決せんとしたのだ。
ハルは即座に掌で剣を返す。
下段で剣を構えれば、剣の切っ先が、鋭くアスファルト床を睨み据えた。
妙に緩慢にライブラリアンが剣を振り上げるのが見えた。
「悪いが――この距離は…」
ライブラリアンの氷結の刃が、中天へと向けられるよりも早く、ハルは、巧みな足さばきでもって一挙にライブラリアンの懐へと潜り込んだ。
ぴくりとライブラリアンが瞳を見開いた。
ハルの接近に辛うじて、目だけは反応は出来たのだろう。
だが、網膜に焼き付けられたイメージが視神経を介し、視覚中枢へと伝搬され、更に脳で処理され、再び運動神経へと指令が送られるまでには、刹那の時を要する。
彼女は聡明であり、魔術師としては一流であろう。
だが、剣客としてみるのならば凡庸そのものである。
この刹那のやり取りこそが、剣客達にとってのすべてである。ライブラリアンは、剣客にとっては決定的な間に無防備をさらけ出したに等しく、対するハルはこの刹那を活かし、既に、逆袈裟切りの初動へと移行しつつあった。
「この距離は、私の間合いだ!」
ライブラリアンを剣の間合いに捉えるや、流れるような挙止でもって剣戟を放つ。
踏み込んだ右足を軸にして、腰臀筋群から、脊柱起立筋群、上腕筋群に至るまでのすべての筋群を一斉に伸展させれば、下段で構えた剣は、三日月の軌道を描きながら音も無く上方へと駆け上がっていく。
銀色の閃光が虚空を切り裂き、一瞬遅れて、黒の司書服を切り裂くようにして、ライブラリアンの下腹部から前胸部にかけて鮮紅色の筋目が薄らと刻まれた。
赤々とした血の飛沫が傷跡よりあふれ出せば、ライブラリアンが力なく蹈鞴を踏む。
ライブラリアンが弱弱しい足取りで、後方へと一歩、二歩と後ろざるのが見えた。
ハルは剣を返して鞘に納めると、左方へと飛びのいた。
既に五分が経過した今、ハルは役目を終えたのだ。追撃は野暮というものだろう。
雷の通り道を開けるようにハルはその場を後にする。
さぁ、雷霆神の力、とくと拝ませてもらおうか。
●
掌を握りしめれば、帯電した光の粒子は、青みがかった泡沫となって握りこぶしの隙間からあふれ出す。
エクレア・エクレール(ライトニングレディ・f43448)が掌を開き、そうして十字槍を握りしめれば、全身で迸る、無限にも等しい雷の力が掌より迸り、十字槍へと伝搬していった。
槍の穂先が金色に輝いている。全身に纏ったルーンが、仄かな熱を帯びながら、くっきりと浮かびあがっていた。
五分間、エクレアはただただ力を蓄える事だけに意識を傾注させた。
そうして蓄えた力でもって、一つ、また一つとルーンを開放することで、今、エクレアは雷霆神の名が示す通り、フォーミュラー級の力を自らの中で発現させたのである。
エクレアの前で、異界の剣客が道をエクレアへと道を開けるのが見えた。
開かれた視界の元、既に虫の息の魔術司書ライブラリアンの姿がある。
配下の竜を全て倒されてなお撤退を選ばずに戦い続けたデウスエクスの姿がそこにあった。
果たして、彼女が意地を張ってまでこの場にとどまった理由とはなんであったのだろうか。
ライブラリアンの魔術の才は確かなものであった。その自信が高じて、傲慢となり、ケルベロスや猟兵を圧倒できると目算を誤ったのだろうか。
はたまた見かけによらず、頭が回らずに、敵味方の優劣を見誤り撤退の機を逸したのだろうか。
敵なりの信念とでもいおうか、目的達成のためにあえて、この場に留まったのだろうか。
真意は、ライブラリアンのみが知る。
さりとて、理由がなんであろうとも、エクレアがやるべきことはただ一つだ。
「のう、ライブラリアンよ――。この戦い、終いにしようぞ?」
エクレアは軽やかに言い放つと、上空で輪を描くようにして槍を一薙ぎ、二薙ぎし、鋭い穂先でもってライブラリアンを制した。
満身創痍のライブラリアンが、咄嗟になにかを口ずさんだ。
凛然とした声音が、幾分も苦痛げに魔術言語を詠唱するたびに、ライブラリアンの後方にて控える赤の魔術書がやおら発赤するのが伺われた。
「すまぬが、やらせはせぬぞ?」
エクレアは手にした十字槍の柄でもって、アスファルト床を一叩きする。
瞬間、軽やかな叩打音と共に生み出されたの雷撃の刃であった。
雷霊剣、エクレアが生み出した雷の刃は、音も無く空を飛翔し、そうして赤の魔術書を瞬く間に貫いた。
切り裂かれた魔術書の項が宙に散乱し、魔導書が力なくアスファルト床の上に横たわるのが見えた。
ライブラリアンと先ほどの剣客――確か、名をハル殿といっただろうか。両者による応酬は、熾烈を極めた。
さしものライブラリアンとは言え、先ほどのやり合いで、魔力の大部分を失ったのは誰の眼にも明らかだった。
雷霊剣により、容易に無力化された赤の魔導書の存在がが、ライブラリアンの魔力が払底しつつあることを何よりも雄弁に教唆している。
ライブラリアンの端正な相貌に、汗の雫が浮かびあった。一滴の汗は、柔和な曲線を描くライブラリアンの頬を伝い、おとがいへと流れ、アスファルト床へと滴り落ちた。
「華美にて荒々しい、稲妻の土産じゃ。しかと眼に焼き付けるがよい。おぬしにくれてやる唯一の土産、この十字槍が生み出す雷光をの」
エクレアは言いながら、更に十字槍の柄で、アスファルト床をさらに一叩き、二叩きする。
瞬間、足元より烈風が舞い起こった。
強烈な烈風は、渦を巻きながら、エクレアもろともにライブラリアンを飲み込むと、上空へと向かい突き進んでいく。
先立って、天井に大穴をこじ開けたのが吉となった。
烈風は、登り竜の様に大穴を上空へと向かい走り抜けてゆき、ほんの一息、二息の間に、エクレア、ライブラリアンの両名を大空へと放り投げるのだった。
青空が急激にエクレアに迫ってきた。晩夏特有の、うだるような陽光が肌を焼いている。
地下道の陰気な冷たさとは異なり、空は穏やかな陽気に満ち満ちている。
天の首座には日輪が居座り、雲一つない濃紺の空をわが物顔で満喫している。
太陽に負けじと、ふんとエクレアは鼻を鳴らした。
雷霆神に、青空というのはやや締まりが悪い。
エクレアは、十字槍を構えると軽く振り上げて、雷と風の力を用いて、一種特殊な力場を強引に形成する。
槍の穂先が天を突けば、晴天の空へと黒雲がかかる。
黒雲は急激に、密度と体積を増してゆきながら、空一面に低く垂れてゆくと、中天に座す至尊たる太陽を完全に覆い隠し、暗闇で世界を閉ざした。
ついでエクレアが槍を下方へと向ければ、足元にて柔らかな風が放射状に広がってゆき、エクレア、ライブラリアンの足元に、確固たる足場を形成する。
垂直落下を続けていたエクレア、ライブラリアンの両名が、不可視の足場に支えられて空中にてぴたりと静止した。
エクレアは槍の穂先をライブラリアンの喉元目掛けて伸ばす。
両者は、未だ数間程の距離にて隔てられている。
しかしこの様なわずかな間隙など、エクレアにはなんら気になりはしなかった。
「なるほど、おぬしらデウスエクスは永遠不滅という話じゃったな。それならば撤退を選ばぬのも分かる。不死性を思えば、怯懦よりも蛮勇を選ぶのは当然であろうからな」
エクレアの言葉にライブラリアンが、やにわに眉をひそめた。
彼女は不快そのもの顔をしかめながら、そうして、魔導書無しで呪文の詠唱を始めた。
これほどの劣勢にありながらも、最後まで心折れずに不遜を貫く姿からは、なるほど、神の名を僭称するだけの権高さと威風の程が確かに感じられた。
血染めの司書服が、曇天のもと、妙に鮮やかに映えていた。
無言のままに、しかし感情をむき出しにしながらエクレアを睨み据えるライブラリアの相貌が、エクレアにはむしろ好ましくすら感じられた。
「――復活にはグラビティ・チェインとやらを消費するのじゃろう。さきほど見せた力が底と思われても心外じゃ。それに戦いにおいて情けをかける事こそ、最大の侮辱であろうからな?」
エクレアが双眸を細めてみせれば、ライブラリアンもまた、両手を振り上げる。
ライブラリアンの指先に、膨大な魔力が収束していくのが分かった。
青と赤、そして緑、三色の色彩を帯びた魔力の波動が指先にて膨れ上がる。
魔力が膨張して砕け散れば、突如、ライブラリアンの後方にて、無数の焔柱が巻き起こった。
おそらく、最後の魔力を振り絞りライブラリアンは、自らの魔力のみで、炎の魔術書とそっくり同等の魔術を完全な形で顕現させたのだ。
「よかろう――」
不可視の足場を踏みしめながら、エクレアは槍を後方へと振り上げ、槍撃の構えを取る。
上体を低く倒し、肉食獣そのもの体勢を整える。
獰猛さと喜色とを湛えた両の眼で、ライブラリアンを見上げる。
「炭一つ残らず消滅させてやろう…覚悟、召されよ?」
エクレアの言葉にライブラリアンは微笑で答えた。
彼女は発声を交えずに、ゆったりとした挙止でもって両手を下ろす。
振り下ろされた指先に押し出されるようにして、ライブラリアンの周囲で迸る無数の火柱が蠢動を始めた。
火柱と火柱とが、複雑に絡みあいながら膨れ上がり、そうして巨大な炎の大腕へと姿を変じるのが見えた。
炎の大腕は、大きくたわみ、ついで、勢い伸縮すると、巨大な一薙ぎでもってエクレアを強襲する。
赤い大塊が、エクレアの前に立ちはだかり、エクレアの視界を鮮やかな赤一色に埋め尽くした。
焔の指先が齎した熱気により、エクレアの乳白色の素肌がほの赤く染まった。肌を焼く音が鼓膜に鳴り響く。ついで、熱気が全身に走った。
ライブラリアンなるデウスエクスの大魔術は、なるほど見事である。
だが、それでもなお、エクレアを滅するにはやや力不足である。
仮に魔力が全開の状態で放たれたのならば結果はいざ知れず、瀕死の状態の十全といかぬ魔力で放たれた魔術では、エクレアを焼き尽くすには役不足もいいところだ。
エクレアは、全身に蓄えた力を一挙に開放する。
ルーンの力を全て放出し、そうして、槍の穂先を前方へと倒sる、目前で燃え盛る炎へと目掛け、勢いよく、疾駆する。
エクレアの姿態が前方へと滑り出した。
十字槍と一体化した、エクレアのしなやかな体躯は、立ち込める焔をまるで絹かなにかのように切り裂きながら、焔の大腕の中央に巨大な亀裂をこじ開け、勢いそのまま、空を駆け抜けていく。
轟雷の名が示すように、今、エクレアは一条の雷光と化したのだ。
金色の稲妻は、焔を払いのけ、縦横無尽に空を荒らしまわりながら、そのままライブラリアンに穂先を突き付けた。
槍の穂先がライブラリアンに触れれば、ライブラリアンもまた、雷光の中に包まれる。
一切合切の力を全て放出しながら、エクレアは、ライブラリアンもとろもに十字槍を力いっぱい、振り切った。
奔騰する雷撃の余波が、世界を白く染めだした。
白い光の奔流の中、ライブラリアンの輪郭が、にわかにぼやけていく。
雷光が抱擁を受けて、ライブラリアンの四肢が白い泡沫と化し、ついで首元までが光の中へと溶け出していった。
ふとエクレアが槍先へと視線を遣れば、曖昧に微笑を浮かべるライブラリアンの姿が目に入った。
彼女が浮かべたのは、果たして彼女なりの充足感の現れであったのか。それとも、権高なる嘲笑であったのか。 エクレアが、答えを模索するよりも早くライブラリアンの笑貌は、奔騰する光の渦の中に直ちにかき消されていった。
もっともエクレアにとっては、どちらであろうとも大した相違はない。ただ、全力を尽くして、消えていった敵の笑みが意味するところは一つであることをエクレアは知悉していた。
十字槍を薙ぐ。
乾いた風切り音を上げつつ、十字槍はあふれ出した微光を絡めつつ、虚空を掠めた。
ライブラリアンの消滅と同時に雷光は急激に勢いを弱めてゆく。
雷光は失せ、エクレアは再び、曇天の中へと舞い戻った。
ふとエクレアが頭上を見上がれば、雲居より太陽が顔を覗かせていることに気づいた。
無人となった大空を滑空しながら、エクレアは槍を振り上げ一人勝鬨を上げた。
