スウィートスウィート・ザ・ロリポップ
●経緯というものがあって結果があって
君に聞いて欲しい、と願うことは誰にだって在る。
同時に誰にも言わずに己の胸の中だけにしまい込むことだって在るだろう。
でも、しまい込んだ想いはいつだって溢れ出してしまうものだ。
恋い焦がれているのならばなおさらのことだ。
爆発しちゃう。
そう、溢れてしまうだけならまだ良い。
けれど、身が持たない。
幸せが、思いが、もう体の中を駆け巡って行き場がないよって胸を締め付けるような鼓動の速さでもって自分を逸らせるのだ。
フール・アルアリア(No.0・f35766)は思わずスマホを握りしめていた。
「聞いて聞いて聞いてー! 圭ちゃんに同棲お誘いされちゃった!」
受話器の向こう側ではなんだか溜息がこぼれたような気配がしたけれど、フールは気が付かなかった。いや、気がつけなかった。
だって、それって些細なことなのである。
今の自分には、そんな些細な事を気に留めている余裕もなければ理由もない。
もうどうしようもないほどに浮かれていた。
舞い上がっていた。
翼があるのならば、今自分は天にも召されそうな心持ちであった。
「あのね、経緯なんだけど!」
別に語らなくたって良いのかもしれない。
ハッキリ言えば、きっと余計な言葉だったのかも知れない。
でもでも、もう喜びを抱えきれないのだ。誰でもいい! や、誰でもは良くないけれど、誰に聞いて欲しい。
今自分がどれだけ幸せなのかってことを!
そうやって今の自分を客観視したいだけなのかもしれないけれど!
でも、それくらいに今の自分は舞い上がっているし、冷静に物事を見ることなんてできやしないのかもしれない。
だってだって、圭ちゃんと、同棲しまーす!! なんて幸せなこと唯自分だけが抱えているだなんて体が保たない。
絶対どこかで爆発する。
だから聞いて欲しい。
聞いて聞いて聞いて。
僕の気持ちを。あふれるばかりの気持ちを聞いて欲しい。
この幸せが壊れてしまわぬように。
●濁流みたいな
惚気って言われたらそうなのかも。
冷静になれば、そう理解できるし判断だってできる。
でもね。
どんな人にだって一度はこんな日がやってくると思うのだ。
事の始まりは、本当に些細な一言だったのだ。
圭ちゃん、そう、フールが恋い焦がれる『あの人』が発した言葉だった。
それはただ夢を語るだけの単純な言葉だったのだけれど、フールにとっては雷に撃たれたかのようなすさまじい衝撃だったのだ。
「フォトスタジオを開きたい」
できればエンドブレイカー世界に移住して、と。
エンドブレイカー。
それは多くの都市国家が存在する世界だ。エンドブレイカーと呼ばれる破滅を砕く存在がいて、たくさんの戦いと大いなる戦いの末に猟兵たちが勝利をもぎ取った世界。
そんな世界に彼は居を構えたいと言っているのだ。
フォトスタジオ。
彼は使い古された一眼レフカメラを指でなぞっていた。
彼の仕事道具。
かつてディアボロスランサーで宇宙に旅立った際に、多くの記録を映してきた仕事道具以上の意味合いを持つカメラだった。
9年間の旅路は多くのものがあったのだろう。
だから、彼はカメラを手にして、今も放浪写真家として活動している。
束縛は嫌うけれど、寂しがり屋なところもある彼が、そうした夢を語るのは自分にとっては意外という程意外でもなかった。
フォトスタジオを、というのだから放浪写真家としての肩書はまた違ったものに成るだろうけれど……。
「いいと思う!」
フールは一にも二にもなくそう答えていた。
身を乗り出して、ちょっとはしたなかったな、と今では思い返すことができるが、しかし、その時は本当にそう思ったのだ。
言葉だけでは自分の本気が伝わらないと思ったし、なら体全部で同意を示すしかないと思ったのだ。
そう告げた圭ちゃんの瞳に映った自分がキラキラしていた。
それはきっと彼が夢を語る瞳だったからだろう。
可愛かったなぁ……ずっと見つめていたくなる。他の全部が些事に思えてくるし、どうだっていいことだなって思っちゃうほどだった。
自分に夢を語ってくれるのが嬉しい。
でもなんで自分にそんな話をしてくれたんだろう。いや、嬉しいよ? とっても嬉しい。夢を語る男の子ってどうしてこんなに魅力的に見えてしまうのだろうって思ったよ。
圭ちゃんだから特別可愛く思えてしまったのかも知れないけれど、それほどにフォトスタジオを開きたいっていう夢を語る彼の瞳の輝きはフールの胸を散弾銃みたいにぶっ飛ばしたのだ。
比喩が変だなって思うけど、許して。
それほどまでに凄まじい威力だったの。すんごかったの!
