君子、過而不改、是謂過矣
●諌言、耳に痛し
「わかった。あいわかった。わかっておる。わかっておるから」
その言葉は何度も聞いた。
わかった、と理解の言葉を発していても、眼の前の貴人は何一つわかっていないのだということを転身式神『マユ』は思う。
己の自我がある、ということも転身式神である『マユ』にとっては理解に苦しむものである。
自由意志を道具に保たせるといのは、あまり褒められたことではない。
生命の定義をなんとする、という所から始まるものであり、これもまた己が主人に幾度となく伝えてきたことだ。
自らは道具だ。
式神とは即ち、使役する者の思念によって形作られるものである。
そんな道具が主人に楯突くなど道具として誤っていると言えるだろう。
けれど、己のが主人はそういう所を面白がる癖でもあるのか、己を廃棄しない。
それどころか、時折自身の名代として場を取り仕切らせるのだ。
厄介極まりない。
「いいえ。何一つわかっておりませぬ」
その言葉は他者に聞こえぬものであった。
前述した通り、式神は使役者の思念によって形作られる。
人型の依代たる紙に普段は変じている。いや、逆である。必要に応じて己は人型の紙より源・絹子(狂斎女王・f42825)と同じ姿へと成り代わるのだ。
彼女は鬼道衆である。
文明社会と馴れ合わず、不老不死を体現する者である。
そんなものが文明の産物とも言うべき式神を使役することもまたおかしなことである。
「だって、便利なのじゃもの」
「またそんなことをおっしゃる!」
「あーもー、がみがみとやかましいことこの上ないわ! その口をつぐむのじゃ!」
「いいえ、なりませぬ」
絹子は言葉ではそう言っているが、己が自由意志のままに言葉を紡ぐことを許してる。本当に煩わしいと思っているのならば、即座に己を紙に戻せばよい。
なのに、それをしない。
だから、変わっている。
「そもそも私の本来の使い方が間違っているのでございます」
「いいや、間違っておらんじゃろ」
本来、転身式神というものは主人の身代わりになるものだ。
けれど、絹子は違う使い方をする。
おのれが囮になって、妖を惹きつける。そうして無茶をするのだ。
今回だってそうだった。
逆である。
己が傷ついて式神としての本分を、本懐とも言って良い行いを為すことが本来なのだ。
なのに。
「いやまあ、ほれ。万事うまくいったのでよいではないか」
のぅ? と笑む。
当たり前のように己の身を危険に晒す。
不老不死だからと言ってもやっていいことと悪いことがあるだろう。
「妾が健在である。それを示すのがあなたの役目。そうでろう? なんらまちがっておらぬ」
完璧な理論武装、と言わんばかりである。
「貴方様が仮に表にでられないほどの重傷を負うような状況に追い込まれるのが、そも間違いなのです。それを」
「だから、わかっておるて」
あーもー。
本当にどうしようもなお人であると『マユ』は思う。
何を言ってこうである。
果たして絹子をたしなめる事のできる人物などいるのだろうか。
世の暴君とは諌言を聞き入れず、忠臣ほど首を切る。
史実が物語っている。
いつだって諌言とは耳が痛いものだ。
そういう意味では絹子もまた暴君だと思った。けれど、絹子は頭を振る。
「我は、そう在ると決めたのです」
真剣な眼差しが己を射抜く。
たしなめるでもなく、言い含めるでもなく、それはただの宣言であった。
「如何にか弱き身であろうとできることがあるのならば、それを為す。それが我が使命。だから、なんと言われようと止めません」
これが己の過ちなどとは微塵も思っていない。
過ちと認識していないのならば、過ちではない。
そして、仮に過ちだと認識していても、己が道はそうした過ちの積み重ねでもって切り拓かれるものである。
傷つくのが己が身でよいとさえ彼女は思っている。
民草の身は傷つけば戻らない。
死ねば生命は戻ってこない。
だが、己は妖にどれだけ傷つけられても不老不死であるがゆえに死なぬ。
「なーんての!」
からりと笑う。
それはずるいと思った。
けれど、それもまた絹子なのだ。
息を吐き出す。
ため息だった。
このため息も何回目であろうか。これまで幾度となく繰り返されてきたやり取り。
これをまた己は繰り返すだろう。
己が諌言が受け入れられた時、それはきっと絹子が絹子でなくなった時だけだろう。
だからこそ、望む。
この毎度のことながらの苦言を何度でも、と。
きっとその望みは叶えられるだろう。悲しいことだけれど。
それが貴方の望みならば、と。
「冗談めかしてもお説教は終わりませんが」
「うそじゃろ?」
自由奔放なる女王は、変わらない。
不変たる覚悟を持って、ひた走る。なら、己は変わらぬ毎日を示すように、苦言を呈し続ける。
それでいいのだと。
そんな毎日愛おしいのだと――。
成功
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