未だ、詠み人知らず
●平安結界の綻び
世界は妖蠢く死の大地と化している。
嘗て発生した『禍津妖大戦』によって成さしめられた厄災は、しかして列島覆う『平安結界』によって隠蔽された。
その大戦の傷跡は深い。
如何にに『平安結界』と言えど、綻びが生じれば裂け目となって妖が人を襲う。
故に、和歌を詠むのだ。
「朝露の 澄んだ清水 これ匂う」
この世界は朝露のように儚いものだ。
朝方に葉に纏う露は、すぐに陽の光に照らされて消えゆく。
平和もまたそうなのだろう。
如何に平和を望む済んだ清水の如き心があれど、しかしてそれは立ち消える。
あまりにも儚い。
あまりにも心許ない。されど、この世を生きていかねばならない。
懸命さが人の正しさであるというのならば、これは美しきことである。
裂け目現れド、それでも人は生き生きとしている。何も知らず、脅かされることなど知らぬように。
それを愚かと呼ぶのは勝手である。
妖は、そのような愚かしさにつけ込むのだろう。
だが、桐藤・紫詠(黄泉詩の皇族・f42817)は構わなかった。
己は俳句の常道など知らぬ。
ただ、この世のあり方を、この世に煌めく多くの人々の生命の煌めきをこそ尊ぶ。
人は確かに容易く死せる生命であろう。
か弱く、どうしようもないものでろう。
だが、己が心が発するところの詠む。美しいと感じる人の営みが維持されることをこそ、喜ぶのだ。
「……まだ修繕しきれませんか。この状態で見つけられたことは幸いでありますが」
裂け目を乗り越えて『平安結界』の内部へと侵入しようとする妖たちがもがいている姿を紫詠は見やる。
醜い、とも悍ましい、とも彼女は思わなかった。
眼の前の自称。裂け目より此方がわへと至らんとする妖たちを押し止める。ただそのためだけに彼女は力を行使する。
庶民たちにとっては、己のこうした歌を詠む行為は、ただ遊び呆けている貴族様程度にしか映らぬだろう。
紫詠は『平安結界』の修繕に携わる皇族である。
彼女の振る舞いは隠そうとしても隠せるものではなく、その気格は風靡そのものであった。当人がそれと知らずに振る舞えど、人々は溢れ出る格を感じ取って平伏するのだ。
それを咎めることはできない。
大戦による末路。
それが今であるがゆえに、そのように庶民たちに尊ばれることは彼女の心を痛めるものであった。
なおも裂け目に殺到する妖たちを圧殺しながら紫詠は息を吸い込む。
歌を詠む。
それは彼女にとって己の心の内側を表現するものであると同時に世界の在りようを変える言の葉。
「薄氷 平安なるは 土足なく」
2つ目を読み上げれば、眼の前の裂け目は修復されていく。
まるで糸で縫い合わせたように修繕された裂け目は、最早損壊の影はない。
これで一つ安心できるものである。
妖は人を襲う。
そして、この裂け目から現れるのだ。人の営みに紛れ、清流を濁流へと変えるようにして溶け込み、次々と手にかけていくのだ。
それは平和を胸とする『平安結界』の中であってはならぬことだ。
「終わりましたか」
修繕された結界を背に紫詠は己が特権を活かした炊き出しを行なう。
確かに此処は平和そのものだ。
けれど、生きていくには必要なものが多すぎる。当然のように人の営みは山があれば谷がある。
時の流れが山河に例えられるのならば、人々は時として荒々しき時流をもかき分けて進まねばならない。
己の助けなど必要としない力強さを人は持っているが、しかして困難な時もあろう。
そのために自分は彼らに手を差し伸べたいと思うのだ。
「さあ、慌てないでよいのです。皆の分は必ずありますから。十分に」
そう言って聞かせる。
けれど、生きることに必死であればあるほどに、懸命であるばあるほどに、人の醜さもまた際立つものである。
生きることは清濁併せ呑むこと。
ならばこそ、紫詠は諦観に塗れない。呆れも抱かない。
なぜなら己も生きているからだ。
『平安結界』の修繕ついでの炊き出しも慌ただしく終え、紫詠は息を吐き出す。
先ほど読んだ歌を思い返していたのだ。
「……相変わらず我流にも程がありますね、余の詩は」
傑作である、とまでは自惚れられない。
けれど、常道知らぬ己が胸の内を発する手段はこれしか知らぬ。
なんとも言い難い感情が渦巻くようだった。
どれだけ己が世界のことを思っているのか、どれだけ人のことを思っているのかを過不足なく表現できることができたのならば、と思う。
啜る汁の滋養にまた一つ息を吐き出す。
生きることは懸命であること。懸命であることは時として美しさだけではなく醜さも持つこと。
全てが一面性ではなく、二面性を持ち、時に二律背反をも得ることになる。
真実は心の内に。
そして、それらを全てあまねく者に知らしめる術はないのだと嘆くことはない。
「さあ、もうひと仕事いたしましょう」
人の営みはまだ続いているのだから――。
成功
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