むろん、歓声は聞かれなかった。
雷霆神による凱旋は、誰の目にもつくことなく、静謐と佇む曇天のもとで粛々と行われたのだった。
人類の叡智の結晶は、此度の戦いの立役者である猟兵たちに守られながら、雷光の行方とは無縁に、未だ地下深く、隔壁の中で安眠を貪っているのだろう。
遠く、雷鳴が鳴り響き、ついで遥か眼下で歓呼の声が聴かれた。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
第3章 日常
『貸し切り温泉に行こう』
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POW : 熱い湯舟やサウナを楽しむ
SPD : お風呂上がりのドリンクやゲームを楽しむ
WIZ : 薬湯や打たせ湯で身体を癒す
イラスト:del
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種別『日常』のルール
「POW・SPD・WIZ」の能力値別に書かれた「この章でできる行動の例」を参考にしつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。
| 大成功 | 🔵🔵🔵 |
| 成功 | 🔵🔵🔴 |
| 苦戦 | 🔵🔴🔴 |
| 失敗 | 🔴🔴🔴 |
| 大失敗 | [評価なし] |
👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。
●閑話
天井の白色灯は、綿花の様に柔和に膨らみながら、淡い光の泡沫を噴き散らしている。
新築のアスファルト壁は、降りかかる光を浴びながら乳白色の壁面を艶っぽくそびやかしている。
周囲を見遣れども、四囲に並んだ書棚や酒棚を別として、ジョンの政務室は、壁飾りや絵画、扁額や彫刻などといった装飾とは無縁である。
そこには殺風景な一室が、淡い人工灯の中で身もだえするように、懐かしい面差しをさらけ出しながら、ゆきむらを出迎えていた。
この無機質なアスファルト張りの政務室にゆきむらが通されたのは、『断片竜ページドラゴン』『魔術司書ライブラリアン』との戦いが落着し、ややあってからの事だった。
久方ぶりに訪れたジョン・フェラー元教授の新たなる住処は、かつてとまるで変らぬ、彼特有の退廃と冷笑、そして理知とが複雑に同居した、彼の複雑さを現したものであり、学生時代の教授室となんら変わり映えしないものであった。
やもすればゆきむらは、教授陣への頼み込みのために東奔西走した大学生時代へと逆戻りしたのかの様な錯覚さえ覚える。
「あぁ、そこの君。面会の人かな。いやぁ、すまないね――、誰だったかな? あまり人を覚えるのは得意ではないんだ」
審問官は木造の丸椅子に深々と身を沈めていた。
彼は、ひじ掛けに両手を載せて、いかにも鷹揚とした様子で背もたれをぎしぎしと軋ませている。
のっぺりとした面立ちの中、一見すれば人懐こそうなダークブラウンの瞳がまじまじとゆきむらの事を見つめていた。
「相変わらずですね、ジョン教授――。まぁ、大量にいる学生の中で、ただの一年間、従事した学生を覚えている自信は俺にもありませんけどね」
ゆきむらは、軽く会釈すると、苦笑交じりに来客者用の椅子に腰かけた。
対面する中肉中背の男が、どこか興味深げに眦を吊り上げるのが見えた。
「君は東洋系だし、私を教授と呼ぶってことは…ふむ。本郷時代の事かな? 五年前くらいだったか――。ふむ、そういえば…」
ジョン教授は、中途で口を閉ざすと、まじまじとゆきむらを見つめる。
沈黙したまま、自らのとがった顎を撫で、腫れぼったい耳を掻き、そして卓上で頬杖つくと、わずかに首を傾げた。
ややあってから、乾いた唇が、開かれた。
「もしかして、C君だったかな…? いやぁ、名前は憶えていないのだが…、私のゼミに最後まで参加していた学生は数もめっきり減っていたが、その中でも覚えているのは、高校受験の基礎物理学の知識程度で不可同然のレポートを必死に書き連ねていたC君くらいだったからね」
C君という言葉の響きにたまらず、ゆきむらは曖昧に苦笑いを浮かべた。
郷愁とは、時に過去を美化するものなのだろうか。
過去に誇らしいことなど何も無かったが、なぜかジョンの口にしたC君という言葉は、心地よくゆきむらには聞かれた。
大学生時代、ゆきむらは、今にもましてケルベロスという存在に憧れを抱いていた。
それでなお覚醒できぬ自らに葛藤を抱き、その得も言われぬ情熱が、ゆきむらを野放図な放浪へと駆り立てた。
大学での授業も半ばに、文京区を中心に都内を転々と歩きまわり、実地で様々なものを経験してきた。
ゆきむらの器用さが幸いし、大学の単位は辛うじて可を取得できたし、旧世紀のスペースオペラ小説における要塞名を店名にした上野の居酒屋では、若者にこそ特権的に与えられる『イケメン』という二つ名と共に、利き酒師として好評を博しもした。
あまり褒められた学生では無かったし、自分の劣等感を発散するために動き回っただけの青春時代を、ゆきむらは、苦いもの無しでは回想することはできなかった。
だが、C君という響きは、自らの灰色の青春を幾分も明るい色彩で装飾しているかのように思えてならなかった。
ゆきむらは、口をすぼめる。学生時代によくやったように、軽妙な様子で肩をすくめてみせながら、苦笑交じりに答えてみせる。
「えぇ、そうです…。教授から、謎の質問を賜った出来の悪い、あのCですよ」
ジョンの一重まぶたの、鈍角を描く瞳が瞠目がちに開かれ、皮肉げな唇より白い歯が零れおちた。喜色満面、ジョンは鼻息を荒げると、卓上で掌を組み、幾分も前のめりに顔を突き出した。
そうして、ゆきむらを正面に見据えると、ジョンは、それまでの無関心を一変させて声を弾ませる。
「C君は…あの問いの答えが分かったのかい?」
ジョンが声音を躍らせた。
やはり奇人や変人の類だと、ゆきむらは、目の前の男の事を再認識する。
「俺みたいな凡人にわかるわけがないじゃないですか、教授――。とはいえ…まぁ、俺なりの答えは用意してみましたよ。今日は教授との答え合わせをと思ってね」
ゆきむらは首を左右させながら、ジョンへと答える。
ゆきむらの返答に、ジョンは、一瞬、うろんげな様子で目を瞬かせたが、ふむと小さく咳払いすると、諮問官のまなざしで、鋭くゆきむらを睨み据えた。
ゆきむらはほっと胸をなでおろしていた。
ここには、かつてのジョンと自らがいたからだ。ゆえに、安堵とも歓喜ともつかぬ微妙な感情を自らは抱いたのだろう。
依然と同様に、ゆきむらは一切躊躇することなく、口調を崩し、ジョン風に切り出した。
「俺は文明論者というわけじゃないですがね…、俺は思うんですよ――」
滔々と紡がれんとたゆきむらの言葉は、しかし、ジョンが前方へと差し出して右手によって遮られた。
「おっと、C君…。もちろん、答え合わせは重要だけれどね? 私の諮問にはルールがある。覚えているだろう?」
ジョンが嬉々と表情を輝かせるのが分かった。
あぁ、思えば、五年前もジョンは、たった一つの質問のためにはあまりにも迂遠に過ぎる、勿体ぶったような余興を用意したのだった。
「えぇ、覚えていますよ? チェスで勝負でしょう?」
ゆきむらが卓上へと視線を落とせば、おあつらえむきにチェス盤の用意がなされていることに気づく。
盤上の結果は、惨憺たるものだった。教授のチェスの実力は一向に上達していないことが示唆された。
ゆきむらは、チェス盤を整えると、まずはポーンに手を伸ばす。
「それでは、五年来になってしまいますが…答え合わせとさせていただきますよ、教授」
●本題
「メンターが言っていたのだけれど…共和制ローマ時代には元老院議員に連なる者、騎士階級と呼ばれる者たちは、ヴィッラっていう別荘を幾つも保有していたんだって」
鬱然とした様子で、傍らの少女が言った。
常日頃より、どこか気落ちした様に斜を描く三白眼を、いかにも憮然とした様子で、半開きにしながら少女カエシアは口をへの字に結んだ。
デウスエクスとの戦の慰労を兼ねて、猟兵たちは地下の一室に居を構えるスパエリアへと通された。
少女が言ったように、ここはヴィッラという形容が最も適しているのだろう。最も、ジョン・フェラーという風変わりな研究者にとってのヴィッラという意味ではあったが。
地下研究所には、ジョンの目的を満たすために研究棟などで大部分を占められていたが、娯楽施設も幾つかは存在するようで、スパエリアはその筆頭と言えた。
研究棟が連なる中、スパエリアは、他の区画とは明らかに趣を異としていた。
スパエリアに足を踏み込んだ、瞬間、猟兵達の鼻腔を掠めたのは、甘やかなる花の香であった。
風雅なる花の香に鼻腔をくすぐられるままに、スパエリアへと足を踏み入れれば、紫色を柔らかに輝かせる菖蒲の花壇や、高貴たる青紫の眩耀でもって花弁を揺らすラベンダーの花々が目に入った。
そう、アスファルト張りの長廊下を超えた先、猟兵達を待ち構えていたのは、大きく開かれた自然公園であった。
自然公園は、常春を彷彿とさせる装いで地下に産み落とされたのだ。
青々とした芝生が足元を覆いつくし、そうして、色とりどりの花々が至る所で花を咲かせている。
中央部には、古代ローマ時代の女神を模した浮彫があしらわれており、大理石の女神が手にした水瓶よりは、清冽たる清水がつねに噴き出していた。
清水は、花壇と花壇の間に巡らされた掘割へと流れ落ち、さらさらと柔らかな瀬音を上げながら、下流へと向かい、巨大な水槽を満たしていく。
薬湯というやつだろうか。清水をたっぷりと蓄えた水槽が、菖蒲とラベンダーの花壇の間に一つ、菖蒲とゼラニウムの花壇の間に一つ、更にゼラニウム花壇と薔薇園の間に一つと並んでいた。
赤らんだ薔薇の花弁が、水面に朱色の輪を描き、紫色を湛えラベンダーの花が、優雅に水面を泳いでいた。
ふと浴槽から、スパ内の奥へと視線を遣れば、足元の芝生は尽き果て、かわってむき出しになった岩肌が彼方へと続いていく。荒々しく露出した岩盤が、祠の様な形を作っている。
いわゆる、岩盤浴兼、サウナといったところだろう。戦いに臨んだケルベロス達が、岩の上で気持よさそうにうつぶせになる姿が散見された。
また、岩盤浴施設付近にはバーの様なものがあり、木造りの古風な店先では、木目の様な皺が顔面にくっきりと浮かび上がる、白髪交じりの男性がなれた手つきでカクテルの準備に取り掛かっていた。年輪を刻んだ指先が、酒瓶を振るたびに、からからと良い音が鳴る。つられて、カシスのさわやかな香りが鼻腔へと流れ込んできた。
先の戦いを済ませたケルベロス達は水着姿に着替えて、湯治場へと殺到していった。
精々、十代後半から二十代前半の男女が、穏やかに湯場で体を癒し、岩盤浴を楽しみ、嬉々とした様子でカクテルや軽食の類を片手に愛や夢を語らいあう中、三白眼の少女だけは心非ずという様子で、芝生の上に腰を下ろしながらぼんやりと虚空の一点を眺めていた。
童女の様な面差しに反した、凹凸のある柔和な曲線美が、心許ない黒のビキニのもと、白く輝いていた。
きっと少女は、意中の人とのひと時を心待ちにして、大胆な水着を選び、あえてここに足を延ばしたのだろう。しかし、少女はありていに言えば、一人置き去りにされたのだ。
どこかぼんやりと宙を眺めながら、少女カエシアは、芝生の上に座り込み、所在なげに物思いにふけっているようだった。
彼女はヴィッラと共和制ローマ時代のちょっとした話を終えると、そのまま、ため息まじりに口を噤むのだった。
猟兵たちは、愛らしい少女の嘆息ぶりを傍目に、なぜだろうか、少女の想い人が間もなく戻ってくるだろうことを確信した。
――――――――――――――――――――――――――
デウスエクスとの戦い、お疲れさまでした...!
