「あの子、どこまで行くのかな」
その日はどこまでも続く青空へ飛んでいく小鳥が、とても勇敢そうに見えたのだ。
『あれ? 冒険者さんだ。どうしたの? 道に迷ったの? 『翡翠の森』は広いからね。ボクが案内してあげるよ』
これまでなんの違和感もなく何度も繰り返した『|言葉《テキスト》』とは違う言葉がこぼれ出て、一番驚いたのは自分自身だった。いつものように冒険者の案内を終えて、いつものように定位置に戻り、いつものように機嫌よく笑って空を見上げていた|日常《システム》が穏やかに破綻する。
「……あれ? ボクは、」
『ボクはリュイ。きみも竜神さまに会いに来たの?』
「ボクは、リュイ……。竜神さま……」
誰にでも同じように名乗って、誰にでも同じように『翡翠の森』の案内をした。そうすることが『リュイ・ロティエ(翡翠の守護者・f42367)』に与えられた|役割《プログラム》だったのだ。なぜ?
「ボクは……ここは、」
ここは|ゴッドゲームオンライン《ゲーム》の中の世界。自分はその中の存在として創り出されたドラゴンプロトコルだ。
ひとつ覚えた違和感からそう気づいてしまうまで、ほとんど時間はかからなかった。
リュイは次々に押し寄せる気づきに追い立てられるようにして、決められた立ち位置を離れて走り出す。
どくどくと耳にうるさいほど心臓が跳ねていた。そんなことに気づくのさえ初めてで、長く長くこの翡翠の森に住んでいたはずなのに、きっとこの森を思いきり走るのだって初めてだった。
「竜神さま!」
翡翠色の若葉が眩しい光あふれる深き森を迷わず駆け抜けて、リュイはこの森の主たる老竜・ウィリディスの元へ辿り着いた。
この森と同じく美しい翡翠色の鱗を持つ偉大な東洋竜は、いつもの場所でいつものように、その巨躯をゆったりと持ち上げる。
「どうしたのじゃ、リュイよ」
「竜神さま、ボクに教えて。この世界のことを」
「世界?」
「ボク、気づいたんだ。この世界はこの翡翠の森よりもずっと広いんだってこと。この森が、世界のすべてじゃないってこと!」
弾んだままの胸をそのままに、リュイは蜂蜜色の瞳を煌かせた。
よく通るリュイの声に呼応するように、吹き抜ける風に森が揺れ、青い空に翡翠色の若葉が舞い上がる。
自分のことに気づいて知って、たくさん驚いたことがある。けれどそれ以上にリュイは今、わくわくしていた。
「……そうか、気づいたか」
昔から変わらず穏やかな老竜の瞳が、やわらかく細められる。それは我が子の成長を喜ぶような感慨を湛えていた。
「竜神さま、知っていたの?」
「『竜神さまはこの世界のことを沢山識っている』からのう」
「ふふ、さすが竜神さまだね。ね、それじゃあボクが今したいことも知ってる?」
「したいこと? この世界を――」
「そう、知りたいんだ。この世界を自分の目で足で、ちゃんと知りたい!」
リュイは満面の笑みを浮かべて小さな両手を大きく広げる。ずっとこの森にいた。ここにいることが当たり前だった。この森がリュイにとっての世界のすべてだった。
「……ならば、この森を出ねばならんのう」
「……出てもいいの?」
「出たいと言ったじゃろうに」
驚いてしてしまったのは、どこかで止められると思っていたからだ。
「ただし、儂も連れてゆけ」
「竜神さまを? ……大きいよ?」
もっと驚いてしまって、リュイはウィリディスをまじまじと見た。しかしウィリディスは動じもせずに肯定する。
「勿論、この森の守護のため本体はここに残す。リュイと共にゆくのは儂の霊体じゃ」
霊体、とリュイが目を丸くする間に、ウィリディスの巨躯を光が包み込んだ。ふわりと翡翠色の靄のようなものが立ち昇ると、それが朧げに竜の体躯を象って光の尾を引きながらリュイの傍についた。
「……竜神さま?」
『いかにも。リュイはまだ知らないことが多すぎる。とはいえ待てと言っても聞かぬじゃろう』
「そんなこと……」
ない、とは言い切れないかもしれない。高鳴ったままの鼓動に押されて、今すぐにでも走り出したいのは本当だった。
『……それに、お主の旅立ちを待っていたのは儂も同じじゃ』
優しい声音が笑んだのがわかる。ウィリディスの翡翠色の光が導くように、ふわりと空へ進み出た。
初めて聞く話だった。初めて聞く声だった。初めてこんなにウィリディスと『話』をした。そのことだって嬉しくて、リュイの頬は緩みっぱなしだ。
「ボクらの世界を見に行こう、竜神さま!」
光を追いかけて、リュイは住み慣れた森を駆け抜ける。
ふたりが翡翠の森を出たそのとき、新たな冒険のはじまりを祝すように、金緑の小鳥たちが一斉に高く青空を舞った。
成功
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