心響のキャンディ・ナイト -LYKKE-
●キャンディ・ナイト
船の外輪が海面を掻くのを見下ろして、ニルズヘッグ・ニヴルヘイム(伐竜・f01811)は白く煌めく飛沫に眦を和らげる。そよぐと表現するには些か強過ぎる潮風に普段よりも高い位置で括った灰の髪を泳がせて、既に視界の奥にそびえ立つ大樹へと視線を移した。
所謂行事というものは好きだ。全力で乗っかる|性質《タチ》だ。だから此度も。そう思うのだけれど。
『いつもと違う自分なら言える』。
そのための、準備。
(『ニルズヘッグ』、お前を信に足ると判じた事。私は今でも間違っていないと信じている。今迄も、此れからも、だ)
涙の日に断じてくれたこと。その少し後に共に煙草を|喫《の》んだこと。今の距離感となったのは一年と半年ほど前だが、きっとあのときからずっと、所謂『愛』とか『恋』とかとは違っても、彼のことは特別だったと思う。
否。つがいとなった今もニルズヘッグにはまだ『それら』がよく判らない。だから友達だった頃とあまり変わらないと思いはするが、そうだとしたとてひとつ揺らがぬ事実がある。
彼のことを、|ひと《ヽヽ》として好きだ。信頼も信用もしている。
だから伝えたい。たくさん伝えてくれる大切なつがいへ。そのための準備なのだけれど。
「……」
仮面は借り物。感情と本音をニルズヘッグ自身に置き寄せれば上手く言えることの方が少ない現状だ。こうして順調な航路にさえ胸の奥が逸る心地がする。
「ニルズヘッグ」
「! おー」
彼──鷲生・嵯泉(烈志・f05845)の声が背後から掛かると同時、汽笛の音が響いた。到着が近いのだと知る。
同じように普段とは違う高い位置で結われた髪を風に流す嵯泉の姿に、口許が笑みの形に落ち着かない。黒い|外套《マント》を引き寄せて、ニルズヘッグは身を翻した。
見上げる木々は枝を大きく広げて頭上を覆うが、足許にずらりと並んだカボチャランプが温かくやさしいオレンジ色の光を揺らし続けている。
籠を手にしたニルズヘッグと、その肩に乗った黒い鱗の蛇竜の瞳がきらきらと好奇心に輝く。
「さて、先ずは飴を集めねばな」
「ああ! 蛇竜とあいつらと、陽煌のためにも、沢山集めなくちゃな!」
「そうだな。今日は好きなだけ集めて構わないからな」
ニルズヘッグが家で面倒を見ている仔竜たちを思い浮かべ言えば、嵯泉も抱えた金の鱗の仔竜の眉間を指先で軽く掻いて森の中に放す。普段は留守番で寂しい思いをさせているだろうと思えばこそ、偶には存分に甘やかしてやりたい。金色の翼はカボチャランプの光に照らされて夜の森の中でもひと際うつくしく輝いた。
「少なくとも籠はいっぱいにしないと怒られそうだ」
「……ああ」
にこと笑うニルズヘッグの笑顔に、嵯泉は安堵に肩の力を抜く。船の上で見た彼の表情はなぜか緊張に強張っていたが、今は純粋な楽しみが|勝《まさ》ったらしい。
傍らの木の瘤をぐいと押せば表皮が軽い音を立てて割れ、|洞《うろ》にちかりと光ったそれに指先を伸ばせば、あかく澄んだまぁるい飴だった。確かにキャンディがそこらから転がり出る不思議に嵯泉は右目を瞬いた。するりと蛇竜が紅い瞳に期待を浮かべて長い身を寄せて来るから、その口にぽいと放り込む。
「あー! もうつまみ食いしてんのか」
眦を細めた蛇竜に、振り返ったニルズヘッグも片眉を上げる。いつも一緒の彼とは違って、蛇竜が甘いものが大好きだから想定内ではあるのだけれど。
「仔竜たちの分はちゃんと残しておけよ、蛇竜?」
金色の仔竜を促し茂みの奥へと潜り込んでいく蛇竜を見送り、ニルズヘッグは肩を竦めた。あんな狭い場所には付き添えない。「どこにあるんだろうと思ってたけど、ほんとその辺にあるんだなー」嵯泉の隣から一歩踏み出し、ゆらと逞しい尾を揺らして逆に少し拓けた場所へと向かうその背中へ嵯泉の指先が少し動いたけれど。