最後は、地下のスパエリアでゆっくりと羽を伸ばしてゆきましょう。
水着も貸し出し中ですので、プレイング冒頭にこんな水着です。みたいなものを描写してくだされば、そちらを参考に描写させていただきます(TW6/過去作含めてイラストある方は、そちらを参考にしますねー)
NPCは今回の話に登場したNPCなら、ジョン・フェラー以外とは自由にやり取り可能ですので、会話したいキャラがいたらそちらでもオッケーですし、もしも、友人と参加されている場合はお二人なり三人なりで、スパを堪能
してくだされば幸いです。
夏の思い出の一つにしていただけたら、うれしい限りです――!
柄倉・清春(サポート)
ユーベルコードは指定した物をどれでも使用し、多少の怪我は厭わず積極的に行動します。他の猟兵に迷惑をかける行為はしません。また、例え依頼の成功のためでも、公序良俗に反する行動はしません。
あとはおまかせ。よろしくおねがいします!
薬湯に足を浸せば、菫色を湛えた水面が、揺曳する。
足先を、やや温めの湯につけたまま、柄倉・清春(悪食子爵・f33749)は、岩肌をむき出しにした低い天井を見上げていた。
果たして、いかなる製作意図と設計図案のもと、このスパエリアが作られたのか、それは清春の知るべきところでは無い。
だが、天井より迫る茶褐色の岩肌を見るにつけ、製作者のスパエリアに対する執着ぶりが伺われてくるようだった。
スパエリアは、研究棟や実験施設、兵器搬入庫とおおよそ一区画分ほどの空白を隔てて所在していた。
実際、清春は案内に先導されるままに随分と長い間、長廊下を進み、そうしてスパエリアへと到着したのが、まさしくスパエリアは別世界とも言える様相で清春を出迎えた。
アスファルト張りの回廊は後方へと消え果て、今、清春の前には岩盤と緑の芝生、泉川とで彩られた天然の浴場が広がっていた。
まさかの地下数百メートルの地にこのような、天然の浴場が築かれていようとは予想だにしていなかった。
おそらく、岩盤をそっくりそのまま刳り抜いて、洞穴として、そこに芝生や花々を植え、更には地下水を引き入れて熱することで浴場をこしらえたのだ。
足場には芝生が群生し、茶褐色の岩盤を覆い隠していた。
芝生がエメラルドグリーンの海となって広がる中、赤、紫色の花々が咲き乱れている。
そこには湯場があり、バーがあり、古代風の女神の浮彫があった。
瀟洒な、それでいて下品になりすぎない装飾が施されたホットスパは、近代科学の粋を集めて作らたのにも関わらず、それでいて、科学文明の残滓すら感じさせぬほどに和やかな景観を湛えていた。
カエシアと言っただろうか。
あの少女が古代ローマのヴィッラを引き合いに出したのが何とはなしに、腑に落ちた気がした。
それもそうだろう。
色とりどりの花々は爛漫と咲き誇っていたが、花壇には一種の法則性の様なものを感じた。湯場は、ラベンダー、菖蒲、薔薇、ゼラニウムの花弁が湯を浸すことでそれぞれが別の効能を持つという。
見た目に美しいだけでなく、それぞれの花が持つ効能と湯を直結させる、機能美を優先した設計にはどこか、古代人の風雅さが、根付いている。
ヴィーナスを彷彿とさせる浮き彫りに関しても古代風の造形がなされているのは一目瞭然だった。
岩盤浴スペースや、バースペースの配置に至るまで、このスパリゾートは、数学づくめの論理性と優れた美的感覚の調和のもとに形作られているように清春には感じられて仕方が無かったのだ。
おそらく、ジョン・フェラーなる男がこの場所を設計したのだろう。
ジョン・フェラー、あの西洋人にしては背の低い、彫りの薄い顔立ちの男は、もしやすれば古代ローマ人の生まれ変わりなのではないかと邪推せずにはいられないほどに、このスパリゾートの設計思想には、古代の有識者達、いわば高等遊民特有の、優れた知性と美的感覚の芳香が漂っているようだった。
薔薇の香りが齎した幻想であったのか。はたまた、ひょんなことをきっかけに肉体的な瑞々しさを取り戻した清春だからこそ思いついた、たわいの無い妄想であったのかは分からない。
だが、自分の例を引き合いに出せば、ジョン・フェラーなる科学者が魔術や奇術の類によって、古代世界から現代世界へと蘇った亡者であったとしてなんら不思議は無いと思えた。
清春は、失笑を漏らす、
荒唐無稽に過ぎる想像を笑ったのではない。ジョン・フェラーに対する妄想も万が一にはありえるだろう現状を笑ったのだ。
ここ数十年間のうちに、清春の、いや世界の日常は一変した。
かつては、非現実的であると一笑に付したものが、今では大手を振って常識としてまかり通っている。
二十六年前のデウスエクスの襲来に端を発して、異世界よりの猟兵なる存在の介入、そして自らの体に起こった異変と、常軌を逸した事象が頻発している。
それでもなお、旧世紀、つまりはデウスエクス襲来以前に生を受け、そうして常識というものを身に着けた清春にとっては、常識化した異常を、常識として受け止められぬ節があった。
まるで、掴みどころのない砂かなにかのように、清春は自らの身を襲った悲劇も、喜劇も、そのすべてを受動的に受け入れながらも、しかし、芯のところでは乾いた笑みで見送ってきた。
現実の世界にやや違和感を感じるのは、世界の変化に自分が適応できていないからだろう。
清春は、小さく苦笑を漏らしながら素足にねっとりと絡みついた水面を見遣った。
揺蕩う薔薇の反映が、水面をほの赤く染めあげている。
柔らかな朱色を眺めるにつけ、ふと清春は、喫茶店へと訪れた、DIVIDE職員を名乗る少女の姿を脳裏に思い浮かべた。
薄紅よりは尚濃くも、血の様な薔薇の鮮烈さと比べれば、幾分も柔らかな彼女の菫色は、水面の色彩とぴたりと一致しているように清春には感じられた。
清春が、苦笑交じりに過去と現在とを俯瞰するに至ったのは、彼女との出会いがあったからこそだろう。
四十が間近に迫った自分が、年頃の少女との出会いに運命を感じるというのは、やや不純に過ぎるだろうか。だが、思慕や情欲とは別に、清春は少女に得も言われぬ、なにかを感じ取ったのだ。
そのなにかを言葉で表すことはできなかった。
だが、少女が自分の何かを変えてくれるのだろうとの直感じみた確信が清春にはあった。
少女の声音を響き渡った時、清春の中で、ばらばらになった記憶の断片が一つ、また一つと結合してゆくのを感じた。
喪失された記憶は、虚無の海となり、清春の中で茫洋と広がっていた。
清春は、この海を漂う一艘の小舟に過ぎなかった。
だが、少女が現れた時、小舟は羅針盤を得たのだ。船路が果たして、地獄へ向かうか、それとも天国へと向かうのかは分からない。
だが、少女に誘われるままに、闇の先へと漕ぎ出すことに清春は、半ば焦がれたのだ。
最も、悪魔との契約の代償は、清春に自由を許すことは無いだろう。それでもなお、清春は悪魔の正体を知るために、深い海を越えていかねばならないのだ。
清春は、咳払いすると右足で水面を掻く。
足をばたつかせれば、水面が乱れ、流れてゆき、水面に映る自らの影は、波にさらわれ、輪郭を曖昧とし、清春の原型を留めぬ影と化した。
清春は立ち上がる。そうして、湯場には二度と目を向けぬままに、スパリゾートを辞去するのだった。
ただ、水面に浮かび上がった乱れた影が、去り行く清春を、いつまでも執拗に見つめ続けていた。
成功
🔵🔵🔴
日下部・香
◎
連携〇
うーん、帰って鍛練とか受験勉強とかしたいけど……ちょっと疲れちゃったし、湯治場にいこうかな。明日に疲れ残したくないし。体調管理ができてこそ立派なケルベロスだからな。
水着は普通のを借りようか。
一緒に戦った人たちへの挨拶もしとこうかな。
ライブラリアンとの戦いに参加できてなかった人たちには……ちょっと様子見てからにしようかな。相当怖かっただろうから心理的負担も大きそうだし、思うところがあるかもしれないしな。
カエシアさんお疲れ様。キミの魔術は本当にすごいな、おかげで私も本来以上の力を出せたよ。ありがとう。……待ってる人がいるのか? まあ、心配することはないさ。水着もよく似合ってるしな!
