●|乞いし来いし也《こいしこいしや》、
べべん。暗闇と静寂の中、三味線の音が鳴り響く。
葉菊が語りし悲恋の顛末、語り語りて聴かせましよう。物語る女の声はどこか懐かしく。
牡丹に転じと言い伝つ京丸牡丹の真実は、秘された郷にて惹かれあい、そして摘まれた二つの命。
丑の刻、村外れの|八汐《ヤシロ》の下で逢いましょう。男が問うは逢瀬の契り、離郷の決意も密やかに。
とうに心は決まっております。娘は応え、小指を結ぶ。
契り交わすは郷を捨て、掟がゆるさぬ実らぬ恋に、二人で共に生きる道。
刻日迫り、逢瀬のとき、八汐の下で娘はひとり待ちぼうけ。
やがて男が駆け来れど、既に追われて創痍の身。月明かりでも判然に滴る|紅《あか》き道標。
遂ぞ駆け寄る娘の前で、男に一太刀振り下ろされば紅葉の如く紅が散る。
娘の|顔《かんばせ》が悲に染まる。
男が震える手でさした|血化粧《口紅》は、遺す娘への|餞《はなむけ》手向け。
男は、どうか、と願いはすれども其れは虚しく遮られ。
貴方のいない此の世などどうして生きておられましょう。娘は緩く|頭《こうべ》を振りかぶる。
伝う涙は花の露、花綻びの如く甘やかに、恋想うまま|咲いた《わらう》まま守り刀を其の頸へ。
君よ、貴方よ、来世こそ、また巡り合う其のときは。今際の際に伸ばした手さえ繋ぐことすらゆるされず。
二人の骸は罪隠す白絹の布に覆われて、白染めて広がる紅は交わりて重ね重ねて濃紅。
八汐が崩れて花雫。嗚呼、悲しきかな|花散華《はなさんげ》――。
ぶつり。暗転。消灯。再びの暗闇。静寂。無音。一面の闇。
覚束ない足取りで進む白き燐光が導く先に|着物《牡丹》を纏い、血化粧さした女がひとり。
頭、垂れ、見えぬ顔。濡れた唇から呪詛一編。
――恋し恋し也、悔し悔し也、口惜し也。離郷叶いて繋いだ其の血。
いつもなれば此処で目覚めるものを。
――乞いし乞いし也、来いし来いし也、|故郷《ふるさと》へ。サァ、カエリマセ、カエシマセ。
項垂れる女がゆっくりと|面《おもて》を上げる。其の顔は――。
「っ!」
固いベッドの上で圭一は独り跳ね起きた。
乱れる感情のまま呼吸は乱れ。脈打つ鼓動が酷く煩く、思わず胸を搔きむしる。静かに頬伝うのは汗か涙か一滴。
近頃、繰り返し見る心地の悪い夢物語は、突然の終幕と女の呪詛一編を聞いて終わる。それが今宵はその続きを見てしまった。濃紅の瞳の色だけが異なるも、女の顔はあまりに見知った人に似て。
息苦しさに喘ぐこと暫し。その身に潜む蟲たちが宿主の異常に気付き騒ぎ出す気配に、圭一は震える右手で枕元の阿片煙草とライターを取った。慎重に火を点けて一煙吸い込めば鎮まる気配に安堵の溜め息。
そのまま出来るだけ意識してゆったりと煙草を燻らせ、決して安くはない煙草を二本、三本と消費しながら、圭一は夢を見始めた切っ掛けを振り返っていた。
最初に見たのは次の廃村動画の探索地を探していた頃だ。とある廃村を見つけ、本家らしき屋敷に刻まれた葉菊の家紋が気になったのを覚えている。常であればすぐ現地に赴くが、今回は蟲の報せに襲われて様子を見ることにした。
蟲の報せは白燐蟲たちからの警告だ。無視をすれば大体ろくなことにならない。だからこそ女の方を無視をしてきたが、朧げだった夢は次第に明瞭に像を結び、今に至る。
「あー……待てよ。そういえばあれ、見たことあンな」
そうして記憶を深掘るうちに、圭一は子どもの頃の記憶も思い出していた。
祖父の形見の蟲笛に葉菊の家紋が刻まれていたこと、祖父に笛を託した曾祖父母のどちらかが山村にある集落の出だと聞いたこと。
繋いだ其の血、と夢で女も言っていた。ならば、考えられる可能性はひとつだけだ。
果たして此れは偶然か必然か。覚えなき因縁か女の執念か。いずれにしろ乗らねば終わらぬ以上、乗じてやるしかない。
「仕方にゃー。いっちょ里帰りすっか」
となれば、まずは|白燐蟲《彼女》たちの説得から始めなければ。
圭一と彼女らは食性も感情も共有している。決意や覚悟を察していても、宿主を害する女の元に快く送り出すことはない。ましてや警告を無視するのだ、心持ちは穏やかではないだろう。
