●庚申薔薇
薔薇の形を見ると己が主を思い出す。
天白・イサヤ(紫炎雪・f43103)にとって主とは己を作りたもう創造主である。
詰まる所、己は式神である。
何の因果か自我と肉体を得た存在だ。身を覆う護符は肉体の崩壊を止めるものであり、けれど、それが確実性を持っていない危険線を孕む。
いつ己が存在が喪われるか分からない。
けれど、己が存在は主のためにあるのだ。
彼女のために、彼女の願うことをしなければならない。
それがイサヤの至上命題であった。
「とは言え」
如何にしたものか。
己が体躯は人から見れば異形である。
そんな己が異世界の……それも市井に紛れるというのは、無理な話であった。
しかし、それを可能とするのが猟兵の力である。
異形の身であれど、周囲に己の体躯は奇異なるものに映らない。
そもそも異世界……UDCアースと呼ばれる世界に足を踏み入れたのは、些細なきっかけがもとである。
猟兵に覚醒した己は世界の危機に馳せ参じる。
これまで『平安結界』を維持するためだけに戦ってきた己が他世界の危機にまで出張るのは、些か不満を覚えるものであった。
だが、主の鶴の一声でこうして馳せ参じているのだ。
「他の世界を救うのも、この世界を救うのも何が変わりましょうや」
主の言葉は己にとって最大の言葉である。
逆らう理由などない。
主が、是と言ったのならば是なのだ。
是非などない。
故に己はこうして他世界に足を踏み入れたのだが、此処は一体どこだ?
イサヤは知らぬことであったが、今UDCアースはバレンタインデーという催しが行われており、市場……という名のデパート地下街にはチョコレートが溢れていた。
無論、イサヤにチョコレートなるものが一体なんであるのかはわからない。
「……」
じ、と目の前の薔薇の形をしたチョコレートに目を奪われる。
それは主の好む華であったからだ。
確か、庚申薔薇と言っただろうか。
ある周期にあって、人の体より三尸虫が逃げ出し人の悪事を神々に言いつけることと、年に数回華を咲かせることが似ているが故に名付けられた名であると記憶している。
そんな風にイサヤが薔薇の形をしたチョコレートを眺めていると恐らく店主であろうものが語りかけてくる。
「何かお探しですか?」
「いや、我は」
イサヤはそこまで言って考える。
確か主は他世界の話を聞きたいとおっしゃっていた。
ならば、これは良い土産になるのではないか。異世界の品。これに勝るものはないだろう。ならば、悩む必要はない。
幸いにこの世界における金銭の類はすでに受領している。
本来であれば、これは主に献上すべきものであるが、何、品物に化けるのだとすれば主も咎めはしないだろう。
むしろ、喜んでくれるかも知れない。
そこまで思考を巡らせ、イサヤは店主らしき女人から薔薇の形をしたチョコレートを一つ包んでもらい、己が主の元へと舞い戻るのだった。
そして、そして、と話は続く。
己が手より異世界の品を受け取った主は甚く感心しているようだった。
その様子にイサヤは胸をなでおろす。
「此度の御役目、大義でありました。これなる手土産も持ち帰るとは、少し驚きましたが」
「我に与えられしは異世界での見聞を御耳にお届けすること。己が目で見たものを言葉にすること。さすれば、斯様なる品こそが相応しいかと思い」
「気が効いているわ。本当に」
微笑む主の表情にイサヤは安堵という感情を覚える。
我が主は優秀な御方である。
猟兵に目覚めるのならば、この方であろうと思ったが、何故か己が猟兵として異世界へと渡る力を得てしまっていた。
主を差し置いてとは思ったものの、彼女は己が猟兵となったことを大いに喜ばれたのだ。なんと器の大きいことであろうか。
「どうぞご賞味ください。毒の類は感知されておりませぬゆえ。御安心召されれば……」
「イサヤもどうぞ」
紙の箱に収められた薔薇のチョコレート。
そのなんとも言い難い色艶をした菓子を主はつまんで己に差し出してくる。
「主様。我は飲食の類は不要でありますれば」
「美味しいのよ、これ。とっても。とろける味わいと言えばいいのかしら。舌が、いえ、頬が落ちそうなの」
さあ、と主は己にチョコレートを差し出してくる。
これは主への献上品である。
それを己が、と思えど、しかしそれが命令であれば断ることはできない。
それほどの味わいだというのなら主が全て召し上がって欲しいものであるが。
「……」
「ね、そうでしょう?」
口に放り込まれたチョコレートにイサヤは硬直する。
甘い。
それは己が脳に直接走る雷鳴じみた衝撃であった。
凄まじい程の味わい。
甘さの奥に苦みもある。
これが。
「甘く蕩ける、でしょう?」
主の先回りした言葉にイサヤは、全く持ってその通りでございます、と深く一礼し、さらにもう一粒頬張る主の姿に一頻り感じ入るのであった――。
成功
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