だから、その一言は不意打ちに近かったのかもしれない。
今までの圭ちゃんのことを思えば、それはあまりにも出てくるとは思えなかった言葉だったものだから。
「フールはどうする?」
その言葉の意味をフールは自分の耳が震え、鼓膜に伝わり、聴覚神経から脳に伝達されるのを感じたことだろう。
また衝撃であった。
今度の衝撃はハンマーで殴られた以上の衝撃だった。
それはそれはすんごい衝撃だった。
脳天直撃である。
天から隕石が降り注いで自分の頭蓋の一番てっぺんにゴスン! って重たい音を立てたような気さえしたのだ。
『フールはどうする?』
これは圭ちゃんが二回聞いたのではなくって、リフレインしているだけ。脳内再生余裕ですってやつ!
あ、思い出しちゃった!
聞いて聞いて聞いて!
あのね、圭ちゃんとお出かけするとよく一人でふらふら~ってどっか行っちゃうの! 自由人! 好き! って思っちゃうんだけど、僕が必死に探していると圭ちゃんは言うんだよね。
『何処行ってたんだよ。探したぞ』って!
いや、探してたのこっちなんだけど! って思う前になんていうか、この人の前だと僕はいつまでたっても子供扱いでフラフラと定まってない子みたいに思われてるんだろうなぁって。
でもそれって心外なことだよね! 僕だってもうすっかりそんな心配されるようなことなんてないのに。
風船みたいって思われているのかもしれない。
だから、いつも言うんだよね。
風船の紐持ってるのは僕の方だからね! 迷子になっていたのは圭ちゃんのほうなんだからね! って!
でも、圭ちゃんは全然気にした様子もなくって、ほら行くぞって歩いて行っちゃう。そんなんだからまた迷子になっちゃうんじゃん! って思うんだけど、やっぱりそういうとこもかわいいなぁって思う。
だから。
そう、だからなんだけど、『どうする?』って聞いたことが嬉しくって仕方なかっただよね。
だってさ、『どうする?』ってことは僕の意志を尊重してくれてるってことでしょ。
別に一人で勝手にエンドブレイカー世界にいつもみたいに自由人みたいにふらふらーって行っちゃうことだってできたはずだし、そうしたと思うんだよね。
僕の中の圭ちゃんでは、って意味だけど。
いつだってそうなんだよね。ふらふらーってお出かけしたときもどこかに行っちゃうのもそうだし、自分が迷子になっていたのに僕の方を迷子扱いしてくるところからしてそうじゃない?
でもね、現実の圭ちゃんは違ったんだ。
『どうする?』
ってつまり、それは僕を連れて行くっていう選択肢が在ったってことなんだよね!
だから、僕ってば顔真っ赤になっちゃった。
ほっぺたは熱くて溶けそう! 美味しいものを食べたらほっぺた落ちるなんて表現があるけど、こっちは圭ちゃんの一言でもうずっとこんな調子なんだよね。
仕方ないよね。
だって好きだし。
大好きだし。
それに何より、置いていかれなかった安心感が体の中を駆け巡って行って、思わず乗り出した体は、すとんと椅子の上に落ちちゃった。
よく椅子から転げ落ちなかったと僕も思うよ。
今あらためて見れば、椅子からずり落ちて転げ落ちてしまうことだって十分に可能性としてあったよね。
むしろそうならなかったのがすごいよね、褒めて。え、そんなに褒められるところじゃあない?
