5
ある非常勤美術講師殺人鬼の回想

#サイキックハーツ #ノベル #伊澄・響華

タグの編集

 現在は作者のみ編集可能です。
 🔒公式タグは編集できません。

🔒
#サイキックハーツ
🔒
#ノベル
#伊澄・響華


0



伊澄・響華




 鳴り響くチャイム、夕焼けに包まれた渡り廊下、地面に影法師を伸ばしながら歩いていく生徒達。
 そんな光景を横目に伊澄・響華(幻惑の胡蝶・f44099)は頭だけの石膏像に埃除けをかける。非常勤講師である彼女だが時折生徒の希望で美術部の面倒を見る時がある、今日は丁度そんな日であった。
「せんせー!部屋の清掃終わりましたー!」
「そう、それじゃあ鍵を預かるから入ってきて」
 失礼しまーす、という軽い声とともに長い髪を三つ編みにした女生徒が響華の居る美術準備室に入ってくる。普段の授業や部活では使われないデッサン用の石膏や画材道具が物珍しいのか、周囲を見回しながら響華のもとへとやって来た彼女は手にした鍵を差し出して、ふと何かに気がついたように石膏像へと視線を留めた。
「なんだかお嫁さんのベールみたいですねえ」
「モデルはダビデ像よ、これ?」
「いやいや、今時男性がウェディングドレスを着たって良いじゃないですか?」
「リベラルを主張するのは結構だけど首から下を考慮してからものは言いなさい、世界一有名な裸体なんだから想像がつくでしょう?」
「……あり!」
「……若い子の感性はわからないわね」
 真剣な表情で石膏像を眺める生徒の手から響華はするりと鍵を抜き取る、彼女がそのことに一切気がついてないのは単に集中しているからというだけではないだろう。
「私としてはそうして新しい感性を広げていてほしい所だけど、時間は大丈夫なの?」
「あっ!駄目です!?ゆうちゃん待たせてるんだった!」
 先生また!そう言うと彼女は大きく手を振りながら美術室を去っていく。あの様子だと自分が鍵を渡していない事にも気が付いていないだろう、そういう子だとわかっていたから事前に鍵を回収しておいたのだ。遠くから生活指導の先生の怒鳴り声が聞こえてきた気がするが、その程度で済むなら安いものだろう。
「……また、か」
 その像が焼き付いてしまったかのように、揺れる三つ編みの姿が響華の脳裏から離れようとしない。気分を変えようと窓を開くと、少し強い風と共に生徒達の声が部屋の中に飛び込んでくる。