紫色の真珠を幾重にも束ねる様に、粒状の花弁が風雅に花を咲かせていた。
風が吹くたびに、ラベンダーの花は、濃い紫色を房状の花弁に滲ませながら優雅に踊る。ふと、強い風が吹けば、ラベンダーの花弁は、一片また一片と捲り上げられ、そのまま宙を彷徨いつつ、浴槽へと舞い降りていく。
ラベンダーの花弁は、湯の表面へと横たわるや、そのまま輪を描くようにして水面を踊り、風雅たる舞踊を続けた。花弁が揺れ動くたびに、ラベンダーの紫色は、湯面へと染み出し、湯場そのものを典雅たる色彩で染め上げるのだった。
鼻腔の中に、ラベンダー特有の凛然とした花の香りが充満していくのが分かった。
日下部・香(断裂の番犬・f40865)が鼻の香りに誘われて、左方へと目を遣れば、広々とした花壇の中で、無数のラベンダーが身を寄せ合いながら、優雅に枝垂れ、花を芽吹かせる様が伺われた。
爛漫と咲き誇るラベンダーは、微風により花弁を揺らし、時に舞い上げられ、空を踊り、続々と水面へと舞い降りてゆく。
ラベンダーの花弁が水面へと舞い落ちれば、水をたっぷりと含んだ艶っぽい花弁は、穏やかな波紋を湯の表面へと刻んでいく。
波紋は、柔らかな綾模様となって広がってゆき、暫くした後に緩やかに消褪していくのだった。そして、再び舞い降りた花弁が新たなる波紋を刻む。
そう、浴槽では絶えず、再生と消失とが繰り返された。
水面に浮かび上がっては消えていく綾模様を茫洋と眺めながら、香は、まずは右足をゆったりと湯場へと沈めた。
右足で湯船をかき混ぜれば、粘稠性のあるぬるま湯が指先に絡みついてくる。水温は低めで、温泉というよりは真夏のプールに近い感覚だった。
右足に続けて左足も湯船に沈めれば、足先から下腿部にかけてをぬるい湯船が浸していく。
日本の温泉と比べると水質はやや硬い印象が強く、湯温ももちろん低かった。
臀部までを湯に沈め、そのまま一気に肩まで湯船に浸かる。
瞬間、温泉水は、香が身にまとったタンクトップ型の水着すらも浸透し、絹の様な指先でもって香の素肌を優しく撫でるのだった。
程よい水温が、香の全身を穏やかに包み込んでいた。
得も言われぬ解放感と脱力感でたまらず、香は頬を緩ませた。
湯船からは、甘やかなる果実を彷彿とさせる、ラベンダーの高貴たる芳香が漂っている。全身を脱力させれば、香の首元までが、湯の中に沈み込み、ついで心地よい浮遊感と共に、香の姿態が水面を優雅に揺蕩った。
一息ついて、ついでゆっくりと瞑目する。
甘美なる心持の中で、香は、自らの奥底へと意識を没入させていくのだった。
受験生の宿痾とでも言うべきか、目をつぶり、心を無にしてみせども、香の網膜に最初に浮かび上がったのは、スペルの綴りもあやふやな、難解な英単語の羅列だった。
誤謬の多い英作文や、生粋の英国人や米国人でも読解に難儀するような長文がぼんやりと思い浮かび上がる。
首を左右させ、脳裏から英単語や英文を一つ、また一つと取り除いていけば、ついで脳裏に現れたのは、香にとっては何にもましてかけがえのない、一頭の黒き獣の姿であった。
銀白色の双眸は、慈愛と厳格の象徴であり、その鋭い視線は絶えず、香の事をじっと見抜いていた。
気づけば、一人、香は脳裏にて組手する自分を思い浮かべていた。
そんな自分にはたと気づき、香は再び、自分を譴責する。
今、自分は休息にために湯場へと足を運んだのだ。
にも関わらず、瞑想すれば、意識は直ちに訓練や勉学へと向かってしまう。焦りがあるのだと自分でも感じた。
未だ、体には実戦の余韻が濃く燻ぶっている。この感覚が失われないうちに、一刻も早く帰宅して鍛錬に打ち込み、培った戦いの経験を体に馴染ませたいとの思いは確かにある。
また、受験勉強に関しても焦燥感覚えつつあった。。
共通試験まであと五か月を残すところとなり、私立大学の入試は凡そ六か月に迫り、国立大学の前期入試までの受験期間も既に七か月を切っている。
しかも学業に関しては、正直、こちらは手探り状態だ。ただ実直に、英単語帳にかじりつき、古文、漢文の例文を諳んじ、数学の解法を貪るように頭に詰め込んできたが、やはり未だ香は十分な手ごたえをつかめずにいる。故に今日もすぐさまに勉強に取り掛かりたいとの、焦りの様なものがあった。
ふぅと香は大きく息をつく。両手で湯を掬い、顔にぶつけてみせれば、水沫は勢いよく弾け、心地よい痺れの感覚と共に、顔全体に冷たい感触が広がっていった。
息を吐きだすと同時に、焦りは禁物だと自分に言い聞かせる。
脳や体を必要以上に酷使すれば、かえって体調を損ねる可能性さえありえるのだ。事実、敵デウスエクスとの戦いで、今、自分は大きく消耗しているのだ。
そのことを思えば、体を癒すことこそが香にとっての急務であるのだ。
香は、脳裏で休息の重要性を幾度も自らに反芻させながら、瞼を閉じたままに手足の力を抜き、湯の中に身を完全に委ねた。
あえて、網膜に浮かんでは消える映像にあえて目をつぶれば、清浄たる花の香りと、心地よい脱力感とだけが香の感覚のすべてを支配した。
温い湯の抱擁のもと、疲労感が消褪していくのがわかった。
ラベンダーにはストレス軽減や疲労緩和の作用があるというが、なるほど効能には嘘偽りは無いようだった。
四半刻の間、雑念を払い、心を落ち着かせ、湯の中で瞑想を続けることで、鉛の様に重苦しかった体が幾分も軽やかとなった気がした。
湯あみを終えると香は、湯船から立ち上がり、湯場を後にする。
疲れは十分にとることが出来たし、気持ちにも折り合いをつけることが出来た。
となれば、あとは軽く挨拶周りをして帰路につけばよい。
香は、周囲を窺う。
スパエリアには、幾つかの湯船がめぐらされていたが、香以外に湯あみする者の姿は見受けられなかった。
そのまま香が、スパ全体へと視線を遣れば、花畑が尽きた先、剥き出しになった岩盤地帯で、十代半ばのケルベロスの集団がどこか心地よさげに腹ばいに横たわっている姿が見て取れた。
次いで、岩盤地帯から花畑へと視線を戻し、肩越しにスパエリアの入り口付近を振り返れば、丸木で組まれた木造小屋が枯淡とした雰囲気で控えているのが分かった。
店先には、ケルベロスの少年少女たちがたむろしており、設置された木椅子は、彼ら先客者たちによりうめつくされている。
小屋の軒先で、スーツ姿の男が、列をなすケルベロスの男女へと飲料水を配っている。
いわゆる小屋はバーの様な役割を果たしているのだろう。
バー周辺は、雑踏する若者たちで活気立ち、満員御礼を呈していた。
ふと、香は先の戦いで、ただ震えるだけだったケルベロス達の姿をそこに見た。
彼らは先の戦いとは一変して、妙に晴れやかな表情で己が活躍を吹聴し、勇敢ぶりを嘯いていた。
だが、彼らの甲高い声音とは裏腹に、彼らの些細な挙止や立ち振る舞いからは、恐怖の翳りがはっきりと滲み出ているように、香には感じられていた。
彼らは、声高らかにはしゃぎ合うことで自らを鼓舞し、多少なりとも脚色をまじえて自分たちの戦いぶりをほめちぎることで辛うじて残された矜持を必死に取り繕っているのだろう。
それがたとえ、欺瞞や虚勢に満ちた虚言であっても、彼らは彼らなりの方法でケルベロスとして、自らを必死に繋ぎとめんとしているのだ。
悪い事とは思わない。
そして同時に、彼らの中には去就を改める者も出てくるだろうと香は見る。
戦うための力を得ながらも、志半ばにDIVIDEを去る者を見たくは無かったが、それも運命なのだろう。
彼らを鼓舞することも叱咤する事も少なくとも今すぐに行うべきではない。となれば彼らと下手に接触するのは避けた方が無難だろう。
彼らへの挨拶は、様子を見てからとするのが妥当だ。
となれば、必然、香の視線は一人の少女へと向かう。
バーカウンターからそのまま左方へと香は視線を這わせる。
人々の喧騒を離れた、人気の絶えた芝生の海のもと、草の絨毯の上、ひとり、忽然と座り込む小柄な人影が香の目に留まった。
二重瞼の三白眼が、童女の様な愛らしい面差しの中で気落ち気味に細められていた。
柔和な細面は、壊れ物の様な首筋に続き、緩やかな曲線を描きながら華奢な肩元へと伸び、そのまま柔らかな膨らみとくびれをなぞりつつ、すらりと伸びた美脚へと至る。
白百合の様な清楚と華美、優艶さとがなんら矛盾することなく少女の小さな体の中で同居しているようだった。
少女は、両膝を抱えるような格好で、生い茂る芝生の上に腰を下ろしては、ため息まじりに、視線を虚空に彷徨わせていた。
まるでこの世の終わりを嘆くかの様な少女の姿がそこにあった。
そして悲壮感にくれる美少女というものは、男女問わずに庇護心をくすぐるものなのだろうか。
気づけば香は、バーカウンターへと進み、こじゃれたカクテルを二つ分、購入していた。
直ちに出来上がったカクテル二つをマスターより受け取るや、香は悲嘆にくれる少女、カエシアの隣へと早足気味に駆け寄った。
「カエシアさん、お疲れ様」
微笑がちにカエシアを見下ろせば、陰鬱とした三白眼が上目遣いに香を見上げた。
不思議そうに、カエシアが目を丸めた。
「隣いいかな、カエシアさん」
目合図と共に香が告げれば、それまで消沈していた三白眼に柔らかな光が灯る。
カエシアが愁眉を開いた。
こくこくと、カラクリ人形の様に首を縦に振りながら、カエシアは半身ほど左方へと体をずらした。。
香は右手のグラスをカエシアへと差し出すと、そのまま、カエシアの隣にしゃがみこむ。
手にしたグラスを薄桃色の液体がなみなみに満たされている。表面からぱちぱちと弾ける泡沫が、心地よく香の頬を濡らしていた。
カクテルは、妙に冗長な欧風な名前を冠していたが、つまるところはピーチジュースのソーダ割だ。
弾ける炭酸の泡沫と共に、薄らと漂っていく桃の香りが、なによりも雄弁にカクテルジュースの本質を示唆している。
カエシアの小さな掌が、グラスの表面に浸りと触れた。
俯きがちだったカエシアの相貌が、喜色の色を滲ませていくのが分かる。
桃色の唇から絶えず零れていた嘆息は、どこか熱っぽい喜びの吐息へと性質を変えていた。
「もちろんだよ、香ちゃん――。えっと、それで、ジュースは私が貰ってもいいの…?」
「うん、もちろん。さっきの戦いではキミの活躍のおかげでうまく私も立ち回れたんだから。友好の証とお疲れさまも兼ねてね?」
香が応えれば、カエシアの小顔に笑顔の大輪が花を咲かせた。
彼女は、宝石かなにかでも扱う様に、差し出されたグラスを両手で丁寧に包むと、先ほどまでの悲壮感などどこ吹く風、朗らかにさらに一度、二度と首を縦に振る。
「ありがとう、香ちゃん――。えっと…じゃあ、乾杯?」
たどたどしい仕草で、カエシアがグラスを持ち上げた。
カエシアに続き、香もまた、グラスを持ち上げると、乾杯の挙措を取る。
「うん、乾杯、カエシアさん」
互いのグラスとグラスとが擦れあい、軽やかな音色を弾奏した。
鼓膜に響く、乾いた残響音を楽しみながら、香は、グラスに唇をつけてカクテルでもって乾いた喉を潤せる。
香の口腔内一杯に、甘やかなる桃の果汁がぱちぱちとした舌触りと共に広がっていくのが分かった。
舌の上でカクテルをを転がしながら、その後、一気に飲み干す。たまらず、舌鼓が漏れた。
隣に座るカエシアへと視線を遣れば、彼女もまた、恍惚と表情を綻ばせている。
香は微笑と共に切り出した。
「それにしても、本当にカエシアさんの魔術はすごいな…。おかげさまで、私も本気を出せたんだ。正直、一人じゃどこまでやれたか分からない…。キミがいなかったと思うと本当にぞっとしちゃう」