んもう、そういうのいいじゃん。続き聞いて聞いて聞いて。
それで僕は言ったの。
ちょっと余裕ぶった気がするけれど、気の所為。ほんと気の所為ってことにして。
「答えわかってて聞いてるでしょ?」
「そうか?」
なんだかぶっきらぼうな言い方! でも許しちゃう。
だってもう心はすでに決まっていたんだから。そうもちろん! 見透かされてるみたいだけど、理解されてるってことだと思えばいいよね。
胸がキュンキュンしちゃって仕方なかったし、その胸の高鳴りに背中押されるよにして前のめりで答えちゃった。
「行く! 圭ちゃんと行く!」
即答だよ。
潔すぎだし、世界をまたぐ選択だっていうのにあんまりにも迷いがなさすぎて、自分でもどうかなって思うんだけれど、アシスタントとして連れて行ってくれるなら僕はどんな選択肢が横並びになっていたとしたって圭ちゃんと一緒に行くっていう選択肢を選んだと思うんだよね。
でも、ちょっとだけ思うこともあるんだ。
ひょっとした圭ちゃんが『どうする?』って聞いてくれたのはグリモア猟兵としての力も関係しているのかもしれないって。
もしかしたら、他のグリモア猟兵にだって頼むことは……いやいや、今のナシ。なーし!
弱気になってどうするんだよってことだよね! うん!
僕にどうしたい? って聞いてくれただけで嬉しいんだから、それ以上悪い方向に考えをめぐらすのは、なーし!
うん、いいんだ。
だって僕はウサギみたいに心がぴょんぴょん跳ねている方が似合ってるって思う。
自由自在に飛び跳ねるみたいに心が自由ってことだからね。
後ね、すごくびっくりしちゃったんだけど。
圭ちゃんはすでにエンドブレイカー世界のある都市国家も決めてて、借りるスタジオ兼お家も決まってるっていうんだよ。
もう手が早いよ! 行動に移すのが早すぎ!
びっくりするよ! でも、そこってお部屋の数とかね、そういうのもちゃんと二人で住めるような間取りになっていて。
なんだかちゃんと僕のことも勘定に入れて考えてくれてたんだって、気がついたらもう止まらないよね。気がついちゃったら仕方ないよね。
いっぱい僕のこと考えてくれてたんだ! って嬉しくなっちゃうのは仕方ないよね。
でも、いろんな懸念材料はあっても見て見ぬふりするし、ウサギの足で、ぴょんと後ろに蹴り飛ばしちゃったりもするよね。
行き当たりばったりに思えるかもしれないけれど。
でもでも嬉しい!
「あ、ちなみに都市国家の建築都合上、上に上に積み重ねていく形になってる。一階と二階は仕事スペース。三階が俺の部屋な」
「僕のは?」
「四階」
ここでちょっと、ん? と思ったけど、まあいいんだ。同棲だから。なんて言ったって同棲だから!!
でもね、ちょっとだけ聞いて?
エンドブレイカー世界って確かに猟兵としてはたくさんある世界の中の知った一つだけど、シルバーレイン世界に長く居た僕らにとっては未知な部分がたくさんあるんだよね。
ご飯事情とか特にそうじゃない?
こっちではコンビニエンストアっていう文明の最北みたいな場所がたくさん、それこそ雨後の筍みたいにあるけどさ。
エンドブレイカー世界はどうなんだろうって。
やっぱりちゃんと下調べしなきゃって思うんだよね。
それに、それにぃ。
だって、ね?
圭ちゃんに美味しいご飯用意できない! なんてことになったら大変だよ。アシスタントなんだからご飯担当しっかりしなくっちゃあ。
栄養管理もバッチリにしないと。
健康な体があってこそのお仕事だからね!