 ──きょうちゃん

 その中に紛れて、懐かしい声が聞こえた気がした。



「きょうちゃんまってよ~!」
 背後から聞こえてきた声に、幼い響華は足を止める。
 吹き抜ける風と明るい陽射し、振り返れば自分達の住んでいる町がとても小さく見える。そんな穏やかな景色の中で三つ編みの少女が息を切らしながら響華のもとへと必死に走り寄ってきた。
「ひな、ほら早く!もう少しだよ!」
 そんな彼女を応援するように、響華は大きく手を振って少女の名を呼ぶ。
 比奈、|響華《私》にとってただ一人の大切な友達。
 如何なる理由があってか物心つく前に親元から離れた彼女達は同じ施設で育てられ家族同然に過ごしてきた。当然ながら外出の自由などなく先生を同伴しての散歩でもあまり遠くまで行くことはできないのだが、ある日どういう風の吹き回しか施設の子供達全員が好きな場所へ行っても良いという許可が出た。
 どこへ行こう、何をしようと他の子供達が騒ぐ中で二人は誰よりも早く先生達に行きたい場所を告げた。
 施設の窓からいつも見ていた大きな木の生えた丘の上、そのてっぺんまで行ってみたいと。
「ほら、いっしょに行こう!」
 息も絶え絶えな様子で自分に追いついてきた比奈の手を取り、響華は一目散に丘の上へ駆け出す。風は少しだけ冷たいが運動して火照った身体にはそれが丁度良い、今ならどこまでだって走っていけるような気がする。
 息を切らし、お揃いの白いワンピースを汗で濡らしながら頂上の大木まで辿り着いた二人は服が汚れるのも構わず草原の上にその身を投げ出した。
「きょうちゃん、はやいよ……」
「あはは、ごめんごめん……でもほら!すごい綺麗!」
 響華の視線につられて彼女の眺める先を見た比奈は、わぁ…と小さく感嘆の声を上げる。
 先程よりもぐんと小さくなった町は施設の本で読んだ小人の国のようだった、絶え間なく車や人々が行き交い一秒たりとも同じ景色になることはない。それが子供の彼女達にはとても楽しく見えて、いつしか時間も忘れてじっくりとその景色を眺めてしまっていた。
 言葉を交わすこともなく、許されるならばいつまでもそうしていただろう安穏の時間を破ったのは二人同時に鳴り響いた小さな腹の虫。お互いに顔を見合わせた彼女達は声を上げて笑い合うと、そのままお昼ご飯に入ることにした。
 バッグの中に入れていたお弁当は自身の身体と共に激しく振り回していたため中身が崩れていないか心配だったが、先生達はそう扱われることも見越していたのだろう。きっちりと詰められた具材は一切崩れることなく整然と並び、タコの形に切られたウィンナーが太陽の光を浴びて誇らしげに輝いていた。
「凄い!入ってるおかず全部私たちの好きなやつだ!」
「水筒の中はコンポタだよ、まだあったか~い」
 自分達の好物ばかりが入ったお弁当に声を上げて喜ぶ二人だったが、感想は良いから早く食べろと催促するように再び腹の虫が鳴く。それがなんだかおかしくて二人はクスクスと笑いながらもいただきますと両手を合わせた。
 汗をかいたせいか丘の上の風が少し肌寒く感じ始めた響華が靡く髪をかき上げるように抑えながらスープを飲んでいると、ふと比奈が自分の事をじっと見つめている事に気が付いた。どうしたの?と彼女に声を掛けようとした瞬間、比奈がポケットに手を入れながら響華の方に身を乗り出してくる。
「ひな?」
「動かないでね……」
 吐息を感じるほどに接近してきた比奈の顔に響華の心臓が高鳴り始める。彼女の指先が自分の髪に優しく触れたのを感じた響華が反射的に目を瞑った瞬間、はい♪という明るい声と共に目の前にあった比奈の気配が離れた。
「できたよきょうちゃん、これで大丈夫!」
「……へ?」
 言葉の意味がわからず響華が先程比奈が触っていた場所に手を持っていくと、指先に何かが触れた。
 黄色い蝶のアクセサリーが付いた髪留め、どうやら髪を邪魔そうにかき上げていた自分を見て気を利かせてくれたようだ。その事を理解して数秒後、響華の全身からどっと力が抜けた。
「わあ!?きょうちゃん大丈夫!?顔が真っ赤だよ!?」
「だ、大丈夫……ありがとう、ひな」
 未だ早鐘を打つ心臓を抑えつけるように胸に手を当てながら、響華はどこか緩んだふにゃふにゃの笑顔を浮かべる。
 遠い昔の幸せな一時。
 この日を最後に、響華と比奈が互いに笑い合うことはなかった。