香は声を弾ませた。
未だ口の中では、炭酸の余韻が泡沫として弾け続けていた。
「うんうん、私なんて、全然だよ…。香ちゃんみたいにカッコよく戦えないし、今日だってメンターが一緒にいてくれたから…少しだけ頑張れたんだと思うの…」
香の言葉にカエシアは力無さげに首を左右させた。語気は徐々に落ちてゆき、ついぞ、カエシアの声音は力なく途切れた。
そめまでの輝かしいばかりの笑顔に翳りがさした。カエシアはグラスを握りしめたまま、俯きがちに口を噤んだ。
そんなカエシアに香は苦笑でもって返答とする。
「…ゆきむらさんだっけ? あの人がカエシアのメンターだったんだ。えっと日本語でお師匠様だっけ? すごかったよね、確かに適切な指示だった」
再び、香はビーチカクテルで唇を湿らせた。
ひとたび師匠という単語が口を突いた時、香は、一頭の獣を思い浮かべないわけにいかなかった。
あの漆黒の獣は、姉の様な温かさと、鉄の様な厳しさをしなやかな身に宿していた。
物静かで、理知的でありながらも、荒々しく、瑞々しいまでの思考の肌理を備えた彼女の存在は、香の憧れでもあった。
彼女こそが、香にとっての師であったのだ。
だから、カエシアがどれだけ師というものに憧れているのか、そのことが香には本能的に理解できた。
カエシアが弱弱しく首を縦に振るのがわかった。
香もまた、相槌を打つ。
「でも、私は、カエシアさん、すごいなって思ったよ――。……私は魔術が苦手だから、強力な魔術を次から次に繰り出すカエシアさんはやっぱりすごい。きっとゆきむらさんもカエシアさんの事、誇らしく思っているんじゃないかな」
すごいを二度も連呼してしまうあたり、もう少し現代文の勉強が必要だろうか。内心で苦笑をますます深めながらも、香はじっとカエシアを直視する。
カエシアの瞳は、涙で濡れていた。充血した三白眼がしっかりと香を見返していた。
「メンター、私の事、誇らしいなんて思ってくれているのかな…。いつも子供扱いだから――。今日もね…頑張ってみたの。いつもは着ないような水着を借りて、他にもメンターとデートするために自分なりにいろいろと頑張ったんだけど」
カエシアが鼻をすすらせた。
嗚咽まじりの声が、桜の蕾の様な唇から震えるように零れ落ちた。
香は、小さく微笑んでカエシアの額を指で撫でる。
「…心配することないさ。カエシアさんも、私も――きっとね、前に進めているから」
香はそこまで言うと、ますますに笑みを深めてみせる。
涙まじりにカエシアがうなづくのが分かった。
そうだ、自分もカエシアさんも一歩づつ進んでいくんだ。
恋にせよ、受験にせよ、ケルベロスの職務にせよ、未知という名の恐怖は暗黒の様に自分たちの前に広がっている。
それでも憧れや夢を持ち得る限り、常に光明は自分たちへと差し込むはずだ。
自分もカエシアさんも希望を抱く限り、光が絶えることは無く、たどたどしいながらも自分たちは着実に闇の中を未来へと向けて進んでいくことが出来るはずだ。
ふと香の胸裏にて眩いばかりの陽射しが広がっていった。
鮮やかな光の海の中、誇らしげに微笑する黒い獣の姿がある。
果たしてかの獣の姿は、香が生み出した幻覚か、はたまた、記憶の中に刻まれた、訓練を穏やかに見守る獣の投影なのかは判然とはしなかった。
しかし、そこには香が憧れた師であり義姉の姿が確かにあったのだ。
「本当に…香ちゃん?」
恐る恐るといった様子で、カエシアが囀った。
「うん…心配することは無いさ」
カエシアへ、そして自分に言い聞かせる様に高らかに言い放つ。
「きっと私たちは大丈夫―――!」
入口付近の大時計へと目を遣れば、既に時間は半刻ほど進んでいた。まだ、半刻ほどだ。今日という時間はまだまだ残されている。
「一緒に泳ごう、カエシアさん…。カエシアさん、水着もよく似合っているしな! ゆきむらさんが来るまで、こんなところでしゃがみこんでたらもったいないよ」
カエシアへと手を差し伸べれば、カエシアの小さな掌が香の手を握り返す。
カエシアは立ち上がると、従容とした様子で首を縦に振った。
訓練にせよ、勉強にせよ、自分の日々の積み重ねを怠るつもりは無い。
だけれど、同時に、今日という日をもまた実りあるものともしたい。
今、か細い燈火が香の掌を優しく包んでいた。
振り返れば、涙目を嬉しそうに細めながら、カエシアは香につられて小走り気味に歩を進めていた。
彼女とのひと時を糧に、明日へとつながる一歩を刻むためにこそ、香は今日という日の瞬間、瞬間を全力で謳歌する。
カエシアの手を引きながら、香はカエシアと共に再び湯場へと舞い戻る。
この深い地下にも、真夏の陽光が齎す、情熱という名の祝福は変わらず降り注いでいた。
大成功
🔵🔵🔵
暗都・魎夜
○
【心情】
こんな場所があるとは、研究施設とは言え、大分福利厚生が行き届いているな
カエシアの方はずいぶんと気合いが入っているようだが……
なんだ、その、幸運を祈ってるぜ
【行動】
WIZ
あちらこちらで連戦が続いているからな
良い機会だ、骨休めさせてもらうか
「良い機会だ。お前たちもゆっくりしな」
モーラット達を召喚して休ませる
「迷惑かけんなよー」
DIVEIDEのモーラットを知らない人に見つかったら、面倒ごとになりそうだし
元々学園卒業した頃から戦い続きの人生を送っていたが、ここまで続くとはな
家にいる嫁にも心配かけ通しだろうから、その内こういう場所に旅行でもしたいところだ
群生した芝生は、翡翠に輝く大海だ。
視界一面を覆いつくす緑の上へと寝ころべば、新緑が、羽毛の様な柔らかな手触りで暗都・魎夜(全てを壊し全てを繋ぐ・f35256)の背を支えた。
芝生は、立ち込める暑気を浴びて、青草特有の、さわやかなる草いきれを吐き出している。
鼻腔に立ち込める、青草の匂いに真夏の情景を思い浮かばつつ、魎夜は、大の字に横たわったまま、天然の岩天井をぼんやりと眺めていた。
むき出しになった茶褐色の岩肌が、どこか厳かに天井に蓋をしている。
魎夜は地下数百メートルに所在する地下研究所へと、任務のために足を運んだ。
デウスエクスを討伐した後、魎夜は案内に導かれるままに、無機質なアスファルト張りの長廊下を踏破し、研究棟を幾つもめぐり、そうして、長々とした地下道を進んで行った。
おおよそ数十分ほどの後、気づけば殺風景な研究室は遥か後方へと消え去り、かわって、魎夜の事を出迎えたのは、花々と新緑とが鮮やかに咲き乱れる自然公園であった。
自然公園には、湯場と共に緑が生い茂り、優美な建造物が立ち並んでいた。
このスパエリアでは、無機質な機械装置は大理石造りの浮彫へと取って代われ、冷たいアスファルト床やコンクリート造りの建造物は新緑鮮やかな草の大地と、むき出しになった褐色肌の岩々へと変貌を遂げたのである。
耳を済ませれば、銀糸を引くかの様な柔らかな瀬音が魎夜の耳朶に触れた。
草のベットの上で半身を起こし、音の出どころへと目を遣れば、スパリゾートの中心エリアに建てられた大理石の女神像と目があった。
美の要素を満遍なく散りばめた、彫り深な女神が、艶っぽい笑顔で魎夜を見つめ返していた。
女神像は、大理石造りの水瓶を右肩に担ぎ、絞り出る清冽なる流水でもって大地を潤しつづけていた。
水瓶よりは、柔らかな水音を立てながら、清流が流れ出で、草の大地の上に幾条にも巡らされた掘割へと充溢していった。
掘割のもと水嵩を増した瀬川は、清らかなる水面を青とも白ともつかぬ幽玄の色に輝かせながら、飛沫を上げ、真珠の様な水沫で葉木を艶やかに湿らせた。
葉木を濡らした水滴が、銀色の涙となって、新緑の上を滑るようにして滴り落ちていく。
ひたひたと垂れ落ちた水滴を魎夜は息を飲むようにして見守っていた。
目の保養とはまさにこの事だろう。
このスパリゾートには、湯治場としての機能性に加え、卓越した審美眼によって施された、優れた美的な意匠の存在を、魎夜は、はっきりと感じ取ることが出来た。
一人の科学者を満足するためだけに建造された遊興施設とするには、スパリゾートは豪奢に過ぎ、奢侈に過ぎる感も否めなかった。
だが、同時にスパリゾート全体から漂う、古代世界への憧憬と異形の念が、有徳者が自儘にひけらかす豪奢に一種の風情を添えているようだった。
花や緑、そして女神像に至るまで、このスパエリアに存在するすべてのものは、現世の虚栄から、古代の微睡の中に人々を誘っているようだった。
だからこそ魎夜は、スパリゾートの建造者やこの研究所の所有者たるジョン・フェラーの存在を忘却し、心から、スパエリアに耽溺することができたのだろう。
細部に至るまで福利厚生が行き届いているあたり、研究施設の代表者ジョン・フェラーはこのスパエリアを寵愛したのだ。その点だけは例の科学者を評価できるだろうか。
地下に現れた楽園とも言うべきこのスパリゾードは、人工的に自然を再現させているわけで、景観や機能の保全のためだけにも莫大な費用が投じられているだろうことは想像に難くない。
どれほどの金銭がこの人工的な自然の楽園の建造と意地のために浪費されているのかと、何とはなしに銭勘定すれば、瞬間、ひんやりとした感覚が背中に走った気がした。
まともな金銭感覚の持ち主ならば、このスパリゾートを廃棄するだろう。
最も、第三者の魎夜が、経営陣や風変わりな研究者に同情なり、共感なりを抱く必要はない。
ただ、骨休めの場として、このスパリゾートを満喫すれば良いだけだ。
思えば、魎夜はこれまで連戦続きだった。
銀誓館学園卒業後も、転戦を続け、気づけば年齢は三十を回っていた。
疲労を感じているのは、なにも魎夜に限った話ではない。
魎夜は、多彩な戦法を駆使して戦ってきたが、そんな中で使役するモーラット達にも、かなりの負担を強いてきた。
戦場を共にする相棒、モーラッド達にもたまには羽を伸ばす暇を与えたいと思っていたところだ。
となれば、絢爛豪華なスパリゾートを活用できるというのは、願ったり叶ったりdらる。
両膝に手を突き、魎夜は立ちあがる。
肩に羽織った革ジャケットの胸ポケットをまさぐれば、掌に固い感触が振れた。指先に触れた固い物質へと指先を伸ばし、人差し指と中指とで挟みこむ。掌を返せば、名刺サイズのカードが胸ポケットから弧を描くようにして現出した。
指先でカードを固定したまま、魎夜はいきおいよく手を振り上げる。
わずかに、意識を集中させてカードの中に収められた獣たちに声を呼びかければ、瞬間、魎夜の頭上で、名刺サイズのイグニッションカードが煌びやかに輝きだす。
「迷惑かけんなよ…?」
微笑がちに言い放つと、魎夜は指先で器用にカードを裏返した。
喜色まじりの魎夜の声が周囲へと広がってゆけば、声に呼応するようにしてイグニッションカードが七色に輝きだした。
瞬間、カードから、何か小さな毛玉の様なものがちょうど九つ分ほど、にょきりと姿を現した。
毛玉は、カードから解き放たれるや、白い体毛で覆われた丸みのある体を、芝生の上で心地よげに弾ませる。
白い体毛で覆われた綿雪の様な体から、ねずみの様なしっぽが伸びている。
毛玉が飛び跳ねるたびに、愉快そのもの尾が揺れ動く。
桜の花びらのような耳があり、どんぐりの様なつぶらな瞳が、体の正中線を挟んで、毛玉の左右にくっきりとはまり込んでいた。
両の眼の下で、愛らしく開かれた唇のもと、白い乳歯が顔を覗かせている。
モーラッド、そう、この綿雪の様ないきものこそが、魎夜の頼れる相棒たちなのだ。
モーラッド達は、緑の大地の上で、毬のように体を弾ませながらは魎夜の足元で踊り狂っている。
