高い建物に囲まれて、空は見えない。暗い昏い世界。
声も呼気も潜められた暗い路地を抜ければ次は文字が光る看板、美しい装飾の灯篭、弦楽器の調べがどこからか聴こえてきて歌うかのような声の呼び込みが渡る道に出た。
風は無く、建物の窓から漏れ出た煙が薄らと水琴・ヤト(f38518)の視界に漂っていた。
「ふしぎなものがいっぱい……」
綺麗なお姉さん、怖そうなお兄さん、明るい看板の下を通れば刹那に見える人々の表情。呟いたヤトの歩みは惹かれるままにふわりふわり。同じように彼女が看板の下を潜れば儚い脚が光を内包した。
猟兵になってまだ日の浅いヤトは、グリモアに導かれるまま『今日の散歩』を楽しんでいた。
海の広がる場所、桜に満ちた場所、喋る花に引き留められる場所。
今日訪れた場所は暗いのに目まぐるしく一瞬が見逃せない。そのせいかヤトの足取りは移ろうものとなっている。
「ここは……お薬屋さん?」
胃腸、風邪などの症状、滋養強壮、肉体疲労などの字は暮らしているUDCアースの漢字に似たものだった。ヤトは立ち止まり、書かれたものをじっくりと読み解くように眺める。
その時、誰かの呼気の変化がヤトに届く。
誘われたようにヤトは周囲へゆるりと視線を巡らせた。
沙・碧海(f39142)が行っている『何でも屋稼業』はその名の通り何でも請け負う。
今日のように仕事がない日はのんびりと散策をして、いつもとは少し違う異変を嗅ぎつけたり、困った者がいれば助けたり。
九龍城砦の空気が不穏なのはいつものことだ。怪しい路地は息を潜めて、光がある通りではふらりと店に立ち寄ったり。
(「……あれ?」)
その最中に目に留まったのは『場違いな女の子』だった。
ふわりふわりとした雰囲気を纏う女の子の動作は、ふとした瞬間に余所へ――例えば卓上の酒瓶やガラスの窓など――光差す。
きらり、きらり。
それはホログラムみたいな光で、否、実際彼女は『そう』なのだろうと碧海は思い至った。今は不思議そうに辺りを見回している。
(「猟兵、かな? こういうのなんて言うんだっけ……泥中の蓮?」)
怪しい物を売る店主に話しかけられては興味深そうに物品の説明を聞いている。
危険な九龍城砦を行くにはあまりにも無防備な姿だ。ああ、ほら、周囲の者が不躾な視線を送っている。
碧海はどこかはらはらとしながら少女を見守った――自然と着いていく形になってしまっている。
不躾な、怪しむ視線が碧海自身にも飛ばされる。不味い。
碧海は敢えて足音を立て、少女に近付いた。
「ねえねえ、君、迷子? ここらへん危ないよ」
……声を掛けてから、なんかナンパみたいかな、と気付くも後の祭りである。
少女はキョトンとした瞳を碧海に向けて、それから何かを考えるしぐさ。少し頭が傾いた。
「迷子? うーん、迷子かも?」
明らかに「言われてみれば、そうかも」という感じだった。
「ここ、あんまり良くないからさ。一旦オレの家においでよ。お茶くらいは出せるし」
どこからか、不躾な嫌な視線が強まった気がする。
「オレの家、何でも屋の事務所でもあるし。困ったことがあるなら相談にのるし」
続ける碧海の言葉は、少女やそして周囲に向けたものとなっていた。
けれども細やかな根回しには少女も気付いていないのだろう。
「え、あなたのお家? いいの? ありがとう!」
ぱっと花咲いたような笑顔は無邪気で、素直。
警戒心がなく心配だ。碧海が一瞬険しい顔になってしまうのも仕方がない。
(「……勿論。オレは変なことするつもりないけどさ」)
道中は自己紹介。
碧海の読み通り、ヤトは猟兵だった。自身と同じくグリモアを扱っているらしい。
何でも屋の事務所も兼ねてる家へと招き入れれば、外と同じようにヤトは興味津々に目を輝かせている。
「碧海さん、ここでお仕事してるんだ」
「適当に座ってて。お茶淹れてくる」
碧海に促され、客人用ソファへぽすんと腰掛けるヤト。
テーブルの上には何でも屋の宣伝ちらしと共に迷子犬や猫の捜索ちらしなどが置かれていた。部屋の隅には見たことのない道具。
「何でも屋って格好いいね! 私は猟兵仕事しかしてないからなぁ」
「猟兵も何でも屋みたいなものだよ」
捜索や潜入調査、荒事と、ちょっと規模が大きい何でも屋だ。
「はい、紅茶。UDCアースで買ってきたものだから味は保障するよ」
「ありがとう! いただくね。――あ、そうそう、私、非常食? も兼ねてチョコを持たされてるの。碧海さん食べる?」
そう言ってヤトはホロポシェットから一口チョコレートをいくつか取り出した。
ありがとう。と応える碧海の声は少し戸惑ったものとなった。
持たされてる? とは何だろう。よく迷子になっているんだろうか? ヤトの言葉を胸内で反芻していると、ヤトが「おいしい」と、ほわりとした声を零した。
本当に心からそう思ったのであろう声に、碧海の狼耳がぴくりと動く。
「持たされているってどうしたの?」
「私、UDCアースってところで、組織の人たちのお世話になってるんだ」
グリモアに導かれるままの散策。気まぐれなそれは、何かを探しているんだろうか?
――私、迷子だったのかなぁ。
碧海に言われて、初めて、気まぐれに『意味』がついたような気がした。
わかんないや。とヤトはふわり思考を巡らせる。
碧海を見てみれば、何かを難しく考えている彼はやっぱり険しい顔。
あのさ、と切り出された声や紫の瞳は真っ直ぐにヤトへと向けられていた。
「良かったらさ、オレと友達になってよ。お互い猟兵だし、一緒に依頼に行ったり、出かけたりする友達が欲しかったんだ」
友達。その響きが自身に向けられたのが、凄く嬉しい。
「友達――素敵! 私も友達になりたい。よろしくね、碧海さん……じゃなくて、碧海」
依頼は勿論だけど、一緒にお出かけだって出来る『友達』。名を呼べば、嬉しさは親しみにもとれる音となった。
険しい顔から、緊張した顔。そして今はホッと安堵している碧海の表情。
「うん、こちらこそ。よろしく」
行ったことのある世界や、自身の近況。行ってみたい場所。
そんなことを少し話して。
そろそろ帰らないと。とヤトが言った。
「送っていこうか?」
「ううん、大丈夫。これがあるから」
そう言ってヤトが翳したのはグリモアだ。
「碧海、またね!」
手を振るヤトに「またな」と碧海も応える。
彼女が消えた部屋は何だか静寂を感じた。いつもより寂しい気もするし、ふと湧いた疲労感に心地よい気もするし。
(「なんか緊張してたのかな……またヤトと会うのは楽しみだな」)
まだ色濃く残る、友達との会話を思い出しながら茶器を片付けていく。
一方、UDCアースへと戻ったヤトも友達とのやり取りを反芻していた。
初めて行った場所で友達が出来た。名前は碧海。とても優しい。
書き込むように、思ったことを心に刻んでいく。
●
これは時が経ってからも描く大切な思い出としてヤトの心に在った。
得た感情はのちに『これ』だと思った。
「あの日は幸せいっぱいの気持ちだったなぁ」
お気に入りのきらきらのリボンみたいに、思い出すと『幸せ』が心に満ちる。
あたたかなひとときだった。
成功
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