 星の瞬く夜の街を響華が走る。
 ピクニックに出かけた翌日、響華と比奈は引き離され別々の施設で育てられる事となった。
 新しい施設で教えられたのは闇に紛れるための生き方と人の殺し方。同郷の子供達が一人また一人と居なくなっていく中、響華は訓練を乗り越え初めての『仕事』に出た。
 あの日から数年、生き残った理由を思い出すように蝶の髪飾りに触れながら響華は標的の情報を思い出す。
(性別不明、年齢不明、腕の立つ同業者だから目撃者もなく獲物も不明、適当すぎるでしょ……)
 組織から与えられたあまりにもおざなりな指令に響華は心の中で溜息を吐く。今いるのはバブル期に立てられた大型複合施設。かつては多くの人が行き交った栄光の姿は見る影もなく、使う者は居ないが解体するのも金がかかるという理由で放置されている廃墟だ。
 こんな所にやって来る物好きは早々いないだろうが、絶対と言うことはありえない。間違って標的とは違う人物を殺害したどうするのだろうとも思うが、それを見抜けないのではそこまでということなのかもしれない。
 裏口へと回り、偽装したカードキーとパスコードを使って警備システムを解除する。既に放棄された建物ではあるが中に人が住み着かないよう警備装置とそれを活かすための電力は維持されている、とはいえ使わないものを整備する資金は潤沢ではないようで扉を開けて中に入ると埃っぽい臭いのザラついた空気が鼻腔を通り抜けた。
(さてと……)
 地面を眺め、足跡が残らないことを確認すると頭の中で施設の見取り図を展開する。
 建物は地下を含めた五階建て、一階から三階までは元々商業施設だったエリアで四階が賃貸オフィス、地下一階には建物全体の様子を確認できる監視室と空調機などの機械が収められた機械室がある。
 追い込むならどこか。地下は良くも悪くも逃げ場がなく、商業施設は道が入り組んでいるため罠を張りやすいが相手を見失いやすい……となれば、オフィスエリアが堅実だろう。
 部屋に追い立てれば逃げ場を防げるし、もしもの時は自身が廊下に出て逃げることができる……と、そこまで考えた所で響華の脳裏に一つの疑問が過ぎった。
(そもそも、なんで標的はこんな所に居る?)
 妙な胸騒ぎを感じ、身を隠すようにフードを深く被った響華はすぐにこの場を離れようとして……足下に張られた黒塗りのワイヤーに気付いた。
「っ!?」
 触れれば肉は軽々斬り裂けそうな程に細く鋭利なそれは明らかに通常の警備で扱うものではない、狙われている、こちらも向こうから。
(……落ち着け)
 早まる心臓を抑えるように胸に手を当てる、このワイヤーは間違いなくこちらが発見することを前提で仕掛けられたものだ。一つ罠を見せつけることでこの先も同じように罠があると警戒させる、そうなれば相手は常に罠を意識して動かざるを得なくなり動きが緩慢になる。かと言ってこれはハッタリだと無警戒に進めば本命の罠にやられるだけ、相手がどう動いても仕掛けた側の利になる厄介な手だ。
(あまりにもこれ見よがしなのは隠す時間がなかったか、私にそう思わせるためか……どちらにせよ時間を与えたらこっちの不利になるだけ)
 覚悟は決まった、ここが境界線だと主張するワイヤーを跨いだ響華はそのまま一息に闇の中に飛び込む。
 警戒は最大限に、視界の端に映る虫の動き一つも見逃さず廃墟の中を駆け抜ける響華が気付いたのは最初のワイヤー以外に罠が仕掛けられていない事、通り道である階段にも簡単な細工一つなく周囲に人の気配は感じられない。
(やっぱり最初のワイヤーは時間稼ぎ、相手が警戒して足を止めている内に確実に仕留める場を作るための見せ罠。もし私ならその場所に選ぶのは……)
 四階、オフィスエリア。そう判断した響華は迷いなく階段を駆け上って最上階へと辿り着き、そこで初めて足を止める。
 空気が違う、全身をゆっくりと締め付けるかのような圧迫感に標的は必ずここに居ると確信する。時間を稼ぐための追加の罠もなかった事から考えると相手もまた時間との戦いだったようだ、念のため視界を広く保ちつつ奥へと進んだ響華はそこに待っていた明確な不自然に目を細めた。
 行く先が煙に包まれた一本道の通路、左右には扉が外された部屋が一つずつ。煙の冷たさから考えるとドライアイスを天井に仕込み煙幕代わりにしているのだろう、スモークグレネードなど違い音を立てず火薬の臭いもしないので長時間保たない代わりに静かに視界を奪えるのが特徴だ。
 またの見せ罠、しかし今度は思考する時間も残されていない。前述の通り短時間しか保たないドライアイスの煙幕を広げているという事は相手はすぐ近くに潜んでいるという事だ、足を止めればそこを仕留めに来られる。
 ゆえに響華は走り方を変える。姿勢を変え重心を身体の外に押し出し、先程とは比べ物にならない速度で右の部屋に飛び込む。
