君子、富貴は浮雲の如し
●責務とは常に付き従う影
ユーベルコードに目覚めたからには戦うことは義務であり、責務である。
そうしなければ世界……即ち『平安結界』は維持できないのだ。
貴族たちにとって、それは幼少の頃より教わってきたことだ。
世界の在り方。
世界の真実。
言葉にすれば陳腐であるが、事実そうであるところを男は知っている。
思い返せば、己が『通婚』の体裁を取って仕えている源・絹子(狂斎女王・f42825)との出会いは、なんとも幼少の我が身には刺激的だったように思える。
絹子の容姿は優れたものだ。
貴人である、ということを差し引いたとしても、その容貌は嫌でも目を引くものであったことだろう。
「なんじゃ、遠い目をしおって」
絹子の言葉に男は我に返る。
頭を振る。
思い出していたことを悟られまいと男は表情を変えずに否定の言葉を紡ぐ。
如何に体裁上は、そのような関係と言えど、相手は貴人である。
「いえ、なんでもございませぬ」
「なんでもないことはないじゃろ。ほれ、言うてみよ」
絹子は、ほれ、と面白がるようにして言う。
完全にバレている。
だが、それでも取り繕わねばならぬものというのあるのだ。
故に男はもう一度頭を振り、あの日の事を思い出していた。
そう、あの日は己にとっては、あまりにも衝撃的な日だった。
結界の綻びより出るは妖の群れ。
平安貴族はもとより、坂東武者、検非違使も総出であった。だが、それほどの戦力を持ってしても妖は手強い。
いつも最善を尽くしてはいるが、しかして最高の結果が得られるとは限らぬのだ。
最悪だけを避けるために彼らは戦っている。
良く言って善戦という言葉が似つかわしいような結果になるのだろうと誰もが思っていたん。
だが、そこに現れた貴人……即ち、絹子の助力によって最悪を回避するだけでなく、最高に近しい結果を得ることができたのだ。
しかし、妖を撃滅する絹子の力を持ってしてもどうにも成らぬことがある。
それは夜である。
そう、元来人は昼行性の生物である。
夜は人の営みの外にあるもの。いかなる不測の事態が起こらぬとは限らない。
だからこそ、男の親は絹子を己が邸宅へと招き、歓待と一泊の礼をもってもてなしたのだ。
絹子にとっては歓待は望んだものではない。
戦うことは己の責務である。
なればこそ、求められこそすれ、こうして礼される理由などなかったのだ。
「そんなわけには参りませぬ」
「歓待は不要。一泊のために一晩部屋を借りることができれば、それで」
「ですが」
「これもまた我が責務よ。して当然のことをしたのじゃ」
故に、と歓待を固辞した絹子に男の両親はせめて、と己に絹子の世話を命じたのだ。
明かりを絶やさぬように。
何か用向きがあればすぐにでも対応できるように、と。
幼い男は不平不満をこぼした。
まあ、当然であろう。
一晩とは言え、見知らぬ者の世話をする、というのは気が滅入ることであったからだ。
けれど、然と勤め上げよ、と命ぜられては伺わぬわけにはいかぬ。
「何かご用向きございましたら……」
男はそう、かしこまってみたが、なんともしっくり来ない。
けれど、男は目を見張った。
見惚れた、と言ってもいいだろう。
言葉にすれば、何もかもが嘘偽りになってしまう。
それほどまでに部屋に座す絹子の姿は凛然としていたのだ。しかし、その空気はすぐにほぐれる。
「すまぬな。今宵一晩、この部屋を借りておる。面倒を掛けるな」
「い、いえ……」
「そこにおっては寒かろう。妾も体が冷えておる故。入られよ、童」
手招きされる姿にすら、どこか気品が漂う。
童でよかった、と思うべきであろう。
もう少しでも年かさがましていれば、己はきっとこの魔性の如き魅力に引きずり込まれていただろうから。
いや、もう遅かったのかも知れない。
この時すでに己はこの方に仕えると決めていたのかもしれない。
部屋に招かれるままに入れば、手を取られる。
「童の身体はぬくいのぅ」
「あ、あの……!」
「そ、その、お戯れを!やんごとなき御方に失礼があっては」
「よい、 富貴は永久のものではなく、いつかははかなく崩れ去るものである」
そういう彼女の顔は何処か寂しげだったのを覚えている。
何も言えなくなっている己に彼女はまたわらって言うのだ。
「ふふ、すまぬすまぬ。少しばかり誂いたかったのじゃ。さて、今日はお主も眠られよ。眠る子はよく育つ。はよう大きくおなり」
絹子の慈しむような声に眠気が瞼に重くのしかかる。
何かもっと、伝えなければならない言葉があったと思う。
けれど、撫でる掌の感触は有無を言わせず。
眠るに落ちる己は、朝まで起きることはなかった。
そのような事を思い出して男は息を吐きだす。
本当にあの時は、そう思ったのになぁ、と。
その言葉に絹子は、なんとも言い難い顔をし、さらに追求の言葉を紡ぐが、男は取り合わぬのだった――。
成功
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