魎夜は、彼らのうちの一頭を抱きかかえると、白い毛並みで盛り上がった頭部に手を添える。
一度、二度と魎夜がモーラッドの頭をなぜるたびに、掌に綿花を揉みしだくような柔らかな感触が広がっていった。
「そんじゃあ、行ってきな? ただし、さっきも言った通り…迷惑は――」
魎夜の言葉は半ば程で途切れた。
魎夜がすべてを言い切るのを待つことなく、モーラットは魎夜の手の中をすり抜け、天衣無縫に走り去っていったからだ。
先陣を切ったモーラットに促されるように、魎夜の足元で戯れていたモーラット達も、足元の芝生の中へと身を潜らせていく。
彼らは、かまびすしく鳴き声を上げながら、湯場目指して自由奔放そのもの一斉に走り去っていった。
ぽりぽりと髪先を指で繰りながら、魎夜は、去り行くモーラッド達を目で追った。
モーラッドが芝生の下を滑るようにかけてゆけば、毛玉の通った小さな道筋にそって芝生は翻り、轍の様なものが草の大地に刻まれる。
もきゅ、もきゅと、囀るような愛らしい歓喜の声が、草の中から響いていた。魎夜は、九匹のモーラット達の後を追いながら、芝生の上を鷹揚と進んでゆく。
悪い気はしなかった。
彼らの喜び声は、魎夜の心の叫びにも聞こえないでも無かったからだ。
思えば、魎夜はあまりにも長い間、戦士として戦ってきた。
銀誓館の戦士として、そしてその後は猟兵として、妻が待つ自宅に帰ることもそこそこに、魎夜は銃後の無力な人々を守護すべく、ひたすらに戦いに明け暮れてきたのだ。
魎夜が戦う事を有形無形問わずに支えきたのは愛するべき妻の存在であったのだろう。
微かに胸裏を掠めた思慕の情が、魎夜に、愛すべき妻の姿を想起させた。
果たして、彼女は今、どんな思いで魎夜を待っているだろうか。
思えば、これまで家にいる妻には心配のかけ通しだった。
彼女は、今も尚、清淑たる妻として、一人心細い日々を過ごしながら魎夜の帰りを待っているのだろう。
彼女の慰労も兼ねて、たまには、こういう場所に旅行でもしたいところだ。
たまの休日にスパリゾートへと訪れて、学生の様に水着姿ではしゃぎ合うのも一興だろうか。ひんやりとした湯ぶねに肩まで浸かり、たまには思い切り、心の内を吐露しあうのも良いかもしれない。
自らのため、もちろん、半ばは妻のために、寛ぎのための時間を設けるのも悪くはないはずだ。
安閑と一日を過ごす事とは長い間、縁遠かった。
近々、妻との慰安旅行を企画してみようかと、そんな未来図を胸に抱きながら、魎夜は鼻歌まじりに緑の絨毯を踏み鳴らしてゆけば、ついに緑は途切れて、魎夜の目前、色とりどりの湯場が姿を現した。
もきゅ、とモーラットの歓喜の声が聴かれた。
湯場の縁にしゃがみこみ、湯場へと視線を遣る。
後方に置き去りにした大理石の女神とは別に、モーラット達と戯れる様にして、二人の小さな女神たちが水をかけ合っていた。
女神の一人は、黒の長髪を頭の頂上で結った長身の少女だった。
頭のてっぺんから、ひと塊になった艶のある黒髪が伸び、無邪気に揺れていた。タンキニ型の水着に身を包んだ少女は、活発さと落ち着きという一見、背理するかに見える性質を、見事に調和させているように見えた。
さわやかな微笑を浮かべながら、しかし不器用そうな手つきでモーラット達をあやしている。
もう一方の少女へと視線を遣れば、そこには魎夜のよく見知った少女の姿があった。
丸みを帯びた小鼻を挟むようにして、切れ長に斜を描く三白眼が、小さな面差しのもとで、理路整然と象嵌されている。
平素は、横一文字に結ばれた唇は、菫色のグロスを反映し、薄紅色に輝き、柔和に綻んでいた。
かつての七不思議事件解決に出会った、内向的な少女は、あの時とはまるで別人の様な明朗闊達とした姿で、モーラット達と水遊びに没頭しているようだった。
カエシア・ジムゲオア、陰気ささえ感じさせた少女の成長ぶりを目の当たりにして、魎夜はたまらず目を疑った。
あの内気を絵にかいたような少女は、モーラットやポニーテールの少女と水の掛け合いをしていた。
そんな少女の姿が眩しく魎夜には感じられた。
三日合わざれば刮目してみるべきとの格言は、なにも男子のみに適応されるものではなく、女子においても当てはまるのだろう。
魎夜はしばらくの間、少女やモーラット達がはしゃぎ合う様を眺めていた。
モーラットが群れを成しながら、浴槽の上に浮かび上がっていた。小さな尻尾が水面を叩くたびに、水しぶきがカエシアへと飛び散った。
カエシアの乳白色の肌が、水に濡れて優艶と輝いていた。
フリルがふんだんにあしらわれた黒のビキニのもと、胸元を飾る白百合の造花が、抱きしめた一匹のモーラットと、彼女自身の豊満な胸元によって窮屈げに変形していた。
黒と白との濃淡が鮮やかにカエシアの美貌を際立たせている。
見目はもちろん、性格面も、すこし前までの少女とはまるで別人の様だった。
そんな少女の姿に、魎夜は少女なりの覚悟の様なものを垣間見た気がした。
「よっ、カエシア。うちのモーラット達が迷惑かけちまったかな」
中腰になって、カエシアらへと手を振り上げる。
やにわにポニーテールの少女が、遊ぶ手を改めて、謹直とした挙止で魎夜へと一揖するのが見えた。
生真面目な性分の持ち主なのだろう。
少女の澄んだ黒真珠の瞳からは、目上の魎夜に対する、敬意の様なものが、はっきりと感じられた。
ポニーテールの少女にやや遅れながらも、カエシアが魎夜へと振り向いた。
安穏とした様子で開かれた三白眼が、柔和な光彩を帯びながら、どこか嬉しそうに魎夜を見つめていた。
ポニーテールの少女と比べれば幾分も精緻さを欠いた、どこか間延びしたような仕草でもってカエシアが、魎夜へと会釈を返した。
蕾の様な唇が花を開けば、鼻腔にくぐもったような響きを残す、カエシアの艶っぽい高音が響いた。愉快気に吊り上がった口角のもと、白い奥歯が煌びやかに輝いていた。
「えっと…、通りすがりの――」
カエシアが半ばまでを言い終えたところで魎夜は合いの手を入れる。
「そう、通りすがりの超能力者だ」
魎夜もまた、気づけば悠然と微笑んでいた。つられるようにしてカエシアがますます笑みを深くする。ポニーテールの少女もまた明晰さを湛えた面差しに喜色を滲ませた。
「この子たちは、超能力者さんのお友達…なの…です?」
カエシアが、モーラットの一匹を抱き上げた。
モーラットが毛玉の様な丸みのある体をふるふると振るわせれば、湯をたっぷりと含んだ体毛より、水の飛沫が飛び散った。
肌へと打ち付ける生ぬるい水沫を肌に浴びながら、魎夜は、豪快そのもの首肯する。
差し出されたモーラットの一匹をカエシアから受け取ると、魎夜はモーラットの頭を一撫でしつつ、目を細める。手元で、モーラットの嬉しげな声が響いた。
「あぁ、よく仕事で手伝ってもらってるんだ。以前、ロンドン市街での防衛戦でも随分と世話になったんだぜ? 今日は羽休めと思ってね」
魎夜の言葉に、カエシアが瞠目する。モーラットと魎夜の間を羨望まじりのカエシアのまなざしが交互に行き来していた。
「あの時、超能力者さんともふもふちゃんが頑張ってくれていたんだ…。私は家族と一緒にパリ旅行の最中だったけど、激しい戦いになったっておじいちゃんから聞いてます。えっと、ありがとう、超能力さん、もふもふちゃん…?」
カエシアが目礼がちに頭を下げた。
魎夜の掌の上、モーラットが、勇ましげに、もきゅと声を弾ませた。
モーラットの毛並みを掌で軽く撫でながら、魎夜もまた、モーラットに続く。
「なぁに、良いってことよ。通りすがりの超能力者として当然の事をしただけだからな」
自分の活躍をひけらかすのは性に合わない。また、必要以上に褒められるのも、こそばゆいものがある。
魎夜は早々に話題をロンドン市街の戦いから切り替えるべく、カエシアへと尋ねる。
「にしても、カエシアは今日はずいぶんと気合が入っているようだが…。なんだ…。その――、幸運を祈っているぜ?」
親指を立てて、カエシアへと微笑みかける。
別に嘲ったつもりは無かったが、魎夜の言葉を受け、見る間にカエシアの小顔が赤らんでいくのが分かった。
そんな少女の赤ら顔を目の当たりにした時、魎夜の脳裏を去来したのは、戦いに彩られた銀誓館時代の追憶であった。
死が常に傍らに潜む青春時代を、魎夜は、銀誓館学園で生き抜いたのだ。
あの青春時代を経ることが出来たからこそ、魎夜は、多くの知己を得て、妻とも巡り会うことが出来たのだ。
カエシアも、そしてポニーテールの少女も、時代や場所は違えども、死と隣り合わせの青春を精一杯に走っているのだろう。
二人の少女もまた、かつての魎夜と同様に現実と向き合い、時に傷つきながらも青春の中を邁進していくのだろう。
「まっ、青春時代は何事にも挑戦した方がいいぜ? 恋も戦いも、全部、ひっくるめて楽しみつくすべきさ。思いっきり、喜んで、時に挫折も味わいながら、ゆっくりと進んでいきな? 応援しているぜ、カエシア?」
一匹、また一匹とモーラットが水面を離れ、浴槽の縁へと乗り出していく。
彼らがぶるぶると体を震わせるたびに、飛散した透明な水の雫が宙を典雅に色彩した。
九匹のモーラットは、十分に水遊びを楽しんだのだろう。彼らの興味はすでに水場から、喉を潤わせることへと移行しているようで、白い毛玉の群れは、緑の芝生の上で身を軽やかに弾ませながら、バーエリアへと向けて、視線を鋭く光らせていた。
魎夜はカエシア、そしてポニーテールの少女へと向かいひらひらと手を振ると、二人へと背を向けてモーラットの引率へと移る。
「じゃあな、お嬢ちゃん達? 二人とも青春を思い切り謳歌するんだぜ? 死と隣り合わせの青春だからこそ、得ることができる、掛け替えのないものもあるはずさ。それじゃあな」
背中越しに二人へと別れを告げる。
そうして魎夜はモーラット達を引き連れて湯場を後にした。
どこからともなく微風が吹いた。
やわらかな風が、薔薇やラベンダーが植えられた花壇を渡り、甘美たる花の芳香を纏いながら魎夜のもとへと吹き付けてくる。
鼻腔に充満する花の香りが、銀誓館時代を想起させた。
一瞬、脳裏に浮かび上がった、若かりし日の自らの姿と、かつての妻の姿とは風が去り行けば儚くも霧散していった。
魎夜は歩を進める。
今や、かつての小さな一歩は、巨人の一歩へと性質を変えていた。
淡い恋心は、成熟した愛へと昇華した。
迷いや悩みを乗り越えた先に、ようやく見えてきたものもある。
かつて師として仰いだ人物の背中は未だ遠かった。しかし、それでもなお、魎夜は、かけがえのない伴侶を得るに至り、無数の頼れる友を得た。
青き日々の残照は今も尚、魎夜の胸裏にて篝火の様に燃え盛り、魎夜を魎夜たらしめている。
かつて味わった葛藤や喜び、苦悩といったすべての経験が、魎夜の人格に厚みを与え、屈強な体躯を形作ったのだ。
昔日の学び舎が、緑の中、陽炎の様に蒼く霞んで見えた。
それは記憶の残滓が生み出した、過去の残影に過ぎないのだろう。
だが、過ぎ去りし過去は魎夜の中で今尚、力強く息をしている。
妻との休日へと想いを馳せながら、魎夜は湯場を後にする。
草草は、柔らかなる香りでもって、魎夜の現在と過去とを祝福しているかのようだった。
大成功
🔵🔵🔵
ハル・エーヴィヒカイト
◎
さて、この辺りの作法には詳しくなくてね。せっかくなので見覚えのある顔、ゆきむらを捕まえて教えを受けながら、彼の推奨する流れで楽しむとしよう。カエシアには悪いが少しの間借りていく。