燻る煙草の煙から白燐蟲たちが顕れた。不機嫌そうに天井を荒く飛び交う|コマユバチ《メイミー》たち。いくつかの無垢な瞳が不服そうな視線を向けてくる。
全く本当に、骨が折れるようなことばかりだ。
やがて陽が昇り、陰鬱な雰囲気纏うアパートの二階から圭一を背に乗せた一匹の巨大な|チョウトンボ《ベアトリス》が飛び出した。
行き付く先で待ち受ける過酷な運命も知らず、白き蟲とその宿主は朝日に溶けこむように消えて行く。
●|帰し返し也《かえしかえしや》、
夏は既に遠く、秋風が鬱蒼な木々を揺らす。
細く険しい山道を奥へ。圭一の足取りに迷いはなかった。
やがて山道の脇や木々の合間から人が居た痕跡が窺えるようになる頃、不意に坂下より風に運ばれる甘い|花香《かこう》が鼻腔に届く。
思わず見下ろした|岨《そわ》の先は雪原のよう。群生する白八汐で一面が真白に埋まる中、一輪、唐傘程ある濃紅の牡丹が崩れて。
パシャリ。不可解な現象でもシャッターを切ったのは写真家としての性か。
其れは一瞬の幻。花の残り香だけが鮮明なれど目前の光景に花はなく、岨の手前に双体道祖神が佇むだけで、カメラを確認しても案の定、視界と変らぬ風景が写るだけ。
落胆に肩を落としたその時、
「あれ、珍しい。|ご同胞《・・・》?| 肩に居る子《・・・・・》、白燐蟲よね?」
背後から聞こえぬ筈の人の声がする。目指した集落は既に廃村だった筈、と圭一が驚愕に振り向いた。
そして次ぐ驚愕に言葉を呑む。其処には夢の女と同じ姿の女がひとり立っていた。
怪しい人じゃないよ、と慌てる女の名前はぼたんというらしい。
「いや、初対面の異性をいきなり名前で呼ぶのは、流石に」
「紳士だね、君。でもこの村はみんな同じ苗字なの」
「あーなるほど。それなら、ぼたんさん、で。俺は山崎圭一」
「じゃあ、圭一君ね」
(やばいな、なぁンか調子が狂う)
顕現していた白燐蟲が視えるとなれば、何か神秘に纏わる秘密があるのは明白で。注意を払わねばと思えど、彼女の声や容姿、仕草や口調までも妙に知った誰かを思わせて圭一の警戒心を鈍らせる。
そうして圭一はすっかり彼女のペースに呑まれていた。
彼女が言うには此の集落の始まりはとある蟲使いの一族で、世界結界に秘匿されながら細々と血を繋いできたそうだ。然し、今はもう視える人間がたまに産まれるくらいで、蟲使いは何十年と産まれていないらしい。
以上の事情から此の集落では蟲使いの研究が盛んで、他所の蟲使いから詳しく話を聞ける機会につい声をかけたのだそうだ。
「なるほどね、だからいきなりご同胞なんて声かけたンか」
「驚かせてごめんね、嬉しくて。とにかく此処は特殊な村だけどいいところよ」
屈託なく笑う彼女に案内された集落は、令和の時代から取り残された営みがあった。
電気のない環境、自然と人が共存し、全てが自給自足。まるで昭和の初期頃だ。貴重な風景をカメラに収めている内に、彼女が村長と話をしてきたらしい。日が暮れてからの下山は危険も伴うことから、一泊することになった。
引き続き案内された一際大きな屋敷の屋根には、やはり例の家紋が刻まれている。
「やっぱあの笛のと同じだよなァ」
圭一が吐き出した何気ない独り言に、女が薄く微笑む。
田舎の夜は、早い。
薪焚きの風呂と豪勢な夕餉を頂き、用意された部屋で圭一は早々に床に就くことにした。部屋に入った瞬間、僅かに香った甘い香りが気になりはしたが眠気の方が勝った。
(……食い過ぎた……)
干したての布団に身を沈め、寝返りを打つ。
やけに身体が重く感じるのは食べすぎたせいだろう。この眠気も、きっとそのせいだ。
うつら、まどろむ。意識。
――リーン、リーン。
外から。聞こえる。鈴虫。鳴き声。蟲の声。蟲の声、だ。
(あれ……)
――|リーン、リーン《・・・、・・・》。
おかしい。聞こえ方。何故。蟲の声。ただの。蟲の声、だ。
するり、静かに襖が開かれる。近付いてくる幾人かの気配と共に、噎せ返りそうな甘い香りが部屋中に広がった。
