Will o' wisp
人々の火は穏やかなものだ。
都市の上層部に位置する緩やかな丘の上からは、人と星霊が作り上げた街がよく見える。秋の色を帯びた空の下、薄い緑の絨毯の上に座るヴィルヘルム・ファティウス(愚か火・f39128)の髪を、涼やかな風が撫でた。
|終焉《エンディング》が見えなければ、彼の生活は気儘なものだ。気儘すぎていっそ枷が足りないとすら思える。やるべきことも為すべきこともない。成したいこともまた、過去が残した痕跡を追う後ろ向きで金にならない探偵業のようなものだから、|為すべきである《・・・・・・・》とはいえないだろう。
そういう生活だとどこにでも行けそうな気がしてしまう。
例えば、彼岸と此岸の境を越えることも――。
出来やしないことを承知で、ヴィルヘルムはまたぞろ鎌首を擡げる願望を嗤った。気を抜けばすぐに彼を覆いつくさんとする欲望に負け続け、しかし真実|負けきる《・・・・》ことも叶わなかった男は、既にこの丘から身を投げる資格さえも失って久しい。
死の淵で出会った少女のことを、彼はまだ覚えている。
問いに応じたその日から、ヴィルヘルムは終焉を打ち砕く剣となった。だが対価のない力も、代償のない誓いも存在しない。彼は自らの終焉すらも打ち砕きながら、首を絞め上げる悔悟の真綿と共に、いつか心拍が尽きるまで生きるほかに道をなくした。
悪あがきのように死に近付こうとした。自ら切り裂いた皮膚から流れる血を武器へと変えて、自らの体が生に縋りつく痛みに歓喜を覚えたことも少なくはない。|うっかり《・・・・》足を滑らせて死の淵に落ちるのも望むところだが、事実そうはならぬのだろうこともうすうす理解していた。
子供が戯れに高い空の雲に手を伸ばすようなものだ。
まさか出来るとは思っていないのである。
生者としてはあまりに半端な生き方だった。だがもはや死者ともなり切れない。地獄にも天国にも行けずに彷徨う松明持ちの鬼火は、未だ現世で宙吊りになっている。
そんな身だから――。
悔悟するのか。煉獄をうろつく哀れな男と同じだ。死ねないから生きていたときのことを思い出す。生きられないから死の瞬間を想起する。詮無い繰り返しの果てに残るのは、思い起こした記憶が枝分かれした先の、ありもしない未来の空想だけなのかもしれない。
ヴィルヘルムには友があった。
あの頃の彼らの間には、眼下の街に灯るのに似た穏やかな種火があった。ほんの一瞬の間に掻き消えたそれの残り香が、男の裡にあったはずの魂を鬼火に変えてしまった。
当然だろう。
愛おしむばかりにもうないものに縛り付けられた魂は、時の流れに従う肉体とは乖離していく。
もしも――回想の中に置き去りにされた鬼火は思う。もしもヴィルヘルムの覚醒と友の死の時刻が入れ替わったのならば、彼はその手を救い得ただろう。眸を覗く機など幾らでもあった。その目が映し出した|終焉《エンディング》を回避するすべがあったのならば、男は喜んで身を捧げたに違いない。
或いは最初から悲劇の予兆を見破る力があったのだとすれば、それに越したことはなかったかもしれない。今より幾分忙しい人生を送っていたかもしれないが、生あるだけで人として生きているとはいえない今と比べれば、|人生《・・》と呼べる道を歩いているだけましだ。
どうあれ叶わぬ願いである。
空の色に翳すようにして、ヴィルヘルムは右手の形見を握り締めた。|共同研究《・・・・》などと偽りの銘を打ったそれは、結局のところ、ただ友の遺した道を辿るようにして生きる男のものではない。
錬金術は魔術とは違う。決して無から有を生み出すことは出来ない。
だから対価が必要だ。自分のものでないのならばなおさらに。そこに生まれる弊害を引き受けてまでも、鬼火は決してそれを手放さない。
錬金術によって世界を見ようとした友をなぞり、術士は研究に手を出した。世界を見て回ることを楽しんだ人の遺した道を歩むように、鬼火はあてどなく彷徨している。そうしていれば。
いつか友と同じ場所に辿り着けるのではないかと夢想している。
ならばたとえどれほどの対価を払うのだとしても、この空の色はヴィルヘルムが手の中に収めていなくてはならない。遺したものを欠片も残さず拾い上げるというのなら――。
浅く息を吐いて、男は立ち上がった。
人々の熾火の合間を煉獄を彷徨う亡霊の姿は、平穏な都市の合間へ消えていく。
成功
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