「……?」
その指先を嵯泉自身も首を傾げて見下ろした。
「嵯泉! 滝だ」
大きな黒い翼を広げ視界から消えるニルズヘッグを追って木々のアーチを進んだ嵯泉の視界に、きらきら輝く透明ないくつもの欠片が降り注ぐ。片手で庇をつくりながら顔を上げる。しゃらしゃら音を立てて色とりどりのキャンディが高い位置で流れ落ち、岩肌にぶつかって欠けては跳ねて散っているようだ。
ばさ、と重い音を立ててその滝に手を伸ばす姿。普段とは違う、揺れる千歳茶の袴。
西欧風の文化で育ったはずの彼が、着物を違和感なく着こなすさまに、口許が我知らず緩んだ。伴侶が自らの育った文化に馴染む努力をしてくれている姿は、ただただ微笑ましく、そしてありがたいと思える。
──……可愛らしい事だ。
「見てくれ嵯泉、本当に宝石みたいだ。これとか針水晶みたいで、」
「……帰ったら共に観るか、あの映画」
両の掌いっぱいキャンディを掬い嵯泉の前に降り立つニルズヘッグへ、いずれ機会はあるだろうと後回しにしていた後悔が、ついそんな科白になって口を衝いた。
突拍子もないであろう言葉にきょとんと目を丸くした伴侶は「あ、これの?」自らの着物を見下ろしてからふやりと頬を緩めた。
「おう!」
つがいが教えてくれたニホンの偉人。天草四郎というらしい。映画の衣装らしいけれど、実はよく知らないからこそ──一緒に観たいと願っていたから。
その返事に伴侶の願いを知って、嵯泉もぽふと彼の後頭部に手を添えた。
大漁だなぁと二頭の竜の前にしゃがみ、金の竜が腕に抱えてきたキャンディを籠に移しながらひとつひとつ見遣る。お陽さまみたいなカボションカット、虹色に反射するブリリアントカット。見ていくだけでも楽しい。
「しかし──こう云っては何だが、飴ばかりで飽きはせんのか……?」
もごもごと口を動かしている仔竜たちの頬を眺めながら嵯泉は呟く。ニルズヘッグも嵯泉も甘いものは口にしないが故に「味が違うんじゃないか?」想像するしかできないからこそ、軽い口調でニルズヘッグも返す。
金の仔竜が甘いものを好むのはまだ理解できる。だが成竜になった暁には? |養 父《ニルズヘッグ》のように甘味が苦手になるのか、或いは|義 姉《だりゅう》のようになるのか。
──まあ……私の寿命では見届けられぬ事が些か残念な処だが。健やかに育ってくれれば其れで良い、か。
ふ、と小さく息を吐く。そこに悲愴はない。ただ純粋な事実と割り切ることができている、と思う。
竜。異なる種族。その単語が指すのは仔竜だけではなく。ちらと遣った視線に「?」既にキャンディで溢れそうな籠へ首を突っ込もうとする蛇竜を止めていた笑顔のニルズヘッグが首を傾げた。
自然と口許が緩んだ。心が満たされるのを感じる。それとは別に、己の中に静かに根雪のように積もる想いはある。だが、今は関係ないと思う己も、確かに在るのだ。
──『貴方の幸せが私の幸せ』とは能く云ったものだ、全く其の通りだと思うよ。
「それにしても……天空樹ってどうやって飴食うんだろう。……や、樹が食うわけじゃないか」
「神前に御饌を捧げる様なものだとは思うが、そう形式ばったものではなかろう」
天空樹に『捧げたら』。鬱蒼と葉を茂らせる森の中からでも、空を仰ぐことができる場所からは大抵確認することができるその大樹を見上げてニルズヘッグがぽつりと零すのに、嵯泉も顔を上げた。
刀の手入れの際に用いる懐紙を一枚取り出し、その上に灰色、白色、黒色の三色のキャンディを並べ置いた。んん、と喉の奥で唸りながら籠の中身と睨めっこしていたニルズヘッグも、少ししてから深い赤と澄み切った青のキャンディをひとつずつ抓み上げ、その傍に添えた。左の薬指に今も光る環の、その内側。秘めた石と同じ──ふたりの色。
「それで、行きたい場所──行きたい場所かあ」