 瞬歩と呼ばれる東洋剣術の歩法、正面と左からの攻撃は部屋の壁を盾に防ぎ右の部屋に標的が居れば先の先の不意打ちで優位を取る。かくして恐れることなく飛び込んだ部屋の中で、不意に暗闇が動いた。
 ここまで想定通り、伸びてきた刃を引き抜いたナイフで防ぐ。しかし甲高い音共に受け止めた衝撃を流す間もなく二本目の刃が響華の眼前に迫る。
(早いっ……!)
 声を上げそうになるのをどうにか抑えつつ身を反らして刃を躱した響華はそのままバク転の要領で相手に牽制の蹴りを放ちつつ大きく距離を取る。
(刃は見えなかったけど獲物は多分ナイフ、早いけど重みはないから……いける!)
 伸びてきた相手のナイフを腕ごと弾き、空いた隙に背後に回り込めば拘束できる、その後は……と考えた所で暗闇の奥から風を斬る音が響いた。
 投げナイフ、と理解したのは首を曲げて回避した後。黒装束の一部が裂けたが傷はない、おそらくこちらの隙を作りたかったのだろうが今の距離なら詰められる前に構えを直すことができる、はずだった。
 相手が跳ねた。全身のバネを使って跳躍する事で距離を詰めるそれは示現流を祖とする歩法であり、本来届かないはずの間合いから一瞬で近づき相手の隙を突く不意打ちの一撃。
(ナイフ格闘じゃない、屋内戦に特化した東洋の短剣術!?)
 響華がその動きを見て、思考ができたのは彼女が似た歩法である瞬歩の使い手であるからだろう、しかし重心を前に出すことで速度を得る彼女の瞬歩は後退で最高速は出せず迫る刃を躱す事はできない。逃げ場を失った響華は静かに、されど力強くナイフを握りしめ自らも瞬歩で前へ駆けた。
 風で装束の一部がめくれ上がり隠していた髪が露出する、引き延ばされた刹那の中で相手が息を呑む気配を感じた。こちらが若い女だと知って動揺したか?ならばそれこそが勝負を決める最後の一手。
 相手よりも僅かに早く響華のナイフが突き刺さる。手に伝わる感触からして間違いなく致命傷、しかし迫る刃の気配は止まることはない、相打ちかと響華が本能的に歯を食い縛った瞬間、敵の振り下ろした刃が彼女の頬を浅く切り裂いた。
「……っ!」
 外した、理由はわからないがこれ以上無い反撃の機会。咄嗟に手刀で相手の顎を跳ね上げた響華は相手の身体からナイフを引き抜きその勢いを乗せた回転切りで無防備に晒された喉を切り裂く。
 パシャッと暖かな液体が覆面越しに響華の顔にかかる、そのまま仰向けに倒れた相手を眺めていた響華だったが相手が起き上がる気配が無いことを悟ると大きく息を吐いた。
 生き延びたという安堵感と人を殺した嫌悪感が同時に胸に襲い掛かる、一刻も早くこの場から離れようとナイフをしまった響華はそのまま立ち去ろうとして……。
「きょ…ちゃ……」
 ゴボゴボとなる水音に紛れて、懐かしい声が聞こえた。
 思考が止まる、意識とは関係なく手が震える、嘘だ幻聴だと必死に自分に言い聞かせながら祈るような気持ちで自分が殺した相手をライトで照らす、先程の手刀の衝撃で相手の覆面は外れていた。
 背が凍る、まず見えたのは変わらない三つ編み。
 喉が渇く、随分と大人びてしまったがあどけなさを残す優しい顔立ち。
 口を開く、ありえないと思いながらその名前を口にする。
「ひ…な……?」
 一度呼んでしまったら、面白いほどに理性の壁は脆く崩れた。
「比奈……比奈!比奈っ!!!」
 何度も名前を呼びながら大切な人に駆け寄る、衣装の一部を破り取って傷口に押し当てるがその程度で出血が止まるほど浅い傷でないとはそれを付けた自分が一番知っているはずだが、そんな事を考える理性は響華に残っていなかった。
「なんで、こんな、どうしてっ!?」
 布に染み込み切らず溢れた血が響華の手を赤く汚す。もう駄目だ、助からない、殺した、誰が、私が、|私《お前》が、|お前《私》が、お前が。
 自分が言っているようにも、別の誰かが言っているようにも聞こえるリフレイン。脳の神経を爪で搔きむしっているかのような激痛を生むその声に響華が叫び声を上げそうになった瞬間だった。
『きょうちゃん』
 自分を呼ぶ声に響華が目を見開くと、目の前にミニチュアのように小さくなった町の景色が広がっていた。
「……あれ?」
 吹き抜ける風と明るい陽射し、振り返ればあの日の二人でお弁当を食べた大樹が見える。突然の事に響華が呆然としていると、ふいに視界が暖かな暗闇に包まれた。
「だーれだ?」
「……比奈?」
「せいかーい!」
 暗闇が晴れ、振り返ればそこにあの日と同じ白いワンピースを身に着けた比奈が立っていた。喉の傷も出血もなく、まるで先程までの出来事が夢であったかのように。その姿を見て響華の視界がじわりと歪む、気が付けば彼女は走り出して比奈の身体を強く抱きしめていた。
「比奈……!居るんだね……!ここにちゃんと……!」
「うん、居るよきょうちゃん……ほんの少しの間だけど」
 寂しそうに呟く比奈の言葉を聞いて、響華の手に喉を切り裂く感覚が明確に蘇ってくる。咄嗟に何か言おうとした響華の口を比奈が指先で抑えると、優しい笑顔を浮かべたまま比奈が言葉を続けた。