よく知ってますねって、そりゃそうだよ! だってこれまでずっとそうしてきたんだから。
圭ちゃんてば酷いんだよ。一人だとちゃんとしたの食べないんだもん。
そういうところぐーたらなんだよ。
なんで男の人ってあんなところあるんだろうね。食べられればなんでもいーや、みたいなノリ! そんなわけないじゃん! っていっつも怒ってる気がするけど、ダメなの? って顔されると許しちゃう。
圭ちゃんの顔の良さがズルいよ。
でも今はコンビニでも上等じゃないですかって?
コンビニならまだいいよ。
最近のは栄養バランス食いっぱいあるし。でもでも、栄養が取れてるだけってことじゃん! だけ! 栄養だけ!
いい? 食事ってのはとっても大切なことなんだよ!
ただ影響補給できればいいんだったら、ゼリー状の噛む必要なら10秒だか20秒だか、3分だかで出来るものでもいいでしょ!
そんなのダメダメ!
料理には栄養だけじゃない愛情もないと! えへ、愛情とか言っちゃったりしちゃって……あ、ごめんごめん。話がそれちゃったよね。
聞いて聞いて聞いて。
今まではね、土日とかお仕事お休みの日だけ圭ちゃんが僕の家に泊まりに来て一緒にご飯食べて、ゲームしたり、とりためた録画を見たりしてたの。
あれはあれでよかったよね。
週末の御褒美って感じ。
ぐでーってしている圭ちゃんも可愛いの。ソファに埋もれるみたいに眠ってる顔なんて、もう本当に。
でもでも、そこに僕もちょっと隣にお邪魔してー……みたいな! みたいな!
そんなダラダラ過ごす特別感っていうのかな。圭ちゃんにとっては日常の延長線上にあったことかもしれないけれど、僕にとっては1日も欠かしたくない大切な思い出なんだよね。
それでね。
実際にお引越しする前にエンドブレイカー世界の事を調べたんだ。
そしたら結構びっくりしちゃった。
電子レンジないでしょ? IHヒーターないでしょ? 精霊建築? はよくわかんないし……なるべくアナログな? 料理の練習をしとこうと思って。
どんなのがあるかな?
あ、焚き火とか出来ないと詰んじゃうかな? パスタじゃだめ?
後はパンも。
ああ、そっか。でも、パン屋さんとかあるんじゃない? え、小麦から自分で焼き上げたりする? うそー! そんな大変なことしちゃうの?
加えるなら雑貨とかの流通も気になっちゃうかなぁ……飯盒でご飯って出来ると思う? お米があれば? それもそうかも。
炊く練習?
学校の行事でキャンプ行ったりした時とかが最後かも。
えーなんとかなるよ。こう見えて、僕手先器用なんだよ。まあ、その……ほら、工程が多いと偶にね? 本当に偶になんだけれど、珍妙なものが出来上がったりしちゃったりしちゃったりするんだけれど……あ、うそうそ。そんな怪訝な顔しないで。
うーもう、そんなことばっかり言うからさー。
やば、ちょっと不安になって来ちゃった! それにその……魚はね、さばけるんだけど……そのぉ。
うう、なにそんなにジトっとした目で見ないでよぉ。分かってるってばぁ。僕だって問題が山積だってことくらいさ。
わかるでしょ。
お肉。そう、お肉。どうしてもお肉が裁けない。屠殺なんてムリムリムリムリ!! どうにかお肉屋さんがあるといいなぁ。
本当に動物はダメ。無理。丸のままご近所付き合いでおすそ分けなんてされちゃったらどうしようって思うよ!
ちょっとしたトラウマもあるのかもしれないけどさぁ……できればお肉屋さんあってほしいなぁ。あって。お願い!
そんな感じで大丈夫なんですか? って? うん、まあ不安もあるけれど。
えへへ。
ああ、そんな。待って待って。顔がニヤけているから心配しなくてもいいですねってそんな事言わないで。
もうちょっとだけ。もうちょっとだけだから、聞いて聞いて聞いて。
お洋服もさ、現地に合わせておかしくないようにしなくっちゃあって思うんだ。
楽しみだなー!