むむと唇を軽く尖らせて思案する雛鳥の姿に、つい緩む口許を隠すのは仕方がないと思う。竜は気付く様子も無く首を捻る。
「決めるのって苦手だし、そう言われると、ここ! とは思い付かないんだけど……おまえは?」
「私が行きたいのは『お前が行きたい場所』だ」
「う?! うう、ずるいぞ……」
本心からの願いであるのに、伴侶は弱り切って視線を落とす。彼が彼なりに嵯泉の選択を受け止めてくれているのも判るから、嵯泉はただ待った。
「……花がいっぱいあると良いな」
そう、竜が声を落としたとき。
懐紙に添えたキャンディが、色とりどりの光を放って輝いた。
●ヴァニタス/ヴェリタス
風が吹いた。
潮騒みたいな音に、開いていたはずの瞳が改めて世界を映し出す。
瞬きと共に目に飛び込む色は緑と──白。
ニルズヘッグは見覚えのあるその白に、瞬時喉が絞られる気がした。シロツメクサ。確かに故郷にもたくさん咲いていたと考えはしたけれど、まさかここはかつての故郷なのかと。咄嗟に振り返ってみるけれど、そこにはただただあおの草原が広がっているばかりだった。
肩の力を抜くと同時に、困ったみたいな笑みが自然と浮かんだ。少女趣味だと言われたこともあるけれど、素直な心で見たならやはり一番落ち着く光景でもある。……否。緊張は、継続しているけれど。
ニルズヘッグはちゃんと憶えている。この場所に来た理由を。
「さ、」つがいを探し改めて周囲を見回す彼が見たのは、片膝を地についてそぅと一輪の花に手を伸ばす嵯泉の姿。
白い、桔梗。
「……」
きゅ、と。竜は唇を引き結ぶ。
──白い、花の様な人だった。
優しくたおやかな眼差し。いつも浮かべていた穏やかな淡い笑み。美しく慎み深く。ひとを|援《たす》ける強さをも兼ね備えていた女性。可憐という言葉が良く似合うそのひとを、嵯泉はなにより誰より、心の底から愛していた。
──鮮やかな、人を惹き付けずにはおかぬ男だった。
豪放磊落と呼ばうよりない、強引な癖に意外な程に周囲を能く“見て気付き”、揺らがぬ芯は大樹のような男。この背も命も預けるに不足無きその男に、嵯泉は己自身に懐くと変わらぬ信を置いていた。
桔梗の花弁を撫でるに留め、嵯泉は指先を握り込み自らの胸に添える。ここに桜はない。それでも去来するこの想いは、変わることなく心の奥に在り続けるだろうと知るよりも深く解っていた。
そして世界は突然、隔絶した。
「「ッ?!」」
空から降り注いだ鏡が幾多と花畑の中に次々突き立ち、林立し、ふたりを分かつ。それは迷路のように見上げる高さまで壁を築き、互いの姿が見えたかと思って動けばその姿は掻き消えた。
「嵯泉!」
声を上げる。危険はないことは本能で判った。なにが影響したのかは判らないが──これも精霊の魔法とやらなのだろう。どうして。嵯泉とふたりで、いや、蛇竜も陽煌も一緒に、花を見て、話を、そう、いつも言えないことを言いたかったのに。
紅い瞳を瞬く蛇竜だけは傍らに居ることを確認し、彼は駆けた。
通路は憎らしいことにニルズヘッグの翼もぶつからないくらい余裕を持った広さで、彼は懸命に鏡の中に、鏡の反射に、つがいの姿を探した。柘榴の隻眼。琥珀の髪。
見つけて手を伸ばしても指が冷たい平面を叩くばかりで、苛立ちよりも悲しみが募ってくる。
「……っ」
そこに至って初めて、ニルズヘッグは|鏡を見た《ヽヽヽヽ》。
迷子みたいに寄った眉。金とのヘテロクロミアに、灰の髪。紫の瞳と金の髪になれなかった、呪われた姿。
真似を、していた。笑ったり喋ったりするのはほとんど亡き双子の姉を擬していた。
ひとに好かれたくて、ひとに好かれるように。昔からあまり得意でなかった言葉はそうする間により内に籠り、本音を言うことが更にこわくなった。嫌われたく、なかった。
臆病だった。
だけど。
……だけど!!
