●きらめきの朝
入道雲は絶えず湧き出でる昊天。果てない水平線の上に悠と乗って居る。時折強く吹く潮風は、独特のべたりとした膜で香神乃・饗(東風・f00169)を覆う。
今日は海で遊んで、うまいもん食って、温泉入って、遊び倒す日!――と、あるじから聞いている。まずは海水浴だそうで、水着に着替えたわけだ。
もちろん、あの『かがみのきょう』の名入り水着は封印してきた。あれはいろいろダメだとあるじに釘を刺されているのだ。
曰く、いろいろあぶねえ。
饗はそれを弁えている。同じ轍は踏まない。だから今、饗が穿いているのは、あるじに選んでもらった赤い色のハーフ丈の水着だ。
まだ太陽は低い位置にあるというのに、すでに暑い。あるじが倒れてしまわないように気を付けなければ。せっかくの休日をめいっぱい楽しむことができなくなってしまう。憂いないほどに準備してきた。大きなクーラーボックスに詰められるだけぱんぱんにひんやりを入れてきたし、酒も持ってきた。
「お、準備万端じゃねえか、饗」
あるじの声を聴き間違えることはない。着替え小屋から出てきたのは、ゴキゲンなあるじ――鳴北・誉人その人だった。
風流な白波と目に涼やかに六花が咲き乱れる紺地の水着が、彼の白い肌を際立たせている。
「っす! いつでも行けるっす!」
「まだダメ。日焼け止め塗ったげるからァ、そこに座れ」
言われて、饗は設えられている長椅子の端に腰を下ろした。カラカラと小さな容器をフリフリ、ピッカピカでギラギラに叫ぶ太陽を睥睨していたあるじは、饗の背にクリームを塗りひろげていく。
「前は自分でな、あとで俺の背中もよろしく」
腹や腕に日焼け止めクリームを塗りながら、饗は快諾した。
これが海で遊ぶ流儀だとあるじは言った。
日焼けは火傷。火傷は怪我。せっかくの休日に怪我をする必要はなく、日焼けを治す体力がもったいない――と、どこぞから仕入れてきたネタを披露しながら、日焼け止めクリームの品定めをしていた先日のあるじを思い出す。
(「……今までこんなことしなかったっすから、今更――じゃあないってことっすか」)
「顔も!」
背をさするようにケアしていた手が饗のほっぺを挟んだ。
「目ェ閉じて」
言われた通りに目を閉じれば、優しい指先は眉を滑って、瞼を擦り、頬を包まれて、額を撫で――そっと離れていった。
「ん、交代!」
その声を合図にすっくと立ちあがって、あるじがやってくれたようにクリームを塗りひろげる。擽ったそうに身を捩り、くつくつと押し殺したように笑って肩が揺れた。
「終わったか?」
「まだっす」
「うー……――まだ?」
饗にはあれほど丁寧に塗っていたというのに、あるじは今にも走り出してしまいそうなほど逸って、「もういいか?」なんてもう一度急かされた。
「っす。もういつでも行けるっす!」
塗り残しもムラもない。手の平に残ったクリームはそのまま手に擦り込む――左の薬指に嵌めてもらったままの|銀環《リング》の下にも丁寧に。
長椅子から立ち上がったあるじは饗の正面に立って、最終チェック。
「よしっ、行こ!」
見上げてくる紺瞳は強い陽光を浴びて、いつもより鮮やかに輝いていた。
浜は海水浴客で賑わっている。人が集まればむろん商売人も集まってくる。とかく浜は夏を満喫する人々で溢れかえっている。
その中をずんずか進むあるじもまた浮足立っていて、絶え間ない波の音があるじを興奮させているようだ。
「饗、饗! はよ、海入ろ!」
「準備運動が先っす」
「わァってる! ふおっ、波でっけ――、っ! 饗っ!」
あるじの背を追うように歩いていた饗を振り返って、彼は悲鳴にも似た歓声を上げた。
ただならぬ気配――とても嬉しそうな、興奮しきった子どものように小走りに戻ってきて、饗の腕を掴んだ。
「どうしたっすか」
「かァいいのみつけた! 浮き輪借りよォ、饗!」
腕を引かれて向かった先に、真っ白くて大きな輪――黒くてつぶらな双眼と、黒と茶の縞、三角の小さな嘴が絶妙に配置された、あるじ垂涎の小鳥が浜風に揺れていた。
「エナガちゃんっすか!」
「そ、エナガチャン!」
「いいっすね、一緒に遊ぶっす」
ぴかぴかな笑みが返ってきて、饗もつられて微笑んだ。
|饗《﹅》は、海水はあまり得意でない。真水なら大丈夫ということでもない。雨粒もできれば避けたいところではある。