だってさ、言ってしまえば僕らのいた世界からするとファンタジーのような世界なんだもの。
いろんな服飾が文化ごとにあるだろうし、都市国家だけ見ても結構文化が違うんだなってわかるよ。
そしたらさ、いろんなお洋服必要になる。
え、圭ちゃんに見て欲しいだけ? ふふーん、だってフォトスタジオだよ?
モデル、要るでしょ?
つまり、僕ってわけ! なら、いろんな都市国家の文化を世俗を取り入れるためにいろんなお洋服着れるんだー! 楽しみ、えへへ!
おっと、どうしたの『ぱたぽん』?
ん? この子?『ぱたぽん』っていうんだ。元々使役していたゴーストなんだけれど、圭ちゃんと生活するから連れていけないんだ。
それは寂しいなって思うけれど、別に根性の別れってわけじゃないからね。
むしろ、新居に移るけれど、僕の部屋の管理をお任せしたいなって思ってるんだ。
新しいゲームの発売もあるし、発酵食品とかに飢えて偶に戻ってくることだってあるだろうから。
そういう意味ではセーフハウスってことになるのかも。
えっ。
喧嘩した時に逃げ込む場所ですかって?
うーん、どうなんだろう。そういうこともあるとは思うんだけれど……でもさ、楽しいことばっかりじゃないってのも分かってるよ。
喧嘩だってするだろうし。
くだらないことで言い合いもするかもしれないし。
でも、それって全部良いことの裏返しだもの。悪いことがあったのなら良いことが在る。良いことばっかりを共有して生きるのが傍にいるっていうことじゃあないでしょ?
だから、いーんだ。
良いことも悪いことも。
ぜーんぶひっくるめて幸せ! って僕は今言えるなから。
それが幸せなんだってね。
だから大丈夫。
どんなに世界をまたいだって僕らは繋がっているんだから。繋がるのは運命の糸だけじゃあないってわかっているからね。
僕と圭ちゃんがそうだったように。
途切れているように見えても繋がっていることって在ると思うんだ。
だから、『ぱたぽん』ともだってそう。
いつだって戻ってきて良いよって言ってくれてるし。なら、それはお別れじゃあないからね。
ふふ、今のうちに『ぱたぽん』をぎゅーってしておこう。
●遠き日の残響
伽藍とした部屋を見つめる自分が居た。
乾いた空気と同しようもない別離の匂いが其処にはあった。
でも、フールはそれがどうしても匂いであるとは認めたくなかった。そこにあるのは無味無臭たる空気だけだ。
空間だけがあるだけだった。
銀の雨が降る世界。
そこにあって自分と彼とをつなぐのは、この空間だった。
後から振り返れば、それは少しの間の少しの別離であったのかもしれない。
けれど、フールにとってみれば、それは断崖絶壁の如き隔絶した何かが横たわっているようにさえ思えたのだ。
出会いは一目惚れ。
言葉にすれば陳腐な理由に聞こえるかもしれないけれど、あの時の自分にも、今の自分にもフールは誇ることが出来る。
何一つ間違いではなかったのだと。
彼の声が好きだった。
彼の顔を眺めるのが好きだった。
纏う雰囲気が全て心地よいと思った。
手を伸ばせば、きっと手に入るかもしれないとうぬぼれた時もあったけれど、それでも迷いがあった。
多くの問題があるように思えたし、そうすることで崩れる関係があると思ったからだ。
迷いに迷い。
迷路のような感情の中をぐるぐるとさまよい続けた時間は長かったのか、それとも短かったのか。
自分には判別することはできない。
けれど、ある日突然彼はいなくなった。
退寮という形で一時期共にしていた寮から彼はいなくなってしまった。
空いた穴に注ぐは風だった。
冷たい風でどうしようもなかった。
でも、彼によって空けられた穴は彼でしか埋めようがないこともまたフールは理解していた。
どうしようもない寂しさだけが胸にあるように思えてならなかった。
自覚したのだ。
自分が思い悩んでいた事柄の全ては、彼のそばにいるという理由一つで全て吹き飛ばされてしまうほどの些細なものであったのだと。
彼が居る世界で生きていたかっただけだったのだと自覚した。
彼の傍にいたい。
「――」
伝える言葉は如何なる言葉だっただろうか。
それを伝える術はない。
これはきっと溢れてはならない、聞いて聞いて聞いて、とせがむほどに溢れ出るものではない。
でも確かに熱を持った……凝縮されたものだった。
うっかり口が滑った結果が今だというのならば、それは最良の結果であるともいえたのかもしれない。
だから、思うのだ。
あの日感じた冷たさも。
あの日思い知った後悔も。
全部全部、自分に帰ってきている。冷たかったものは暖かく。苦しかったことは楽しいことに。
そうやって流転していくのが人生であるというのならば、また自分はあの日の伽藍とした部屋の中のような冷たさを味わうのかもしれない。
でも、それは乗り越えていけるものだ。
だって、傍に在り続けると願って、そして、些細な言葉でそれは叶えられてしまうものだったからだ。
●フール
どうする?