竜が駆けると時を同じくして、嵯泉も“己”と向き合っていた。
彼もこの迷宮に危険がないことは感じ取っていた。だからこそ竜の心配はしていない。籠手填めた掌を鏡の表に軽く添えた。
願ったわけではないけれど、こんな障壁が生まれたのはおそらく己の中の“根雪”の所為であろうと伝わる気がした。
脳裏に浮かぶのは己が故国。護るはずの存在が国を空けた偶然の間隙を縫われた奇襲だった。おめおめとひとり生き残ってしまったことへの凶悪なまでの後悔は身を灼き、伽藍堂と化した心を抱え生きてきた。
『生きて、幸せに』。愛する者から最期の息で託された願いを叶えることもできず、死を望む心を捻じ曲げて封じ、怒りの糧と変えて。只過去の残滓を屠るだけのシロモノとして|戦場《いくさば》に斃れる時の来たる日を待っていた。
けれど。
(テメェは帰るべき場所へと、今度こそ帰れ。待つ人の元に、今度こそ)
友の最期の夢を、嵯泉は憶えている。
幾層にも重なり響き渡った玻璃の破砕音。厚い羽音に顔を上げれば、満天の星空を背に大きな翼を広げた竜が居た。
けれど。
「そんな日々を変えてくれた……ニルズヘッグへ」
その手にした鎗が蛇竜へと戻る。魔法で組み上げられた鏡の破片は、散りしきる|細氷《ダイヤモンドダスト》のように煌めくばかりで傷つけはしない。
「嵯泉!」
まっすぐ伸ばされた手。籠っていた己をいつだって引っ張り出してくれたその掌を、しかと握り返した。
──伝えるならば、感謝と愛おしさを。
●|LYKKE《リュッケ》
竜が景気よく破壊した鏡の迷宮は、ふたりが抜け出したと同時にすべてが細氷と化してカボチャランプの暖色の光に照らされながら中空を漂い続けた。
星空の下、花咲く草原に並んで座って、えー、とか、あー、とか悩みながらもニルズヘッグは言葉を紡いだ。
「……おまえには本当に感謝してるんだよ」
臆病だった。
彼と会うまでにも縁を結んだ者はいた。ニルズヘッグは友人だと思っている者だっていた。それでも、本当に『友達』と呼んで良いのかどうか、ニルズヘッグには自信がなかった。今も──臆病なままだ。
だから余計に外には出ないし誰とも深く関わる気がない嵯泉の態度が心配だったのだと告げる竜に、嵯泉は軽く肩を竦めて見せた。
「まぁ……思い返せば、知り合ったばかりの頃は些か困ったと思っていたな」
「えっ」
「何しろ私はお前の云う通りの状態だったから、どうしたものかという感じだった」
「う、うぅ……。だ、だって、あの頃は親友ともまだ会ってなかったし、勿論一番に大事な奴もいなかったし──」
唇に薄い笑みを刷く嵯泉に、ニルズヘッグは大きな身体を叱られたこどもみたいにちいさく丸める。
母親の違う弟妹たちと血が繋がっているとも知らずそこまで親しくしていなかったこともあり、だいぶ無理矢理に嵯泉を連れ出したという自覚は、……ある。
「嵯泉がどんなに辛い気持ちでいたのか、大事な奴も親友も家族もいる今なら少し判るから、正直ちょっと、罪悪感はあるんだ」
それでも、大事な友達には幸せになって欲しいもんだろ? 口の中でもごもごと言う伴侶へ「ああ」肯く。
「其れが何時の間にやらお前が傍らに在って当たり前に成っていた。きっと、其の頃にはもう、本当は手を離す事なぞ出来なくなっていたのだろう」
掛け替えのない大事な『友』だと認識していたのも紛れもない事実だ。いつか生涯の伴を得て、幸い満ちた道行きを歩んで欲しいと、ニルズヘッグと同様に真剣に願っていた。