(この、かおり……からだ、うごかな……)
そして圭一は、その時やっと気が付いた。
部屋の残り香はあの花香と同じだったこと。あの花香を感じてから体内の蟲たちが大人しいことに。やはり警戒を怠ってはならかったのだ、と。
身体が抱き上げられるのを感じる。指先ひとつ動かせぬまま。
(そう、いえば……あいつは、どこ……)
ぶつり。暗転。
●|還りませ、《かえりませ、》| 孵しませ、《かえしませ、》
月明り差しこむ格子戸から|鏡の蝶《・・・》が一匹、迷い込む。
ギシリ。ぐちゅり。狭い座敷牢で行われる凄惨な晩餐を翅にただ写して。
「っ、!」
四肢を縛る赤い縄と磔る柱が軋む。濡れた音は圭一の身体を刻む音だ。
塞がりかけた首の傷を小刀で抉られる痛みに、圭一は喉まで出かかる悲鳴を唇を噛みしめて殺した。
「今日も美味しいね」
圭一の血を啜り、ぼたんは、女は微笑んだ。
此れは集落から圭一に強いられたお勤めだった。曰く、奪った血を村に還せ、と村人たちは言う。集落に再び蟲使いが産まれるよう、圭一の血肉を身体に取り込む――馬鹿げた話だ。ましてや圭一の血は蟲毒、啜り喰らえば臓腑が溶け落ちる。
だが、村人たちはやめなかった。徐々に喰らい、慣らし、そして誰より早く慣れた女が毎晩、喰らいに訪れる。
このままでは喰らわれ続け、いずれ衰弱して死ぬだけだ。首を食む女を横目で睨みながら、圭一はひとつ確証を口にした。
「お前……さては人間じゃねーな?」
「わかる?そうよね、圭一君は|猟兵《・・》さんだもの」
婉然に微笑む女は圭一にしな垂れかかり、血で黒ずんだシャツのボタンを弾いた。か細い手がシャツの隙間から胸板を撫でる。
戯れにしては思わせぶりな行為にカッと頭に血がのぼるのを感じた。
(やめろ!やめろやめろやめろッ!!)
「ッ、何する気だッ!?」
圭一の叫びを無視して、女の手は、指は、胸を、腹をなぞり、下へ。下へ。
身体が快を拾うよりこみ上げる不快感に、蟲たちがざわめくのを感じた。
「バレてるなら遠慮しなくてもいいでしょ?ヨくした肉の方が美味しいもの」
指が布越しに中心を撫でる。女は、ちろりと舌なめずり。
――キチキチ、ブゥーンブゥーン。
耳奥で、無数の顎を嚙み鳴らす音が、甲高い羽音がする。警告音。ダメだ、止められない。
何より止まらない。圭一自身の感情も。ざわざわする。吐き気がする。やめろ。触るな。呼ぶな。
(その顔で!その声で!!)
「……めろ」
女は、圭一の耳元で声を|なぞらえ《・・・・》囁いた。
「ねぇ、|圭ちゃん、シよ《・・・、・・》?」
「やめろおおおおおおおッ!!」
劈く、絶叫。瞬間、白い閃光が女の目を焼く。短い悲鳴が響くも蟲たちのあらゆる音が吞み込んだ。
――やがて蟲たちが鎮まる頃、女の姿は既に亡く。遺されたのは纏う|着物《牡丹》の名残りだけ。
「行こう」
夢は、もう、見ない筈だ。
崩れた座敷牢から、追手から逃れ、辿り着いた岨にはやはり白八汐だけが咲き乱れていた。
香る花香は甘やかなれど微か、ひと風吹けば瞬くに彼方へ消える。
圭一は二度と帰らぬ故郷の光景を眺める中で、道祖神の麓に紅い牡丹が一枝置かれていることに気付き、坂を下った。
牡丹の枝は手紙が一枚、紐と結ばれていた。躊躇いながらも開けば綴られていたのは、ただ一言。
――やっと帰ってきてくれた――
女は己に誰を見て、誰を重ねたのか。僅かに想い馳せれども、すぐやめた。女の想う先は誰かであって自分ではない。
それに恋暮れぬ果てに待ち人帰らぬ末路が此れだというならば、圭一は――帰らねば。
八汐咲く牡丹坂に瑠璃色の蜻蛉がふらり舞う。
「あぁ……もう、帰ろう」
そうして牡丹坂から圭一を背に乗せた一匹の巨大な|チョウトンボ《ベアトリス》が飛び立った。
白き蟲とその宿主は月明かりに溶けこむように遠く、遠く消えて行く。
――君に似し |濃紅《こいくれない》の花ぞみて よみがえる 時重ねても |恋暮れない《こいくれない》。
成功
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