「時間もないし、私もわからない事が多いから、大切な事だけ話すね。きょうちゃんは何も悪くないよ」
 比奈の言葉と共に響華の中に自分のものではない記憶と思いが流れ込んでくる。
 暗闇の中、顔もわからない誰かを恐れて罠を仕掛けた。
 死にたくないから、またきょうちゃんに会いたいから、相手を殺すための手段を何度も何度も考えて、何度も考えていたのに、殺すという事の意味を理解していなかった。
 最後の交錯の直前、めくれ上がった装束から見えた蝶の髪飾りを見てわかった。これが最後の訓練、実力を証明すると同時に大切な人を自らの手で殺させることにより道具として完成させるための最終工程。
 そして誰かを殺すという事は命と共にその周囲の人達の未来や大切な何もかもを壊してしまうという事、そんな当たり前を忘れてしまうほど|私《比奈》は先生達を恐れていた。
「だから全部私が弱かったのが悪いの、こんな事はやめようって言えば止められる簡単な事を私はできなかったから」
「それは、私だって……」
「ねえ、きょうちゃん」
 響華の言葉を遮るような比奈の言葉はとても震えていて、今にも泣きだしそうで、その弱々しさに響華は彼女の言葉を黙って待つしかなかった。
「もし、もしもだよ……私がこんなこと止めようって武器を捨てたら、きょうちゃんはどうしてた?」
 比奈の言葉に響華は言葉に詰まるが、先程の感覚を思い出して真っ直ぐ比奈の瞳を見つめる。きっとここでは嘘はつけない、つくつもりもないが、それでもきちんと言葉にしなければならないのは確かなはずだ。
「殴って、縛って、無力化して、その後にしっかり話を聞く」
 あまりにもドライで暴力的で、だからこそ素直な響華の言葉に比奈はしばし呆然とした後、プッと息を吐き出した。
「はは、あはははは!やっぱり凄いね、きょうちゃんは!」
 大きな声を上げて笑う比奈は笑いながら大粒の涙を流していた、まるで後悔の涙を誤魔化すように。
「私はね、多分きょうちゃんからそう言われても駄目だったと思う。先生達が怖くて、足手まといになる未来しか見えなくて、それで結局差し出された手を取ることができないの」
「そんなこと!」
「あるよ、自分の事だよ?自分自身がよーく知ってるんだから」
 響華の言葉を笑顔で否定する比奈の表情は、何故かとても晴れやかに見えた。それが恐ろしく見えて、無意識に比奈を抱く力を強めようとした瞬間、響華の身体は比奈の身体を通り抜けた。
「っ!?比奈!!」
「きょうちゃん、最後に一つだけ」
 薄れゆく比奈の身体に必死に手を伸ばすが、まるで幻のように触れることができない。そうしている内に二人の距離も徐々に離れていき周囲が暗闇に包まれていく。
「自分の中に聞こえる声に負けないで、それに押し潰されたらきっと、きょうちゃんはきょうちゃんじゃ無くなっちゃうから」
 必死に走る、歩法も何もない無茶苦茶な動きでただ必死に離れ行く彼女に手を伸ばす。
「でも大丈夫、きょうちゃんは強いから!自分が信じられないなら私の言葉を信じて!きょうちゃんは誰にも負けないって!」
「勝手な事を……!」
 足に力を込める。少しでいい、刹那の時間で構わない、あの子の……大切な友達のもとへ!
「ねえきょうちゃん」
 名残惜しそうに比奈がゆっくりと口を開く。何を言うつもりが知らないが、自分が一方的に言われたままで黙っていられる性質だと思っているのだろうか?悲しみを通り越してなんだか腹が立って来た、その怒りをそのままぶつけるように響華は地面を強く蹴り出す。
「さよ──」
「大好き!」
 比奈の言葉を遮った時、いつの間にか響華は彼女の眼前に立ちその手をしっかりと握っていた。
「大好き、だったよ……!これまでも、これからも……!」
 響華の言葉と行動に比奈はぽかんと口を開けて彼女の顔を見つめて、先程の何倍はあろうかという涙を流しながら、太陽のような笑顔を浮かべた。
「……私も!」
 暖かいものが唇に触れる。その感覚をしっかりと刻み込んだ瞬間、夢から覚めるように響華の意識が急速にその場から遠ざかる。
「……」
 気が付けば、響華は廃墟に戻っていた。比奈の身体は既に熱を失っており、首の血ももう流れ切って止まっていた。
 おやすみと小さく呟いてその瞼を手でそっと閉じさせる、少しノンビリしすぎたかもしれない。比奈の話を考えるときっと先生達が監視をしているはずだ、そろそろ離れないとなんの意味もなくなってしまう。
「さよなら、比奈……」
 そう言い聞かせるように呟いて響華は踵を返す。仇は取る、いつか必ず、だけど残念ながらそれは今じゃない。
 不思議と身体に力が満ちている、それと同時に自分の中に眠る何か恐ろしい存在も感じられた。これが比奈の言っていた声なのだろう、精々その力を利用させてもらう。
 復讐を誓い響華は廃墟の闇の中へと消えていく、その手を大切な人の血で汚したまま。