しばらくはただ楽しみ、日頃の疲れを癒しつつ世間話をしていくが正直気になっていることがある。これまで何度か共に戦ってきた縁もあるし、ついでと言ってはなんだが彼に尋ねるとしよう。幸いこの場にはいつも共にいる少女もいないことだしね。
「君はなぜ、前線に立とうとする? 君の頭の回転は特筆すべきものがあるが、それだけであの場に立つのはあまりにもリスクが高いだろう。デウスエクスとの戦いの場はなにも直接戦う前線だけではないと思うが」
もちろんどのような答えでも構わない。これから先も共に戦うのであれば、信じるに値する相手である事を知っておきたいだけだからね。気に障ったのなら謝罪しよう。
一通り楽しんだらカエシアにゆきむらを返しておかないといけないね。
●
淡い光が四方から零れていた。
薄らとした微光は、四囲に設えられた菖蒲の花を模した角灯より溢れ、緑の楽園をうすぼんやりと照らし出していた。
戦いの後、ハル・エーヴィヒカイト(閃花の剣聖・f40781)らが通されたのは地下研究所の一角に居を構える、スパエリアであった。
研究所内につくられた遊興施設ということで、当初、ハルは期待半分興味半分の心持で案内に従い、地下道を進んだ。
地下道は、薄暗く、狭小な回廊となって、研究棟を幾棟も巡り、そうして研究所の奥へと細道を伸ばしていた。
薄暗いアスファルト張りの小径をしばらく進んだ先、ハルは袋小路に行き着いた。
両開きの木造扉が固く、口を閉じて道を閉ざしていた。
案内人は、驚きますよ?とハルへと目配せし、そうして大仰な挙措でもって木造扉を押し出した。
瞬間、ハルの鼻腔に青草の香りが飛び込んできた。
小走りする案内人に続き、ハルもまた小さな木造扉をくぐれば、左右より迫る乳白色のコンクリート壁は、途切れ、かわって茶褐色の岩壁が荒っぽい岩肌をせり立たせながらハルの四囲を取り囲んだ。
左右の岩壁は、奥へと向かうに従い、徐々に道幅を広げながら小さな鍾乳洞となって、巨大な空間を形成していた。
足元には、膝丈くらいの芝生が青々と繁茂し、岩の足場を淡い緑色で塗り固めていた。微風を受ければ、葉群は一斉に翻り、さわやかな音色を奏でだす。
ふと耳を澄ませば、葉擦れの音に加えて、柔らかな川音がはっきりと聞かれた。
音に誘われるままにハルが草の大地の上を進めば、四つの浴槽と共に、色とりどりの花を咲かせた花壇がハルの眼と鼻の先に姿を現した。
ぐつぐつと煮え立った湯の表面よりは、花の香りをたっぷりと含んだ湯気が、幾筋もの白糸となってたなびいていた。
靄の様に立ち込めた湯気の元、浴槽の一つで水遊びにふける少女たちの姿がぼんやりとハルにも伺われた。
両者ともに見覚えがある。
一人は、先ほど共闘したポニーテールの少女であり、もう一人はカエシアだ。
二人とも、水遊びに没頭しているようで、ハルの存在には気づいていないようだった。
「よっ、ドレイク提督――よかったら、チェス片手に一杯ひっかけないかい?」
二人を眺めていたハルの鼓膜を、艶っぽい男性の声が揺らした。
声のする方へと目を遣れば、左手に酒瓶をひっさげ、右の脇にチェス盤を挟んだ、二十半ばの洒落男がどこか誇らしげにハルのことを出迎えていた。
冴えない蓬髪と妙に端正な顔立ちとが、幾分も不釣り合いに見えた。
洒落男ゆきむらは、いかにも軽妙な仕草で肩を竦めながらハルへと合図する。
ドレイクとの呼び名に、ハルは戸惑いがちに首を傾げた。そして、すぐに彼の真意を理解した。
頭部へと手を遣れば、頭全体をすっぽりと覆った海賊帽に指先が触れた。
ドレイク、確か、英国における海軍提督、いや海賊であったはずだ。彼が使えた女王の名前と共に、ハルはフランシス・ドレイクなる海賊の名を克明に記憶していた。
戦いを終えてより、ハルらは案内人に水着へと着替える様にと言伝された。
ハルの結果術は、武器はもちろんの事、防具一式も領域内に収納している。
ハルは、結界内より水着を取り出すと、あらかじめ、更衣室にて、先月あつらえた海賊風の水着に身を包みんだ。
ゆきむらがハルをドレイクと呼称した理由にはすぐに得心がいった。
海賊を彷彿とさせる鍔広な海賊帽に、首元を飾る瀟洒な青真珠のネックレスや錨型のペンダント、開放的なショートパンツと、今のハルの姿を目にしたものの多くは、そこに海賊の姿を連想するだろう。
ハルは、軽く微笑で男に応える。
「こういった場所にはなれていなくてね?不作法で申し訳ないが、湯場ではチェスと共に酒の類をたしなむのが一般的なのだろうかな」
ハルが軽妙に笑って見せれば、ゆきむらもまた、放埓といった様子で口端を持ち上げた。
「実は、俺もあんまりスパなんて来る機会はなくてさ? でも…ほら、カエシアも今は楽しそうだし。ヤロウ…っていうにはハルさんは綺麗すぎるけどさ、まぁ、男同士で酒でもひっかけようぜ?」
ハルは直ちに首肯した。
ちょうどゆきむらとは、語らい合いたいこともあった。となれば彼からの提案はまさに、渡りに船とも言える。
「わかった。だが、ゆきむら――。私の事はハルで構わないよ。なんども死線を共に潜り抜けてきた。さん呼びは他人行儀に過ぎる」
ハルがゆきむらへと微笑みを投じれば、ゆきむらが蓬髪を愉快気にかきむしった。
白い歯をこぼしながら、ゆきむらが頷いた。
「オッケー、じゃあ、ハルって呼ばせてもらうぜ。それじゃあ、さっそく提案だ、ハル。ちょうど、恩師からの餞別がここに用意してある。最高級の一品らしいからな?一杯、楽しみながら…まっ、軽くチェスで遊ぼうぜ?」
言うなり、ゆきむらはカエシアに背を向け、芝生地帯をスパエリア入り口へと向かい進んでゆく。
しばらく行ったところでゆきむらは歩を止めると、草の大地にどっしりと腰を沈めて、チェス盤を広げた。
ハルも直ちに踵を返し、ゆきむらと共に来し方を遡り、そうして半ばほど進んだところで、チェス盤を挟んで、ゆきむらと対座するような格好で草の大地へと腰を下ろした。
傍らにシートを敷き、グラスを置く。
ゆきむらは、未開封の酒瓶を開けると、空のグラスを琥珀色の液体でなみなみに満たす。
グラスの表面から漂う、キャラメルを彷彿とさせる苦味のある蒸留酒の芳香を楽しみながら、ハル、ゆきむらの両名はさっそくチェス盤に向き合うのだった。
「そんじゃあ、ハルの先手でいいぜ?」
グラスを右手で持ち上げながらゆきむらが言った。
ハルもまた乾杯の挙止でもってゆきむらに答えると早速、白のポーンへと手を伸ばした。
縦横八マスのチェス盤上で、二つの軍が南北それぞれに重厚な陣容を敷き、僅かな間隙を挟んだ上で、静かなるにらみ合いを続けている。
機先を制すべくハルは、ポーンを前方へと進めた。
白のポーンが軽やかに盤上を鳴らす。
自陣より押し出すように、軽装の鎧で身を固めた白のポーンが、二歩ほど敵陣へと差し迫れば、すかさずゆきむらの陣より黒のポーンが頭を突き出した。
定石通りの一手だ。
となれば、ポーンを切り崩すためには強力な槍が必要だ。
ハルは、ナイトの駒を握りしめ、先陣を切ったポーンの後方へと移す。小さなチェス盤の上で大理石造りの騎士が、軽やかに馬蹄を響かせた。
鋭い槍の穂先が前方の黒のポーンを睨み据えていた。
しかし、ゆきむらは、屈託のない笑みを浮かべつつも、即妙な一手でもって先を狙うハルに対して備えを固める。
ビショップの駒が陣地を斜行して、黒のポーンの斜め後方で動きをぴたりと止めた。
なるほど、ゆきむらの一手一手には無駄がない。それなりの心得があるのだろう。
ゆきむらは、胡坐の上で頬杖を突き、いかにも鷹揚とした様子で盤上を俯瞰していた。
彼は酒杯に口をつけては、目を光らせ、ハルの一挙手一投足を具に観察しているようだった。薄らとした唇が酒気を帯びて、ほの赤く染まっている。
ハルもまた、ウィスキーで唇を湿らせると、別なる歩兵を指先で摘み、盤上を前進させて次なる一手とした。
同時にハルは、卓上にグラスを置き、ゆきむらへと切り出した。
「あらためて、今日は苦しい戦いだったが、君の優れた指揮のおかげで被害は微々たるものに抑えることが出来たよ」
言いながら、ハルがポーンから手を離せば、ゆきむらは阿吽の呼吸で、ナイトの駒を疾駆させて今度は一転、攻勢へと転じた。
照れくさそうな笑みが、ゆきむらの端正な顔立ちに浮かび上がっていた。
「いやぁ、それを言うなら、ハル達の援軍やカエシアの努力があったからこそさ。俺の援護なんてたかが知れてるよ」
ゆきむらの指先がナイトから離れた。歩兵の後方で、騎士が掲げた槍の穂先が、布陣する歩兵たちへと狙い澄ましている。
ハルは、顎に手を添えながら、次なる一手を熟考する。
口を噤んだままに、ハルはあえて、クイーン駒へと手を伸ばした。
時期尚早の感はあったがクイーンを前進させて、敵のナイトをけん制する。
ふぅと安堵の息を一息つくと、ハルは酒杯を呷りながら、ゆきむらに返答する。
「そうだろうかな。キミの機転は非凡なものであったと私は思うがね…。ところで私とチェス勝負でよかったのかい? 君にとってのクイーンはやや寂しそうにしていたようだが」
ハルの言葉にぴくりとゆきむらが手を止めた。黒墨の様な黒色が鮮やかな、ゆきむらの切れ長の瞳が、躊躇いがちに細められた。
ゆきむらは、しばし指先を盤上の上で彷徨わせながら、ようやくの後、ハル同様に自らのクイーン駒を手にした。
そうしてクイーンをさっそく、攻勢のためにビショップの傍らに控えさせる。
壮麗たるクイーンの出陣は、しかし、幾分も弱弱しく感じられた。
ゆきむらは、クイーン駒から手を離すと、未だ、目減りせぬままのグラスへと手を伸ばした。
グラスを片手にゆきむらが力なく首を左右させるのが見えた。
「いや…、今は楽しそうさ。俺なんかいない方がカエシアには本当は幸せなんだ」
苦渋まじりの声音が、ゆきむらの口元をついた。
「そうだろうかな…。彼女はゆきむら、君と共にあるときが最も幸せそうだがね? 彼女の気持ちが分からぬほど、君も朴念仁ではあるまい?」
盤上へと視線を遣ったまま、返答と共にハルは一手を指す。
「8つも年が離れてるんだぜ? 価値観も違うだろうし、カエシアは子供にすぎるよ。なにより、子弟の立場を利用して、彼女にアプローチするなんて卑怯そのものだろう?」
ゆきむらが吐き捨てるようにして、言い放った。彼の手にしたポーンがついに戦端を開き、ハルのポーンを盤上から払いのける。
「どうだろうかな…。師と弟子が付き合うという事なん珍しい事とは思わないがね。むしろ、触れ合う時間が長ければその分、思いも募って当然というものだ。仮に私が君と同じ立場なら、恋のため利用できるものはなんでも利用するつもりだ。私は聖人君主ではいられないだろう」
ふと脳裏に浮かんだ自らの記憶へと苦笑しつつ、ハルもまた、前進するポーンへと逆襲を仕掛ける。ナイトの疾駆と共に鋭い槍が、歩兵の分厚い胸板を貫き、盤外へと切り払った。
勇壮と敵陣に佇立するナイト駒の姿、目に染みた。
駒より手を離すとハルは、再びウィスキーに口をつける。
対座するゆきむらが、もそもそと口を開閉させるのが見えた。
「はは、意外だな。ハルはもっと生真面目かと思ってたんだけどな」
どこか心地よげにゆきむらが言った。
ゆきむらの意図は、彼が手にしたビショップ駒が、何よりも雄弁に物語っていた。
敵陣へと躍りかかった騎士が、場を支配するのも束の間、ゆきむらは、ビショップでもって先行したナイトへと反撃に打って出る。
ビショップの巨大な鉄槌が、ナイトを横腹から打ち据えた。なんら、反撃できぬままにナイトは戦場の露と消える。
