未だ、分かたれし世界を知らず
●ケルベロスディバイド
夜すら知らぬような光景が眼の前に広がっている。
己が知る夜とは即ち、星々の明かりと月光のみが照らす闇の事をいう。
月影の暗闇は人の心に恐怖というものを知らしめる。
篝火の炎があればこそ、人は理性で持って本能を克服せしめることができるのだ。故に、無数の篝火めいた輝きが夜の闇を切り分かつように放たれる光景に桐藤・紫詠(黄泉詩の皇族・f42817)は、驚異たる驚きに胸を踊らせた。
人は未知なるものに対して一度理解を拒む習性めいた性質があるのは言うまでもない。
理解できぬものを即座に飲み込むことができるのは、生物として欠陥があると言っても過言ではない。
警戒し、未知故に知ろうとする。
それが他の生物と人間の異なる点であっただろう。
知らぬを知る。
知るが足り得ぬことを知る。
そうして連綿と紡がれてきたものが文明文化であるというのならば、『平安結界』というある種似た世界は狭いと感じるのもまた道理であった。
「なんということでしょうか」
紫詠は思う。
これが平安時代を経た世界。
時代は移ろう。
己達が生きているアヤカシエンパイアとは異なる世界。
この世界は時代を移ろっていく。
変遷していく。
けれど、己が生きた世界は違う。
滅びを先延ばしにするかのように延命措置を行っているようなものだ。されど、それでも紫詠はなんら恥じるところはないと思うのだ。
「そして、これがセーラー服」
己が普段身につけている羽衣などといった着衣からするとなんとも頼りない。
だが縫製は凄まじいものであった。
縫い目すら均等。
乱れなく、ほころぶことを知らぬかのような縫い目。布地もまた同様であった。なんという技術の進歩であろうか。
そして、それ以上に紫詠を驚かせたのは、手にした光る薄板である。
「これなるは、すまーとふぉん、と仰られておりましたが……なんとも」
なんとも面妖なことである。
光を放つというのに熱は殆ど感じられない。
なのに光り輝いている。
目が眩むような輝きであるのに、明るさを勝手に調整してくれるのだ。闇夜の中で覗き込んでも眩しすぎるということがない。
加えて、このすまーとふぉんなるものは、ただ光るだけではないのだ。
文字を打ち込むこともできれば、なんと遠方離れたる者と念話ではなく言葉でもって会話することができる。
しかも、時間の差がほぼ生まれていない。
文を届けるにしたってそうだ。
一瞬である。
そして、紫詠が最も驚き、また同時に喜んだ機能がある。
「へっどふぉん……ぶるぅとぅす、につなげる、と」
紫詠は耳に当てた皿めいたものを手で抑える。必ずしも手で抑える必要はないということだが、なんとも慣れぬのである。
すまーとふぉんを指で抑えると、皿めいたものの奥から音が響く。
軽快な音。
一体どれだけの楽器を用いれば、このような音が響くものなのか、紫詠には想像もできなかった。
音を体感する、という意味において軽快なる音は紫詠の中にまた未知なる音を注ぎ込むようであった。
口を開けば喉奥が震える。
このケルベロスディバイドという世界の横浜という都を紫詠は散策する。
完全にお上りさんのそれであるが、しかして道行く人々は紫詠に注視しない。いや、視界に入れているのだろうが、端にて認識するだけですぐさま意識から離れていく。
まるで人が川の流れのように道を行き交う。
光が乱舞するように情報として紫詠の中に流れ込んでくる。
人々の生き方は様々だ。
人種もそうであろうし、肌の色も、髪の色だって異なるものばかりだ。
多種多様というにはあまりにも紫詠には刺激的だったし、そうした圧倒的な情報の洪水にほとほと疲れ果ててしまった。
「……この匂いは。なんとも芳しい。動物の油……? いえ、魚介の類い?」
紫詠は鼻を引くつかせる。
はしたない行いだとはわかっているが、ここは世界が異なるのだ。ならば、己の所作を見咎めるものはいないだろう。
匂いに導かれるままに紫詠は一軒の赤い看板が煌々と輝く店先にて立ち止まる。
見上げた看板は不思議な文様が描かれていた。
渦巻きめいた文様。
彼女にとっては初めて見るものであったし、文字は『拉麺』と書かれていた。
知らない。
というか、それ以上に香る匂いに紫詠は自ずと足を踏み入れていた。
蒸気煙るようにして扉が開かれる。
より一層香りが増している。
獣臭い、とは一瞬思ったが、それでも魅惑的な香りであることは言うまでもない。
食欲を唆る香り。
くぅ、とお腹が鳴るのを気恥ずかしく思いながらも紫詠は店内に入り、すまーとふぉんをかざす。
はいはい、と店主めいたものが注文を受け取れば決済が済むのだろう。
なんて便利なのだろうか。
金子めいたものなど必要なくやりとりが完結してしまう。
「へい、おまち!」
威勢のよい声。
眼の前に置かれた器もまた不思議だった。
これを丼、と呼ぶのを紫詠は知らなかっただろう。そして、拉麺。これだ。これが己の鼻腔をくすぐったものだ。
「そばのようなものかと思いましたが、中々興味深いですね」
箸を手に取る。
いざ、と彼女は山盛りになった野菜の類をつまみ口に運ぶ。
口の中が塩味で弾けるようだった。
脳に直接味を叩き込まれたような感覚に紫詠は、目をしばたかせる。
「なっ……」
なんだこれは。
凄まじい味である。濃ゆい、と言うのが正しいのか。
いや、それはそうとしても何故己は箸をまた伸ばしているのだろう。手が勝手に、と紫詠は戸惑う。
薄切りにされた獣の肉を口に運ぶ。
これまたなんとも味わい深い。単調な味かと思えば、醤の味わいが芳醇である。重ねに重ねられた味わいが喉を通り抜けていく。
他の客の見様見真似でレンゲを取り、汁を啜り麺を頬張る。
止まらない。
無我夢中で拉麺を味わっていた紫詠の耳に響くはサイレンの音。
「デウスエクス来襲! デウスエクス来襲!」
響く警報に人々は一様に慌て始める。
そう、この世界は宇宙からの侵略者の驚異にさらされているのだ。
常に戦いの危険が迫っていることは、己が世界と変わらぬということだ。
紫詠は優雅に丼を空にし、立ち上がる。
「成程、デウスエクスとやらですか」
「あ、あんたケルベロスか!? た、頼んだぜ!」
「けるべろす。いいえ、余は猟兵」
紫詠は笑む。
「――寵愛し 相愛返す 雪景色」
同時に歌を読み上げる。黄泉詩は、己が歌い上げたものを起点として能力を得た帝竜が具現化される。
吹き荒れるは氷雪。
即ち、この一体を雪景色へと変ずる力。
迫るデウスエクスの襲来。
街が炎に包まれんとしたとしても、彼女の読み上げた平安詩浄土変・帝竜招来せし剣の詩(テイリュウショウライセシツルギノウタ)は此れをことごとく鎮火するものであったことだろう。
「余は謡う、この世界を浄土とする為に。紡がれた詩と共に、帝たる竜は我が元に集う。我が剣となりて平安の世、そしてこの分かたれたる世界を護り給え」
具現化した帝竜が咆哮する。
周囲に集まってきたケルベロスたちと紫詠は端的に意思疎通を躱し、デウスエクスたちを打ち倒していく。
「このまま制圧しましょうか」
戦う理由はいつだって誰かのため。
なら、この世界でも紫詠は変わる必要はないだろう。
振るう力の責務を忘れぬように、詠み上げる歌は高らかに響くのだった――。
成功
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