君子、朝聞道、夕死可矣
●人の生きるべき道
それを真に知る得ることができたのならば、死んでも悔いはないだろう。
だが、己が得た生きるべき道は、死からは最も遠いものであった。
鬼道。
選んだ道は不老にして不死である。
死なぬ生命は、生きていると言えるのだろうか。
終わりのない道を往くことに虚しさは覚えるかもしれない。
灰色の如き道は、しかして数多の刹那に輝く虹色に彩られている。
「あれらは我ではない」
近しい者であるかもしれないが、そのものではない。
わかっていることだ。
何もかもが懐かしい、とい言えたのならば己が心の傷は容易く癒えるものだろう。
後悔はない。
己が責務。己が力。
それらの全ては『平穏結界』を維持することにある。
妖から人々を守る。それが己が生命の使いどころであると心得ている。
「悠久の時を生きるあなたにとって、その道は険しくも長いものとなるでしょう。私の言葉もまた風化して消えていく。いえ、風化しない、とあなたは仰られるでしょう」
見せかけではない、真に心を通じ合わせた男がいた。
己がこうして山中の屋敷に人目を避けて住まうようになってから、人々を護るために多くの密談を交わしてきた。
そのやり取りのさなかに通わせた心は、今でも思い出せる。
風化などしていない。
だが、徐々に記憶が輪郭を残してぼやけていくような気がした。
文字は佳い。
いつまでも変わらず其処に記されている。
和歌も佳い。
意味合いは知られずとも、確かに思いが宿っている。
けれど、己が記憶は佳いとは言えない。
風化しないと言った己の言葉すらも、果たしてそう告げたのかという確信が持てなくなる。だからこそ、源・絹子(狂斎女王・f42825)は日記をしたためる。
「変わっていかぬものなどないのです。ですが、わたくしはあなた様のお気持ちが変わらぬことを願っています。あなた様がどれだけの心を砕いてお配りになっているのかをわたくしは知っているのですから」
己が世話をしてくれた女房がいた。
万事卒がなくこなしていくが、しかして、時に間の抜けたことをしでかす。
それが自分は愛おしく思っていたのだと今思い直した。
たどる文字に指を馳せる。
記した文字から記憶が蘇る。
女房であった娘は、年頃には嫁いでいかせた。
彼女はひどくそれを嫌がっていたが、貴人たる己の言葉に従わぬわけにはいかないと不承不承と言わんばかりの顔で発っていった。
時折、文を寄越すこともあったし、何より様子を幾度となく直接見に来ていた。
「わたくしがいなければ、はじまりますまい」
「そんなことないわい」
自ずと声がでていた。
文字をなぞっているだけだというのに、記憶の蓋を開ければ溢れてくるようだった。
幾代にも重ねてきた年月。
それらはいつだって絹子に慕情のような感情を思い起こさせた。
己に使えてくれた者たちは、皆、己を慕ってくれていたが、しかし逆に己がこのような年月を経れば彼らを慕っていたことも自覚させてくれるのだ。
「まったく、文字だけになっても妾を案ずるとは一体どういう了見か」
文字は記憶だ。
忘れたくないこと。忘れてはいけないこと。
それは己の心に刻んでいれば良いという者もいる。
正しいだろう。
尤もであろう。
けれど、人の心が流動的であるのならば、人の記憶もまた不変ではないのだ。
ならばこそ、己が記した文字だけが変わらないでいてくれる。
文字なぞり呼び起こされた記憶は万華鏡のように己の心を鮮やかにしてくれる。灰色の如き永遠を生きる己の中にも生命の煌めきがあることを知る。
「さぁて、あやつがそろそろやってくる頃合いじゃろう」
一つ伸びをする。
今代の己が名代にして各地の妖の情報を探る男が何事もなければやってくる。
前回此処にやってきた時に言っていた遠方の妖の状況はどうなっているだろうか。
絹子は落ち着かなくなってくる。
またぞろ無理をしてはいやしないか。
そんな心配ばかりしてしまう。
「まったく。奴らときたらどうしてこうも我が身を案ずるのか。何も心配するところはないというのに」
そう、俺のは鬼道衆。
不老にして不死。そして、我が血は妖を滅する血潮である。
嘗てはやんごとなき身分として敬い奉る所の存在ではあったが、今は昔というやつである。この身が人々の平穏を守れるのならば如何にでも血潮を使えば佳いとさえ思えるのだ。
「だのに」
まったく。
もう。
小奴らと来たら、と日記を閉じて懐に絹子は忍ばせる。
「また先走ろうとは致しておりませぬか」
「ちゃんと準備してありますから」
「まずは落ち着きましょう。深呼吸というやつです」
「こういう時はどっしり構えておくべきでしょう」
「慌てすぎ」
そんな声が聞こえるようだった。
ふっ、と息を漏らすように絹子は笑う。
なんとも騒々しいことだ、と。
だが、悪くない。
数多の人いたように、数多の世界があるのなら――。
成功
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