昼行燈を絵に描いたような、やもすれば野暮ったくみえる風貌とは打って変わって、ゆきむらのチェスはその一手一手が攻撃的であり、合理的にあった。
平素はよれよれにやつれたトレンチコートに身を包み、ぼさぼさの蓬髪を任せるままにした、ゆきむらの放埓な外見は、軽薄さや、胡散臭さといった強烈な第一印象を否応なしに植え付けたが、反面で、実際に膝を突き合わせて、言葉を交わし、チェスに興じてみれば、彼のまったく異なる一面が急に露わとなる。
繊細ながらも情熱的な男が今、ハルの前にはある。
ハルは再び、ゆきむらへと返答する。
「私は、人並には欲もあるし、それに、臆病でもあるのさ」
言いながらハルは、キャスリングにて、陣地深くへと王を退かせた。
ゆきむらが、雪崩を打って攻め込むというのならば、こちらは守りに徹するまでだ。
殊チェスにおいて、守勢に回り、相手の攻撃をいなすいわゆる持久戦は、なんとはなしにハルの性分にあう気がした。
実際、恋人とのチェスの際には常にハルは守勢で相対してきた。
ふと、恋人へと想いを馳せれば、潮風に交じってコーヒーの香りが鼻腔に漂ってくるかのような錯覚を覚える。
海辺の喫茶店にて、東空へとかかった真夏の太陽の元、眩いばかりの陽光がガラス窓ごしに店内へと斜光を注ぐ頃、ハルは、早朝の三十分を恋人とのチェス勝負に費やした。
夏は決まってハルは、恋人と共に海辺の喫茶店へと引っ越して、緩慢と流れる早朝の始まりをチェスでもって始めたのだ。
ハルと恋人のチェスの腕はほぼ伯仲していた。
超攻撃的に攻め続ける彼女の一手一手をハルは、見事にいなし続けることで、勝利を得、時に守り切れずに敗北した。
夏の日のチェス勝負への惑溺ぶりが、自然と守勢を是とするハルのチェス観を醸成したのだろう。
それにしても、ゆきむらにせよ、恋人にせよ、一見、穏やかな見た目だったり性格の人間ほど、攻撃的なチェスで勝負に挑むのは何か理由があるのだろうか。
果たして、想像も及ばないような攻撃性や情熱というものを彼らは秘めているのか。
いずれにせよ、ゆきむらのチェスはハルとは真逆のものであり、故にハルは十全の備えでもってゆきむらのチェスに相対したのである。
ポーンで壁を作り、ナイトを壁の裏で控えさせる。王を守る備えを作りつつ、反撃の刃を光らせた。
ゆきむらもまた、攻勢を続ける傍らで、後続に大攻勢の布陣を整えた。ルークとビショップ、更にはクイーンを軸とした大攻勢軍が、所定の位置にて布陣を終えていく。
さらに一手とチェス駒を進めたところで、ぴたりと指を止めてゆきむらが軽口をたたく。
「ハルが臆病だったら、全人類が怯懦のそしりを免れないだろうし、ハルが欲まみれってことなら俺なんて、七つの大罪の悪魔、すべてを身に宿してるほどに欲深だよ」
しばしの沈黙の後に挟まれたゆきむらの言葉は、軽薄な響きを伴いながら、チェス盤を鳴らす音に交じって、周囲へと浸透していった。
自らの内面をはぐらかすかの様な外連味が、ゆきむらの短い言辞の中からはっきりと感じ取れた。
「どうだろうかな。私も君も、状況や立場的にはよく似ていると思うよ――。私と君の相違点など微々たるものだろう。事実、チェスの腕だって拮抗している」
軽口に軽口で返しつつ、ハルもまた、鉄壁の備えでもって陣を再編成する。。
「どうかな――。俺とハルじゃあ、根本的に異質だろう?」
語気を落としてゆきむらが答える。
諦観の滲み出たゆきむらの回答とは裏腹に、ゆきむらの陣より出立したナイトは、勇壮そのもの盤上を駆けあがっていく。
「いいや、変わりはしないさ。俺と君はそれほど変わらない。人間にそれほど差があるとは私には思えないんだ。だからこそだ。不躾な質問になってしまうが…君に問いたい。ゆきむら…。」
一旦、手を止めてハルはウィスキーで薔薇の唇を潤した。
口の中に広がっていく苦味と甘味の二重奏に、一人、喉を鳴らしながら、ナイトの突撃を未然に防ぐべく、ハルはポーンを所定の位置へと進める。
おそらく、あと一手、二手でゆきむらによる怒涛の大攻勢が幕を開けるだろうことが伺われ。
息を飲む間もない、やり取りを前に、ハルは先だってゆきむらに尋ねる必要があった。
ゆっくりとウィスキーを口の中で転がしながら、飲み込んだ。
甘やかなる余韻が口の中に未だ、くすぶっていた。甘味と共にハルは、自らの疑問を吐き出した。
「君はなぜ、前線に立とうとする? 君の頭の回転は特筆すべきものがあるが、それだけであの場に立つのはあまりにもリスクが高いだろう。デウスエクスとの戦いの場はなにも直接戦う前線だけではないと思うが」
ハルの言葉に、一瞬、ゆきむらが手を止めた。
伏し目がちに駒の一点を見定めていた黒の瞳が、落ち着き無げに盤上で揺れ動いた。
ゆきむらの手にしたクイーンの駒がどこか寂しげにゆきむらを見つめ返していた。
クイーンは、今や王不在の玉座に、腰を下ろして戦いに向けて陣頭指揮を執っている。対して序盤早々のキャスリングによって、盤上の端に追いやれた王は、いかにも寂しげに出立する兵士らを見守っている様に見えた。
孤独な王からは、力を持たぬもの特有の悲哀を帯びているようにすら感じられた。
緩慢とした挙止でもって、ゆきむらがたどたどしく口を開くのが見えた。
「憧れ…なんだろうさ、ハル。いや、そんな綺麗な言葉じゃあないかな。妄執ってやつが近いのかな…。カエシアの事だって…俺はこの妄執ってやつを通しでしか見ることが出来ていない。カエシアと一緒に戦場に立つことで、いや彼女と共にあることで俺は自分の無力さや虚無感みたいなものを満たしてるんだよ、ハル。ははは、カッコ悪いよな? やっぱり年齢だとか師弟関係だとか、それ以前のところで俺にはカエシアを愛する資格がないと思うんだ、ハル」
ハルは黙りこくったままに、ゆきむらの言葉を傾聴していた。
悲痛げに響くゆきむらの言葉は、しかし、なにもゆきむらに限ったものでは無い。
ゆきむらの言葉はそっくりそのままカエシアにも当てはまるだろう。カエシアもまた、ゆきむらと共にあることで、彼女の空虚を満たしているのだ。そして、空虚を愛や希望で満たすことでカエシアは蛹の下で、より美しく健やかに成熟しつつある。
誰かを愛するという事は、否応なしに自らの肉体と心を他者へと委ねることを意味する。
それは、ハルもまた同様だ。
人は一人で生きるには孤独に過ぎる。
復讐なりで一時、孤独を上塗りしても、虚無感は絶えず心奥より顔を覗かせるのだ。
故に、人は人を愛し、互いの足りないものを補いあうのだろう。
そして、ハルはこの共依存ならぬ補完を醜いとは決して考えはしない。
ハルもまた、クイーンを手にした。
隊伍を組んだポーンの後方、開け広げになった空白へと向け、王を守るようにしてクイーンを進めた。
自陣の王と女王とに自らと恋人の姿を投影させながら、ハルはきっぱりとゆきむらへと答える。
「私は愛の伝道師というわけでは無いが、しかし、ゆきむら、覚えておいてもらいたい。人を愛することに資格はいらんだろうし、愛の形に、むりやり形式や美醜を当てはめるのは無粋が過ぎはしないだろうか?」
「はは、まぁ、ハルのいう通りだろうさ…。でもさ、俺がカエシアと向き合うためには、今のままじゃあだめだとも思うんだ。最前線にこだわる必要はないとも思う。だけど、もう少し考えたいんだ」
ゆきむらは、矢継ぎ早にハルへと言辞を吐いた。
酒気が、ゆきむらの端正な面差しを仄かな朱色に染め上げていた。
ゆきむらは、赤らんだ顔を静かに縦に振ると、駒を振り上げ盤上を鳴らした。
ゆきむらは、手にしたルークで中央突破を図る。すかさず、ハルがポーンでもって進路を防いだ。
そこからはハルもゆきむらも、言葉を切って、一心不乱に勝負に没入した。
互いが互いに手を指しかわしていくたびにチェス盤よりは、駒が続々と脱落していく。
ナイトはビショップに、そのビショップもまたルークに奪われて、遂にクイーン同士がぶつかりあい、盤外へと消えた。
ハルの分厚い防衛陣は、崩れ落ち、同時にゆきむらもまた攻め手の兵を喪失した。
もはや、両軍の王はわずかな供回りを従えつつも、決定打を失ったのである。
「引き分け…だろうかな」
ハルが呟いた。
ハル、ゆきむら共にチェックメイトを仕掛けるべき駒を、欠いている。このままでは泥沼状態が続くだけだろう。
ゆきむらが首を左右にする。
「いや、俺の負けだよ。攻め切れなかったんだ。攻撃一辺倒の俺がハルの壁を打ち崩せなかった以上、俺の負けだろ?」
朗らかにゆきむらが言った。
なぜだろうか、ゆきむらの表情は勝負に負けて、むしろ晴れ晴れと輝いて見えた。
ハルは直ちに峻拒する。
「それを言うなら、私は先手ながら、勝利を得ることが出来なかった。先手有利の原則を考えれば、事実上は私の敗北と言えるだろう。となれば引き分けとして、両者ともに矛を納めるのが無難ではないかな?」
ハルもまた、穏やかに答えた。
ゆきむらが肩を竦めて、酒杯を呷るのが見えた。
なみなみに満たされたウィスキーは十分の一程度しか減っておらず、グラスのもと、琥珀色の液体は、風雅そのもの身を震わせていた。
ゆきむらは、一口、グラスに口づけすると、草の上にグラスを置き、粗い石天井を見上げた。
ゆきむらは、うつろげに天井へと視線を迷わせながら、しばらくしてから視線をハルへと戻す。
「うちの教授とは比べ物にならないくらい、強かったぜ、ハル…。まぁ、とはいえだ。俺がもう少しうまくクイーンを使えていれば、勝利の女神は俺に微笑んだんだからな。今回、勝ちを拾わなかったこと後悔してもしらないぜ」
どこか揶揄うように、ゆきむらが愉快げに表情を綻ばせた。
望むところだと思う。
ハルもまた、自信満々、鼻を鳴らす。
「たしかに、技術の面で拙かった私が君と互角以上に立ち回れたのはクイーンの加護があったからだろう。だが、君がクイーンの意中を仕留められるかは未だ定かではないからね。次こそは私が勝って見せるさ」
ゆきむらが、からからと笑いだした。
つられてハルもまた笑みを深くする。
今後も、ゆきむらは、ケルベロスという力に固執してゆくのだろう。
彼の過去をハルが知る由は無かったし、彼の葛藤や憧憬のほどを推し図るのは他人のハルには容易ならざることである。
だが、彼の憧れが単なる憧れを超えて、より高次のものへと昇華した時、ゆきむらはおそらく、より高みへと向かい羽ばたいていくのだろう。
後方の浴場より絶えず上がるクイーンの無邪気な嬌声が柔らかな福音となって近づいてくるのが分かった。
ふと後方へと振り返ったゆきむらのもと、少女が勢いよく草の大地を駆け上がり、ゆきむらの胸の中へと飛び込んだ。
少女に抱き着かれて、ゆきむらが草の大地へと倒れ込んでいく。
そんな二人のやりとりを、ハルは半ばほど残ったグラスを片手に微笑ましく眺めていた。
喜怒哀楽を抱き、他者を慈しむ、人の心の前では、ケルベロスの能力の有無などなんら意味をなすことは無い。
じゃれ合う男女の歓声に耳を澄ませながら、ハルは一人、酒杯を掌で転がした。
夏草の濃い香りに交じり、なにか柔らかな芳香が鼻腔をくすぐった。
香りに誘われるままに視線を後方へとやった時、ハルはすべてを察した。
そうだ。スパを誰よりも楽しみにしていていたのは彼女であった。そして、彼女もまた猟兵である。
足早に近寄ってくる少女を前に、ハルは自らにもまた祝福の光が射しこんだことを知る。
盤上で転がるクイーンに愛すべき恋人の面差しを、ハルは確かに見出したのだった。
大成功
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