「せんせー?」
 背後から聞こえてきた声にハッと我に返った響華が声をした方に振り返ると、三つ編みの女生徒が窓から身を乗り出して不思議そうにこちらを見つめていた。どうやら長らく思い出に耽ってしまっていたようだ。
「手なんかじっと見て、手相占いですか?」
「……ええ、結婚線が短くてね。気にしてるのよ」
「え~、先生美人なんですから大丈夫ですよ~!なんなら私がお婿に行っても良いくらいですって!」
「ありがとう、楽しみにしてるわ」
「楽しみにしてください、ではでは!」
 元気に走り去る生徒を見送り、響華はなんとなく自分の髪に触れる。
(……そういえば、あの頃は外出の自由もなかったはずなのにいつの間に髪留めなんて手に入れていたのかしら?)
 幼い頃はなんの疑問にも思っていなかったが、先生達の周到さを知った今幼く力もない比奈があの髪飾りを持っていたのが不思議に感じられる。施設に入る前から持っていたものとも考えられるが、身元がわかるようなものを彼らが残しておくだろうか?
(まあ考えても仕方がないわね、実物ももう無いし)
 幼い頃もらった蝶の髪留め、訓練の日々で潰れてしまいそうだった自分を支えてくれた大切なお守り。無くなっている事に気が付いたのは比奈との戦いの後、思い当たるタイミングはいくつもあるしいつまでもみっともなくしがみ付いていては比奈も安心できないだろうから後悔はしていないが、それでも物寂しさはある。
 それでも歩みを止めるわけには行かないのだ、自分の強さを信じてくれた比奈の為にも決して。
 一度身体をグッと伸ばして、勢いよく立ち上がる。帰ったら何をしようかとぼんやりと思考を巡らせていると、ふいに携帯の着信が鳴った。
「はいはいもしもし、面倒だから最初に要件を聞きましょう……断ったりしないわよ、その分値段は高いけどね」
 幸せの日々から数年、始まりの日から更に数年、伊澄・響華の戦いはまだ終わっていない。








 一つだけ、響華が気付いていなかった事がある。
 最後の交錯の瞬間比奈は響華の髪留めを狙って刃を振り下ろしていた、響華を殺す気が無かったというのもあるが……最後に一つだけ、思い出を持っていきたかった。
 だから死の瞬間まで、彼女が固く握りしめたナイフの先端には蝶の髪留めが突き刺さっていた。一人で行くのは寂しいし、飛び立つ彼女がいつか私を忘れてくれるように。

 さようならきょうちゃん、ずっとずーーーーーっと、大好きだよ。

成功 🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​



最終結果:成功

完成日:2024年07月23日


挿絵イラスト