あるじもそれを解ってくれているから、|饗《﹅》が濡れてしまわないようにしてくれている。
その優しさを肌に感じてほくほくしていると、先刻レンタルしたばかりの浮き輪を嵌められた。
「誉人が使うんじゃないっすか?」
「お前が沈まねえよォに! 俺も掴まらしてな」
「もちろんっすけど……誉人が使わなくて良いんっすか?」
「いいのォ!」
弾けたように笑って、いざ海へ。
行ったり来たりする波の端っこを踏んづければ、ばしゃりと海水は跳ねる。足裏へのひやりと冷たい仕返しに「ひゃっ」と声が出た。
跳ね返ってくる水飛沫が口の中に入る――なんとも塩辛い。
「つめてっ! きもちい! 海だァ!」
海水が塩辛いことは当たり前だから、そんなものを微塵も気にしていないあるじは、ばっしゃばっしゃと波を踏みつけていく。
「きょおっ! はよ!」
「待つっす、誉人!」
無邪気に燥ぐあるじの姿をどうしても残しておきたくて、スマホ――もちろん水没してしまわないように対策済みだ――を抜かりなく構える。
ディスプレイに映し出された満面の笑みを、かしゃりと切り取る。
(「これくしょんが増えたっす!」)
あるじこれくしょんのフォルダには、数え切れないほどのあるじの姿が保存されているし、ずんずん増えている。なんなら今日も増えるだろう。
撮影されることがもはや日常となって文句も言わなくなったし、レンズから逃げることもなくなったあるじは、果たして急にしゃがんでしまった。
「どうしたっすか? 貝殻踏んだっすか?」
唐突だったから慌てた。足裏に怪我をしてしまっては大変だと近寄れば、「てやっ」といたずらに笑って海水をかけられる。
「へぷっ」
「あはっ、饗、びっしょりィ!」
「やったっすね! 仕返しっす!」
「ぎッ……しょっぱァ……!」
ぶしゃっとあるじの顔に海水をかけて、すごい顔をしたあるじ(しょっぱさに悶えていたのだろう)は饗をじとっと見つめたが、次の瞬間、ふたりで笑み交わす。腹にあるままの浮き輪が少し邪魔だった。
ぱんぱんに膨らんだシマエナガに掴まって、ぷかりと漂い、波に揺られる。
足裏はすでに砂を掴んでいなくて、浜は目の前だけれどこのままだと潮の流れに乗せられてしまいそうな感覚に、そくっと首筋が冷えた。
それでも饗の心は実に軽やかだった。
緩やかな潮騒の中、ちゃぷりと鳴る水音と、あるじの賑やかな笑声を聴き、泳いで浮かんで、沈みかけてエナガに助けられ、また泳いで笑って。
海水が目に染みて涙ぐんだり。
全部が楽しくて、時は駆け足で去って行く。
頭上で輝く太陽に劣らぬ笑みを振り撒くあるじに、名を呼ばれたのは、やや疲れを感じた頃だった。
「浮かんでるだけでも気持ちいいってサイコーじゃね?」
「わかるっす。あっついけど水の中だから涼しいのもいいっす」
「でもさ、そろそろ腹減らねえ?」
「なにか食べるっすか? さっき焼きそば売ってたっす、カレーのにおいもしてたっす」
楽しみだと言い添えて、あるじはエナガ浮き輪を押しながら浜へと泳ぎ始めた。
座り込んで砂山を作っている子ども、友人に埋められているひと、風も遊ぶビーチボールを追いかけるひと、その全部をやってみたいと目を輝かせるあるじ――こういうところは随分と雄弁になったと感じる。
「あとで砂遊びするっすか?」
「埋めてくれンの!?」
「埋まりたいんっすか!?」
「埋まってみてえ!」
ああ、驚いた――まさか生き埋めにしてほしいと言われるとは思っていなかった。
「わ、わかったっす! 誉人がそこまで言うなら……!」
うちでいつももふもふに埋もれているが、もふもふとはまた別の醍醐味でもあるのだろうか。
ささやかな(それでいて少し強引な)あるじの願い事を叶えてあげたいと思うのは、饗が饗たらしめる衝動のひとつだ。
あるじのため――それが、あるじの倖せに通ずるのであれば、全力で。
(「誉人は俺も楽しんでないと喜んでくれないっすから……」)
簡単なようでいて、存外難しいような拍子抜けするお願いに、饗は首肯し微笑んだ。
●こうばしき昼
浜の匂いは独特だけれど、浜で焼かれる魚や貝の網焼きほど旨そうな香りを振りまくものはない――そう豪語するあるじの言葉には同意しかなくて。
「カレーもいいよなァ……うう……めっちゃ旨そォ……!」
