遊庭、蹴聖を育てる
●蹴鞠
『平安結界』に包まれた世界にあって蹴鞠とは勝敗を競い合う遊びではなかった。
嘗ては雨乞いの儀式。
如何に鞠を蹴りやすく相手に返すか……いや、渡すかという精神が最も大切なのだ。
故にそこに性差は関係なく。
童たちが笑う声が聞こえている。
いつまでもこの時が続けばいいと思った。
跳ね上がる鞠。
鞠壺は四隅を木で囲われた、謂わばフィールドである。|沓《くつ》にて蹴り上げられた鞠を追う。
息が切れる。
こんなにも楽しいことが世の中には溢れているのかと思った。
女童は弾けるような笑顔と、汗を日に煌めかせながらまた一つ鞠を蹴り上げる。
「みてみて! 兄様、わらわにもできたのじゃ!」
すごいぞ、と褒められると誇らしくなる。
童、藤原・香津子(蹴聖成る鞠愛ずる姫君・f42816)は兄の言葉に笑顔を返した。何もかもが穏やかな日々だった。
穏やかなる日々があるということは、その裏で平穏を引き裂く者たちがうごめいているということである。
そう、この平穏は仮初。
『平穏結界』の外側では妖が人間を食らわんと蠢動しているのだ。
「香津子、兄はこれから出立せねばならないのだ。だから、蹴鞠はできない」
「そんな、兄様! わらわは……」
何故兄が出立しないといけないのか香津子にはわからなかった。
理解したくなかったのかもしれない。
人は生まれを選べない。
平安貴族たる自分たちは『平安結界』を護る役目がある。人々を護るため。妖に人の世を引き裂かれぬために。
そう教わって生きてきた。
けれど、香津子は蹴鞠を知ってしまった。
あれほど楽しく、穏やかな時間はない。だから。
「それでもだ。香津子、よいか。お前にも必ずわかる時がくる」
そう告げる兄の言葉が脳裏にこびりついている。
出立を見送ってからというもの香津子は一人鞠を蹴る。蹴り続けた。
できるだけ落とさないように。できるだけ他の者が蹴り返しやすいように。そっと足の指と甲の間に鞠を乗せるように、掴むようにして足を振り上げる。
高く、高く飛び立つ鞠を香津子は何度も見た。
青空の日も。曇天の日も。雨空の日も。稲光走る日も。
家族に呆れられても、気が狂ってしまったと嘆かれても香津子は止めなかった。
蹴鞠に魅せられた姫君はいつしか、蹴鞠を愛するようになったのだ。
どんな時でも鞠を手放すことはなかった。
千日。
人は飽きやすいものだ。千日、と言葉にするは容易く。されど、それを実現することは容易ならざるものである。
しかし、香津子は成し遂げた。
それと意識せずとも性活の一部として蹴鞠を続けた。
高く、高く。
童の頃よりもずっと高く鞠が空へと蹴り上げられる。
幼き日に鞠壺の境を示していた木々の背など軽く超えてしまった。
ああ、と思う。
遠きに来てしまった、と。
「……!?」
彼女の蹴り業は凄まじき領域に達している。
常人には理解できぬほど鞠は高く蹴り上げられ、同時に空が明滅する。
香津子の愛注がれた鞠は化神へと至らしむる所であった。
鞠変ずるカラスの化神は香津子に告げる。
「世界を救い給え。人心惑わし、人を襲う妖魔を討ち給え」
「……へ?」
訳がわからなかった。
けれど、落ちてきた鞠を足で受け止めて香津子は大慌てで兄に文を送り、家族にもその旨を告げる。
けれど、家族たちの反応はなんとも筆舌に尽くしがたいものであった。
鞠を?
蹴り続けていたら?
ある日突然、カラスの化神となってお告げがあった、と?
何がなんだかわからない。
人智及ばぬ所の事象に家族は皆驚いていた。
けれど、香津子だけは違った。
「兄様、何も案ずることはないのじゃ! わらわにもできるのじゃ――!」
成功
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