って、そんな些細な言葉一つで僕の心の中の冷たさは埋められてしまって、ついでにいうと、溢れ出てしまってついつい聞いて欲しくなってツラツラと語り尽くしてしまったわけなんだけれど。
でもでも、まだまだ語りたりないって思ってしまうんだよね。
え、閉店時間が迫ってませんかって? そんな馬鹿な。まだお昼を過ぎたか過ぎないかだよ。
何その顔。
ねえ、呆れてないよね?
え、口の中が甘いだけなのでコーヒー一杯頼んでいいですか、って?
いいけど。
そんなにかな? え、口から砂糖こぼれてる気がするって? なにそれ面白い!
そんなに? 本当に? そう?
でもさ、今すっごい、すっごい嬉しいんだ。
圭ちゃんの中では僕が傍にいることが許されているようで。傍に居るのが当然みたいなようで。
うぬぼれかもしれないって分かっているよ。
そうじゃない?
なんで?
ああ、そっか。そうだよね。
そういうものかな。
どうでもいい人にも、自惚れるような人にもそんな言葉を懸ける人はいないって……そういうものかな。
そう思っても良いのかな。
心がね、さっき跳ねるみたいに幸せだって言ったよね。
本当にそうなんだ。混じりっけ無しにね。
幸せっ!! て僕が言えるのは、全部圭ちゃんのおかげなんだって思うんだ。
彼の為なら何だってしてあげたいって思う。
僕が何かをする時、中心にいるのは圭ちゃんだし、出発地点だって圭ちゃんなんだよ。
我ながら単純かもって思うんだけれど、止めようがないよね。
君にもそういう経験はない?
ない? それならこれから幸せに思えるときが来るんだと思うよ。これもただの惚気になってしまうかもしれないんだけれど。
でも大切なことだと思うんだよ。
僕だって年若い頃はそう思っていたよ。聞かされる身にもなってくれって。
でもね、そうじゃなかったって今なら言えるよ。
誰にかに恋焦がれて、誰にかに抱きしめられたくて。誰かに傍に居て欲しいって、ずっとずっと居て欲しいって願うときがきっと君にもやってくると思う。
僕だってそうだもの。
もうすっかり彼の痺れるような毒に慣れてしまった。
血の奥まで彼がいるように思えてしまう。
それが嬉しい。
だから、どんな新天地に進んでいくのだって不安はないんだよ。
他の全部を敵に回したって、傍にいてくれる彼が居るってだけで僕は十分。
誰かが僕を指さして不憫だの、不幸だのと揶揄したってね。
そんなの意味ないって言えるよ。
強いって意味じゃないよ。
愛の前には強さは無意味だから。これはきっと僕だけのものなんだ。
だからね。
きっと僕は叫ぶんだ。
場所も、時も、何もかもかなぐり捨てて。
他の何もいらないから、君だけでいいって叫ぶことが出来る。
それが、きっといま自分の胸の中に渦巻く感情の名前なんだと言える。
「……えへへ、幸せ……! 幸せ――ッ!!」
成功
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