カップルがカレーを頬張っている姿を横目でちらり。昼飯に困っているあるじの姿というのも、乙なものだ。食べたいものを食べたいだけ買っておけばいいのに。今食べ切れずとも、海の家が閉まってしまえば買うことはできないのだから。
「誉人、たこ焼きもあるっす」
「ソースの匂いってなんであんなに腹減ンだろォな……」
「わかるっす……たこ焼きとかお好み焼きとか、ソースの甘辛い香り、……――っ」
思い出してしまって、すっかり口がソースになる。
「俺、貝風呂買ってくっから、饗は焼きそばかたこ焼き並んでよ。シェアしよォぜ」
「っす!」
首肯を一度。ちょうど昼時――混み始めた店先へ饗を残し、あるじは浜焼きの香り立つ店先へと走っていく。
倖せそうに跳ねるあるじの背を見送って、さて、焼きそばかたこ焼き――どちらにしようか悩む。
どちらでもあるじは喜ぶだろう。強い決め手に欠けてむずむずする。しかしここで迷っていては、他の海水浴客に先を越されるばかりだ。
(「決めたっす! たこ焼きにして、はんぶんこにしやすくすればいいっす」)
我ながら良き案だ。買えそうならば、二種一人前ずつ買ってもいい。あとで買い足してもいいだろうから、まずはたこ焼きだ。
ドリンクはクーラーボックスに入れて持ち込んだから、買わずとも昼の間はもつだろう。饗の後ろには、たこ焼きの列は順調に伸びてきている。さっくりと決断しておいて正解だった。
じゅーじゅーじゅわじゅわ。鉄板の上で焼ける音に期待感が高まる。いい音。倖せの音だ。
「お兄さん、いくつ?」
「一舟お願いするっす」
「はいよー」
短いやり取りの合間に、店主は舟内に並べられたアツアツの粒の上にソースを塗って。
「青のりと鰹節は?」
「どっちもほしいっす!」
青のりが振りかけられて、山のような花鰹が盛られ――熱気にゆらゆら揺らめく。
「はいっ、おまたせ」
「ありがとっす!」
一番端の粒につまようじが刺さったそれを受け取って、揚々とあるじの姿を探す。
ふわりと漂ってくるのは、魚の脂の焼ける香り。そちらの方にあるじがいるはずだ。
宣言通りの貝風呂と、サザエのつぼ焼きと、魚の塩焼きと、イカの串焼きを持ったゴキゲンさんを見つけるまで、もう少し。
◇
太陽が天頂を過ぎてから幾分も時が過ぎた。
浜で食う(海水のせいで多少塩っぱくとも)実に旨い昼飯に舌鼓をうって。
希望通り砂に埋めてもらってご満悦だったあるじは、砂まみれ怪人となって海へと走っていった。そんなあるじの後を追って海にダイヴしたり(ただ「お前も埋めてやろォか」との怪人の冗談混じりの誘いは丁重に断ったが)、やはりどこをとっても輝かしい瞬間の数々だった。
砂を盛って、山ができてくる――ぺしぺし叩いて固めて、また盛ってぺしぺし。繰り返していけば、山はどんどん大きくなって。
「なに作ってるんっすか?」
「山。なァ、ココ掘って、饗」
「掘るんっすか? せっかく作ったのに?」
「そ。こうやって、崩さねえよォにな」
あるじは反対側からもぞもぞ掘り始めたから、饗も教えてもらったように掘っていく。
「細ォくな、あんま広げると崩れっからァ」
「っす……」
少しずつ砂を掻き出していく。崩さないように、崩れないように。山を挟んだあるじは夢中で――ゴキゲンな狼の耳や尻尾が見える気がした。
「誉人は、子供の頃にこうして遊んだことがあるっすか?」
「ねえよ。調べてきた」
「準備してきたっすか! えらいっす」
「だろ? 砂に埋められるヤツは迷ってたンだけど、目の前で見ちゃうとなァ、やっぱウズウズ止まンなかったわ」
「やりたいことはやらなきゃ損っすから、出来て良かったっす」
ザザンっと絶え間ない波の音と海水浴客たちの笑い声の中、交わされる言葉も止まることなくて。
「ん。だから、今やりてえことやってる!」
穴掘りに夢中のあるじは、慎重かつ大胆に手を動かしている。
「……お?」
「ん?」
掘り進めていた指先の感触が変わる。固まった砂は、ほろりと崩れて、温かいものに触れた。
「あはっ、饗、みーっけ!」
それはあるじの指先で。
砂山の中で、饗は手を握られた。山を挟んだ向こうで、あるじの満足気な笑みが咲く。
「運命の再会ィ!」
「会えたっす〜!」
にぎにぎ、ぎゅうぎゅう。砂の中で熱い抱擁を交わした手は、あるじに引かれる。あっと思った時にはもう遅く、山は崩れた。
