君子、任重くして道遠し
●岐路と帰路
人の心を慰めるのは時である。
肉体の傷は生きようとする意志によって癒えるだろう。
だが、心というのは癒えることはない。
癒えているように見えて、その実、かさぶたのように傷を隠しているだけなのだ。心とはそういうものなのだ。
故に心の傷を慰めるのは時である。
源・絹子(狂斎女王・f42825)にとって、己が傷が如何なるかを語る理由はないだろう。
けれど、いつだって思うのだ。
己が名代として各地に向かう男がいる。
彼がいつの日にか戻らぬ日もあるのだろうと。
わかっている。此れまでだって多くを見送ってきた身である。
一度や二度ではない。
その別れが幾つもの心に傷を作っていく。
その傷が愛おしく思えるものであるからこそ、絹子は己が心を慰める時にこそ揺蕩う。
「して、どのようであったか」
「は、妖の出現の兆しありと向かった所、すでに退治の手はず整いて、これを恙無く何事もなく撃退せしめむる所でございました」
男の言葉に絹子は、ふむ、と首を傾げる。
おかしなことである。
妖というのは常に人の中に潜むものであるし、現れるのはいつだって予測不可能なるものだ。
そもそも妖が出現するからといって万事備えあり、ということはないのだ。
不足の事態に対応する他ない。
なのに、手はずが整っていた、と?
「何か思い当たるところはございますか」
「十中八九、他世界よりの来訪者であろうな。つまり、猟兵である」
そう、絹子もまた猟兵である。
彼女の力を男は理解している。
だからこそ、此度の調査があまりにも順調にことが運んだことへの合点がゆく。
「他世界の猟兵の助力。なるほど、そう考えれば合点がいきまする」
「であろうな。だが、被害がほぼ無し、というのは流石である。未然に防げたことは喜ばしい限りだ。他世界の猟兵の出現は、妾たちにとって幸い、吉兆であろう」
これで自分も大いに動けるというものあと絹子は喜んでいる。
だが、男は渋面を作っていた。
あ、その顔は良く知っている、と絹子は笑う。
「なんじゃ。何か言いたげな顔をしとるのう?」
「当然でありましょう」
「申してみよ」
「ご無理をなさらないでください」
「はてな。どういうことじゃろうか」
絹子は誂い半分に笑って惚けて見せる。その様子に男は深くため息を付く。
これ、貴人の前じゃぞ、と絹子はすねて見せるが効果はないようだった。いつもどおりの絹子の態度に付き合いきれないと言わんばかりであった。
益々持って絹子は面白くない。
なんと誂い甲斐がない男であろうか。
「よいですね。貴方様の御役目は重々承知しております。ですが、御身のことを慮ることなくば、それもまた異なるものでありましょう」
「わかっておるよ」
「それでは、私は此れにて」
「いや待て」
絹子は男を引き止める。
なにゆえ、と言いたげな顔を男はしている。
「夜に山越えはやめておくのじゃ」
「ですが、明日も務めがございます。今夜の内に戻らねば、明日に響きます」」
「泊まってゆけ」
その一言は鶴の一声であった。
有無を言わさぬ言葉の圧が其処にあった。
誂いでもなく、冗談でもなく。
ただ只管に『泊まってゆけ』という言葉の圧が増していくのだ。
絹子の視線が刺さるようだった。
己が束帯を床に縫い留めるような視線の動き。
まるで。
「蛇に睨まれた蛙だとか思ってはいやしまいな?」
其処まで物騒なものではない、と男は思ったが、しかし絹子にはお見通しであったようだ。
しかし、と言いかけた男の言葉を絹子は遮った。
明かりによって生み出された影の奥が揺らめく。
「表向きは『通い婚』であろう?」
それは確認するような言葉だった。
「何もおかしくはないのじゃが」
同時にねだるような言葉であったようにおも思えた。
視線が泳ぐ。
いや、しかし、と吃るのは致し方ないものであろう。
男は掌を開いたり閉じたりするばかりであった。なんとも初い反応であろうか。
絹子は面白くなってくる。
この男が此処までたじろぐのは、こういう時だけだ。
だからこそ、青い瞳で見つめる。
有無を言わさぬような視線。揺らめく影が男の影に伸びる。
影と影が触れたからといって直に触れているとは限らないだろう。
けれど、男は諦めたように息を吐き出す。
「承知いたしました」
「これ、そのような言葉遣いはやめよ。今宵はな。あなたは『通い婚』にて此処におるのじゃぞ?」
「楽しんでおられますね」
「わかるか?」
「私にとっては、それなりに長きお付き合いになりますゆえ」
「ならば、わかっておるな?」
それ以上は言葉にするつもりはないと絹子は微笑む。
また、それだ、と男は思っただろう。
自分の急所めいた部分を抑えてくる。的確に、それでいて力の加減すら誤ることはない。
どう考えても年の功というものでは及ばない。
なら、と男は思うのだ。
「今の私は蛙ではなく、鯛の気分でございます」
「百年早い――」
成功
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