──喪った面影に重なり、揺らがされる心から目を逸らし……何れは此の手から巣立ち離れ行くのだと飲み込んでいた筈だった。
「……そうして、互いに相手へと望んだ未来が叶う事こそが本来は最善だったのかもしれない」
複雑な想いに眉間が寄る。消えない“根雪”が、そこにある。「だが」。
「私にとっては今の、此の選択こそが最良なのだよ」
はっきりと言い切った嵯泉に迷いはなく。
「──……」ニルズヘッグは口を開いては閉じ、ふよと口許を揺らがせては懸命に言葉を紡いだ。
「私は……嵯泉には色々話してる通り、あんまり褒められた生まれじゃない。今は|悪魔《ダイモン》……だっけ。契約して一緒にいる死んだ双子の姉さんだって、妥協はしてくれたみたいだけど、まだ約束破った私のことを許してくれたわけじゃないんだ」
俯いた竜が、足の傍に伸びるシロツメクサの白い花を指先でつついた。不規則な円を描いて揺れるその花を、金の目が追い続ける。
「姉さんが自分と一緒に燃やした故郷にいる奴らも、私に集まる呪詛も──対抗策を少し手に入れただけで、ずっと私のことを呪ってるのには違いない。……振る舞いだって、人間に好きでいてもらえるように、それらしく取り繕ってるだけだ」
鏡と向き合って、改めて見つめ直した“自分”。『いつもと違う自分なら言える』? そうかもしれない。でもこれは紛うことなき“自分”だった。
「本当はあんまり喋るのも笑うのも得意じゃなくて、今だって上手く言えないことの方が多い。そんなだから、ってのも変かも知れないけど、嫌われないかどうかだってすぐ不安になったりするし、こんなんじゃ皆が離れてってもしょうがないって思ってたとこもある……」
ぽつりぽつり、懸命に言葉を探りながら話してくれる横顔を嵯泉は見つめる。
憤怒を裡に飼う悪辣の竜。世界をひとを愛する磊落なる竜。それでいて諦めと心の飢えに苛まれる幼子。それが嵯泉の知り得たニルズヘッグという男のいくつもの側面だ。人の身にはあまるだろう如何ともし難い差異を強く感じる。
──其れでも其の総てを私は護りたいと──心に添い、伴に在ろうと決めた。
生きる時間の長さ、従う|理《ことわり》──“違い”を上げればキリが無いけれど。
「自らが“ひと”ではないからと、理解も共感も示せないと悩みながら……其れでも君は私の傍から離れずに居てくれたろう?」
灯りの灯る住処へ帰る安堵、心尽くしの食事を共にする愉しみ。素晴らしいものを分かち合いたいという望み、待つものが在るというよすが。
「……うん」
こくり、首肯が返ることにいつしか張り詰めた胸の裡が溶けるのを感じる。
誰かと在ること──共に生きる幸せ。それを嵯泉が再び得ることができたのは、“ひと”かどうかは関係ない。“ニルズヘッグ”が在るからだこそと痛感している。
自信に満ちている癖に不意打ちに弱くて焦る姿も、たどたどしくも一生懸命に言葉を紡ぐ健気さも、甲斐甲斐しく諸事を切り盛りし熟す献身も。どれも嵯泉にとっては変わらない、大切な伴侶の姿だ。
「失敗したなら遣り直せばいい。知らぬなら学べばいい。出来ぬ事があるなら出来る事を探せば良い。望むなら幾らでも、時間の許す限り、納得するまで付き合おう」
どこか不安気にこちらを向いた竜の頬へ、嵯泉は曲げた指の背を滑らせた。
「お前だけだ。お前がいい」
「、」
「君が私を何よりも必要として、傍に居て、笑って幸せだと感じてくれるなら。其れを感じる事で、私も又云い様も無い程に満たされる──」
つがいの願いにひたと返されたこがねの瞳が、蜂蜜のようにやわく緩んだ。