「もういいんっすか?」
「ああ、おしまい!」
出来あがった砂の山はあっさり浜へと還る。砂まみれのふたりの手は離れない。あるじはずんずん歩いて波を踏んづけ、海へと向かっていく。
「最後のお願いがあンのォ!」
「なんっすか?」
「もう一回、海に浮かびてえ」
「もちろんっす!」
あるじと一緒に波を踏めば、体に張り付く砂は波に撫でられ、剥がれていった。
そろそろ潮時だ。
陽が傾き始めれば、海水浴客は減り始める。波に浮かぶシマエナガに嵌ったあるじは、潮騒に揺蕩う。
昼食時、ほんの少しだけだが|酒《ビール》を飲んでいたあるじだから、疲れも相まってうっかり眠ってしまわないように気を配りながら、饗も浮き輪を掴んで浮かぶ。
「今晩のメシは何だっけ」
「刺身があったのは覚えてるっす、あとアサリの釜飯」
「ああ、海鮮料理だっけか。温泉にも行かねえと」
「そろそろ宿に戻るっすか?」
「温泉入る前にふやけるわけにもいかねえし、出てからのアイスってのも捨てがたいしなァ」
「酒を飲んでもいいっす」
「あああ、それもイイなァ」
浮き輪に当たってちゃぷりと笑った波を残して、あるじを押して浜へと戻り始めた――今日一日、世話になったシマエナガともお別れ。
●まどろむ宵
遊び倒した浜辺が一望できる客室が、ふたりが宿泊する部屋だった。客室まで運んでもらった海鮮料理は絶品で、最後のアサリの釜飯まで綺麗に完食。
酒を呑んだあるじは大層ゴキゲンで、同じように酒を楽しんだ饗も酔いが回る。朝からたっぷり遊んだ疲れと思い出も一緒にくるくる回って、ふわふわと浮き上がった。
「たぁかと、温泉、きもちよかったっすね」
「ん。広かったし、ゆっくりできたなァ。明日の朝、もっかい入りに行くけど、饗も行くか?」
「いくっす!」
饗の返事にあるじは笑む。随分舌が回らなくってしまったのが、いやに鮮明に自覚した――ときには、饗のグラスの中身はビールからティーソーダに変わっていた。
饗の|缶《ビール》はあるじが持っている。ふわりとした頭でぼやりと確認して、あるじの気遣いに嬉しくなる。
そんなあるじは、酔いざましの散歩しようと饗の手を取った。
太陽の残滓が空を僅かに赤く染めている。昼の熱をためこんだ浜だが、もう灼けるような砂はなく。熱い海風も漸う落ち着いて。
触れる波音は、寄せて返す。繰り返せども、一度として同じ波は来ない。
雄大な刹那をあるじと共に過ごせている奇跡が、無性に愛おしい。
隣で息吹く、嫉妬深くて愛情深いあるじの懐の温かさに身を浸して幾星霜――と形容するには大袈裟だが、それでも、そう感じてしまうほどに永く幸せに浸っている。
根拠はなくとも、あるじはこれからも今まで通り饗の手を離さないだろう確信をもっていた。
酒のせいだ。
くるくると廻る思考は、取り留めもない。
酒のせいにしてしまって、繋がれた手にやわく力を込める。
「ん?」
小さな変化に気づいたあるじの些細な返事は心地良い。
じっと顔色を観察するような紺瞳が饗を凝視する。
「しんどくねえ?」
「だいじょぶっす」
饗を心配してくれるあるじは、すっかりぬるくなったビールの残りを飲み干した。
「きょお?」
「なんっすか?」
「また、遊びにこよォな」
「いいっすね、また来るっす」
小さくても大切な約束がまたひとつ重なった。
「部屋に戻るか」
相伴は饗の喜びだ。こんなにも饗を大事に想ってくれるあるじと共にいることは、本望だ。
だからあるじが帰るというなら帰るし、まだ浜にいたいというならばいつまでも隣にいよう。
ふふっとゴキゲンに笑むあるじは、饗の手を引っ張り上げた。
月明かりに照らされて、俄かに露わになったあるじの紺色の双眸がじっと饗を見上げている。
口は開かれないが、双つの瞳は雄弁だ。沢山のことを語りかけてくるようで、その全てを察することは往々にして難しい。銀環が嵌る左の五指にはあるじの指は絡んだまま、ゆったりと歩き出した。
ふたりの足跡が浜に残る。
ときおり交わって、離れて、また一本の線になる足跡は、永遠に残ることはなくとも。
覚えておくから――忘れないように、しっかりと。
消えてしまわないように。
成功
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