「嵯泉はいつも、私が一番欲しかった言葉をくれるし、それに凄く助けられて来た。……今も、ずっとそうだよ」
私に一番必要なもんを判ってるみたいにくれるんだ。嵯泉には自覚ないかも知れないけど。
「、」ただ真摯な想いを紡いできた男の隻眼が僅かだけ揺れた。純粋な驚き、だけではない。ひとりの時は狡い言葉を吐きさえするという自覚もあるが故だ。
「だが……私は結局の処で、此の身に絡み付いた後悔から逃れられてはいない。喪われるのは一瞬で、何も――残らず、何をも出来はしない、と刻み込まれている」
“根雪”の存在は、冬を越えた春が泣いたとて消えるものではないからこその根雪なのだ。
「……しかし『もっとああしておけば、こうしておけば』と悔やんだ処で無意味な繰り言にしかならん。そんな風に取り返しが付かない事態に陥ってから悔み続けるより、今こうして傍らに在る間、叶う限り伝えられるものを遺しておきたいのだよ。もう二度と、同じ轍は踏まぬよう」
身体は朽ち、魂も此の世を離れたとしても……言葉と共に心だけは遺して逝けるよう。
「此れから先、私達の『時間』がどんどん離れていってしまっても。新たな誓いは決して『嘗て』に代わるものでも、劣るものでもないのだから」
そう告げて、嵯泉はニルズヘッグへと向き合う。きょとと目を丸くした竜も、彼の様子を見てなにかを感じ取って居住まいを正した。その様子さえ可愛らしい、と呟く声は胸裏に潜めて。
「アッシュ。ニルズヘッグ・ニヴルヘイム。私の、私だけの竜。……愛しているよ。私の総ては君のものであり──、君の総ては私のものだ」
名を呼ぶのは、今、共に在るから。
そうして、長い灰の髪を掬い上げ、くちづけを落とした。
「──……」
まんまるの色違いの双眸は揺れて、それからくしゃくしゃと羽織った外套を口許に引き寄せる。
「私は──ずっと、誰かに一番大事にされるなんてことはなかったし、ずっとそうなんだと思ってたけど」
けれど朱の昇った頬は隠し切れない。
「色んな奴が私のこと大事にしてくれて、嵯泉がずっと傍にいて──私のことを一番にしてくれてるから、今はちゃんと自分のことも信じられそうだ」
ようやく破顔した竜は、そっといとしいつがいの頬に両の手を添え、その額へと自らの額をつけた。
ええと。だから。
「嵯泉。これまでありがとう。……これからもよろしくな!」
──あっこれ普通にめちゃくちゃ恥ずかしいな……っ?
「あっあと私に可愛い可愛い言うなよな! 私は雄だぞ、竜だし。嵯泉よりずっとでかくて強いんだぞ!」
ぱっと額を離して早口でまくしたてるニルズヘッグの髪を混ぜるように撫で、相好を崩した男は「こちらこそ、だ」と応えながら「……ああ、其れと」と竜の耳へと唇を寄せた。
「私の為にと様々に努力をしてくれる事も嬉しいが、慣れぬ姿も悪くない。惚れた相手の望みだ、手加減してくれ待ってくれと云うなら“慣れ”が追い付くまでは希望に添おうと思ってはいるが──、生憎と私は普通の男だ。幾許かの『愛情表現』は許して欲しい処だな」
「……へっ?」
「勿論、意に添わぬ事をする気は無いから其処は安心するといい」
「はっ??」
竜としては雛かもしれないが、まあ三十は生きていると本|竜《ヽ》が豪語しているのだから。
身を離したつがいの表情は、意地の悪いカボチャランプによく似ていた。
成功
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